ショパンは夢を見ていた。
一面の青い空。色濃い夏の空でも、天高く遠い秋の空でも、澄み切った冬の空でもない。優しく長閑な、春の空。青よりも淡い水色に綿のような白雲が散りばめられ、緑の丘には暖かな色の花々が一面に咲いている。優しく、甘い、絵本のような景色。
鳥たちのさえずりが空を舞うその下で、二人の親子が手を繋ぎ歩いていた。
あまり似ていない親子だった。母親が淡い黒髪なのに対して、娘は繊細な輝きの金髪。母親は黒い目を載せた線の細い面差しなのに対して、娘は青い目がぱっちりした甘い輪郭の愛らしさ。母親が青と白を基調とした服がよく似合っているのに対して、娘は赤と白を基調とした服がよく似合っていた。
ただ、二人とも肌は健やかに白く、眼差しは互いを映して優しい。手を繋ぎ、互いに微笑むその様が、二人を親子だと感じさせていた。
「どうして、海には波があるの?」
娘が母を見上げて尋ねた。幼く、あどけない声。まだ母親の腰までの背丈しかない、十を半分も生きていないだろう、小さな少女。
「それはね、お月さまがあるからよ」
優しく母は答えた。穏やかに我が子を見つめる、母親の微笑み。
「お月さま?」
「そう。月の魅力が海の水を波立たせるの。余りにも美しすぎて、海の水がざわめくのよ」
小首を傾げた娘に優しく答える。月と潮汐の関係を子ども向けに説明した、美しい答え。
小さな娘は目を驚かせて、弾んだ声をあげた。幼い口元が楽しそうに綻ぶ。
「ほんとう?」
「本当よ。お月さまを見てると心が震えてくる気がしない?」
「するー!」
歓声をあげた娘が、日射しに反射してきらめく水溜まりを見つけた。空の青に草の緑が混ざる色濃い碧を、期待した眼差しで見つめる。
「この水溜まりも、お月さまが出たら波が立つのかな?」
弾んだ口調に、あくまでも優しく母は答えた。
「ダメよ。水が少ないもの。海くらいいっぱいの水がないと、波は起こらないの」
母の言葉に、少し残念そうな、それよりは不思議さの勝った声音で、娘はまた首を傾げた。あどけない疑問が、小さな唇から紡がれる。
「へんなの。水の量なんて、関係ないような気がするんだけどな」
「その水の量が、一番関係あるのよ。特に人間に当てはめた場合には」
母は娘の手を握る力を強めた。ほんの少しだけ、強く。痛みを感じるほどではなく、ただ変化を感じ取ることができるくらいの、小さな力。
「たくさんのものが一つのものに惹かれれば、それは大きな力となって世界を揺るがすわ。高い波が地上を呑み込むように、求めるもの以外は目に映らなくなる」
繋いだ手のひら。幼い手のひら。何よりも愛しい、娘の手。
「島が呑み込まれても、命が消えていっても、関係ないと足を進めて……そうして、最後には何も残らない。それに気づけない。
月に焦がれて、月を隠して、世界を闇で包んでしまう」
繋いだ先を見下ろすと、娘はきょとんとしていた。
「あなたには、まだちょっと早かったかしら」
愛しい手のひらを母は掴む。大切なものを、見失わないように。
「でもね、ポルカ。そうなったら、あなたが月を取り戻さないといけなくなるの」
「お月さまを?」
「ええ」
大切なものは。母は娘の手を握りしめる。小さな、幼い、無垢で、愛らしい手のひら。誰よりも愛しい。母は小さな娘を抱きしめる。
「辛かったら、ここに帰ってきていいのよ。でもね、ポルカ。もし、できるなら。
海に入りなさい」
そうすれば、お月さまを取り戻せるわ。
耳元で囁いた、一度きりの言葉。
娘は満面の笑顔を浮かべた。
「ほんとう?」
「ええ」
母は微笑んだ。娘は元気よく片手を上げる。
「りょうかーいっ!」
軽やかな声が、草原に満ちた。母はそれを見つめていた。
それは夢だった。母と娘が優しく語り合う。未来はどこまでも広がり、親子の幸福を侵すものなど何処にもない。
二人はまた手を繋ぎ、一面の青空の下に広がる花畑をどこまでも歩いていった。鳥たちがさえずり、二人の行く手には真っ青な海が空を映し輝いている。
美しい夢だった。……優しい夢だった。