序章、パリにて

1849年10月16日午後10時48分 ヴァンドーム広場12番地

 柱時計が時を刻む音だけが、部屋に木霊していた。しんと静まりかえった部屋には、静寂だけが満ちている。  だが、その静けさには、どこか命の気配がしていた。穏やかな息遣い。眠る人の安らぎに包まれたその寝息が、部屋の静寂を優しいものに変えていた。  ルドヴィカは安堵のため息をついた。 「穏やかな顔ですこと。先ほどまではあんなに苦しそうだったというのに」  安らかな寝息を立てる弟の寝顔を、愛情をもって見つめる。隣にいた医師が、うなずきを返した。 「何か、心地よい夢を見ていらっしゃるのでしょう」 「そう……それはよかったわ」  深くつぶやいた。弟の寝顔。病に冒され、止まらぬ血を吐いていた。  最愛の弟。偉大なる音楽家、フレデリック・フランチシェク・ショパン。 「このまま回復に向かってくれれば、尚のこと良いのですけれど」  願いを込めて口にした言葉に、医師は顔を逸らした。 「人は、死の直前に穏やかな夢を見ると申します」 「──ッ! 何をおっしゃるのです、縁起でもない!」  医師は背を向けていた。顔は見えない。くたびれて見える白衣が、蝋燭の灯りに照らされてわななく。 「申し訳ありません。ただの迷信であってくれれば良いのですが……」  思い遣りに満ちた謝罪だった。それがわかって、ルドヴィカはそれ以上何かを言うのをやめた。  遠回しの宣告。わかりきっていた事実。弟はもう助からない。 「……フレデリック」  弟は安らかな寝顔をしていた。いかなる苦痛も、その寝顔からは遠そうに見えた。