暁を知らず
男は階段を駆け上がり、空を仰いだ。迎えた風は涼しく頬を撫で、饐えた臭に麻痺していた鼻腔が清々しい大気に喜んだ。
だが、男の表情は頭上の日輪が目に入らぬかのように暗く沈んでいた。今やこの国の頂きに手をかけ、騎士団長の栄光を甘受する身でありながら、俯く面差しは罪人のようだった。
そう、男は己が悪漢だと自覚していた。男の背にした地下牢に囚われた女──下賤な賊でありながら王太子に見出され、史上初の女性騎士となり、どころか騎士団長にまで登り詰め、その座に相応しい気品を、強さを、功績を積み重ねながら、王殺しと国中から蔑まれ憎まれることになったあの女こそが英雄だと、彼女を貶めた男だからこそ理解していた。
あの女は今、地下牢でかつての部下たちに犯されている。喜び勇んでズボンを脱ぎ捨て、昔から邪な目で見ていたと告白したあいつらは、知らないだろう。鎧を剥かれ、手枷を嵌められ、薬物で意識を奪われてなお、あの女はその気になれば俺たちを皆殺しにできたと。
それをしないのは、あの女が誰より敬愛する王太子が囚われているからだ。それがなければ、皆死んでいた。だから、男は地下牢から逃げた。
(ちがう)
そうだ、逃げたんじゃない。危険を冒して抱く価値などない。幾夜も輪姦されて締まりが悪くなっているだろうし、沐浴も許されず体液を浴び続けた肌は臭くて、不潔だ。娼館に行ったほうがずっといい。
そうとも。今やこの国で俺に股を開かない女はいない。あの女だって。その気になれば犯せた。しなかったのは気が乗らなかったからだ。それだけだ。怖気づいたわけじゃない。
『“騎士団長”様も如何ですか?』
『ご遠慮なさらず。溜まってらっしゃるんでしょう?』
あの女を輪姦していた恥知らずが、無礼にも俺の逸物に触ってきた。だから殺した。
それから、あの女に前をくつろげた。しゃぶらせるくらいはいいかもしれない。そう思った。そうしたら、あの女が俺を見た。
茫洋とした視線に触れただけで、昂った逸物は射精した。
気が削がれた。だから立ち去った。それだけだ。男は譫言を繰り返した。瞼の裏にあの女がいる。輝かしい背中が目に焼き付いている。
あの女は俺を見ちゃいない。今も、昔も、これからも。
ただそれだけのことがどうしても受け入れ難く、男は天を仰いだ。
太陽は雲に隠れて見つからなかった。
黄昏を燃やして
国中の怨嗟が、処刑場に渦巻いていた。磔にされ、衆目に乳房も女陰も残らず晒されながら、女は毅然と背を伸ばし、前を見つめていた。
何故なら、処刑場に、王太子が現れたからだ。彼女を貶めた大臣と共に。それだけで、彼女は理解した。
「まだご紹介していなかったですな。私の妻です」
大臣が告げるのを、彼女は見ていなかった。月にも太陽にも喩えられる白金の髪。まろやかな頬の可憐な面差しに、輝く空色の瞳。本来なら姫と呼ばれるはずが、王に他に子がなく、また並外れた才覚と公明正大な人格故に王太子に任ぜられた、彼女の最愛の主君。
「王子……」
万感の思いで、彼女は主君を呼んだ。
王子は御無事だ。大臣は王子を妻とし、貶めたつもりだろうが、それで終わる御方ではない。いつか命を奪わなかったことを後悔するだろう。
それだけで、彼女は満足だった。
「これより、処刑を執行する。王子、お願いできますかな?」
「ええ」
微笑んで、王子が剣を受け取った。それが大臣の勝利宣言だった。王子の手で、一番の忠臣だった彼女を殺させる。それで王子の心を折るつもりだろう。
そうはさせない。磔にされたまま、女は胸を張り、背筋を伸ばした。
最後まで、毅然と、騎士らしく。例え裸だろうと、無数の男に汚され、国民に罵倒され、主君の手で殺される身であろうと、この矜持は奪えない。
貴女のためなら、喜んで、死ぬ。心からの微笑みが、女の頬に浮かんだ。王子が静謐に微笑を返す。彼女の愛した、清らかな笑み。
その笑顔のまま、王子は大臣を斬り殺した。
「ぇっ……?」
疑問を口にすることもできないまま、呆気なく大臣は処刑場に倒れ伏した。ここで自分が殺されることはない。そのはずだった。だから、剣を渡したのに。
白い頬に浴びた血を拭う手間も惜しんで、王子は己が騎士の元に駆け寄った。呆然とするその愛しい面差しに、そっと囁く。
「私は、君が思うような聖女ではないよ」
拘束を断ち切ったところで、唖然としていた民衆が騒ぎ始めた。魔女だ。王子が狂わされた。あの女の呪いだ。
大臣は徹底的に民衆を扇動していた。王子が何を言っても、この場では誰も耳を貸さないだろう。王子が騎士を助けたところで、ふたりとも暴徒に嬲り殺されるだけ。
その予測が間違いだと、王子は知っていた。処刑刀を手渡して、最愛の騎士に命じる。
「私を守ってくれるかい?」
騎士が震える。歓喜と、絶望の狭間に震えながら、跪く。
「御意」
この日、王を殺し、その罪を無実の騎士に着せた大悪の佞臣によって、王都は血の海に沈んだ。
生き残ったのは王子と、彼女を守り抜いた騎士の、ふたりだけ。
ふたりの女傑の手で、国は復興し、栄えていった。
後世の歴史書には、そう記されている。