言う機会がないので誰にも言ったことはないが、《先導》とて、他者を可愛いと思うときはある。
「《先導》教官ってこええよなぁ。いつも仏頂面だし」
「笑ってるとことか想像できないよな。誰かを好きになったことなさそう」
漏れ聞こえた訓練生の陰口に、《先導》はひとまず訓練室に顔を出すのはやめて、そっとその場を離れた。
鬱屈を抜く行為を咎める気はなかったし、教官と訓練生の間に距離は必要だ。舐められるのは論外だが、親しげに思われるのもマズい。一番いいのは憧れられることだが、《先導》は畏れられるくらいがちょうどいいと思っていた。
それとは別にして、腑に落ちない気持ちもあった。《先導》とて、他者に心を動かすことはある。
訓練生だと、いくら叩きのめしてもめげずに立ち上がる《怪力》には好感を持っていた。あれは鍛え甲斐がある。生活改善課の《献身》は朴念仁の《先導》すら好ましいと思うし、かつての戦友である《共感》のことは兄弟のように感じていた。それから……
「あっ、《先導》!」
少年じみて明るい声の天使を、《先導》は静かに見下ろした。
平均的な男性型。図書館勤務の非戦闘要員ではあるが、決してひ弱ではない。力は相応に強いし、背もそれなりに高い。もちろん戦闘用個体である《先導》に比べれば贅肉がついてむっちりしているが、そこが《先導》には幼態のふくふくとした体型を連想させた。
「《夢想》。勤務中か?」
「ううん、今終わったとこ。これは借りた本で……あ、時間だいじょうぶ?」
「ああ、少し暇になっていたところだ」
ぎっしりと両手に抱えた本の山を持ってやると、《夢想》はキラキラした目で礼を言ってきた。そのあどけない素直な感情表現がそう思わせるのだろうか。《先導》は自分の感情に少々戸惑った。
言う機会がないので誰にも言ったことはないが。
《先導》は《夢想》のことを、可愛いと思っていた。
《先導》と親しい天使は少ない。社交を厭うているわけではないが、表情が固く、寡黙な性質で、休日は黙々と鍛錬や学習に励み、それが苦ではない《先導》はそもそも他者と交流を深める意欲に欠けていた。
訓練生時代は《共感》がやたらと絡んできて内心有り難く思っていたが、《共感》が兵役に適正なしと判断され生活改善課に移籍してからはどうにも距離ができてしまった。交流において受け身がちなこと、教官として訓練生と敢えて距離を作っていることも拍車をかけている。
そんな《先導》の数少ない親しい天使が《夢想》だった。図書館に学術書を借りる縁で顔見知りになり、図書館で騒ぐ馬鹿どもを仕置きしてるうちに声をかけられるようになり、いつの間にか休息時間でも顔を合わせるようになった。
そう、《夢想》が《先導》を羨ましいと言ったのがきっかけだった気がする。《先導》みたいに逞しくなりたいと。
それで、文官系の天使でもできる訓練メニューを組んでやり、力こぶができたと笑顔で報告に来た《夢想》を思わず撫でてしまい、しまったと思ったがいやこいつは訓練生じゃないのだから無理に距離を取る必要もないかと思い直して、そう……それで、《先導》は、《夢想》のことを……
* * *
「なぁなぁ《博識》、ここの記述どう思う?」
「どうって、《夢想》くん、これは……」
学習室で《夢想》が白髪の男性天使と本を覗き込んでいるのを見かけて、《先導》は声をかけるのをやめた。あの顔は知っている。図書館司書、つまり《夢想》の同僚の《博識》だ。
一度読んだ本は決して忘れない権能は司書にうってつけで、まだ若いが既に自律する移動図書館に等しい知識量を蓄えている。《先導》も何度か知識を求め適した書籍に案内してもらったことがあった。
親切で礼儀正しいが、気さくな男だ。知識欲が旺盛で、好奇心の塊な《夢想》と仲が良いのも頷ける。実際にふたりがいっしょにいるところを目にしたのは、これが初めてだったが。
学習室を後にしてようやく、《先導》はしかめた眉を自覚した。自分と違い《夢想》は友人が多い。同い年の《怪力》とも仲が良いし、《献身》を慕っているのも知っている。最も親しいのが自分だと自惚れていたわけではない。
だが。《博識》と席を隣り合わせていっしょに本を読んでいた姿を思い出す。兄弟のようだったふたり。
孵化器で生まれる天使にとって、兄弟姉妹とは同時期に生まれた者の中で、特に仲が良い者を指すことが多い。自分にとっては《共感》がそうだ。だが、かつての関係を思えば、弟なのは自分のほうで、いや違う。そうではなく。
「弟ができたような気持ちだったのか、俺は」
《夢想》に勧められた旧時代の小説にあったような、年下の守るべき慕わしい存在。その頼りがいのある誇らしい兄になったように、自惚れていた。
自覚して首を振る。管理局に知られたら【揺り籠】に入れられてしまう。
頭を冷やそうと訓練室に足を向けた《先導》は、すぐに足を止めた。《夢想》が駆け寄ってくる。
「《先導》っ。良かった、ちょっと頼みがあるんだけど……」
「ああ、いいぞ」
詳細を聞く前に頷いたのは、頭を冷やす前だったせいだろう。即座に頷かれた《夢想》が、戸惑って口籠る。
何を頼む気なのか、恥ずかしそうに手振りで腰を屈めてほしいと訴える《夢想》に、「可愛いな」と思いながら《先導》は従った。
耳元に、手で筒を作った《夢想》の囁き。
「あっ……えっと、その、《先導》の、ちんこ、見せてほしいんだけど……」
他のときだったら、さすがに断ったかもしれない。
だが、嫉妬を自覚してのぼせていた《先導》は、戦士に二言はないと《夢想》を自室に招いた。
「う、嘘ぉ……」
「? おい、よそ見するな」
寝台に並んでズボンの前をくつろげ、《先導》は《夢想》に見えるよう陰茎を扱いていた。
勃起すれば《夢想》の手首くらい太い陰茎は、男性型天使の平均より大きい、らしい。少なくとも《共感》よりは大きかったが、あまり比べる意味があるとも思えなかった。
赤らんだ先端を揺らして竿を扱く。粘ついた先走りがタラリと指先についた。
《先導》はあまり性器が敏感ではない。さすがに木の棒を扱いているようとまでは言わないが、腫れた亀頭を撫でても腰に走る快感は鈍く、達するのに時間がかかる。
「なぁ、どうして俺のちんこが見たかったんだ?」
「うぇっ!?」
自分から頼んだくせに恥じらって目を逸らしていた《夢想》の頭を抱き寄せると、観念したふうに《夢想》は視線を下ろした。
「その、こないだ読んだ本に、えっと、女の人とするのに、ちっ、ちんこが、デカいほうがいいって載ってて……」
「……」
《先導》は以前《共感》に「デカいと挿れるのに難儀するし下手すりゃ裂ける」と言われ納得したことを思い出したが、ひとまず最後まで話を聞くことにした。
「それで、あの、僕、自分のは他と比べてどうなんだろうって気になって」
「そうか。どうだ?」
「ええっ!?」
《先導》が見せびらかすように穂を振ると、《夢想》は声を上ずらせた。
「そ、の、僕のよりずっと、大きくて……カッコいい」
しっかりと《先導》の男根を目にした《夢想》が、目元を赤らめて憧れを口にする。燃えるような視線が《先導》を撫でる。
その途端、《先導》は達した。
「うわっ!?」
振り立てた発泡水のように勢いよく飛び散った白濁が、《夢想》のあどけない頬にぶつかってベッタリと張り付く。滅多に処理しないせいで黄ばんだ汁が、《夢想》の体臭にツンとした刺激臭を添える。その光景に再び熱り立った砲身が、今度は額に狙いを定める。
外れて《夢想》の前髪に命中した白濁が《夢想》の鼻先に垂れるのを眺めて、《先導》はやっと我に返った。ちり紙を手にして《夢想》の頬を拭う。
「悪い」
顔を赤くした《夢想》が首を横に振ったせいで、拭おうとした精液が頬に塗り込められてしまう。無理に取ろうとはせずに、《先導》は目に見える白濁だけを手早く取り除いた。《夢想》の前髪が一房、糊で固められたようになっている。先程の情景を思い出して、《先導》は唾を飲み込んだ。
今のは。指の刺激よりも、《夢想》の視線が《先導》を昂ぶらせた。露出癖はなかったはずだ。いや、実はあったのか?
真顔のまま混乱する《先導》に、《夢想》が目を泳がせながら囁く。
「せっ、《先導》、ありがとう! 洗面台借りるねっ」
「待て」
答えが出ないまま、《先導》は《夢想》を引き止めた。掴んだ手首は男のもので、だが、《先導》を振る払えるほど強くはない。
「他のやつにも頼むつもりか?」
「いっ、いや、こんなこと頼めるの、《先導》だけだし……」
陰茎が脈打つ。絶倫だという自覚は《先導》にはなかった。《夢想》を抱き寄せ、ベッドに押し倒す。
なぜ、《夢想》はこんなことを頼んだ。なぜ、自分の性器の大きさだなんて、下らないことを気にした。
──抱きたい女がいるからだ。《夢想》が《献身》を恋い慕っていると、《先導》だって知っていた。
「女の抱き方、教えてやろうか?」
耳元で囁かれ、《夢想》は「いいの?」と心細そうに目を瞬かせた。
それで《先導》は、《夢想》を逃せなくなってしまった。
「そこまで!」
《先導》の号令に、試合をしていた《怪力》と《勇気》がピタリと動きを止める。
《怪力》の投げた鎖が《勇気》の足首に巻きつき、《先導》が制止しなければ《勇気》は引きずられた挙げ句殴り飛ばされていただろうが……それがなければ、《勇気》の槍が《怪力》を突いていた。
「《勇気》はだいぶ踏み込みが良くなった。恐れず前に出るのを忘れないようにしろ。それが身に付けば自ずと動きも良くなっていくだろう」
「はっ……はいっ!」
「《怪力》も調子が出てきたな。このまま絡め手を覚えて技の引き出しを増やしていけ。
お前の真髄は、どんな武器も操れる器用さだ。権能に頼るのではなく、使い熟せ」
「わかった」
へたり込んで肩で息をしている《勇気》に水筒を差し出してやると、《勇気》よりは呼吸に余裕のある《怪力》が、訝しげにこちらを見ていた。
「どうした?」
「いや……
あんた、なんかあった? 前より柔らかくなった感じがするんだけど」
「? そうか?」
自覚がなく《先導》は首を捻った。言われてみれば、最近《怪力》がやけに素直に指導を聞くとは思っていたが……。
「あ、私も思ってました! 前はもっと厳しかったというか……いえご指導に不満は全然ないですがっ!」
慌てて首を振る《勇気》に《先導》は呆れた視線をこぼしたが、確かに、以前の自分なら説教の一つでもしていたかもしれない。水筒を渡してやることもなかっただろう。
弛んでいるのだろうかと思案するが、訓練生たちの成績は寧ろ良くなっていた。気にすることもないかと話を切り上げる。
「では、今日の訓練はここまで。各自休息はしっかりすること」
「えー。あたしまだ動き足りないんだけど。《先導》手合わせしてよ」
「悪いが先約があるんでな」
足早に背を向ける。
約束の時間が迫っていることに気が急いた《先導》は、背後の《怪力》が呆然と《勇気》と顔を合わせたのに気づかなかった。
「……今、あいつ笑った?」
「え、ええと……たぶん?」
* * *
「あっ。いらっしゃい、《先導》」
「悪い、待たせたな」
まだ位階の低い《夢想》の自室は狭いが、その窮屈さが《先導》は気に入っていた。ソファに座っていた《夢想》の隣に腰を下ろす。
《夢想》は《先導》より頭一つぶんほど背が低い。緊張して俯いた光輪とつむじを見下ろしていると、じわじわと込み上げてくるものがある。
「今日の本は選んだか?」
「ぅ、うん、これ……」
《夢想》がおずおずと取り出した本を共有する。《夢想》の好みらしい純愛小説だったが、濡れ場は中々過激だった。
読み取ったあらすじに従い、《夢想》の背中を思わせぶりに撫でながら、ゆっくりと下肢に指を下ろす。
「せっ、《先導》っ」
「ほら、セリフ」
耳たぶを甘噛みして舌を這わし、息を吹きかけると、面白いくらい《夢想》の耳は熱くなった。
赤くなった頬が、つたなく朗読を始める。
「そっ、『そんなに性急にされると、困ります。わたくし、まだ、あなたを知って日が浅いのに』」
女を抱く勉強をしたいなら、女を演じ体験してみると良い。
丸きりの出鱈目ではないが下心丸出しの《先導》の提案を鵜呑みにして、《夢想》はこんな卑猥な朗読会を行っている。悪いなと思う気持ちもあったが、加減するつもりもなかった。
これまでの朗読会で暴いた《夢想》の首筋の性感を齧りながら、ズボンを脱がし尻を丸出しにさせる。むっちりとした尻の奥、洗浄を済ませた肛門はふっくらと色づき、そこがもはや単なる排泄器官ではなく快楽を貪る器官なのだと告白していた。
「みっ……『そんなにまじまじと、見ないでくださいまし』。はずっ、あっ、『灯りを消して』」
「いいじゃないか。もっと見たい」
小説の筋書きを無視して、《先導》は明るいままの部屋で《夢想》の股を暴いた。
裏切られた、という顔をする《夢想》に苦笑する。寝台で男を信じるなと言ってやりたい。
「《先導》っ。ちょっと、お話っ……!」
「《夢想》、続きは?」
勢いよくズボンを脱いだ《先導》の姿に、《夢想》の抗議が止んだ。
《夢想》の視線を浴びた男根が汁気を帯びてそそり立ち、《夢想》の潤んだ穴に切っ先を向ける。
「続き」
「っ……あ、『あなたの、子が、ほしいのです』……『どう』、『か、わ』っ『わたくしに、お種を、恵んでください』」
手で顔を覆いながら《夢想》が哀願する。指の間から覗く頬が赤い。
自分今どんな顔をしているのか、自覚のないまま《先導》は腰を突き出した。《夢想》の窮屈な体内に、熱り立った自分が潜っていく。それだけで蕩けるような心地が腰に広がった。鼻息が荒くなる。
半ばまで挿れたところで動きを止める。《夢想》が慣れるのを待つ。
健気に自分を締め付ける《夢想》の狭い隘路を感じながら、《先導》は呼吸を整えた。温もった体から汗ばむ。滴る前に《夢想》の腰を掴む。
「《夢想》、続き」
「ぁ、《先導》の、『おちんちん、大きい』」
「っ!」
不意打ちのアドリブに危うく暴発しそうになる。もどかしげに身を捩る《夢想》はいっぱいいっぱいの様子で、どれだけ男を挑発する台詞を吐いたのか無自覚だ。
仕返しと賞賛を兼ねて、《先導》は己の残り半分を《夢想》の中にねじ込んだ。ドチュッと重たげな水音が接合部で響き、《先導》と《夢想》の体が重なり合う。
「ふぁ、《先導》、ふか、ぁっ……」
「動くぞ」
こうなれば、《夢想》は朗読するどころではなくなる。ゆっくりと、しかしリズミカルに《先導》は腰を揺すった。見習いに演舞を披露するときのようにゆったりと、《夢想》の身体を穿ち、中の快感を捏ねていく。
呼吸が重なり、互いの熱が伝染り合うこの時間が《先導》は好きだった。表面上は淡々と、身の奥は沸々と、《夢想》に深く挿入する。
「《先導》、あつい、溶けちゃう、僕、ぅっ」
「こら、締めるな、ほんとに孕ますぞ」
《先導》の軽口に、《夢想》は子どものように目を潤ませた。
「《先導》の、いぢわる。僕、だって、天使は、子ども作れない、って、知ってるよっ」
「? 作れるぞ?」
「え?」
《夢想》が固まる。思い至っていなかったのかと呆れて、《先導》も繋がったまま腰の動きを止めた。
「確かに天使に子を作る機能はないが、お前の権能なら擬似的に作れるだろ?」
《夢想》の権能は実体のある幻を生み出す。《夢想》の知覚できる範囲でしか存在できず、《夢想》の想像できないものは作れないが、天使の中でも指折りに強い権能だ。
身体を穿たれる快感に縮こまった《夢想》の男性器を摘み、ふにふにと陰嚢を揉んでやると、《夢想》は切なく《先導》を締め付けてきた。
「ここを女陰に変えることもできるし、このまま尻で孕むこともできる。お前が想像できるならな。
どうだ、やってみるか?」
「ぁっ、ゃっ」
いや、と言いながら、《夢想》は《先導》を跳ね除けることはなく、身体はむしろ奥へ奥へと《先導》を誘ってきた。図に乗って腰の動きを早める。
膨れ上がった亀頭で襞を磨り上げ、その下でざわめく神経を刺激する。孕ませたい。その欲望を隠す気もなく身を乗り出す。
「ほら、いいのか? 孕むかもしれないぞ。お前が嫌なら辞める。どうする?」
「うっ、ううう」
目をつむって唸るばかりで、《夢想》は流されるまま快感を受け止めていた。腕の中にその健気な身体を閉じ込める。
いっそ拒んでほしい、そんな想いで口走る。
「どうする? ……《献身》を抱きたいんじゃなかったのか?」
「っ」
目を見開いた《夢想》が、《先導》を睨んだ。
「《先導》のいぢわるっ!」
何よりも雄弁に、その眼差しが《夢想》の想いを告げていた。
呆然と動きを止める。即座に抱きしめる。
「悪かった」
真摯に告げる。取り繕うのも忘れた表情はいつもより情けなかったが、気にする余裕はなかった。
「好きだ」
《先導》の端的な告白に、《夢想》は《先導》の背に手を伸ばした。
「ぼ、僕も好き」
その一言が、どんな刺激より《先導》を昂ぶらせた。背の翼が羽ばたく心地がする。深く口付け、抱き寄せ、溶け合いたいと腰を擦りつける。
やがて《先導》が《夢想》の中で震え、溢れんばかりに子種を注いでも、《夢想》も《先導》も、互いを離そうとはしなかった。
「《先導》、あなたに権能濫用の疑いが出ている。規定より早いが【揺り籠】に入ってほしい」
「権能の濫用? 覚えがないが……」
自室で寛いでいたところに押し入られ、《先導》は眉を顰めた。
自分以上に表情の固い女性天使《高潔》が、椅子に座り机に資料データを並べた《先導》を見下ろしている。
あまり知られていないが、《先導》の権能は学習能力の高さでも感覚を言語化するセンスでもなければ、観察力の高さでもない。軽度の精神誘導だ。
《先導》が意識して語りかければ、相手はその言葉を聞かなければいけないと感じる。思念を送信できるわけでも従属させられるわけでもない、言ってしまえば耳を傾けてもらいやすくなるだけのささやかな権能だが、指導には便利だった。
《高潔》は統治局のホープだ。根拠があっての要請だろうが、【揺り籠】で長く眠ると、堕天に繋がる情動を根こそぎ消去される。今の《先導》には受け入れ難い勧告だ。
「再検証をお願いする。訓練生の成績は向上しているし、精神状態も安定している。指導に問題は生じていない」
「貴方の所感は聞いていない。拒否するなら連行させてもらう」
《高潔》の背後に控える護衛兵を観察する。
単独でも恐らく《先導》と互角以上。それが三名、油断なく武装している。
「俺ひとりで抵抗しても、勝ち目はないな」
《先導》は両手を挙げた。《高潔》が鋭く叫ぶ。
「警戒!」
さすがの判断の早さだが、それでも遅い。
虚空から生えた剛腕が、護衛兵を殴り飛ばした。壁に着地しようとした兵士が別の剛腕に胴体を捕まれ、床に叩きつけられる。
音もなく現れた巨体が床に降り立つ。背に浮かぶ翼は図体に反して小さく、天井近くの顔はボヤケて見えない。それが三体、《高潔》たちを取り囲み《先導》から隔てるように立ちはだかる。
「こいつは、《夢想》の幻影?
落ち着け! 所詮は文官の妄想、訓練を積んだ我らの敵では」
「生憎だが、俺たちの息子は強いぞ」
巨人の一体が突き出された剣を軽く躱して叩き落とし、別の一体が護衛兵の腹に膝をめり込ませる。最後に残った兵士が盾ごと蹴り飛ばされ、壁にぶつかって気絶する。
なすすべなく巨人に抑え込まれた《高潔》が、静かに呟いた。
「《夢想》の幻影を訓練したのか」
「ああ。見事なものだろう?」
《夢想》の生み出す幻影は《夢想》の想像力に左右される。戦闘センスのない《夢想》単独で強力な兵士を生み出すのは不可能だ。
だが、《先導》がどう動けばいいか教えてやれば、聡明な《夢想》は動き方を理解できる。《夢想》が説得力のある動きを想像できるなら――《先導》に鍛えられた子どもたちは強いと信じたなら、描いた幻影はその通りに動くのだ。
巨人に抑え込まれたまま、《高潔》はゆっくりと立ち上がった。
被せられた手のひらに重みがないと知っているかのように、巨人たちの体をすり抜ける。今度は《先導》が驚かされる番だった。
「……そうか。精神制御の権能を極めれば、幻影は無視できる、か」
《高潔》の権能は自制。思考と感情を切り離し最善の行動を選択できる、ただそれだけの力だ。
だが、それを極めた彼女に一切の幻惑は通じない。《夢想》がどんなに強力な幻影を投射しても、《高潔》はその夢を無視できる。
「だが、貴女ひとりで俺を捕らえることはできないな」
「そうだな」
頷きもせず《高潔》は撤退した。判断も行動も早い。うかうかしていたら援軍に囲まれてしまうだろう。
《先導》は机の下を覗き込んだ。
「《夢想》、外に行こう」
「はむ?」
《先導》のちんこを舐め回していた《夢想》が首を傾げる。
実のところ、もし《高潔》が尚も捕縛を試みていたら、急所を晒したまま戦う羽目になっていたので、少し危なかった。
「ぴくにっく?」
「ああ。子どもたちもいっしょだ。楽しそうだろう?」
先ほどの戦闘に気づかなかったかのように目を瞬かせている《夢想》を、《先導》は抱きかかえた。《夢想》はされるがままだ。
まるで、《先導》の言葉以外耳に入らないかのように。《先導》しか、彼の世界にはいないかのように。
「《先導》もいっしょ?」
「もちろん」
頷くと、《夢想》は嬉しげにしがみついてきた。その温もりを抱えて外に向かう。何が来ようと恐ろしくはなく、惜しむ気持ちもなかった。
世界はふたりだけのものだった。少なくとも、彼らにとっては。