繧ュ繧ケは諱�の始まり
オーストとねずおは同居しているので、共同生活を営むルールがある。
「一日で最初に顔を合わせたら挨拶する」も、その一つだ。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
いつも通りの朝。朝食の準備をしていたねずおに何の気なしに近寄って、オーストは爪先立ちになってねずおの頬にキスをした。
静寂に、時間が止まった。
「……オレ、いま、なんでキスした?」
「さ、さぁ……」
ねずおは動揺して頬を抑えたが、それ以上にオーストが動揺していた。
言うまでもなく、朝の挨拶にキスなんて含まれてないし、自分とねずおはそんな関係じゃない。のに、なぜ今、自分は、自然と…………
「異界接続だコレ!!」
オーストたちが迷い込んだ乙姫町は、異なる世界が混ざりあった泡のような世界、らしい。
町に住む学者の話はオーストはよくわからなかったし、ねずおも「要はあの世だろ?」とピンと来ていない様子だったが、ともかく、この町はしばしば異なる世界と繋がり、その世界の法則が混ざり込むことがある。
中でも、こういう意味がわからない変化を起こすのは……
「おはようトラクン! ちゅ~」
「おはようッス! ちゅ~」
「やっぱテメェの仕業か雑魚野郎!」
白昼堂々 公園で金髪男にセクハラしている半魚人を、オーストは指さして怒鳴りつけた。
「オースト、落ち着けって。ヒズさんが犯人と決まったわけじゃないだろ?」
「そうだそうだ! おれは接続に成功した異界法則に便乗しただけだぞっ」
「語るに落ちてるだけじゃねえか」
この犬くらいの背丈の二足歩行する魚野郎──ヒズなんとかって名前らしいがオーストは覚える気がない──は、他の異界を引き寄せる魔法が使えるらしく、以前それで元の世界に帰れないか聞きに行ったことがあった。結局引き寄せることはできるが送り出すことはできず、対象となる世界も「好みの男がいるどこか」という博打っぷり、長く顔を合わせたい相手でもなかったので早々に諦めたが。
「おいこら、今度はどんなけったいなとこに繋げたんだよ」
「ふっふっふ、それを知りたくば……ちゅ~!」
「きめぇ」
キス待ち顔を容赦なく叩くと、半魚人は大仰にショックを受けた顔をした。
「ちゅーしない……? 愛くるしいおれにメロメロじゃない!!?」
「ンなわけあるか」
「好きなやつとはあいさつにチューする世界と繋がってるのにぃ~!」
「なぁんだ。そのくらいなら気をつけてればまたすることもなさそう、だ、な……」
オーストの真っ赤になった顔を見て、ねずおの安堵は尻すぼみになった。金髪男──半魚人に飼われているホムンクルスのトラクンが、朗らかにのたまう。
「みんな仲良しっスね!」
「ンなわけあるかァ!!」
キレたオーストが一週間くらいねずおと会話しなかった弊害はあったが、その頃には降って湧いた「挨拶はキス週間」は終わっていた。
「おはよう」
「おはよう、オースト」
ようやく機嫌を直したオーストに、ねずおはホッとして朝食の席に座った。
「喧嘩はおしまいか?」
「そんなんじゃねえよ。また気色悪ぃことしたらヤだろ」
「気にしないでよかったのに。身体接触が不快じゃない相手、ってくらいの意味だろ、あれ」
「小難しい言葉使うな、バカ」
憎まれ口を叩くオーストにねずおは苦笑した。正直、好意を素直に口に出す性格ではないオーストに心を開いてもらえているとわかったのは、嬉しかった。
そんなねずおの様子が、オーストは当然面白くなかった。軽はずみに悪罵を垂れる。
「おまえはオレにキスしなかったもんな」
悪口のつもりが変な響きを帯びたことに、オーストは口を抑えた。指に触れた唇は、知らないうちに尖っていた。
今のは。醜態をさらしたのが自分だけだったのが不満で。それだけの、はずで。
顔色をうかがうと、ねずおは何故か神妙な顔をしていた。箸を置いて、身を乗り出してくる。
近づいてくる唇が、オーストを啄んで、離れていく。子どもを宥めるような、触れるだけのキス。
なのに、燃えるように顔が熱くて、オーストは怒鳴った。
「シラフで男の口にキスするやつがあるかっ!!」
「ええ? オーストのいたとこってそんななの? 俺がいた国じゃわりとふつうだったんだけど」
「そんな話してねぇよバカっ!!」
小難しいことはわからない。
だからオーストは、自分がキスを避けなかった理由も、頬がいつまでも熱い理由も言葉にできなくて、ねずおをつたなく罵り続けた。