先帝の美貌を、火を灯した氷像のようだ、と喩えた人がいた。空に喩えるよりも、海に喩えるよりも、あるいは的を射ていたのかもしれない。外側の光にではなく、内側の炎に溶ける、精緻な氷像。
だが、アルフィーナ・イリスが蒼天に喩えられたのは、その美貌と類い希な青い髪ばかりが原因ではない。彼女の成し遂げた数々の偉業を、誰もが讃え、畏れた。空は美しく、遠い。蒼天を冠する覇王。
今思えば、生前の綽名だったにもかかわらず、諡おくりなのようだった。
「陛下、どうかなさいまして?」
わずかに訛りの混じった心地好い声に、ランスロット・ファーレンは追憶から覚め、目の前の妻に意識を戻した。梅香君は形の良い眉を曇らせ、光のない目を憂いに染めている。
「あ、ああ、ごめん、香る。せっかく久しぶりに会えたのに」
「それはよいのですけど」
咎めるでもなく、梅香君はわずかに首を傾げた。彼女は時折、こうして所作だけでランスロットの気懸かりを尋ねる。
「……ソーニャが」
わずかな沈黙を挟んだ後、愛娘の名を口にしたところで、ランスロットは再び口ごもった。後ろめたいことなど、あるはずもないのだが。
「ソーニャが、先日の墓参りで先帝陛下がどんな人か気になって、周りの乳母とかに尋ねて回ったそうなんだけど……」
それは喜ばしくも、誇らしくも、困り果てるようなことではなかったはずなのだ、本来は。
「乳母たちが、その、偉大だったとか、聡明な方だったとか、強い人だったと言うついでに、とても美しい人だった、と答えたらしくて」
一旦切り、指を撫でる。
「それで……この前ソーニャに会ったとき、母様と先帝陛下、どっちが綺麗、って聞かれて…………」
苦い唾を飲み込み、一気に言う。
「僕にとっては、母様が世界で一番綺麗だよって答えたら、拗ねちゃったんだ」
重く息を吐き、肩を落とす。含みを持たせるつもりなど毛頭なかったし、嘘偽りない正直な答えだったのだが、滅多に構えない娘の頬を膨らませたまま別れた罪は重かった。
顔を上げれば、梅香君はいつも通りの静かな表情をしていた。薄い唇が詩歌めいた声を秘やかに紡ぐ。
「空の美しさを人と比べても、詮ないことでしょう」
そう、決して届かないものを憩う声で言った。手の届かない空。蒼天の覇王アルフィーナ・イリス。言われて、気づく。空の美しさを人と比べても無意味だろう。氷像の美しさを人と比べても無意味だろう。アルフィーナの美しさを、人と比べても無意味だろう。
世がどれほど移ろい、美の基準がどれほど変わろうと、アルフィーナの美しさを否定できる日は来ないだろう。変わらぬ空のように美しい人だった。その美しさに見惚れるよりも、その偉大さが誇らしかった。いつも、今でもその背中を追いかけているが、ランスロットにとっては、遠い人ではなかった。分を弁えると同時に、そう思ってはいけないのだ、とも思う。
「……今度ソーニャに会ったら、二人でアルフィーナさまの話をしてあげよう」
強い人だった、偉大な人だった、美しい人だった、けれどそれよりも、愛しい人だった。その思い出を語ろう。
生きていたら、お前の名前をつけてくれた人だよ。そう、教えてあげよう。
「そのときには、きっと言うよ。先帝陛下は大事な人だけど、それでもやっぱり、母様の方が好きだって」
「あら、本当ですの? 陛下」
悪戯げに首を傾げた妻に、満面に笑い肯く。比べるようなことではないが、それでも、聞かれれば何度でも、ランスロットはそう答えるだろう。
今はもういない人を、懐かしく愛しみながら。
余談
「でも、ソーニャはどうしてあんなに怒ったのかな」
「もしかしたら、陛下が幼少時からアルフィーナさまにお仕えしていたことを聞かれたのかもしれません」
「ああ、そういえば、僕がアルフィーナさまのお話をすると惚気のように聞こえるとか言われたことがあるけど……」
そのときは、陛下への感情を邪推した物言いだったので底冷えのする目で睨みつけたのだが、実の娘にまで疑われたのだと思うと、少々切ないものがある。
「参ったな。僕にとってアルフィーナさまは主君で、そういう対象ではなかったんだけど」
「あら、陛下の初恋は、アルフィーナさまではありませんでしたの?」
言われて、首を傾げる。そんなつもりは、なかったのだが。
「そう、だった、のかな?」
母のようで、姉のようで、仕える主君で、師でもあった女性。それが恋と呼べるようなものであったかは、甚だ疑わしいのだが……
憧れや、尊敬や、慕わしさや、そういったものを集めれば、やはりそれは、恋と似ているのかもしれない。
「ソーニャさまの初恋は、きっと陛下ですわね」
少しだけ微笑んで。
「だから少し、アルフィーナさまに嫉妬なさったのかもしれません」
そう穏やかに言われて、少しだけ困る。
「困ったな」
「困りましたね」
そう笑った妻の面差しは、どこか遠くに想いを馳せているようだった。懐かしく、優しく、甘いものを眺める気配で。
「そういえば」
「うん?」
珍しい妻の雰囲気につられて、ランスロットは何の気なしに先を促した。
「わたくしの初恋は、シン殿でした」
その瞬間、ランスロットの呼吸脈拍動作その他諸々が、一斉に錆びたような音を立てて凍りついた。
* * *
後日、死にそうな顔で妻の初恋について側近であり親友でもあるスール・クインに相談したランスロット帝は、「夫人の寛容さを見習え」と容赦なく蹴られたという。