君に幸あれ

 薄布でやわらいだ日射しに、真白い産着が淡く照っている。揺りかごで寝入る赤子を、エレオノール・クシューシカはしげしげと眺めた。自分には孫に当たる赤子 ―― 血の繋がりがないとはいえ、母は養女、父親も幼い時分から知っているとなれば、抱く感慨は身内のものとなんら遜色なかった。 「ソーニャ、というのね」 「ええ。陛下に名付けていただきました。随分と悩んでおられましたが」  わずかに異国の訛りが混ざった、たおやかな声。傍らの養い子につくづくとレオは見入った。梅香君は美しい。見る者を圧倒する神々しい美とも、目を惹きつけて離さない魔性の美しさとも違う。泥に塗れようと損なわれることのない、蓮の美しさ。  揺りかごの赤子は母に似たのか、静かに寝入っている。すやすやと寝入る孫娘の先行きが決して安穏としたものではないことを思い返し、エレオノールは暗澹と眉をしかめた。  現皇帝ランスロット・ファーレンに皇后はいない。実質は妻である梅香君はその出自故に元老院はおろか国民からも評価が芳しくはなく、このため梅香君は后ではなく妾の位に留められ、揺りかごの赤子も皇位継承権は持たず庶子として育てられることが決まっている。  そこまでしても、この子は帝国に取って爆弾だった。こうして孫を見に来るのに、面倒がなかったわけではないが……エレオノールは微笑み一つでそのすべてを黙らせた。畏れ多いことだし、感傷に過ぎなかったが、レオは彼女の代役のつもりだった。 「アルフィーナさまが」  ぽつりと、雨音のように降った名前は、レオの耳を惹きつけるのに十分だった。 「生前『名付け親にさせておくれ』と頼んでおられたそうで、それで余計に。先帝陛下はどんな名前を付けるおつもりだったのだろう、と」 「陛……アルフィーナさまが、そんなことを?」  意外さを禁じ得ず、エレオノールは思わず問い返した。先帝アルフィーナ・ゼーレスは、そういった遠い未来のことは中々約束してはくださらなかった。無論、皇帝として五年十年、あるいはそれ以上先を見越した政務を執られてはいたが、こと私的な約束となると、とんと口が重かった。  その陛下が、どんな心持ちでそんな約束をされたのか。叶うことのなかった、きっと、当の皇帝も叶うとは思っていなかった言葉を、どんなつもりで。  不意に袖をつかまれて、エレオノールは振り返った。眠っていた赤子が目を覚まし、レオの袖をつかんで、無邪気に笑っていた。  まだ何も知らない笑み。この世の如何なる苦難も悲嘆も知らない、一点の曇りも陰りもない笑顔。  ふくよかな頬を指でなぞると、赤子は益々笑みを深くした。生まれたての肌をなぞる自分の指が酷く老いて見えて、流れた歳月の重さに苦笑する。  ランスロットの子は、レオにとってひとつの象徴だった。アルフィーナの後継たるランスロットの子。あの頃子どもだった、陛下が亡くなった年もつい子ども扱いしてしまうのに悩んでいたランスロットが、人の親になった。それは歩んできた道のりの長さを実感させる、ひとつの標だった。 (ねえ、陛下)  陛下、と未だに呼んでしまう。それはレオにとって、もう変えられない習慣だ。 (わたくし、こんなに老けてしまいましたわ。陛下を差し置いて、孫もできましたのよ。ねえ、陛下)  アルフィーナが亡くなってからの、長い旅路。その先に在った、アルフィーナと決して会うことのない赤子の誕生。  陛下が、会いたがっていた子どもだ。 「初めまして、ソーニャ」  母親似の黒い目に映る自身を見据えて、その言葉が持つ重みを丸ごと受け止めて、レオはつぶやく。 「わたくしが、あなたのお祖母さまよ」  ソーニャが微笑む。無垢な微笑み。  レオもまた、憂いを捨てて微笑んだ。遠い日にまみえたときに、彼女に、この微笑みを伝えられるように。
*  *  *

昔日

 晴れ渡る空が、わずかな雲を白く輝かせていた。澄んだ空気は肌寒いが日射しは温かい。冬か春か、判然としないある日。  アルフィーナ・イリスは、従者の寝顔を眺めていた。従者。まだ子どもの、ランスロット・ファーレン。これがいつのことなのか、判然としない。  ランスロットが敬愛するアルフィーナの前で居眠りをするなど、あり得ぬこと。ではこれはシン・ヴェリタスに扱かれて気を失っているのかと問われれば、それもはっきりしない。眠る子どもの寝顔は無垢に健やかで、疲労の陰りは見えなかった。  アルフィーナはしげしげと、その寝顔に見入っていた。  幼い子ども。自分を慕っている子ども。自分が置いていってしまう子ども。  昼間、彼と交わした約束を思い出す。あるいはそれは、まだ交わされていないのかもしれない。約束を交わしたのはこのときの過去か未来か。思い出は判然せず整理できない。 『ではもしお前が父親になって、その時わたしがまだ生きていたら、名付け親にさせておくれ』  冬空のような青い髪が、凍えた水面のようにさざめく。空の真中を映す青い目が、従者の寝顔を見つめ、わずかに震える。 「きっと、お前の子どもは、思わずに済むのだろうな」  それを本当に口にしたのかどうか、はっきりしない。思い出は朝ぼらけに薄れて、霞んで、ぼやけていく。 「なぜ、生まれてきてしまったのか、などと」  白んでいく思い出の中、アルフィーナ・イリスは祈るように目蓋を伏せた。  決してまみえぬ赤子の生涯に、幸あれと。