カーテンコール

 前略、貴女が死んで悲しいです。  でも、生まれてきてくれてありがとう。   *  *  *  開幕ベルが鳴り響き、劇場は薄闇に包まれた。真紅の幕が艶やかに裾を上げて、観客を舞台に案内する。  まず眼に入るのは壇上に設置された巨大な絵画。広大な空に臨む女の背が、スポットライトを浴びて煌々と華やぐ。アルフィーナ・イリスを描いた中でも最高傑作と讃えられる絵画、その複製だった。  複製とはいえ出来は良く、薄青い空に女の蒼い髪がくっきりと映えて、覇王の壮麗さと今にも手折れそうな儚さが見事に調和していた。  絶世の美女と讃えられたアルフィーナの美貌を、敢えて直接描かないことで描こうとした傑作。この絵画がそのまま、今回の劇の主旨であり主題であり演出だった。  舞台の上で、誰でもない役を演じる役者が大仰に一礼する。 「ようこそ皆様。今宵語るのはアルフィーナ・イリスの物語。  蒼天の覇王、来たりし魔女、あるいは単に絶世の美女とも。 (起こる笑いに気前よく愛想を振る)  彼女が如何なる人であったのか、幾万言を費やそうとも決して語りきれるものではありませんが、今宵は彼女の話をしようと思います。  数々の偉業を成した異形の覇王は、果たして本当に人だったのか。浅薄な私なぞは、少々本気で疑っておりますけども」  軽薄にウィンクした役者に再び笑いが起こる前に、「そんなこと仰らないで!」 悲痛な女の声が舞台にこだました。 「あの方は人間でした。わたくしの、わたくしの大切な友人でした。  どうしてそんなことを仰るの。どうしてこんな席を用意しましたの。いくら語っても、あの方は帰ってこない。もう、どこにも」  泣き崩れる女の黒髪を、スポットライトが残酷に照らす。エレオノール・ルーメスを演じる女は、あまり美しくないものの複雑な役柄を見事に演じることで有名な女優だった。  それにしては台詞が陳腐で勿体なかったが、今夜の主役はエレオノールではなくアルフィーナなので、敢えてアルフィーナの親友としてのエレオノールをクローズアップした形なのだろう。 「はあ、然様でございますか」  女を慰めるにしてはあまりに茫洋とした声が、隣に照らされた男から発せられた。一度目を離したらもう忘れてしまう地味な面立ち。壮年という言葉から連想される人生の重みは全く感じられず、中年と言ったほうがずっとしっくりきてしまう。  言わずと知れたヴァルフェット・クシューシカだったが、これはまたぴったりな役者を見つけてきたと感心して、それが当代最高と讃えられる名優の一人だと気づいた。  よくよく見れば面差しは彫りが深く華やかなのに、今宵はどうにも地味に思われ印象に残らない。化粧の工夫もあるのだろうが、なるほど名優は見る者の印象さえ操作してしまうものらしい。  他の観客とはピントの外れた感嘆を他所に、舞台の女が隣の男をキッとねめつけた。 「あなたはいつもそうですわね。陛下を悪し様に言われても、はあ、然様ですか、はあ、然様ですかと」 「いつものことでしょう」 「そうね、いつものことですわね」 「陛下もそう仰りますよ」 「……そうね。きっと、そう仰るわね」  火を燻らせた声が、茫洋とした声に鎮められる。  ひっそりと押し黙った二人から照明が外れ、舞台に蹲る男を照らした。 「馬鹿なことを。馬鹿なことを。馬鹿なことを! あの女が人間でなぞあるものか!  あれは炎だ。あれは地獄だ。狂った聖人が人でなぞあるものか。あれは、あれは」  天を仰ぎ哄笑しようとした男の声は次第にひび割れ、笑うのを失敗した泣き声に変わっていった。  雪のような白い髪は、おそらく染めているのだろう。浅黒い肌も陽に焼かせたのか。光を受けると赤に近くなる瞳が抜擢の理由だったのだろうが、声は悪くないし、体格も立派で蹲っていても迫力がある。  悪名高いカスパー・ヴォルフガング・フォルトナーを演じるには悪くない役者だが、天を仰いだ後すぐ蹲るのは、顔立ちと目の色を誤魔化そうという意図が透けて上手くなかった。 「何故裏切ったかだと? わかるはずがないだろう、お前たちに。何も知らないお前たちに。あの方を知らないお前たちに、何故裏切ったのかなどと、あの方以外に、どうして、こんなことに」  裏切りたくなどなかった、とつぶやいて、男は舞台から姿を消した。  闇を落とした照明が再び光を投げかけたときには、薄い金髪がライトを浴びて輝いていた。  白に近い金。豪奢な衣装にまだ着られている印象の、どこか頼りない青年。少し弱々しすぎる印象はあったが、一目でランスロット・ファーレンだとわかった。 「あの方は、」  わずかにかすれた声は、すぐに持ち直した。若々しい外見に不釣り合いなほど低い声だったが、史実に比べれば張りのある気負った声が、朗々と故人への思慕を謳い上げる。 「あの方は、僕の師で、姉で、母で、何よりも主だった。今でも、その背を追いかけてるし、これからも追い続けるだろう。  それでもきっと、永遠に追いつけない。あの方は真に偉大な主君で……こう言ってよいのなら、僕は、あの方の家族だった」  舞台の青年は、まだ帝位を継いで間もないランスロットを演じているのだろう。しっかりと立とうとしているが、どこか甘く、背を伸ばす咲きかけの蕾のような印象だった。 「あの方は、わたしにとっては、夢の中のような御仁でした」  甘やかな蕾が、頼もしげな若木になった。隣に立つ女性が照明を浴びた途端、ランスロットの背筋が伸び、肩が張り、笑みに力が籠もる。楚々とした女性はランスロットの手に導かれ、舞台の中央に進み出た。  黒髪に象牙の肌。ランスロットの妻、珠昭妃、梅香君。 「懐かしゅうはございますし、いただいた言葉の一つ一つ、お会いしたときの手の温もりも覚えております。  けれど、夢の中の出来事であったようにも思うのです。またお会いしたい気持ちに、嘘偽りはないのですけども」  彼女を演じる女優はこの辺りの出身のはずだったが、発音にわずかに訛りがあった。おそらくわざとだろう。  この女優は梅香君の熱烈なファンで知られ、この役のため盲者の振る舞いを取材し、自身も三ヶ月以上目隠しで過ごしたという徹底ぷりだった。おそらく訛りも研究したのだろう。  その甲斐あってか、発音はわざとらしくなく滑らかで、客席から見える女優の眼差しは透けるようでありながらどこを見ているのか判然とせず、しかし決して茫洋とした印象は与えなかった。  比翼連理の仲睦まじい様子を見せるふたりからライトが外れ、舞台が暗闇に包まれる。  その一瞬の間隙を縫うように、火の噴く声が舞台に轟いた。 「あの女は一族の仇だ。忌々しい、あの女の話なぞ聞きたくもない。  ああ、一度も会ったことはないさ。それがなんだ? あの女の首をもぎ取れなかった皮肉を言いたいのか? あの女と会ったことなど──  一度、墓を見舞っただけだ。お義理で、仕方なく……小さな墓だった。それだけだ。話せることなど何もない。  ……会っておけばよかった、などと、今更の話だ」  再び光が溢れ、スール・クインを熱演する若手の俳優が映し出された。よく勉強しているようで、クインのアルフィーナに対する憎悪が変化していくのが口早の台詞で見事に表現されていた。  監督の熱の入れようがよくわかる、と思っていたら、次に現れたのは来るならここで来るはずのデューイ・クシューシカではなく、思わず笑ってしまった。  おそらくランスロットとクインを対比させたかったので、デューイは邪魔だったのだろう。  現れたのは、凡庸な男だった。ヴァルフェットとは違う意味で印象に残らない、狂気の感じる凡庸。整っているが魅力的ではない面差しに、火を灯したような昏い眼差しが隠れている。 「アルフィーナ、だと? ああ、そうだ、その女が余の妃と子を殺した。余の妃を、生まれるはずだった余の子を……  よくも、愚かな、許すまじ。妃はあんなにもお前を可愛がったというのに、妃の愛が離れていくのを恐れたか。妬んだか。愚かしい、憎らしい、よくも、よくも、よくも」  壊れたように繰り返す。狂王ネメス・ルシウス。アルフィーナの兄。  彼の妃と子の暗殺にアルフィーナが関わっていなかったのは当時ですら明々白々だったが、狂った皇帝にそれは届かなかった。壊れた蓄音機のように繰り返し、よくも。  そのまま照明は消えて、また新しい人物を照らした。  ふっくらとしたやわらかな輪郭。大きく膨らんだ腹。笑顔が群を抜いて快かった。美しいというより、ただ心地好い。これからの幸福に輝いた笑顔。子を得た母の面差し。  ルシウスの皇后オフィリア・フローレンス・バイロンは、微笑みながら腹の子の話をした。アルフィーナの話はほとんどしなかった。愛情と親しみは感じられたが、どこかおざなりで、それよりも腹の子の話をしたがっているのが透けて見えた。  実際にオフィリアに子どもが産まれていたら、どうなっていたか。オフィリアはアルフィーナを捨てたのか。それとも変わらず愛しんだのか。それはもう永遠にわからない。子どもを抱えたままオフィリアは死んでしまった。その先はもう永遠にわからない。  舞台は再び暗闇に包まれた。この分なら次に来るのはルシウスの淑妃ベアトリス・ロセッティか。その後はおそらくアルフィーナの臣下から特に有名な人物……  そういえば彼はまだ出てないな、と考えて、わずかに首を傾げた。レオとカスパーが既に出ているのに、彼がまだなのは少しおかしい。 「いやあ、まさかラトゥーカ・ルツが飛ばされるとは思わなかったなぁ」  楽しげに話しかけられ、彼女は振り向いた。後ろの席に座った男が、悪童めいた笑みを浮かべている。  暗雲から漏れる雷のような目映い金髪。親しげに笑んだ酷薄な紫電の眼差し。荒涼とした空気をまとう見慣れた男。  何故ここに。問おうとして、納得した。彼は歴史に残らなかった。だからここにいる。自分と同じように。 「退屈な批評家さんよ。自分が死んだ後の話を聞かされるのはどうだい?」 「……そうだな」  底意地悪く感想を問われて、彼女は意識を劇に戻した。舞台では役者たちが台詞を続けている。哀悼、愛惜、怨み言。それらを聞きながら、しばし思案する。 「早死にして悪かった、とか」  考えた末の答えに彼は吹き出し、遠慮の欠片もなく笑い出した。 「こりゃ驚いた。天下の皇帝様が随分殊勝じゃないか」 「ああも怨まれたらさすがに反省するさ」  手を抜いたわけではなく生き抜こうとした末の、ではあったが、殉死した部下たちと涙をにじませてこちらを睨むレオの顔を見れば、反省の言葉も出ようというものだった。  とはいえこうも笑われると、さすがに眉をしかめるが。 「いやあいいんじゃないか、もう時効だろ」  彼は笑いながら、そう言った。  いつの間にか、舞台に立つのはアルフィーナを知らない世代になっていた。ランスロットと梅香の子。エレオノールの子やその孫たち。アルフィーナを知らない、アルフィーナと会ったことのない子どもたち。  彼らも既に亡い。アルフィーナも、その友人も、その子どもたちも、今はもう土の下。踏みつぶしてきた死も、償いきれない罪も、流せなかった涙も、今は書物に書かれた言葉でしかない。 「もう、いいだろ」  繰り返す男に違和感を覚えた。常になく優しい声。終ぞ見たことのない笑顔。すべてが終わった──…  歓声と拍手が轟く。舞台が終わる。観客とスポットライトに誘われて、壇上に役者たちが勢揃いして手を繋ぐ。 「ほら、行くぞ」  差し延べられた手。いつの間にか、壇上に待つのは役者たちではなくなっていた。劇に出ていた者も、出番がなかった者も勢揃いして、そこにいない二人を待っている。  指先が彼に触れる。立ち上がる。微笑みが目に映る。死も罪も愛しみも過ぎ去って、そこにはもう、言葉しかない。 「ああ、そうだな、シン」  すべてが通り過ぎて、皆が待っている。  彼女は彼の手を握り、皆の待つ壇上に上がっていった。