悪魔も泣き咽ぶトリル
咽び泣くようなヴァイオリンの音色が響いてる。夫を亡くした女のように。初めて恋人に抱かれる乙女のように。耳に絡みついて離れない。
「諸君。以前逃した蝙蝠の憑神を発見したとの報告が来た。
我らの力を以って、今度こそ、確実に仕留めよう」
隊長の言葉に、集められた対神討伐部隊・神斬の面々は顔を合わせた。
厚い石壁に反響して、音がよく籠もる。身じろぎした靴の音は毛足の長い絨毯に吸われ、ガラス窓から見える吹雪いた曇天も、この部屋に冷気を届かせることはできない。
人界を荒らす憑神を倒すのは、皆望むところ。だが。
「あの、隊長。くだんの憑神は凶暴性はなく、人に危害を及ぼす権能でもありません。無理に討伐する必要はないのでは……」
「何を言う。蝙蝠に憑かれると、他者に忌まれるようになるのだろう? それが如何程の苦しみか。
善良な民が奴に魅入られる前に、この世から抹消しなくては」
その善良な民を殺したのは自分だろうに。隊員は嘆息した。
そもそもが不当な討伐だった。元々は簡単な監視の任だったのに。蝙蝠の主人は引き籠もっていて、やり取りができるのはネットだけ。そちらを窺う限りでは善良で穏やかな人柄で、健康に問題もなさそうで、無理に住居に侵入し様子を確認する必要はなかった。
なのに、「直接確認しなければ」と言い張った隊長が、周囲の制止を振り切り単独で蝙蝠憑きと接触してしまった。情報収集を担当する神形の手が空くまでの繋ぎだったのに。
蝙蝠憑きの「対面した人間に忌み嫌われる」という代償が判明したときには手遅れだった。呪いに蝕まれた隊長は蝙蝠憑きを極悪人と思い込み、その場で殺してしまった。
元々は、こんな考え無しの人ではなかった。代々神連に人材を排出している家柄の、使命感の強い人だったのに。今では隊長は周囲が何を言っても耳を貸さず、頑なに蝙蝠を狩ることに執心している。
上層部も異常を把握してはいるが、それだけ冷静さを奪う代償を危険視する声のほうが強く、蝙蝠の討伐は正式に決定された。
「では、一同出撃!」
意気揚々と立ち上がった隊長が、率先して扉に進む。
面布に覆われた顔を見合わせ、頷き合うと、隊員らは一斉に猟銃を隊長の背中に向けて、引き金を引いた。
一糸乱れぬ銃声が、石壁に反響して、外には漏れず立ち消える。
「……な に、を?」
「隊長が悪いんですよ。あんなに素晴らしい方を悲しませるから」
少し考えて、副官は銃口を隊長の頭部に向けた。憎い仇であっても、無駄に苦しませるのをあの方は喜ばないだろう。引き金を引く。
銃声も断末魔も、隊員たちの耳には残らなかった。鼓膜に響くのは、世にも麗しく物悲しい旋律。
あの方が奏でたヴァイオリンの悲鳴が、脳髄に絡みついて離れない。
その音色に従って、隊員の一人が吹雪の叩く窓を開けた。
「仇を討ってくださって、ありがとうございます。皆さん」
ひらりと部屋に入った大蝙蝠が、人の形を取って一礼する。仕立ての良い執事服。緩やかに波打つ髪。すらりと背筋が伸びて、肌は青白く、痩けた頬と窪んだ目元が痛ましい。
蝙蝠の掠れた声に撫でられ、隊員らは一斉に跪いた。
謙るのを求められたわけではない。媚びたわけでもない。ただ、彼の声を聞いて、感謝を捧げられたと認識した途端、喜びに膝が砕けた。
契約した主人に楽才を授け、対面した人間に忌まれる呪いを与える大蝙蝠メフィル。その呪いが、正確には主人に向けられる愛を奪うものだったと気づいたのは、歴代でも特に彼を愛した今代の主人、河堀 章人が殺された後のこと。
彼が愛された可能性だけ、自分は人に愛される。どうして、もっと早く気づかなかったのだろう。私が、主人を守らなければならなかったのに。主人が愛されたはずのぶんだけ、人に愛されて、その愛を使って、主人を守らねばならなかったのに。
「あの、メフィル様、これ……」
「ああ、持ってきてくださったんですね。感謝します」
渡されたヴァイオリンは、主人の形見だった。喜びと寂しさ、今も褪せない愛しみに唇が微笑する。
見惚れた人間が歓喜に涙するのに、メフィルは心配になった。
今からそんなに喜んで、大丈夫だろうか。本当の意味であなたたちが絶頂するのは、これからなのに。
「では、お礼に一曲。
皆さんに、そして亡き主人に捧げます」
首肯を待たず、メフィルはヴァイオリンを構え、弓を引いた。奏でるのは亡き主人が作曲した楽曲。メフィルとの出逢いを表現した一曲だった。
地を這う音色は初対面でいきなり跪いたメフィルのこと。それから流暢に、けれど細やかに、憑神と契約するメリットとデメリット、二つの側面を説明する旋律が重なり合う。
躊躇う心臓の音色は、軽く弦を爪弾くことで。次第に早鐘を打ち、決心の了承と、歓びを予感させるフォルテッシモが石壁を奏でて天から聴衆に降り注いだ。
『メフィルに一番たくさん曲を捧げた主人になるよ』
果たされることのなくなった約束が耳に蘇り、メフィルの眦を涙が濡らした。
けれどヴァイオリンを奏でる手は休むことなく。メフィル自身の慟哭として、激しさと美しさを増していく。まるで主人の楽才をそのまま奪ったように。
いいえ、違う。彼はもっと美しい音を奏でていた。こんなものでは足りない。ああ、どうして。どうしてもっと早く。メフィルは己を呪った。
どうして、主人が人に忌まれるのは代償だから仕方ないなんて、容易く諦めてしまったんだろう。運命に抗わなくて、何が芸術の徒か。
己への羞恥が、旋律を燃え上がらせた。神に弓引く悪魔のように、ヴァイオリンの弓を引く。聴衆はもはや溜め息一つ漏らすことなく、絶頂して倒れ伏していく。神を目にした、咎人のように。
だけど、こんなものじゃ足りない。
「聴いてくださって、ありがとう」
自分の演奏ではなく、主人の曲を。
息も絶え絶えな聴衆を見下ろして、メフィルは睦言のように囁いた。
「もっと、聴いてくださいますか?」
この音の奴隷になるまで。この音を紡いだ人が殺され、新たな曲が創られる機会が永遠に失われたことを、呪いたくなるまで。彼を殺した運命を呪い、共に魂を賭して戦いたくなるまで。
メフィルの懇願に、一も二もなく、だが立ち上がる気力も声を出す余力すらなく、聴衆となった隊員たちは惚けた笑みでアンコールをねだった。
自分たちが悪魔の誕生に立ち会っているのには気づいていたが、そんなことはどうでも良くなるくらい、彼と彼の奏でる曲に恋をしていた。