雨に陽だまり、月隠れ星降る朝に夢の跡

余録:そして夢に日が昇る

「おはよう、美夜」 「おはよぉ~」  美夜の営む骨董店『奇蒐園』は、店の反対側が美夜と暁月の住まいになっている。  数年前までは伯父夫婦とその息子である従兄の家だったのだが、美夜が店主になったのを期に伯父夫婦は世界旅行へ出かけ、従兄は別の店に就職し、今は気楽な一人と一柱暮らしだ。  そんなわけで、研究所跡地への出張が終わったふたりは、臨時収入で懐も温かいことだし(神形が報酬を割り増ししてくれた)、店を閉めてのんびり休むことにした。  はずなのだが。  部屋着にしているジャージ姿でトーストにマヨネーズを塗り、暁月の焼いてくれた目玉焼きを挟んだ美夜は、卵に敷かれたベーコンとキャベツの旨味を味わいながら首を傾げた。休日なのに、暁月が仕事着の和装をしている。 「今日なにか予定あったっけ?」 「ああ、日賀さんが取材でこっちに来るから、良かったら会いたいって連絡来たんだよ。絵本の下読みに付き合ってほしいんだって。  僕は会うけど、美夜はどうする? 面倒なら外で待ち合わせるけど……」 「日賀さん? 相変わらずフットワーク軽いわねぇ。ん~……会う」 「じゃ、昼過ぎに奇蒐園に来てって連絡するね」  日賀 のぼるは新鋭気鋭の絵本作家で、神憑きだ。もっとも、彼の創作活動に権能は寄与していない。  決して悪い人間ではない、むしろ筋金入りの善人なのだが、美夜は少し苦手だった。美夜が神連に協力していることを聞いて「ヒーローだ!」と目を輝かせたり、少年じみた無邪気な反応で呆れさせてきたかと思えば、面倒見の良い兄の顔を覗かせてきたりするのが、どうにも座りが悪い。  とはいえ、彼の絵本は対象年齢が幅広く、大人が読んでも楽しい。《遠耳》のせいで娯楽作品に触れると醜聞だの酷評だのが聴こえてくる美夜が読める、数少ない創作物だ。協力するのにやぶさかではない。  ティーパックのセイロンティーを啜り、食後のクッキーをつまみながら、美夜は「わたしもいつもの袴風ワイドパンツと和風シャツでいいか」と着替えの算段を立てながら、紅茶と溶け合うバターの香りを楽しんだ。   *  *  * 「未発表の新作の下書き? 下読みってそっち? 資料の下調べとかじゃなくて?」 「あっすいません。両方というか……とりあえず読んでもらえませんか?」 「待って待ってそれわたしたちが読んで大丈夫なやつ!? プロの生原稿って担当編集以外読んじゃダメなんじゃないの?」 「そんなことないですよ。ね、ドーリィちゃん」 「ぼくに言われても困るよ」  獏の憑神ドーリィが気まずそうに身動ぎする。見目も所作も中学生のような初々しい少女だが、その実 暁月と同じく昭和から生きている百歳近い憑神だ。  道化師になる修行中とのことで、のぼるの母が繕ったという道化服を着ている印象が強いが、今日は襞のあるスカートとフリルの付いたシャツを着ている。  応接間の椅子にちょこんと腰かけたドーリィは、人形のように危うく可憐だった。性を感じさせない仕草が、却って少女めいている。 「のぼる。最初から話さないと、四方木さんたちも困るよ」 「あっ、そうだね。すみません、四方木さん。  実はこの間、郷土史の絵本を描く仕事が来まして。資料を調べたらなんと、憑神が関わってた出来事があったんですよ」 「ああ、それでインスピレーションが湧いて、他の憑神の話も描こうと思ったの?」 「はい! 憑神って民話になってる話も多いから、そういうのなら描いても問題ないかなって」  日賀 のぼるの作風は、一言で言えば、夢見るようなファンタジーだ。憑神の話は事実と知らなければファンタジーと変わりないし、のぼるが興味を持つのもわからないではない。  だが、それで美夜たちに憑神の話を聞くのではなく、書いた話を読んでもらいたいとは、どういうことだろう?  首を傾げる美夜と暁月に、のぼるはハキハキと言った。 「それでこの間、十五とうごさん、っていう狸のひとに話を聞いてみたんですけど」 「「あのクソ狸に???」」  美夜と暁月の二重唱に、のぼるは首を傾げた。 「く……?」 「あ、ああ、ごめんなさい。あのクソボケ百害あって一利なしパブリックエネミー狸がなんですって?」 「えーと、もしかして四方木さんたちって、十五さんと知り合い……仲悪かったり?」 「仲良くなる理由が一ミリもないでしょうがあんな反社会生物っ! いいから何聞いたか吐きなさいっ!!」 「十五さんに聞いた話を元にプロット書いてみたんですけど十五さん気に入らなかったみたいでどうしてなのかアドバイスもらいたかったんですごめんなさいっ!」  ようやく話が見えてきて、美夜と暁月は揃って頭を抱えた。  あの愉快犯がこの絵本作家で何を企んでるのか、想像するだけで頭が痛い。暁月がのぼるに手を差し出す。 「わかった。とりあえず、その絵本のプロットを読ませてくれる? そのほうが話が早いや」 「あ、はい。これです」  差し出されたクロッキー帳に書かれたタイトルと表紙の素描に、暁月と美夜は顔を合わせた。 「これって……」 「あ、知ってる話でしたか?」 「ええと、そうね。とりあえず読ませてもらうわ」  読み始める。ページを捲る。  雨の降り続く城に囚われたお姫様。彼女を閉じ込めたのは、娘を失った黒い龍。  娘はどこだ。娘を返せと泣く龍に、お姫様は「わたしがあなたの娘を探しに行く」と告げる。  赤マントの魔法使いに助けられたお姫様は城を抜け出し、お城に太陽を取り戻して、雲に隠されていた龍の娘を見つけ出すのだ。 「やっぱり、元の話から変えすぎましたかね?」 「いえ、いいと思うわ。確かに、実際には起こらなかった結末だけれど」  のぼるは大昔の話だと思っているようだが、これはつい最近の出来事だ。  気軽に触れるのは危ういが、これだけ変えてしまえば、関係者も気づかないか、何も思わないだろう。  それに。 「物語ですもの。これくらい救いがあるほうが嬉しいわ。  クソ狸にウケなかったのはあいつが悪趣味なだけだから、気にしなくていいのよ」  美夜の言葉を嬉しそうに聞いていたのぼるは、後半に首を傾げた。 「悪趣味?」 「十五は人間が馬鹿やって馬鹿な末路を迎えるのが好きだから、こういう救いのある結末は萎えるんだよ。  いやー、何企んでたのか知らないけどザマーミロだよね。諸悪の根源が赤マントの魔法使いなんてヒーローになってるのは、元を知ってるとちょっと複雑だけど」 「そうねぇ。これ、シリーズ化するの? 魔法使いのデザインは少し変えたほうがいいと思うわ」 「あ、はい、続きはもう関係ないオリジナルで行こうと……え? 救いのない結末のほうが好き……あ、あーなるほど! そういう……  わかった! ありがとうございます、四方木さん、暁月さん。今度挑戦してみます!」  のぼるの晴れやかな笑顔に、美夜と暁月は揃って固まった。 「待ちなさい。リベンジとかいいから、あの狸とは縁を切りなさい。何に巻き込まれるかわかったもんじゃないわ」 「趣味嗜好は個人の自由だけど、あいつはそれで人間を陥れるのを躊躇しない危険生物だからね? 人間の倫理が通じる相手じゃないよ?」 「え。でも、そういう物語に救いを感じる子もいると思うし……  それに十五さん、いい人でしたよ?」 「のぼる……」  のほほんと笑うのぼるに、美夜のこめかみが引き攣り、暁月が耳を押さえ、ドーリィがこめかみを抑える。  美夜の金切り声の説教が轟く中、のぼるのスケッチブックは窓から降り注ぐ陽射しを浴びて、白いドレスの姫君は青空の広がる草原を悠々と歩いていた。
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記録No.■■■:雨に陽だまり

「あ……?」  雲一つない青空の下で、サニーは目を覚ました。快晴の原っぱに、ぽつんと寝そべっている。  わけがわからず、ひとり立ち上がる。どうしてここにいるのか。目覚める前、何をしていたのか。  ひとつも思い出せずに、サニーは飛び込んでくる景色に目を奪われた。  風が吹いて、頬を撫でる。まばゆい陽射しが暖かい。  花の匂いがする。夢見た情景に、一歩踏み出す。  草の柔らかな踏み心地に浮き足だったサニーは、草原の向こうに懐かしい笑顔を見つけた。  加齢で弛んだ頬の、柔らかな笑顔。丁寧に編み込んだ、洒落た髪。サニーを撫でる、優しい手のひら。 「ちなつ……」  沸き立つ感情のまま駆け寄ろうとして、サニーは立ち止まった。  千夏が笑顔を向けているのはサニーではなく、千夏の隣にいる少女だった。  会ったことはないが、知っている。名前も。その笑顔も。  千夏の娘が、嬉しそうに、幸せそうに、母に甘え、笑っている。  幸せそうな母娘の間に、サニーが入る隙間はない。  サニーは一歩後ずさり、自分の姿を見下ろした。  返り血を浴びた、薄汚れた白衣。泥だらけでボロボロの素足。千夏の夫を殺した、荒れた手のひら。  ああ。サニーは顔を覆った。自分はシミだ。そう悟る。この美しい世界を汚す、醜い汚点。寒気が胸の奥からやって来る。  ここに来てはいけなかった。夢見た世界に、自分の居場所はなかった。  消えてしまおう。この世界を汚してしまう前に。大好きな人たちを傷つける前に。  それでも、最期に一目と、サニーは顔を上げた。  千夏の娘と、目が合った。 「「あ……」」  ふたりして口を開けて。  それから、千夏の娘は。  輝くように、笑った。あの暗い通路の先で見つけた、光のような。  娘がサニーのところまで駆けてくる。手を振りながら、一生懸命に。  逃げることも、避けることもできず、サニーは手を握られた。  自分よりずっと背が低い少女が、陽だまりのような笑顔で告げる。 「初めましてっ。わたし、雨月!  ずっと、ずっとあなたに会いたかったのっ!」  ぶんぶんと両手を上下に振られ、サニーは戸惑った。  会いたかったって、そんなはずはない。サニーと雨月に、生前の接点はない。  そのはずなのに、雨月の潤んだ目が、強く握られた手が、火傷しそうなほど強い鼓動が、否定を蹴飛ばした。  腕を引かれるまま、導かれるように頷いて、返事をする。 「はじめ、まして」  嗚咽が漏れる。体の中に溜まった澱が、流れ出ていく。  心臓を鼓動が叩く。強く、強く。言葉が転げ出る。 「わた、し、サニー。  わたし、も、あなたに、ずっと、会いたかった」  会いたかった。ずっと、会ってみたかった。  会わせてあげたかった。千夏に。時雨に。  わたしにそんな力があったら、きっと、何もかもを救えていた。  そんなことはいいのだと、背中を叩くように抱きしめられる。  言葉を失う。膝から崩れ落ちて、強く抱き合う。  向こうから、千夏が駆けてくる。雨月と同じように、泣きそうな笑顔で。  名前を呼ばれる。雨垂れのような涙が頬を伝う。景色が滲んで、何も見えなくなる。  初めて出会った女の子に支えてもらって、サニーは彼女とふたり、おいおいと泣きじゃくった。  涙は熱く、陽だまりのように熱く、雨のように止め処なく、産声のように高らかに、少女たちの泣き声は青空を超えて、遠く、遠く、どこまでもどこまでも渡っていく。  それは絵本作家の描いた夢物語。深く暗い地の底で、青空の下を自由に歩く夢を見た、蛇の姫君の物語。  彼女の救いを夢見た者たちが、晴れた空に垣間見た、遠く、暖かな御伽噺だ。
エンディング/画:むらさめ前線