記録執筆現場
人のいなくなった地下研究所を、暁月はのんびりと歩いていた。兎の耳をぴょこぴょこ揺らして、廃墟の静寂を堪能する。
端末にもらった資料を表示して、廃墟になる前の景色を確認する。そうすることで、ここで人が生きて暮らしていた実感が深まる。
ついでに、神連の資料から消した悪事の痕跡がないか探そうとも思っていたのだが。
(そういうのはなさそうだね。
ま、神連が本気で隠蔽したら僕ごときに見破れるとも思えないけど……この場合は、そういうことじゃなさそうだ)
狂気に堕ちた学者の倫理を忘れた実験と形容するには、実態があまりに憐れだった。
暁月も漢方医だった先代主人の助手を勤めていた身の上、自分などよりずっと真摯に薬学に打ち込んできた人物を卑小に思うのは、忍びなかったが。
『暁月さん、ちょっとよろしいですか?』
「ん、どうしたの?」
通信端末に着信が来て、美夜といるはずの神形の女性に呼ばれ、暁月は踵を返した。
『四方木さんが、ちょっと……』
どうやら、困ったことになったらしい。
* * *
「しね。しね。しね。しね。しねしねしねしねしんじまえくずがくずがくずがくずがごみくずどもが」
「……あー。久々になったな」
ブツブツと呟きながら床に広げたノートへ一心不乱にペンを走らせる美夜の形相に、暁月は額を押さえた。
別行動は美夜から言い出したことだが、やはり傍を離れるべきではなかったか。
「キャパオーバーするとこうなる、というか、本当にそうなるのを回避するための防御反応だから、まあ、見た目よりは元気だよ。自覚的な奇行だから」
「何も大丈夫に聞こえないのですが」
神形の心配そうな声に、暁月は苦笑した。美夜が書いては破って重石を乗せて机に並べているメモを、横から覗き込む。
「この研究所にいた研究員、視察に来たことのあるパトロン……とにかくムカついた人の末路を片っ端から聴いてるみたい。
神連が欲しがってたのって、コレ?」
美夜の《遠耳》は少し特殊で、美夜の興味と霊感が許す限りの過去を聴く。神連にも過去視や降霊術の使い手はいるだろうにわざわざ部外者の美夜を呼んだのだから、何かあるのかとは思っていたが。
「情報を漏らさないために自分から記憶喪失になって、プロフィールも偽装だった研究員がいたんですよ。
神連に所属している人の術は対策されてましたから、四方木さんなら意表を突けるかもと期待してました」
「身内の不祥事はタチが悪いねぇ」
美夜はガリガリとペンを走らせてる。手に負担がかかるから筆圧が高いのは矯正さようとしているのだが、こういうときは素が出てしまうものだ。
さてどうしたものかと思っていると、予想より早く美夜は手を止めた。くるりと振り返り、床に並べたメモを指さして、宣う。
「あっぴゃー」
「「…………」」
「もっけー!」
「「…………」」
「ぷろろー」
「うん、わかったから、ちょっと寝ようね、美夜」
「むっきょん!」
すっと立ち上がった神形が素早く寝袋を運んできてくれる。
感謝しつつ暁月は美夜の手を引いて、リボンをほどき、用意された寝袋に入らせた。大人しく目蓋を閉じるのを待って、持参した電気ホットアイマスクを装着させ、スイッチを押す。
ものの数秒で寝息を立て始めた美夜に溜め息を吐くと、暁月は美夜が並べたメモを回収した神形といっしょに、部屋の入口に移動した。
「今のは……」
「疲れると言葉をしゃべるのが億劫になるだけだよ。さっきも言ったけど、自覚的に変なことしてストレス解消してるだけだから」
「ですから、それは大丈夫ではないのでは……?」
「本当に危ないときは何も喋らなくなるから、変なことしてるうちは平気。
美夜が寝てるうちに確認したいんだけど、この件って丸ごと詐欺だったの?」
「……そう思われますか?」
美夜のほうをちらりと見て、神形は問い返した。立場上回答できないだろうなと察しながら、暁月は憶測を並べ立てた。
「神形がバックに付いていたにしては、加賀 時雨の研究は的外れだ。霊地の深部で、力のある蛇を集めて、呪いを帯びた毒で殺す。感情を混じえない冷徹なアプローチなだけに、『物語』が足りない。
僕なら、そうだな、この規模だと……研究班を三つに分けて、それぞれ担当の蛇を決めさせて、名前と逸話を考えさせて、蛇神に仕立てる。
その上で互いに争わせるね。誰が一番素晴らしい神かとか煽って。こんな閉鎖的な環境、信仰を芽生えさせるにはもってこいだもの。
蛇を殺すならその後。データでは表せない愛情、悲嘆、信仰が、神を生み出す土壌になる。それでも成功率は低いだろうけど……
倫理を無視した空論だからね? 念のため言っておくけど」
「はい、わかってますよ。興味深いです」
本当に楽しそうな神形の声に、暁月は頭の耳を伏せた。
「この研究は、最初から失敗させるためのハリボテだった。
各地の憑神になりうる蛇を確保して、始末する名目。
神凪に送り込まれたスパイに掴ませる偽情報。
欲望で憑神を狙う権力者を釣る餌。
加賀 時雨は、そのための看板。自覚のない道化だった」
「救いのない話ですね」
あくまで暁月の仮説に対するスタンスとして、神形は相槌を打った。
本当のところはわからないし、暁月としてもあまり興味はない。今の推測が真相を掠めていたとしても、それすらここに渦巻いた無数の策謀の一端に過ぎないかもしれない。
ただ、サニーが憐れだった。この研究所が生み出せた唯一の憑神。彼女がいたから実験は続けられた。ひとつ創れたならまた次もと、愚か者たちが群がった。
仮に新たな蛇神を生み出せたとしても、恐らくその蛇はサニーと結びつき、合わせて一柱の憑神となっただろう。
その程度のこともわからなかった者たちを焼き払う誘蛾灯が、この研究所だった。
「……暁月さん、四方木さんと神連に入りません? 歓迎しますよ?」
「それ、美夜にも言ってたでしょ。遠慮するよ。
己を捨て、人の世のため身命を賭すのが真っ当な神連でしょう? その在り方に文句をつけるつもりはないけど、僕らには苛烈すぎる。
そこまでの覚悟は持てないよ」
「おなじくぅ」
眠そうに返事をした美夜が、億劫そうにアイマスクを外して身を起こす。声は潜めていたのだが、興味の惹かれた雑談を《遠耳》が拾ってしまったらしい。
「起こしちゃった? ごめんごめん。もう少し寝ときなよ。寝すぎないタイミングで起こすからさ」
「んぅぅ、そうするぅ」
眠そうに顔をしかめながら、美夜が再び横になり、すぐに寝息を立て始める。
暁月は黒兎の姿になり、その傍らに寄り添った。寝袋からはみ出た美夜の手が夢現に暁月に触れ、すべすべの毛並みに寝顔が安らかになる。
それを眺めながら、神形は小声で囁いた。
「無辜の人々の死に憤り、呪祖蛇に立ち向かった人がそんなことを仰っても、説得力がありませんよ。四方木さん」
暁月は聞こえていたのか聞かないふりをしたのか、耳をわずかに揺らしただけだった。
記録No.295:蛇の縄
加賀 時雨を殺す。
その決意を胸に、サニーは情報を集め続けた。
「D-0032。付いて来い」
「はい」
空虚な薄ら笑いを貼り付けて、くねくねと曲がる廊下を従順に時雨の背中に付き従う。ポケットに切っ先の鋭いペンを忍ばせて。
これで、時雨の首を刺す。そう心に決めて、チャンスを窺う。時雨の背中は隙だらけだ。警戒してない。いつでも刺せる。
いや、刺せなくてもいい。わざとぶつかる。蹴る。こっそりはぐれる──
「今日のスケジュールは?」
「……遅効性の毒を投与したD-0632の経過観察と、午後は15時にスポンサーが到着するので、それに合わせて0500番台の降霊実験を行う予定です」
どれも実行に移せないまま、会議室に到着した。真っ白な部屋で、白衣を着た研究員たちが一斉に振り返る。
「おはようございます、所長。サニーも」
「おはようございます、皆さん」
無愛想な時雨に代わり素知らぬ顔で挨拶しながら、サニーは思考を巡らせた。
さっきの試行は、体が動かなかった。見えない手に抑えられているみたいに。
頭の中で付箋を貼る。
(ルール:D-0032は助手として主人に尽くさねばならない。
主人の不利益になる行動――実験の妨害、権能の拒否、主人に危害を加える、など――は、全面的に禁止する)
時雨の念入りな命令のせいで、直接的な加害行為はできない。驚かせるだけのイタズラさえ。明言された命令に逆らうこともできなかった。
「サニー、昨日は大丈夫だったか? 俺たちが帰った後もずっと作業してたんだろ?」
「平気ですよ、慣れてますから。皆さんはよく休まれましたか?」
「ああ。悪いな、今度埋め合わせするよ。何か頼みたいことはないか?」
(じゃあ、加賀 時雨を殺してください)
その願いも、口に出せなかった。他者に危害を依頼することも禁止。判明したルールを記憶する。
代わりにサニーがいつもしている資料の整理と、研究員に任されていた被検体のバイタルチェックを交換する。また付箋を貼る。直接命じられておらず、助手の仕事の範疇なら、業務の変更は可能。
一つずつ検証していく。自分に何ができて、何ができないのか。残された自由を探り、時雨を殺す方法を模索する。
「D-0032。飲め」
月に一度の、吸血の時間。医務室で時雨の腕から伸びたチューブを受け取り、口に咥えると、サニーは従順に舌を丸めて赤い血を啜った。
不味い。錆びた生臭さが口いっぱいに広がるのをこらえて、頬に溜める。指定された200mlに達したところで、指が勝手にチューブをロックした。
吐き出したい気持ちを無視して、喉が時雨の血を嚥下する。苦くて渋くて生温かい汚物が、喉に絡みながら食道に落ちて、澱となってサニーの胃の腑にわだかまった。
「ご苦労。片付けておけ」
つつがなく注射器を外し、時雨が去っていく。口内に残る血臭が、サニーの敗北感を強めた。
血を吐き捨てることも、注射器に工作することもできなかった。チューブから口を離した体が、従順に片付けを始める。
権能周りの命令は特に厳重だ。そんなに長く生きたいのか。仲間たちの、千夏の命を奪っておいて。
(……次)
端末で研究所の間取りを確認する。サニーに与えられた権限は制限が強いが、助手として設備を扱う許可を与えられている。
この地下研究所は山奥の洞窟に建てられているらしい。全体の構造は蛇の巣に似ている。蛇神を孕む神殿というデザインだ。
外に出ることはできない。出入り口は知っているが、サニーのカードキーでは出口は開かないし、他人のカードキーを盗んだり、出入りする人間にまぎれてこっそり出ようとしても、時雨を攻撃しようとしたときのように体が動かない。
(ルール:D-0032は外出してはならない。所長の許可が降りない場所に行ってはならない)
研究所のセキュリティをチェックする。監視カメラの位置。警備員の巡回ルート。いつ、どこで、何を、誰が見ているのか。
管理システムを止める。できない。こっそり、遅延が起きるようにする。できない。普段は支障がないが、緊急時に穴が開くように。ダメだ。
画面とにらめっこしている間に、警備員の巡回ルートに穴を見つけた。
考えるより先に、通りがかった警備員を呼び止める。
「すみません。
ここなんですけど、この時間、このルートが死角にならないですか?」
「あー、本当だな。ありがとう、今度会議にかけておくよ」
「いえ」
口が、勝手に動いた。憤りを顔に出さないよう苦心する。可能性を黙っておくこともできない。
(ルール:D-0032は研究の不利益を看過できない。その発展と守護に誠実に取り組まねばならない)
一見抜け道の多そうな曖昧な命令が、逆らえない指針となってサニーを縛る。
居住スペースなら外部とネット回線が繋がるが、眠らずに働けるサニーに部屋は用意されていない。出入りまでは禁じられていないが、電話もメールもSNSも、命令で使えない。
人に頼もうにも無理だった。千夏亡き後は不必要に外の情報を調べないよう厳命され、職員にも周知が徹底された。外部の業者への連絡は他のスタッフの仕事で、サニーが関わることは禁じられている。
(ルール:D-0032は所長の許可の降りない情報にアクセスしてはならない。外部の人間と会話してはならない)
ゴミに手紙を忍ばせる。できない。暗号。これもダメ。細切れで、どうせ通じないものなら……それでもダメだ。
自分を騙せないと、命令も騙せない。
「雨月さんの遺体が、所長の部屋に?」
「ああ、ビックリだよな。
龍の憑神を作るのが最終目標なのは知ってたけど、あの所長がそこまで娘さんを、なぁ……」
研究員の雑談を盗み聞きしながら、これは使えるかもしれないと考える。時雨の、最も大切な存在が、時雨の私室にある。
サニーに入る権限は与えられていないが、チャンスがあれば……
(何をするの? 千夏のだいじな娘に)
「必要なことをするよ。どんなことでも」
霊安室で膝を抱えて、サニーは本音をこぼした。
自室がなく、千夏が泊めてくれることもなくなったサニーが、独りになれる場所。蛇の呪いを恐れてスタッフは近寄らず、清掃員もサニーが代行を申し出たら即座に頷いた。
背信を悟らせぬマルチタスクから解放され、復讐に集中できる時間。千夏がいなくなり、花が飾られることもなくなった霊安室は、孵化することなく死んだ卵のように寒々しい。冷えた空調も、今のサニーには似合いだった。
雨月は、利用できる。彼女が、時雨の弱点だ。どうにかして、人質にできたら。時雨を抑えられるかもしれない。
壁際の床を撫でる。千夏は外に運ばれ埋葬されたと、サニーに友好的な職員が教えてくれた。
仲間の亡骸を外に運ぶ千夏を、出口の前で見送った日を思い出す。「せめてお墓に埋めてあげたいの」と、千夏は言っていた。サニーが「お墓参りしたい」と訴えると、「いつかきっとね」と指切りを教えてくれて……
復讐を果たせても、雨月は千夏の元に帰らない。千夏はひとりぼっちで墓に入れられた。雨月は時雨と同じ墓に入る。時雨がそう決めたから。
「ゆるさない……」
呻く。胸を刺す冷たい火が、思考を巡らせる。考えろ。加賀 時雨を出し抜く方法を。
きっとある。憑神は主人の命令に逆らえないが、こうも執拗に命じて行動を縛るのは、そうしなければ反逆される恐れがあるからだ。
時雨の想定していない抜け道が、きっとある。実を結ばない実験がそれを証明している。自分しか信用せず、自分の考えに固執する時雨の思考は硬直している。その死角を見つければ、きっと。
『D-0032。D-0645の実験を行う。来い』
「……了解しました」
通信機からの命令に、サニーは項垂れながら立ち上がった。部屋の中央──無造作に積まれた檻と、放置された亡骸が目に入る。
ゆるして。時雨の命令で殺した仲間たちにか細く詫びて、サニーは実験室に向かった。
【記録中断】
* * *
補筆
協力者の心身を鑑みて、実験内容については主観記録を断念し、客観的記録を記す。
この時期、研究所の雰囲気は悪化の一途を辿っていた。成功例は一向に増えず、加賀 時雨は自分の鬱憤を晴らすように実験を残虐なものにしていった。
清掃や調理などの生活を担うスタッフを統率していた加賀 千夏が亡くなったことで、研究所全体の生活水準も低下していった。人員は補充されず、食事は栄養剤で賄われ、白衣は薄汚れても許容され、澱んだ臭いが溜まっていった。
最初の成功体に早々と名を与え独占した時雨に、職員やパトロンの不満も溜まっていった。サニーの権能は主人の血を飲むことで寿命を伸ばす。彼女が延命できるのは、主人である時雨だけ。
サニーの自覚は薄かったが、この状況で貼り付いたような笑顔を絶やさないサニーは、好意的だった職員からも不気味に思われていった。
誰もが孤立を深め、敵意と悪意を深めていく。
研究所の破綻は時間の問題だったが、実際には、それは外部から訪れた、一羽のカササギによってもたらされた。
【記録再開】
記録No.320:星降る朝
無機質で寒々しい研究所に、唯一残された暖かな場所。固く閉ざされたドアをカードキーで開けて、続くガラスの隔壁をポケットの鍵で開くと、サニーは湿った空気を頬に浴びて目を細めた。
「ここも、寂しくなったね」
蛇に心地よい暖房に、床に敷いたペットシーツ。昼間は眩しく夜間は薄暗くなる照明。仲間たちが水浴びできるようたっぷり水を入れたプール。体を巻き付けて遊べる登り木。とぐろを巻いて休めるシェルター。
最初は実験体を檻に入れて放置するだけだった飼育室は、千夏の助けを借りたサニーの尽力で居心地の良い住まいになっていた。実験前にストレスで死んだら正確なデータが得られないと主張すれば、呆気なく許可は降りた。サニーが叶えられた、数少ない望みだ。
他にも協力してくれていた飼育スタッフは、過酷な実験に抗議していなくなったが……今はサニーひとりで足りるほど、仲間たちの数も少なくなってしまった。
「ただいま。コハル、ムロロ」
ガラス戸を閉めて手を振ると、水浴びをしていたアミメニシキヘビのD-0586――コハルと、部屋の隅でとぐろを巻いていたサニーと同じマツゲハブのD-0666――ムロロが、揃って鎌首をもたげた。
以前は慎重に暦を選んでいた実験は毎週のように行われるようになり、仲間たちはどんどん数を減らし、予算が降りず補充もされなくなった。
この二匹は、特に期待され温存されている個体だ。全長が7メートルを超えるコハルは大きく賢く、サニーの通訳抜きでも人語を理解しているような仕草を見せる。ムロロは20センチほどで孵化したばかりだが、唯一の成功例であるサニーと同じ種というだけで期待されていた。
そこまで堕ちたか。サニーは昏く嘲った。
経験則という名の験担ぎに縋るほど、時雨は追い詰められている。少しずつ、少しずつ、サニーは命令の穴を突くことに成功していた。
大したことはしていない。例えば、研究員の時雨への不満に相槌を打ち、肯定する。
『所長もズルいよな。さっさと成功体をモノにしちゃってさ。
あっ……悪い、サニー』
『いえ、いいんです。わたしも、他の人が主人だったらって思うこと、ありますから』
時雨からの指示を伝える際に、虚偽ではない程度に険を混ぜる。
『所長から、"早く"準備しろとお達しです。"かなり苛ついている"様子でした』
毒が回るように、研究所の雰囲気は悪化していった。サニーは何ら命令に背いていない。そもそもこの事態を招いたのは、時雨が無能だからだ。
助手として、サニーは何度も警告しようとした。この実験には何かが足りないと。耳を貸さなかったのは時雨だ。自分が、畜生風情に誤りを指摘されていると、認めたくなかったから。
それが強い望みを持って門外漢の道に入り込み、成果を上げ、思惑があったとはいえ認められてきた男のプライドとは、サニーには察せられなかった。そんな経験はなかったし、義理もない。
だから地の底で蛇神は嗤う。自らの尾を食み自滅する人の子の愚かさを、至高の頭脳で嘲笑う。
だけど、まだ足りない。己の前歯から伸びる牙にサニーは触れた。使ったことはないが、本能と知識で、これが人間を殺傷しうる毒だと知っていた。
叶うなら、この牙を時雨に突き立てたい。何かないのか。何か……
「あ……」
プールから上がったコハルが、舌を伸ばしてサニーの頬を舐めた。乾いた頬が湿り気を帯びる。
濡れた巨体がサニーに巻き付いて、ぎゅっと締めつけてくる。千夏に抱きしめられたときのことを思い出して、サニーはコハルの鱗に手を伸ばした。すべすべとした感触と、その奥の筋肉の力強さに吐息を漏らす。
コハルの黄と白の網目模様は、資料に残るサニーの鱗に似ていて、千夏に読んでもらった絵本のたんぽぽが目に浮かんだ。サニーの色に似ていると、千夏が笑っていた……
コハルばかりズルいと言うように、ムロロが尾を伸ばしてくる。
「ごめん」と謝って手を差し出すと、指にぎゅっと強く巻きつかれて苦笑する。寂しがり屋で、ヤキモチ焼きの子だ。
ムロロの鱗はコハルより色濃く、食堂で食べたみかんを思い出させた。千夏に剥いてもらって口にした、瑞々しい食感を心で味わう。
コハルもムロロも雌だ。千夏がいたら「三姉妹ね」と笑ったかもしれない。過ぎ去った思い出に、サニーは冷えた心を自覚した。
蛇は人に馴れることも同族で群れることもないと言うが、仲間たちはサニーに良く懐いた。仲間たちの言いたいことがサニーにはなんとなくわかったし、仲間たちもサニーの言葉をよく聞いてくれた。
管理がしやすいと、時雨はサニーが研究助手の傍ら仲間たちの世話を焼くのを許可して……サニーに仲間たちを殺す手伝いをさせた。
(ゆるさない)
仲間たちの前では考えないようにしていた憎悪が噴きこぼれる。無意味に死んだ、663の同胞。千夏。もう何一つ奪わせないと誓ってからも、多くの仲間が無為に殺され、サニーもその片棒を担いできた。
実験を止めることも、仲間たちを逃がすことも、サニーにはできなかった。心で「逃げて」と訴えても、口は「逃げちゃダメだよ」と囁く。仲間たちはサニーに従い逃げようとせず、毒を打たれる最期まで、サニーを信じ続けた。
『D-0032。第一研究室へ来い』
「……はい」
通信機からの連絡に、サニーはコハルの鱗を撫でた。サニーの意を察したコハルがサニーから剥がれ、ムロロも名残り惜しげにしながら離れていく。
湿った白衣のまま部屋を出る。隔壁を開けっ放しにしたいと思いながら、いつものようにそれは叶わず、元通りに鍵を閉めて、ガラス越しに手を振った。
せめて、この子たちだけでも。閉まったドアに後ろ髪を引かれながら、研究室へ向かう。
(大丈夫。実験が再開される兆候はない。今日は贄を捧げる手順の見直しと、過去の文献のチェックのはず)
焦燥を宥めながら廊下のカーブを曲がったサニーは、向かい側を歩く警備員に会釈して、違和感を覚えた。
頭の中で画像を検索する。つい先日、ようやく補充された新規の警備員の一人だ。
背はサニーと同じくらい。黒髪で片目を隠し、細身で陰気だが、剣呑な雰囲気は確かに荒事に慣れていそうな……
サニーは足を止めた。今まで見過ごしてきた、あの警備員の動きを思い返す。
巡回ルートを確認する動き。監視カメラの位置を確かめる動き。一見すると警備員として真っ当な、だが、同じ目的で動いたことのあるサニーにはわかった。
他の新入りの記憶も洗い出す。一人ひとりは偶然や気のせいで済まされる範疇。だけど、全員の動きを組み合わせれば──間違いない。
彼らは警備員じゃない。潜入した目的は、この研究所の制圧だ。
(しまった)
希望が胸に瞬いたのは一瞬。己の迂闊さにサニーは奥歯を噛んだ。
(ルール:D-0032は研究の不利益を看過できない。その発展と守護に誠実に取り組まねばならない)
危機を察知した以上、それを報告せねばならない。通信機に伸びそうになる手を抑えつけ、だが研究室に向かう足は止められなかった。
何かないのか。何か。襲撃を上手く行かせる、何か。
カードキーを差し込むと、いつものようにランプが青く点灯し、滞りなく扉が開いた。
白蛇がとぐろを巻いているような円い部屋に、時雨がいる。その傍らには研究員たち。壁際に新米の警備員と、古株の警備隊長。
サニーは、とびっきりの笑顔を浮かべた。
「おはようございます! すみませんっ、ちょっと良いですか?」
古株の警備隊長の元へ小走りに向かう。見えない手が命じる衝動を、己の意志で書き換える。
「この間はペンを届けていただきありがとうございましたっ。紛失物の報告届けは面倒なので助かりましたっ。それで、」
「D-0032。無駄口はやめろ」
時雨の命令に、まだ動こうとする舌を巧みに縺れさせる。
「無駄口じゃないですよ。お礼は大事ですし、それに」
「黙れ。聞こえなかったか?」
今度こそ素直に黙り、サニーは勢いよく頭を下げて表情を隠した。喜悦が込み上げるのを、全霊で堪らえながら。
(わたしは、報告しようとした)
表情筋が引き攣る。叱られてしょげているように見えるよう祈りながら顔を上げて、白衣の袖で口元を隠す。
(これは命令違反じゃない。わたしは報告しようとした。
それを止めたのは、耳を貸さなかったのは、あんただ)
勝利の第一歩に、頭が痺れそうになる。期待に胸を弾ませながら、サニーは時雨の説諭に耳を澄ませるフリをした。
そのときが来るのはいつか。明日か。明後日か。来週? それとも来年?
新顔の警備員たちが秘かに交わしていた符丁、研究所全体のスケジュール、古株の警備員の出勤予定を頭で浚う。
掻き集めた情報の波から、サニーはそのときがいつか、正確に予測した。
(今だ)
さりげなく出口側に下がったサニーの目の端で、新顔の警備員がさり気なく何かを落とした。炸裂音が轟く。
白煙が悲鳴と混乱を覆った数秒間に、サニーは研究室を飛び出した。
(なんだ、これは……!)
轟音と煙に顔を覆った途端、時雨は床に組み伏せられていた。老いた筋肉が重い体にのしかかられて悲鳴を上げる。
「目標、確保!」
襲撃。その可能性は頭に入れていた。そのために警備を増員したのだ。なのに、その中に敵が。
(雨月……!)
娘の顔が脳裏に閃く。まだ終われない。もがく時雨の手が、白衣のポケットに触れた。指先に小瓶が届く。
今朝ようやく、神連から届いた毒。なんとしても実験を再開するのだと取り寄せた──娘の未来を取り戻す、そのために。
「所長!」
煙の中、警備隊長の声がした。のしかかる裏切り者の力が僅かに緩む。
その隙に、時雨はポケットの小瓶を投げた。厳重に封をされた、本来ならただ床に落ちて転がるだけだった瓶。
時雨は知る由もなかったが、その瓶は、まさにこの事態を期待した者の手で脆いガラスに替えられていた。
破砕音が響く。
溢れた瘴気が、充満する煙幕を肌身を灼く猛毒に変えた。
* * *
警報の鳴り響く先の見えない廊下を、サニーは懸命に走った。
あちこちから悲鳴が聞こえる。暴力が振りまく、恐怖の気配。
でも、長くは続かない。すぐに襲撃者が制圧を終え、サニーも捕らえられるだろう。
(あのまま研究室にいたら、この手で時雨を殺せたかもしれない)
後ろ髪を引く未練を、サニーは振り払った。時雨はもう終わりだ。今は他に、やるべきことがある。
蛇の穴をモチーフにした通路は、階段はなく坂ばかりで、横穴も多い。記憶していた新入りの配置から襲撃者の死角になるルートを計算して、なんとか見つからずに目的地に着く。
仲間たちの閉じ込められた扉に、サニーは立ち止まらずにカードキーを差し込んだ。
(お願い、開いて……!)
永遠にも思えた瞬きの後、扉が青く点灯する。
「みんな……!」
間に合った。ガラスの隔壁に駆け寄って、ずっとポケットに忍ばせていた鍵を取り出す。
ここを開け放ったままにして、仲間を逃したいと思っても、叶わなかった。今までは。
(今は緊急事態、襲撃者の目的はわからない、希少な被検体を逃がすのは、助手の役割!)
念じながら鍵を差し込んで、捻る。ガラス戸を開け放った瞬間、サニーは鍵を放り捨てた。
「やった……!」
捨てられた。寄ってきたコハルがサニーの頬を舐めて、ムロロが腕に絡みつく。
サニーも喜びを分かち合いたかったが、時間がなかった。
「みんな、すぐに外に逃げて。研究所を襲ってる奴らに捕まったら、また実験台にされるかもしれない」
言いながら不安に駆られる。連中の目的はわからない。捕まっても、手厚く保護されるかもしれない。外に出ても、危険視されて殺されるかもしれない。
正解なんてわからない。でも、仲間が閉じ込められるのは、もう嫌だった。
サニーの懇願に、コハルがサニーを見下ろして、くるりとサニーの胴に巻き付いた。
いつもの仕草。蛇はしないはずの親愛の表現を、サニーは疑わなかった。
「何してるの、ダメだよ。今のうちに逃げなきゃ、また……」
ムロロが、腕をぎゅっとしてくる。「サニーは?」と、尋ねるように。
「わたしは、ダメだよ」
まだすることがある。仲間を逃したら、引き返して、時雨を。仇を。
叶わないかもしれない。その公算が高い。途中でサニーも捕まるか、時雨を見つけても命令に逆らえず、そのまま終わるだろう。
それでも、諦められない。
だって、サニーは。
「わたしはどうせ、自由になれないから」
外に出たかった。晴れた空を見たかった。自分の足で、映像でしか見たことのない町を歩いてみたかった。自由を手にしてみたかった。
だけど、サニーは蛇だ。人の形をした蛇が、人の世界に受け入れてもらえるはずがない。
(──ちがう)
優しい人だっているのを、サニーは知っている。研究所のスタッフだって、千夏の他にも、親切にしてくれた人はいた。でも、そんな彼らの優しさを受け取る資格が、サニーにはなかった。
時雨に復讐するため、サニーは千夏に教わった道徳を捨てた。復讐のため、千夏の愛した人を貶めようと全霊を尽くした。
いつか夢見た暖かな自由は、もう届かない。永遠に触れることはないのだと、あきらめてしまった。
「だから、せめて、みんなは」
コハルが尾をうねらせる。だだっ広い部屋を指し示すような仕草に、サニーは飼育室を見渡した。
コハルが遊ぶには細すぎる登り木、拡張したプール、空っぽのままのシェルターに、思い出が蘇る。
D-0098。自分の体より大きい肉をペロリと平らげた、食いしん坊なアオダイショウのクーハ。
D-0111……頭に冠みたいなコブのあった、クールなコブラのトリワン。彼に恋してたD-0105、マムシのモモコ。
D-0277とD-0278。胴体を共有する仲の悪い双子のシマヘビ、ニーナとニーハ。
目が三つあったアナコンダ、D-0389ミャク。触れると温かかったウミヘビ、D-0440シシオ―。
他にも大勢、ここには仲間がいた。
みんな死んでしまった。きっと生き返らせると誓ったのに、サニーはあきらめてしまった。
「ごめんなさい……」
泣くことさえ、もう赦されない。何一つ取り戻せない。償えない。なかったことにはできない。
だからせめて、あの男を殺したい。
『D-0032。応答しろ』
ポケットに入れっぱなしだった通信機から響いた声に、考えるより先に口が開いた。
「はい。こちらD-0032」
『よし、無事だな。私の部屋の奥に、ケースがある。パスワードは……』
途切れ途切れの時雨の声は聞き取りづらかったが、8桁のパスワードは覚えるに容易かった。サニーも目にしたことのある数字だ。
雨月の生年月日。失われた歳月を数えるように、時雨はそれを口にした。
『中に、雨月がいる。守れ。
私の部屋の、ダストシュートから、隠し通路に行ける。おまえのカードでも開けられるようにしておいた。繋がっている部屋は……』
頭の中で、ルートを検索する。資料室。霊安室。それに、サニーたちがいる飼育室。
「私は、霊安室にいる。雨月を、傷一つ付けずに、連れて来い。
命令だ。わかったな?」
「はい……」
頷く自分の声を、サニーは他人事のように聞いていた。通信が切れる。
聴こえてきた時雨の声は、呼吸が不安定だった。自分で雨月を連れて脱出する余裕がないのだ。でなければ、サニーに娘を預けたりしない。
降って湧いたチャンスに、力が漲る。急いで隠し通路を探す。あるとわかっていれば、見つけるのは容易かった。
曲線を描く壁に一箇所、直線の輪郭がある。隠されていた差込口にカードキーを挿すと、壁がスライドして、暗い通路が姿を現した。乾いた空気が頬を撫でる。
コハルとムロロがサニーに絡みつく。手を繋ぐように。
ようやく彼らの気持ちがわかって、サニーは頷いた。
「うん、うん……わかった。
いっしょに、みんなの敵を討とう」
暗闇に足を踏み出そうとした瞬間、背後で扉が開く音がした。
振り返る。
「加賀 時雨の憑神だな?」
前髪で片目を隠した陰気な警備員が、矛を手に、ガラス越しにサニーを睨んだ。
空気を震わせる威嚇音を上げ、コハルが鎌首を振り上げた。
止めようとして、サニーは気づいた。コハルはそんなこと求めてない。
ムロロを手に、暗い通路へ駆ける。
「コハル、後でねっ。きっと、きっとだよ!」
「逃がすか」
遠ざかる足音を追いかけようと、ガラス戸から一歩前に踏み出して、男は──カササギの憑神・深夜は背に翼を広げて跳躍した。大蛇の牙が脇を掠めるのを無視して天井を駆け、白衣の背中が消えた通路を目指す。
後ろにいたはずの大蛇と目が合った。
「ッ!!」
高度を落としながら身を捻る。大蛇が尻尾ではたき落としたライトが、深夜がいた空間を通り過ぎた。
降って湧いた暗闇に、深夜は唇を噛んだ。深夜は夜目が利く体質だが、大蛇は聴覚や嗅覚、ピット器官による熱感知で闇を見通してくる。
この部屋は大蛇の縄張り。室内では深夜の飛翔は制限され、大蛇のほうは空間すべてに体を届かせられる。壁を背にしなければ後ろも警戒せねばならず、かといって飛び回っていないといつか捕まる。深夜の隠形は独学で、臨戦状態の獣に視認されながら騙せるほど熟達していない。
完全に予想外の強敵だった。戦況に思考を巡らせながら、朧な影を頼りに羽ばたく。暗闇を縦横無尽に駆けしっかりと深夜を捕捉する大蛇からは、ここは通さないという強い意志を感じた。
ただの獣じゃない。あの憑神の霊能か、この大蛇の特性か。
いずれにせよ、深夜とて退けない。
(深夜。ガラスを拾ってきておくれ。おまえの羽のように、深く、青い……星空のような……)
あの悲しみを、二度と繰り返させない。そのために。
「憑神はすべて殺す」
登り木を盾に旋回する。向かってくる大蛇の首を待ち構え、深夜は矛を構えた。
飛んできた水飛沫が、深夜の目を塞いだ。
「ギャッ!?」
尾で殴られ、天地を失う。意地で目を見開く。
迫りくる牙に向けて、深夜は発煙筒を投擲した。炸裂音と刺激臭が大蛇の知覚を遮る。
煙で深夜を見失った大蛇が、警戒して奥の隠し通路に陣取った。大蛇が戦うのは深夜を倒すためではない。その先へ駆けて行った仲間を守るためだ。
だから深夜は、蛇の死角となった隠し通路を背に、その首の根めがけて矛を突き立てた。
のたうつ大蛇に弾かれ、深夜は床を転がった。口腔を開けた大蛇が素早く首を伸ばして牙を剥く。
それが届く前に、矛に塗られた毒が大蛇から力を奪った。失速した首が地面に倒れ伏し、仲間を狙う敵を無力に見失う。
鱗を撫でる細い指も、絡まる髪の香りも、強がって無理に弾ませた声すらも、大蛇の意識から失われていく。
「……終わったか」
痛む体を押さえて立ち上がり、大蛇が息絶えたのを確認して、深夜は矛を回収した。
危うい勝利だった。煙幕を投じた隙に隠形が成功していなければ、この大蛇が狩りに不慣れでなければ、返り討ちに遭っていただろう。
最後まで仲間を守ろうと足掻いた亡骸に、ほんのわずかに瞑目して、深夜は通路の奥を目指し駆け出した。
これも憑神の招いた悲劇なのだと、己に言い聞かせながら。
空っぽの霊安室で、時雨は壁にもたれ、傷だらけの体を休めていた。
皮膚は爛れ、手足の感覚が鈍い。辛うじて霊安室の入り口は閉ざしたが、鼻も口も灼けて、呼吸するたびに痛みが走り、意識をぼやけさせる。
暑い。空調が止まった密室に熱が籠っていく。それとも、熱が籠っているのは、時雨の体のほうか。
(雨月……)
その名を思い浮かべるだけで、力が湧いてくる。無論、時雨が研究室から脱出できたのは、神憑きゆえに呪毒に耐性があったからだろうが。
散々苛つかされたが、ようやく、あの憑神が役立つときが来た。
白い壁がスライドして、隠し扉が開く。現れたD−0032が横抱きにする娘の姿に、時雨は爛れた顔を綻ばせた。
「雨月」
D−0032が怯えて後ずさる。娘と距離が離れたのに、時雨は怒りを覚えた。
「雨月は私が運ぶ。行くぞ」
「お断りします」
何が起きたかわからず、時雨は怒るのも忘れ、D−0032の顔を見た。
怯えているか、ヘラヘラしているか、緊張で顔を白くしているか。そのどれかの、気弱な印象だった小娘が、眼鏡の奥から強く、時雨を睨みつけていた。
「今のあなたでは、娘さんを抱えて逃げられません。わたしに任せるべきです」
「何を……」
「あなたから下された最も優先順位の高い命令は、娘さんの保護だと判断しています。違うならそう仰ってください」
生意気な。腹が煮えるが、事実だと囁く理性もあった。呼吸が安定しない。視界が霞む。この状態で雨月を抱えて、どこまで逃げれるか。
D−0032が言葉を重ねた。強く。
「提案があります。娘さんをわたしに預けて、降伏してはいかがでしょうか」
「……図に乗るなよ」
「ここで一か八か逃亡するより、そのほうが確実です!
任せていただけるなら、あなたの研究はわたしが引き継ぎます。次の主人といっしょに、いつかきっと龍の憑神を作り、娘さんを生き返らせます。だから」
時雨は笑った。高らかに。萎えていたと思っていた力が、腹の奥から湧いてくる。
こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。テレビ番組か何かで、妻がつまらない冗談を言ったときだった気がする。娘といっしょに笑い合った。あれはいつのことだったか。
首を振り、時雨は追憶を打ち切った。愉快な気分をさせてくれた礼に、教えてやることにする。
「そういえば、おまえは知らなかったな。
憑神は人に憑く。原則として契約は生涯に渡り、主人が死んで初めて憑神は次の主人を選べる。
だが、例外がある」
「なにを……」
「十二支、ああ、これも知らないか?
とにかく、蛇の憑神は人ではなく、主人の血筋に憑く。契約は親から子に自動で受け継がれ、血筋が絶えるとそのまま消滅する。
私の子は雨月だけだ。わかるか?
雨月を復活させない限り、おまえは私が死ぬと消えるんだ」
D−0032から、表情が抜け落ちた。血の気が引いて、顔色が白衣とそう変わらなくなる。
それでも雨月を支える腕が崩れないのに、時雨は憑神の従順な性能を確認して満足を覚えた。
「わかったら、雨月を渡せ。脱出するぞ」
固まったD−0032から愛娘を受け取り、時雨は娘の寝顔を覗き込んだ。
「雨月、心配ないぞ。父さんがすぐに、安全なところに連れて行ってやるからな」
時雨が愛情を口にするのを、サニーは初めて目にした。
皮膚が焼け爛れ痛ましかったが、そこにあったのは確かに、妄執ではなく、愛しさと呼べるものだった。
「どうして……」
サニーは呻き、後ずさった。時雨が愛しげに雨月を抱きすくめるのを、黙って見守る。
その顔が驚愕に歪むのを。痛みに弛緩した腕が、最愛の娘を床に落としてしまうのを。
時雨の腕に金色の蛇、D−0666ムロロがしっかりと噛みつくのを、サニーは最後まで見届けた。
「っ……!? 貴様、まさか。
雨月の腹に、毒蛇を隠したのか!!」
「娘さんの腹が空っぽなのは、聞いていましたから」
奇声を上げた時雨がムロロを叩き落とし、音を立てて踏みつけた。何度も何度も。
ムロロの頭がへしゃげる。口を開けたまま、ムロロが動かなくなる。目と鼻から血を流して。
その勇姿を、サニーは網膜に焼きつけた。賭けだった。凍りついた雨月の腹の中で、ムロロが眠らずにいられるか。時雨に気づかれず、噛みつけるか。
ムロロはやり遂げた。成し遂げたのだ。サニーにできないことを、やってのけた。命と引き替えにして。
「どうして、静かに眠らせてあげなかったんですか。娘さんは、こんなこと望む人じゃなかったでしょう」
「雨月を、語るなと」
「わたしが語ってるのは千夏のことです! 千夏は一度だって、娘が、関係ない命をいっぱい殺して、お父さんにそんなことさせてでも生き返りたがる子だなんて、言わなかった! 娘に申し訳ないって、いつも言っていた! 耳を貸さなかったのはあなたじゃないか!!」
時雨の顔が、漂白されたように白くなった。焼け爛れていてさえ、それがわかった。今初めて、自分は時雨に、意志を持つ個人として憎まれたのだと。
震える腕で、時雨がサニーを指さした。
「死ね」
時雨の命令に、息が止まる。呼吸ができなくなる。だけど、まだ生きている。なら、死なないと。
見えない手を、サニーは拒まなかった。力尽きた時雨が、床にへたり込む。そばにある、娘の名を囁いている。腕を抑え、痙攣しながら、それでも。
時雨はもうすぐ死ぬ。ムロロは死んだだろうか。コハルは生きているだろうか。わたしも死ぬ。成すべきことを、成し遂げられたから。
サニーは、ポケットからペンを取り出した。入れっぱなしにして、忘れていた。
千夏に怒られちゃうなと笑って、サニーは首筋に、ペンを突き立てようとして、
「……あれ?」
そうする必要を感じなくて、動きが止まった。見えない手が、なくなっている。
何が起きたかわからず、力が抜ける。腰が抜けて、へたり込む。顔を上げる。
床に倒れた時雨の背に、矛が突き刺さっていた。
こちらを見下ろす、死神のような細面の男と目が合う。
「言い遺すことはあるか?」
どうしてそんなことを聞くのか。わからないまま、サニーは答えを探した。
何もない。成すべきことは成し遂げた。
千夏は死んだ。仲間たちは死んだ。ムロロも。きっとコハルも。
サニーにはもう、何もない。大切なものをみんな失って、残ったのは、ただ。
「外を……晴れた空を、見たかったな」
いつか千夏に教わった、サニーの名前の意味。それを目にしてみたかった。映像ではなく、肉眼で。この目で、体で、体験したかった。
もう叶わないことだけれど。
男はサニーを見て、時雨に視線を移し、絶命したムロロを眺め、サニーに突きつけていた矛を下ろした。
「行け」
何を言われたかわからず、サニーは目を瞬かせた。男はサニーを見つめたまま、動かない。
そろりと腰を上げる。どうして男がそんなことを言ったのか、それはわからない。けれど。
床で潰れているムロロを見て、それでも、サニーは踵を返し、霊安室の隠し通路へ走った。
主人を失った憑神は、新たな主人を得られなければ消滅する。
自分に残された時間は少ないと、憑神の本能が告げていた。
「意外だなー。逃してやるんだ?」
「神連か」
白衣の蛇を見送った深夜は、何の気配もなしに現れた軽薄な声に眉を顰めた。
憑神と神憑きから人の世を守る対神組織・神連。憑神を確実に作る方法を研究している組織などという情報は見過ごせず、今回ばかりは共闘したが、深夜に言わせれば甘い連中だ。
「貴様らの中にも、憑神がいるそうだな」
「そうだな。今日は連れて来てねえけど。
俺らは憑神の敵ってわけじゃないからな。悪さしてるやつは退治して、そうじゃないやつは悪さしないよう見張るのがお仕事」
「甘い。憑神は獣の祟りを封じたもの。残せば必ず災いをもたらす。
俺も含めて、すべて消し去るべきだ」
「じゃ、なんであの子は見逃してやったんだ?」
蛇の憑神が走り去った通路を指さす神連に、深夜は苛立たしげに目を細めた。
「あの憑神は蛇だろう。奴の主人は殺した。憑ける血縁はなく、じきに消滅する。
それとも、おまえらの調査に漏れでも見つかったのか?」
「いやあ? あの子は蛇だし、そこのおっさんに一番近い血縁は五親等以上離れてる。隠し子もなし。
俺の見立てでも、夜まで保たないだろうな」
食えない男だ。矛を握る深夜の手に力が籠もるが、こいつは人間だ。この場で戦う理由はない。
今日のところは、だが。
「憑神はすべて殺す。覚えておけ。
相対すれば容赦せん」
言い捨てて去っていく深夜を見送って、神連は通信端末を手にした。すぐに通話を始める。
「もしもし? 隠し通路から出てくる子がいるけど、そのまんま通していいから。
あ? いやいや、例の憑神だよ。そうそう。放っておいて大丈夫。はい? あー、わかりました。見届けます。
深夜? うん。あのまんまじゃダメだな。思想は過激だし、頑固で意固地だ。接触したら問答無用で殺し合いになるぜ」
俺はそれでも楽しいけど、とは口に出さず、神連の男は正直に報告した。
今回の任務は、深夜と今後共闘できるか、その見極めも兼ねていた。お偉いさんは仕事一つで複数の目的を達成したがる。
彼から見た深夜は今語った通りだ。今回共闘できたのは投入された神連の戦闘員に憑神がいなかったのと、神連が研究所の憑神を保護する展開にならなかったから。恒常的な協力は難しい。
だが。あの蛇神の娘を見送ったときの深夜の表情を思い出して、男は言い添えた。
「根は優しくて、良いやつだと思う。
四方木さんの言う通り記憶喪失にしちまえば、仲良くなれると思うぞ」
神連が自分をどう判断したのか、深夜は気にも止めなかった。
だが、この日の選択により、深夜の未来は大きく変わることになる。
それはまた、別の物語だ。
* * *
先の見えない暗い通路を、サニーは懸命に走っていた。残り時間が減っていく。早く、早くと念じるほど、時間が足早に去っていくのを感じる。
今、サニーは生まれて初めて自由だった。時雨の命令から解放され、誰の奴隷でもない。消え去るまでの束の間の自由が、羽のようにサニーの背中を押した。
みんな死んでしまった。何もかもを失った。それでも自分が走れると、サニーは知らなかった。
誰のためでもなく、自分のために。空が見たい。焦げ付くように思う。
晴れた空。吹き抜ける風を浴びて、暖かな光に頬を撫でられる。それがどんな心地なのか知るまで、止まれない。
(千夏)
慕わしい人の名を、心の中でサニーは呼んだ。肺は燃えそうに熱くて、心臓が早鐘を打つ。前へ、前へ、前へ!
(千夏、ありがとう。わたしに名前をくれて。外の話を教えてくれて。
わたしに、空が見たいって、思わせてくれて、ありがとう)
伝えられなかった感謝が、後悔が、力尽きそうになる足を動かした。
行く手に白い光が見える。電灯の明かりじゃない。生まれて初めて浴びる、太陽の光。
最後の坂を駆け上がったサニーの頬に、水滴が落ちた。湿った風が髪を撫でる。
立ち止まる。
濡れた空気を吸う。
生まれて初めて、空を見上げる。
灰色の空。
外は雨だった。
記録No.321:夢の跡
「どうして……」
思わず漏れた声を置き去りに、サニーは外へ足を踏み出した。
濡れた草木の覆う、緑。膝を曲げて、湿った土に触れる。指で掘る。濡れてるのは表層。降り始めて、まだそんなに経ってない。
まだ間に合うかもしれない。ペラペラの靴底が砂利に滑りそうになり、サニーは走りながらルームシューズを脱ぎ捨てた。
叢雨。千夏が言っていた、通り雨。降って、すぐに止んで、通り過ぎていく雨。それかもしれない。走れば、雨雲の外に行けるかも。
時雨とも呼ぶのだと、そんなことを思い出して、嫌な予感を振り払う。もう、これ以上、わたしの邪魔をしないで。
足裏を刺す砂利の痛みが、今は有り難い。濡れた草を踏む。柔らかい感触。もっとじっくり、ゆっくりと歩きたい。
だけどそんな時間はない。感覚がぼやけていく。残り時間が減っていく。あっという間に。
ここは山の中だ。千夏が言っていた。外に出ると、まず森があると。
ゴツゴツした木の根が地面を盛り上げて、転びやすいから、気をつけて。
「ぁっ」
忠告を思い出したときには、サニーは躓いていた。手のひらで地面を叩いて衝撃を逃がす。
大丈夫。そんなに痛くない。
転んでなんて、いられない。走らないと。
いっそ蛇の体になったほうが速いだろうか。今ならなれるはずだ。
試みるにもまず立ち上がろうと上体を起こして、サニーは、それが永遠に叶わないのを知った。
手が透けていた。感覚がない。
足を振り返る。爪先がない。
空を見上げる。灰色。青空を隠す、曇天の雲。
どうして。サニーは泣きそうになった。
本当は、時雨のことなんて、どうでもよかった。
外に出られるなら、自由になれるなら、みんなといっしょに、千夏といっしょに、幸せになれるなら、時雨が生きてても死んでても、どうだってよかった。
それが叶わないから、せめて、あの男を殺したかった。叶ったのはそれだけだった。
晴れた空が見たかった。ただ、それだけの夢さえ。
「どうして叶わないの……?」
地面を叩くことさえできない。体がぼやけていく。この世との縁を失って、とっくの昔に死んでいた魂が、彼岸へと押し流されていく。
俯いたという自覚もないまま、土の匂いで、サニーは自分がうつ伏せになっているのに気づいた。
眼鏡が外れる。ぼやけた視界で、せめて、最後に空を見ようと、仰向けに転がろうとする。
「君、大丈夫?」
雨が止んだ。気のせいかもしれない。誰かが、サニーのそばに立っていて、こちらを見下ろしている。
その人が何かを持って、上に向けているのを、サニーは見つけた。
傘だ。雨の日に差す……いつか、お揃いのを買おうねと、千夏と約束した。ビニール傘、というやつのようだった。
透明なビニールの幕の向こうに、空が見える。相変わらずの、曇り空。
でも、空は空だ。最期にそれが見えたことに満足して、だけど、やっぱり。サニーは囁いた。
「はれた、そら、みたかったな……」
「晴れた空? う~ん。それくらいなら、権能抜きでもいけるかな?」
人影が首を傾げて、ごそごそと懐を探った。
取り出したのは、ゴムボール。白い……それとも、黄色?
もう色もはっきりわからないそれに、何かを貼って、誰かは「ほっ」と上に放った。
くるくる傘を回して、傘の上でボールを跳ねさせる。弾力があるだろうに、器用に。
ビニールの傘越しに、弾むボールが見える。
そのボールが、輝いた。金色に、白く。
ビニール傘が、青く染まる。透明に、深く。
「ぁ……」
眩い光に、サニーは目を細めた。頭上に青い空。その向こうに太陽。夢見た輝く情景。
外は快晴。眩い陽射しが暖かい。
日を吸った花の匂い。濡れた頬を撫でる風が心地良い。
「もっと、」
素足で草の上を歩く。柔らかな湿った感触に、微笑みがこぼれる。
顔を上げる。懐かしい人が、すぐ向こうで笑っている。
そんなふうに。
「歩き、たかった、な…」
その囁きを最期に、サニーはこの世から消え去った。
* * *
陽光に雨粒を散らして、深夜はカササギの姿で羽ばたいた。返り血を吸った羽は重いが、飛翔に支障はない。
そろそろ人目が増えてくる時間だ。カササギはこの辺りでは目立つから、どこかに着地して人の姿にならなくては。
そう考えながら、深夜はわずかに旋回した。山の上に、過ぎ去る雨雲が見える。
あの蛇は、晴れた空を見れただろうか。
ほんの少しだけそう思う自分を振り払うように、深夜は眼下の路地裏に身を投じた。
* * *
「目標の消滅を確認。帰投する」
サニーが消えたのを報告して、神連の男はその場を後にした。
彼女に傘を差してやっていた人影については、まぁ、放っておいていいだろう。
任務は順調に完了。研究に携わっていた元神連は全員捕らえた。中核を担っていた神憑きは深夜に殺されたが、コレに関しては生死不問と言われている。
というか、死なせたかったから深夜を引き込んだんだろうなと、男は察していた。口封じか。上には色々あるのだろうが、正直どうでもいい。
こちらの被害はなし。あまり面白い任務じゃなかったなと、隠し通路の入り口から中に戻ろうとして、ふと肩を撫でた温もりに、男は空を見上げた。
「ああ、惜しかったな」
去っていく雲に目を細め、消えていった蛇の娘を労る。
「快晴だ」
燦々とした夜明けのような陽射しが、雨に濡れた景色を山吹色に染め上げていた。
* * *
「ありゃ、消えちゃった」
ガッカリして、十五は幻術で青くしていた傘を畳み、ボールから光る呪符を剥がして懐にしまった。足元に遺された白衣と眼鏡を拾ってみる。
晴れた空が見たいと言うから、見せたらもうちょっとがんばって、何があったか聞かせてくれるかなと思ったのだが。
「神連も撤収始めてるみたいだし、これは出遅れちゃったな」
手間暇かけて仕込んだ割には、つまらない幕切れだ。とはいえ、身一つで日本中を歩き回っている以上、こういうときもある。
少し考えて、蛇の抜け殻のような白衣を放り捨て、十五は踵を返した。
眼鏡は懐に仕舞い、杖の代わりに傘を振る。
「また今度、報告書を読ませてもらおっと」
終わった話に未練はない。
狸は次の話を探しに、揚々と山を降りていった。
余録:煉獄の山
水底から浮かび上がるように、時雨は己の体を知覚した。途端にいつもの痛みが身を蝕み、思考すら鈍って、気を抜くと目蓋が閉じ、再び眠りに落ちてしまいそうになる。
駄目だ。まだ眠るわけにはいかない。立ち止まるわけにはいかない。誓ったのだ。失ったものを取り戻す。娘に、未来を。
そのためなら、何でもする、どんな罪も犯そう。病などに負けてはいられない。
決意が四肢を燃え立たせ、心臓を脈打たせる。力が湧いてくる。娘の名を思い浮かべるだけで。娘の笑顔を思い出すだけで。
顔を上げて、時雨は、しゃがみ込んだ自分を見下ろす、愛娘と目が合った。
「雨月……?」
呆然と口にする。娘が背を向ける。去っていく。
時雨は立ち上がり、その背を追いかけた。
「雨月! 待ちなさいっ。待ってくれ」
体が重い。娘に追いつけない。娘の足取りは軽やかで、喜ばしいはずなのに、焦燥が募る。
娘は振り返らない。この背中は見覚えがある。娘が、怒って、背中を向けたときの。
「すっ、すまなかった……」
つまづくように跪いて、時雨は許しを乞うた。
雨月が足を止める。振り向かないまま、問うてくる。
「何を謝ってるの?」
言葉に詰まる。娘は何を怒っているのか。自分は何をしてしまったのか。わからないまま、娘の怒りだけが伝わってくる。
娘が問いを重ねる。静かに、怒りを籠めて。
「誰に謝ってるの?」
足元の、意識していなかった地面──暗く、湿ったそこから、おびただしい死臭が噴き上がる。生臭く、冷たい、無数の蛇の死骸が、時雨を睨んでくる。
息を呑んで飛び退こうとした時雨の足が、死骸に埋もれた。上からも視線を感じて、顔を上げる。
D−0032が、冷ややかにこちらを見下ろしている。
妻が、悲しげに時雨を見つめている。
無数の視線が、怨めしげに自分を見ている。
「すっ、すまなかった……」
死骸の泥に埋もれながら、時雨は呻いた。すまなかった。繰り返す。
娘が喜ばないのは、わかっていた。優しい子だった。感謝されるはずがない。赦されるはずがない。
それでも、娘の未来がほしかった。だから走り続けた。赦しを乞う資格もない。わかっていた。
それなのに、いざ娘から叱られて、時雨は情けなくこうべを垂れた。
すまなかった。父さんが悪かった。赦してくれ……ゆるして……
すすり泣く時雨の腕を、誰かが掴んだ。
温かな手に、腕を引かれる。闇の中から、引きずり出される。
「仕方ないなぁ。許してあげる!」
時雨の手を握って、娘が、笑った。
雲間から覗く陽射しのような、晴れやかな笑み。時雨が取り戻したいと願った笑顔。
雨月がくるりと背を向けて、走り出す。こっちこっちと、手を振りながら。
安堵に顔を輝かせ、時雨はその背を追おうと駆け出したが、すぐに暗い靄に行く手を阻まれた。
掻き分けて進もうとして、気づく。靄は、蛇だった。
鱗が剥がれ、肉が焼け爛れた蛇。時雨が殺してきた……
「……すまなかった」
蛇に触れる。途端、激痛が皮膚に伝わってきた。皮膚が溶け、肉が崩れ、骨を刺される痛み。
反射的に手を離そうとして、こらえる。娘が見ている。
痛みが引き寄せられる。蛇から、時雨へ。沸騰した血が肌を突き刺し肉を腐らせる、永劫とも思える痛み。
それがふっと消え去り、時雨は息を吐いた。腕が震え、汗が滴るが、焼けたはずの手は傷ひとつなかった。
健やかな姿を取り戻した蛇が、静かに時雨を見つめ、去っていく。
闇が寄ってくる。時雨を苛むためではなく、癒されるために。その先に、娘の背中がある。
(これに耐え切らねば、雨月の父である資格がない)
歯を食いしばり、時雨は闇を受け入れた。どんな苦痛も、娘への道のりなら耐えられる。
肉が爆ぜる。眼球が溶ける。口が血の味に満たされ、内臓が喉に迫り上がる。こんなもの。娘を失った痛みに比べれば。
そう足を動かした時雨は、誰かに背中を支えられているのに気づいた。
誰だ? 戸惑いながら、前に踏み出す。痛みは変わらない。だが、足が動く。
誰かが、背中を押してくれているから。自分は気づかなかったが、ずっとそばで支えてくれていた、誰か。
ふり返る。ずっと前を、娘だけを見つめていた視線を、後ろに移す。
ずっと支えてくれていた、妻と目が合う。
「すまなかった……」
声がこぼれた。妻が首を振る。涙を流しながら。
今ようやく、時雨の胸が痛んだ。すまなかった。もう一度囁き、妻の手を取る。
娘を失ってからずっと、一人で生きてきたと思っていた。一人で、娘を失った痛みに耐えてきたのだと。
だが違った。妻がずっと、支えてくれていた。時雨の痛みを、そばで和らげてくれていた。
時雨がそれに、気づかなかっただけで。
「帰ろう」
頷き合い、手を握り、共に歩む。
娘の背中は遠く、隔てる闇は果てしないが、妻とふたりなら、どんな痛みも越えていけると、時雨は知っていた。
記録完了現場
「お見事。四方木さん、神留でもやってけるんじゃないですか?」
「冗談やめて。形代を用意したのはあなたでしょうが」
拍手してきた神形を袖にしながら、霊安室だった部屋に渦巻き反響していた怨念が消え去ったのを確認して、美夜は抱きかかえていた兎形態の暁月を床に解放した。
するりと人の姿に戻った暁月が伸びをする。
「いや、さすがだよね。加賀博士に千夏さんと雨月さんのだけじゃなくて、蛇たちのぶんまで頼んだらあっという間に用意しちゃうんだもん」
「データ管理が仕事ですので。記録が詳細に残ってたから楽なものでしたよ。
サニーさんの形代は用意できませんでしたが……」
暁月が床に描いた簡素な陣に、人型の紙と、蛇に見立てた注連縄が並べられている。
簡単な作りに見えるが、神形が死者の情報を精緻に写し取った、歴とした形代だ。これに暁月が霊安室に残留していた加賀 時雨の無念を吸わせ、美夜が加賀 千夏と雨月の形代で時雨の妄執を誘導し、蛇たちの怨念を焚べる供物にした。
身も蓋もなく言えば、今起きたのはそういうことだ。即興劇で死者の霊を慰める術は、美夜が得意としている。
「上手く行ったんだし、急拵えにしては上出来でしょ。さすがに蛇神の形代を作るには材料が足りないし。
それより……」
加賀 時雨の形代を睨んで、ぼそりと美夜が言った。
「踏み潰してやりたい」
「美夜、それやったら台無しになるから」
「わかってるわよ。すっきりした感じで消えてったからムカついただけ。
始末はそっちに任せていいのよね?」
「はい。こちらで火に焚べるなり水に流すなりして浄化しますね。
本当に助かりました。神憑きの霊が祟ると厄介ですから。蛇たちと混ざったりしたらどうなっていたことか」
被検体の蛇たちは、どれも憑神になりうる素質を見込まれて集められた逸材だ。それがまとめて怨霊になっていたら……最悪、神連が憑神にして祟りを鎮めないといけなくなっていたかもしれない。ここにいた研究者らにとってはなんとも皮肉な結末だが、美夜の好みではなかった。
「話を聴いて、やれそうだったからやっただけよ。
……雨月さんのご遺体は、埋葬したのよね?」
「はい。時雨博士もいっしょに。千夏さんも同じ墓に移しましたよ。
被検体の蛇たちも、改めて埋葬しました。サニーさんは最期に着ていた白衣が回収できたので、そちらに」
「そう」
この世ならざるものを扱うからこそ、神連はそういった配慮は欠かさない。
加賀 時雨がきちんと弔われたのが腹立たしくないといえば嘘になるが、もしあの世が存在するなら、娘と蛇たちとサニーに針の筵にされているだろう。せいぜい妻の有り難みを思い知るといい。
「用件は終わったし、帰りましょう。迎えは呼んであるのよね?」
「はい。そろそろ……ああ、来たみたいですね」
ちょうどヘリの音が聞こえてきて、美夜たちは上にあがった。研究所の扉はすべて開かれており、行く手を阻むものは何もない。
サニーはくぐることを許されなかった敷居を跨ぎ、地下から顔を覗かせた屋上に出る。
風を嬲るプロペラの音に、暁月が耳を抑え、神形の女は荷物の確認をし、美夜は降りてくる騒音を見上げた。
頭上のヘリから、男が飛び降りてきた。
「きゃああああああああっ!!?」
「っと。よっ、四方木さん、暁月さん。おひさし!」
宙で回転して軽やかに着地した馬鹿を、美夜はとりあえず蹴った。
「自殺するなら他所でしなさいよ馬鹿飛び降り死体とかずっと耳に残って最悪なのよ馬鹿TPO弁えなさいよ馬鹿ほんっと馬鹿じゃないの!?」
「わー美夜、ストップストップ!」
「いてってっ、今のはそういうんじゃないって。花撒きたかったんだよ、花」
「はなぁ?」
暁月に羽交い締めにされた姿勢で、美夜は頭上を見上げた。
男の言を証明するように、花弁が降ってきた。白、黄色、薄紅、紫……色とりどりの芳香が、ぱらぱらと風に乗って、研究所の跡地や、木々の隙間に落ちていく。
術でも使ったのか、やたらと軽やかに、遠くまで運ばれているようだった。男が胸を張る。
「俺もここの突入に参加して、まー、なんだ。見送ったからな。そのケジメさ」
「……花を撒くのにわざわざ飛び降りる必要は?」
「ないぞ? ノリだ、ノリ。いてっ」
「はいはい、落ち着いて、美夜。蹴って治るタイプの馬鹿じゃないから」
蹴りを再開した美夜を暁月が引きずって距離を取らせる。ようやく着地したヘリがドアを開ける。
荷物の確認を終え、神形が手を叩いた。
「それじゃ、帰りましょうか。
四方木さん、暁月さんも、ヘリに乗ったらまた目隠しをお願いできますか?」
「了解。狭くしてもなんだし、僕はまた兎用のゲージに入っておくよ」
「はーっ……こっちも了解。ここがどこかなんて全く興味ないし知りたくもないから安心して」
「ほんとかなー? 呪われた地なんて怪談の宝庫だぞ、聴きたくないのか?」
「少なくとも今日はもうお腹いっぱいよ。
というかあなた、わざわざ花を撒くためだけにここに来たの?」
「休暇だったんだよ。長いこと休み取ってないと強制的に取らされんだよな。ちゃんと休めって訓練も禁止だし、暇で暇で」
「ああ、そう。暁月、行くわよ」
「はいはい」
騒がしいプロペラに髪を抑えながら、ふと、美夜は視線を外に向けた。研究所の見下ろす山並みが見える。
厳密にはこれも現在地を特定する情報になるのだが、美夜にそこまで植生や地理の知識はない。
ただ、見てみたかった。サニーが見ようとして、叶わなかった光景を。
神形も頭を下げて、神斬の男も茶化すことなく、ヘリに乗り込む。
ヘリが空に浮かぶ頃、山際には日が落ちて、サニーが迎えることの叶わなかった夕暮れが訪れようとしていた。