雨に陽だまり、月隠れ 星降る朝に夢の跡

記録No.0:暗闇に始まる

 D−0032は太陽を知らない。晴れを知らない。空を知らない。風を知らない。外を知らない。  うっすらと覚えているのは暗闇。硬い壁。そこを壊して外に出たら、今度は透明な檻にいた。  卵から出たら、ガラスケースだった。今ならそうわかる。当時は、そこまで意識していなかった。暗闇に包まれたまま、ケースごと、どこかに運ばれた。  することもなくじっとしていると、空気が揺れるのを感じた。ひどく眠くなった。麻酔を浴びせられたのだと、今ならそうわかる。  目が覚めて、気がついたら、世界は一変していた。ぼやけた白い空間で、白い台の上に、まっすぐな姿勢で寝そべっている。  体がおかしい。とぐろが負けない。鱗がない。感覚がおかしい。振動を頭の横で感じる。胴の横に、邪魔なものがくっついていて、勝手に動く。  空気が震えた。自分の口の中で。悲鳴を上げていたのだと、当時はわからなかった。  衝撃が背中を叩いた。悲鳴が強制的に止められる。電流で神経を圧迫された。そんなことはわからない。手足は枷で封じられていた。何もかもがわからない。  これは自分の体じゃない。ここは自分の視ていた世界ではない。眼から水があふれる。熱い。暗闇で世界が覆われて、驚く。  まばたきなんて知らないまま、それを繰り返していると、白い生き物が隣にやってきて、空気を振るわせた。 「おまえは私の助手だ」  白衣の男、加賀かが 時雨しぐれは、そう命じたのだ。 「助手として私に尽くせ。D−0032。  龍を神にするのだ」  それが始まり。蛇の憑神、実験番号D−0032の、憑神としての生の。  自分が生涯をこの地下研究所で過ごすのだと、このときのD−0032は知る由もなかった。
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記録No.41:束の間の陽だまり

「ああ、ダメよ、サニー。髪を乾かさないと」  壮年の女に呼び止められ、D−0032は素直に立ち止まった。手を引かれ、割り当てられた部屋で椅子に座らされ、ドライヤーとかいうもので温風を髪に当てられる。  ぐっしょりと重く湿っていた髪から水気が飛ばされていくのが心地よい。女が櫛を手に取り、D−0032の細くて長い髪をくしけずる。それもまた心地よくて、D−0032は舌を伸ばした。  女の体臭を味わうように空気を舐める。古びた肌の匂い。あの男と同じ……だけど、彼女のほうがずっといい匂いだ。比べるべくもなく。  習った通りに喉を震わせる。 「ちなつ、ありがとう!」 「どういたしまして。言葉、ずいぶん上手くなったわね」  加賀かが 千夏ちなつ。それが女の名前だった。シワが刻まれた肌。弛んだ頬。老年に足を突っ込んだ女。髪は丁寧に編み込んでまとめ、D−0032にもやり方を教えてくれた。  千夏はD−0032をサニーと呼んだ。だからD−0032も、心の中ではそう名乗った。サニー。実験番号D−0032ではなく。わたしはサニー。あの男の奴隷じゃない。 『D−0032。第二実験室へ来い』  その決意を踏み躙るように、ポケットの端末から声が響いた。サニーは唇を噛み締め、立ち上がり、白衣を羽織った。  望まずとも、憑神は主人に従わねばならない。千夏を見下ろす。  千夏も唇を噛んでいる。一言くらいは許されるだろうか。サニーはなんとか、笑ってみせた。 「ちなつ、かみ、ありがとう」  お揃いの髪型にしてもらえたのが嬉しくて、そう言った。 「ごめんね」  そう言って、千夏は涙をこぼした。慰める言葉はまだ習っていなくて、サニーは後ろ髪を引かれながら実験室に向かった。
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記録No.42:冷たい雨

「これより、D−0074の実験を始める」  主人の言葉に、サニーは頷く他なかった。お仕着せの白衣の袖を握り、その下の千夏がくれたスカートに縋る。  最初朧だった視界は、千夏が手配してくれた眼鏡のお陰で、よく見えるようになった。机の上の皿に置かれた真っ白な蛇──D−0074は、この実験のために主人に連れて来られた。サニーと同じように。  主人が求めているのは憑神。死した獣が神となり、初めて名を呼んだ人に取り憑く現象。  中でも龍──時を逆巻く権能を持つ憑神を、主人は求めていた。  龍とは伝承にある神獣ではなく、この世に数匹しか存在を確認されていない希少種の魚だ。入手は絶望的な上に、失敗は万に一つも許されない。  だからこの研究所は、殺した獣を確実に憑神にする手段を求めている。  D−0032サニーはその成功例第一号。研究チームの今の課題は、サニーに起きた現象を再現することだ。  薬品が運ばれる。注射器を手に取った研究員が、麻酔でぐったりとした白蛇の喉元に、毒液を注入する。  命じられた通り、サニーは記録を取り続けた。かつて、サニーも同じように殺されたのだ。主人の命令で蛇の姿になることは禁じられているが、自分は蛇だという実感は揺るがない。  眠らされたまま、目覚めることなく、D−0074が死ぬ。檻の中に運ばれる。サニーと同じように。最新鋭の術式が刻まれているのだという部屋で、無数の呪文を再生する音響に囲まれて、檻の中でその死を冒涜される。  サニーがこれで成功したから。憑神になれたから。どうしてなれたのか、サニーにもわからない。  自分と、蘇ることなく弔われた七十三の同胞と、何が違ったのか。 (ごめんなさい) 「D−0032。来い」  主人に呼ばれ、黙祷すらできずにサニーはその場を離れた。  医務室で、腕をめくった主人が血を抜いている。痩せこけた腕。妄執で腐敗した皮膚の臭い。  憎しみの煽る嫌悪に耐えながら、サニーは向かいの席に腰を下ろし、主人から抜き取られた赤いチューブを、口に咥えた。  蛇の憑神の権能は、主人の血を飲むことで主人の寿命を伸ばす。サニーは今、主人の寿命を伸ばしている。この、一秒でも早く死んでほしい男の命を。  加賀 時雨しぐれ。サニーの主人であり、千夏の夫である男の血は、冷めていて不味かった。憎しみを込めて飲み続ける。  憑神は主人の命令に逆らえない。それが途方もなく悔しい。  言葉を覚えようともせず、反抗的だったせいで檻に閉じ込められ、憑神の生態を調べる実験台にされていたサニーを助けてくれたのは、千夏だ。  優しくしてくれたのも。言葉を教え、人の振る舞いを教え、境遇に涙し、「サニー」と名を与えてくれたのも。  D−0032なんて、わたしの名前じゃない。仲間たちの名前じゃない。おまえなんか。わたしの主人じゃない。  千夏が、わたしの主人だったら良かったのに。  サニーの視線に気づいていないわけがないだろうに、時雨は眉一つ動かさなかった。  時雨にとって、サニーは人の形をしているだけの畜生なのだ。今も檻の中に閉じ込められている仲間たちと、何ら変わらない。助手になれと命じたのは研究チームが人手不足だから足しになるかと試みてみた、ただそれだけのこと。  ただそれだけのことで、サニーは仲間殺しの片棒を担がされている。逆らおうにも時雨の命令は念入りにサニーを縛っていて、体が動かない。なす術なく、心が磨耗していく。  採血が規定量に達して、泥を飲まされるような時間は終わった。手際良く針を抜き、止血をして、時雨が去っていく。サニーを一瞥もせず。  あいつの血を死ぬまで吸い尽くせたら。血を吸うふりをして空気を血管に送ってやれたら。注射針に毒を塗れたら。後ろから襲いかかれたら。  思考を駆け巡る無数の暗殺計画が、ただの一言で破棄される。 『助手として主人に尽くせ』  憑神は最初に下された命令──起呪に、絶対に逆らえない。  己の無力さを噛み締めながら、サニーは立ち上がり、千夏の待つ部屋へと足早に向かった。 【記録中断】
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記録執筆現場

「みーみーがーくーさーるぅぅぅぅ!!」  廃墟に響く絶叫に、対神組織・神連かみつれの情報部署『神形かみなり』の女はペンタブレットを動かす手を止めた。  液晶端末の録音を止め、手書きメモとして使えるアプリに書いてきた記録を確認し、ファイルに保存する。 「お疲れ様です。一旦休憩にしましょうか」 「そうさせて……あーもうバカどもの馬鹿馬鹿しい愚行が莫迦みたいに続くのってほんっとうに嫌!!」  リボンでまとめた黒髪が崩れるのも構わず頭を掻き毟り、実験ノートをバシバシと叩く眼鏡の女──四方木よもぎ 美夜みよに、神形は苦笑した。いつもの着物風のシャツに袴風のズボン、泣きぼくろの目立つ柔和な面差しは、黙っていたら神秘的な巫女なのだが、口を開くと愉快なお嬢さんだった。 「加賀 時雨博士は薬学の権威ですよ? 薬が生物に及ぶ作用を解析して、より効果的な投与や調剤を考案されてました。風邪薬なんかで四方木さんもお世話になったことがあるかも?」 「だから失敗続きだったんでしょ。無駄骨ご苦労さまって感じ」 「あら。時雨博士が結局一柱しか憑神を作れなかった原因が、もうおわかりで?」 「あなたも見当は付いてるでしょ」  伸びをしながら、雑談のつもりで美夜は語った。 「憑神になるかどうかは運次第だけど、後から分析すれば原因は見えてくる。土地との結びつき、獣自体の霊力、獣と人の縁、妄執じみた情念……  土地については申し分なさそうね。ここ、呪祖が生まれた場所なの?」 「ノーコメントで。一応機密ですから」  この期に及んでとぼける神形に、美夜は鼻を鳴らした。わざわざ美夜に目隠しさせてヘリで運んだのは、具体的な場所を秘密にするためだろう。 「情念は、彼が龍の憑神を欲する妄執は本物だった。これもクリア。  縁も問題ないわね。目標である龍ではなく、自分と相性の良い蛇を選んだのは冷静な判断だったと言えるでしょう。  でも、その冷静さが仇になった。実験に使う蛇をいくら厳選しても、彼らには致命的に欠けているものがあった」  遺されたノートに書かれていた記録を、美夜は思い出した。細かい数字の記録。いつ、どの薬剤を、どの蛇に、どのように注入して、どのくらい苦しめて殺したか。  冷淡で、無機質で、無意味な記録だ。そんなもので憑神が生まれる原因を探ろうとしても無駄なのに、彼らは最期まで、それに気づけなかった。 「畏怖と信仰。敬愛と言い換えてもいいかもね。  冷徹で理知的な科学者だからこそ、時雨博士は蛇を実験材料としか見れず、【神】に祀ることができなかった。  それを補ったのは……」 「加賀 千夏さんですね。彼女は実験のため殺された蛇たちを悼み、人知れず弔い、罪悪感を覚え畏れていた。そもそも蛇と縁があったのは彼女のほうかもしれません。  憑神が発生したタイミングは、たまたま、でしょうか?」 「D-0032……と呼ぶのは失礼ね。サニーさんの素養もあったんじゃないかしら?  卵のうちから密輸されて野生を知らず、憑神にされてからずっと人の形を強要されて、千夏さんの養育を受けたとはいえ、彼女、蛇にしては仲間意識が強すぎるわ」  蛇は基本的に群れない生き物だ。狩りで協力することはあるらしいがその場限りの話で、交尾はしても番にならず、卵を産めばすぐに去る種がほとんど。孵った雛に餌をやったり狩りを教えたりもしないと聞く。  だが、サニーは自分と同じ被検体の蛇たちに心を寄せ、虐げられる彼らを救いたいと考えていた。蛇たちも、彼女に懐くような仕草を見せていた。蛇はそういう生き物ではないにもかかわらず。  蛇の女王。そんな形容が思い浮かぶ。今となっては確かめようがない話だが。 「確認したいんだけど、時雨博士のパトロンや協力者って捕まってるの?  サニーさん以外の助手って、ほとんど神連の医療研究部署の神凪よね?」 「神凪からの脱走者ですね。はい、ほとんどが研究所壊滅の際に死亡、生存者は神連のほうで確保しています。  パトロンは失脚。財産も没収されてますので、終わった案件ですよ。だからこそ普段は報告聞いてまとめるのが仕事の私が出張れてるわけですし」 「じゃ、権力闘争の決着はついたのね」  神形は口を噤んだ。しゃらくさい言い訳に美夜が半眼になる。 「なーにが脱走者よ。現役バリバリの奴らじゃない。  大方寿命を伸ばす蛇の憑神を餌にパトロンつかまえて、実験費用を貢がせる傍ら、神連の活動資金を横流しさせてたんでしょ」  研究所壊滅は偶発的な出来事だったのに生存者全員確保だなんて、手際が良すぎる。そもそも呪われた地にこんな大規模な研究所、神連が管理している施設と考えたほうが自然だ。  研究チーム──加賀 時雨が害したのは、心を痛めていた加賀 千夏を除けば、被検体に使われた蛇たちのみ。非道で悍ましいが、人間に直接被害が及ぶ実験ではなかった。  なら、このくらいやるだろう。人の世を守るため、神に対するのが、神連なのだから。  もちろん神連とて一枚岩ではない。およそ六百年前、戦国の世に興った対神連盟が、明治維新を機に日本各地に点在していた対魔組織を統合して、改めて発足したのが現在の神連だ。その歴史は浅いとも古いとも言えるし、思想も派閥もグラデーションがある。  非道な手段を良しとしていた派閥が、下手を踏んだから他の派閥に攻撃され、切り捨てられた。それだけの、よくある出来事だ。 「ふふっ。四方木さん、やっぱり暁月あかつきさんといっしょに神形に入りません? 歓迎しますよ?」 「なんで組織の不祥事の尻拭いに付き合わせてる最中に口説いてくるのよ。絶対イヤ。自重なさい神オタク」 「それ、罵倒のつもりならブーメランじゃないです?」  神形の指摘を無視して、美夜は自分のいる廃墟……かつての時雨博士の研究室を、改めて眺めた。  当時は無機質に白かった床はところどころがタイルが剥がれ、破れた蛇の抜け殻を連想させる。さすがに最低限の供養は済まされているが、機材も人もいなくなった空間は当時以上に寒々しく余所余所しかった。  美夜は黒兎の憑神・暁月によって《遠耳》の権能を授かっている神憑きだ。知りたいと思った事柄に関する情報が勝手に聴こえてくる。  相性の良し悪しは大きく、物品なら集中して聴き取れるが、場所全体からとなるといっぺんにたくさんの情報が聴こえてきて却ってわからない。だから本当は、わざわざ現地に足を運びたくはなかったのだが…… 「はぁ。そろそろ再開しましょうか。こんな辛気臭いとこ、とっとと終わらせておさらばしたいわ」 「そうですね。わたしも仕事を終えて、四方木さんと神トークしたいです。暁月さんもいっしょに」  美夜に憑いている兎の憑神・暁月は、別室に遺されている資料を漁っている。関係者の情念まで聴こえてしまう美夜としては、ウキウキと好奇心を満たせる暁月が羨ましかった。 「次の大きな出来事は、加賀 千夏の自殺ね。  どうして自殺したのかしら? 彼女はサニーさんの養育をすることで精神が安定していたのに」 「衝動的だったようなのではっきりとは言えませんが、一通り言葉を教わったサニーさんが時雨博士の助手として働かせられるようになって交流が激減したので、そのせいでは?  ……四方木さん?」  美夜が返事をしないのを神形は訝り、すぐに口を閉じた。美夜は微睡むように目を伏せ、俯いて耳を傾ける仕草をしている。遠耳が発動しているのだ。  美夜の遠耳はほんの弾みで発動してしまう。神形としては羨ましい権能なのだが、その代償が大変なのもわかっていた。  果たして、目の焦点を取り戻した美夜は、盛大に顔をしかめて頭を抱えた。 「聴きたくなかった……!」 「あら。もしかして、実は殺人だったとか?」 「心情的にはそう言いたいけど……法的には事故? これを自殺と言うのは、ちょっと……」  言いあぐねる美夜の煩悶を、神形は快く見守った。美夜は好奇心旺盛だが、道徳心も強い。そのバランスは大事だと神形は思う。  道徳は時に真理への探究を妨げるが、それを軽視した瞬間、人は外道に堕ちるのだから。 「……詳細は後で言うわ。再開しましょう」 「了解しました。では、続きのノートは、こちらですね」  デジタルの記録媒体は回収済みだが、高齢で昔人間だった時雨博士はアナログのノートも取っていた。サニーも代筆を命じられたことがあったらしい。手書きの筆致から、美夜は彼らの遺した思念を聴き取ることができる。  遠耳の権能は、権能を構成する術式で情報を拾うため、他の神憑きや憑神の直接的な情報――彼ら自身の想いは、権能が反発して聴こえない。  だが、神憑きと憑神の契約は死によって断たれる。死した神憑きはもう神憑きではなく、憑神もそれは同じ。  死者の遺したノートを手に、美夜は再び過去の世界に潜り、神形はその口から語られる情報を録音しつつ、端末の手書きメモアプリを起動させた。
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記録No.132:千々に遠い過去

「千夏、ただいま!」 「お帰りなさい、サニー」  三日ぶりに部屋を訪れたサニーの笑顔に、千夏は笑顔を返した。白衣を脱ぎ捨てたサニーは平凡な少女のようで、丈の合っていないスカートが申し訳なくなる。  千夏は職員の食事の用意や衣類の洗濯、居住スペースの清掃をしている。極秘の実験なのであまり人を雇えず大変だが、それでも研究員に比べれば自由時間はずっと多い。  特にサニーは、食事も睡眠も不要だからと休憩すら与えられていない。今も、夫が休んでいる隙にこっそり抜け出して来たのだろう。  檻の中にずっと閉じ込められているのと、望まぬ知識を詰め込まれて搾取されるのと、どちらがマシだったのだろう。少しでも幸せを感じてほしくて、腰を屈めて甘えてくるサニーを、そっと抱きしめる。 「あーもう疲れた〜〜。わたしはまだマシだけど、人間のみんなは眠そうだったよ。  なのに所長ったら全然休憩させないの。ひどくない?」 「そう……大変だったわね。いつもあの人を支えてくれて、ありがとう、サニー」  せめてもの労りを込めて真っ直ぐで艷やかな髪を撫でてやると、サニーは嬉しそうにした。サニーは女性にしては長身で、夫より背が高いくらいなのだが、こうしていると、娘が幼かった頃の思い出が重なる。 「サニーは、すごいわ。言葉を覚えたら、あっという間にあの人の研究を手伝えるようになって……」 「千夏の教え方が上手なんだよ〜」  サニーはそう言うが、自分が教えたのは言葉と振る舞いくらいで、研究に使う言語や数学は、サニーが独学で覚えた。  憑神とは、こういうものなのだろうか。他の憑神を知らない千夏には、判断できなかった。夫は、「助手になるよう命じたのだから当然だ」と言っていたが。 「ねえ千夏。ずっと気になってたんだけど、あの人のどこが好きなの?」  サニーの無邪気な質問に何と返せばいいか、千夏は困ってしまった。  以前、サニーに夫婦とは何か尋ねられたので、好きな人同士がいっしょに暮らすことだと教えた。だが、そもそものいっしょに暮らすという概念すらサニーには伝わらず、絵本を取り寄せて、家族という概念を教えた。  父。母。娘。サニーに「わたし、と、ちなつ、は、おやこ?」と聞かれて、咄嗟に否定してしまった。似ているけど違うと。頷くなんて、そんな恥知らずなことはできなかった。  サニーは夫を嫌っている。無理もない。千夏の前だから、悪く言わないようにしているだけだ。賢い子だ。千夏は言葉を選んだ。 「あの人はね、昔は、あんなふうじゃなかったの。明るくて、よく笑う人だったのよ」 「えええええ?」 「本当よ。ちょっと待ってね……ほら、これ」  サニーを椅子に座らせ、棚からアルバムを取り出す。最近、眺めることが増えた。昔の、家族の写真。  今よりずっと若い夫が、小さな──幼稚園に通ってた頃の娘を肩車してはしゃいでる写真に、サニーは釘付けになった。 「この子が、娘の雨月。お父さん子でね。頭は私似だったんだけど」  照れ笑いしてページを捲る。娘が成長していく。小学校の入学式、運動会、発表会、マラソン、卒業式、どの写真でも、夫は笑っている。愛情深く娘を見つめて。  ああ、私と隣り合っている写真もある。雨月が撮った写真だ。いい歳してと、ふたりでぎこちなく笑った思い出が蘇る。雨月が中学校のときだった。  家族旅行で、旅館の人に並んで撮ってもらった写真。多忙の中、白衣のまま駆けつけた夫と合唱祭の保護者席に滑り込んだときのこと。後で「『友達にお父さんコスプレしてたの?』って聞かれて恥ずかしかった」と雨月に叱られて、平謝りしてたっけ。  高校の入学式で、写真は終わった。残りのページは空白のまま。永遠に埋まることはない。 「……駅で、待ち合わせしてたの。私が、うっかり、快速に乗っちゃって。一つ先の駅で降りちゃったのね。  そしたら、『迎えに行くからお母さんはそこで待ってて』って、雨月が、乗ったバスが、事故に」  不幸な事故だった。亡くなったのは、雨月ひとりだった。  迎えに行った先で、雨月は眠っているようだった。損傷はほとんどなく、ただ、バスが揺れた衝撃の際に転んで、頭をぶつけて、当たりどころが悪かったのだと、そう言われた。  夫が責めたのは私だった。「おまえがしっかりしていれば」と、そう言われた。私もそう思った。私が。電車を間違えなければ。あのとき。「私が行くから」と、そう言えていたら。それだけで、娘は生きていたのに。 「あの人はね、娘を生き返らせたいの。龍の憑神なら、娘を生き返らせることが、できるかもしれないんですって。私は、正直、よくわからないんだけど」 「邪魔をするな」と言われた。以来、夫との間にほとんど会話はない。事務的な要請と報告、ただそれだけ。  当然のことだと、千夏は弁えている。 「千夏、ごめんなさい」  サニーの沈んだ顔に、千夏は慌てた。なぜ謝るのか。サニーだって、千夏の過ちの犠牲者なのに。  サニーの顔が、雨月に重なる。背も、顔の造作も、何もかも違う。ただ、笑ったときの顔だけが、娘に。 『お母さん、ごめんなさい』 「駅? とか、バス? って、何?」 「……あ」  そうだった。この子は外を知らない。知識として習っても、こんなふうに、不意に欠けた知識が顔を覗かせる。  サニーの不安そうな顔に、千夏は首を振った。この子は、この子は、娘だ。私の、もうひとりの。  千夏は端末を操作して、駅の風景を液晶パネルに映した。 「これが、駅。バスは、これね。外にはこんな風にすごいスピードで走れる乗り物があって、それが集まる場所が、駅」 「そうなんだ! すごいね! あ、でも、危ないよね」 「……そうね。でも、やっぱり、とても便利なものだから。いつかいっしょに、乗りに行きましょう」 「いいのっ!?」  驚くサニーに頷く。手を握って、小指を絡ませる。 「ええ、約束。きっとね。研究がひと段落したら、夫もきっと、許してくれるわ」 「うんっ。わたし、わたしもね、研究、がんばるっ。  わたしが千夏を、雨月さんに会わせてあげる」  サニーの言葉に驚く。陽だまりのような笑顔が、千夏の胸を刺す。 「研究が成功したら、雨月さんも生き返るんでしょ? なら、わたしの仲間たちも、生き返らせられるかも。  そしたらみんなで、外に出かけようよっ」 「……ええ、ええ、きっと、そうしましょう。三人で、みんなと、いっしょに」  くしゃくしゃに顔を歪めて、千夏はサニーを抱きしめた。あの日以来凍りついていた涙が頬を濡らす。熱い。温かい。ずっと忘れていた温もりが、腕の中にある。  嬉しそうに千夏を抱き返すサニーの幸福を、千夏は心底祈り、そのために戦うことを決意した。
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記録No.133:氷の棺

「整理は」 「できています」  研究室にやって来た時雨を、サニーは緊張した面持ちで迎え入れた。  資料は完璧に整理されている。当然だ。そう命令されたのだから。完璧にやり遂げなければ、千夏のところに行けない。  椅子に座った時雨がファイルを確認するのを横目に、タイミングを見計らう。傍らで立ったまま、冷えた自分の指を握りしめて、サニーは思い違いに気付いた。  待っているのは、自分の勇気が出る瞬間だ。そんなの待ってたら、ずっと言い出せない。 「あの、時雨、さん」  初めてサニーに呼ばれ、時雨が訝しげに手を止める。  顔を見る勇気はなく、視線を下に逃して、サニーはつっかえながら、早口に言った。 「聞きました。その、雨月さんのこと。この研究が、なんのためなのか。  ですから」  わたしで、力になれるなら。  サニーはそのとき、そう続けるつもりだった。 「黙れ。D−0032」  時雨の煮えたぎるように冷えた声が、その機会を永遠に封じた。 「二度と、雨月の名を、口にするな。畜生ごときが」  サニーは愕然と時雨の顔を見た。  恐ろしいと、そう感じていた今までの表情が、まだ温かみのあるものだと思える形相で、時雨はサニーを睨んでいた。 「聞いただと? 誰に……千夏か」  妻の名を呼ぶ声に、愛情はかけらもなかった。  忌々しさを隠そうともせず吐き捨てて、時雨がサニーを指差す。 「二度と千夏に会うな。命令だ」  声が。出ない。首を横に振る、それだけのことができない。  だって憑神に自由はない。主人の確たる命令に、憑神は逆らえない。  話は終わったと、時雨は資料に目を戻した。サニーがいなくなったかのように。ここにいるのは、時雨ひとりだけかのように。  実際そうなのだ。今まで千夏にこぼしていた愚痴を、ほんとうの意味で、サニーは理解した。  時雨は最初から、サニーの人格など認めていない。檻にいる仲間たちとなんら変わらない、人の形をしているだけの、畜生。  時雨の中に、愛情や、優しい気持ちが眠っていたとしても、それがサニーに向けられることはない。  だって、憑神は、主人の道具だから。 (千夏。千夏、助けて!)  心の中でサニーはそう叫んだが、声を出す許可は与えられず、その場を立ち去る権利さえ、主人が恵んでやることはなかった。   *  *  *  警備の厳重な夫のプライベートルームに、千夏は難なく入り込んだ。  所長夫人としての地位がそれを可能にした。警備員は彼女を素通りさせ、カードキーはすべての扉を開いた。それが外聞のためなのか、夫に残った一抹の情なのか、今となってはどうでもいい。  生活の気配のない白い部屋の奥に安置された箱に、千夏はまっすぐに進んでいった。部屋で唯一黒い、棺。夫が娘のために発注した、冷凍庫。  蓋は電子錠で閉ざされていたが、暗証番号の推測は容易だった。娘の誕生日を押すとロックが外れ、蓋が開く。冷えた死臭が頬を撫でた。 「雨月……」  波打つ髪。笑っているような口元。まだ十五歳の、これから大きくなるはずだった体。  ひやりとした冷気に横たわる愛娘に、千夏は涙した。  眠るように目を伏せている娘は、あの日病院で見たときの姿のまま。服だけは、白い貫頭衣に着替えさせられている。 「雨月、ごめんね。ごめんなさい」  熱い涙が娘の体を痛めないように拭う。いつか生き返らせる日のために、夫は娘の亡骸を凍らせた。金を積んで傷まないよう処置を行い、複数のルートを経由し、バレないようここに運び込ませた。  口出しする権利は、千夏にはなかった。だからずっと、ここに娘がいると知りながら、会いに行く勇気もなく、見逃してきた。  その間ずっと、娘はここにいた。冷たく凍りついて、天に昇ることも、土に還ることもできず、ひとりぼっちで。 「帰りましょう、雨月。お母さんといっしょに」  千夏は棺の電源を落とした。後悔するのはわかっていたが、未練を引きずることはなくなると、そう信じていた。 【記録中断】
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記録外:雨月夜に誓う

「なあ、ないのか? 不確かなものでいいんだ。必ず実現してみせる、だからっ」 「加賀博士……」  曇り空に月の隠れた、暗い夜だった。  病院の安置室で娘と対面した後。妻に怒鳴り散らし、病院を飛び出してから。  時雨はある男と面会の約束を取り付け、ようやく会えた途端、恥も外聞もなく縋り付いた。 「博士、落ち着いてください。娘さんのことは気の毒だと思います。  ですが、反魂の法なんて……」  夜間とはいえ疎らにある人目を気にした男に引っ張られ、路地裏で説得される。頷けるはずもなく、時雨は地面に膝をついて、男の止める手も聞かずに額づいた。  この男は、神連という組織の人間だった。詳しくは知らないが、現代の科学では解明できない超常現象を扱う組織だ。以前、時雨の勤める製薬会社で起きた不可解な事件を調査に訪れ、以来、助力を請われ何度か協力してきた。  深い付き合いは避けていた。神連から求められたのは時雨の交流関係を当てにした口利きばかりだったし、法則も何もなく再現が困難な超常現象に興味は惹かれなかった。  これまでは。 「頼む。娘を、娘を助けられるなら、なんでもする。この通りだ。だから……」 「いいんじゃない? 教えてあげなよ」  唐突に響いた声に、地べたに這いつくばったまま、時雨は顔を上げた。  朧月を背にした人影が、時雨を見下ろして嗤っていた。雲間から射した月明かりが照らす黒帽子に、神連が呻く。 「十五とうごさん……」 「職務放棄は感心しないなぁ、神結くん。スカウトも君の仕事でしょ?  万年人手不足なんだから、差し出された手は遠慮せず掴みなよ」  十五と呼ばれた男が、黒帽子を押さえて路地裏に入ってくる。日焼けしているのか地黒なのか、精悍な面差しが浮かべる野卑な笑みに、神連が危険な獣を目にしたように後ずさった。  時雨は気にしなかった。立ち上がり、ニヤついた長身に向き直る。 「あなたは、知ってるのか? 娘を……」 「生き返らせる方法?  そうだなあ。君は、憑神って知ってる?」  逆に尋ねられ首を横に振った時雨に、十五は教えてくれた。  死した獣を神にして、呪いと引き換えに権能を授かる呪術。授かる権能は多種多様。その中に…… 「物質の時間を巻き戻す権能、というのがある。龍の、なんだけどね。  ただ、私も現役の龍の憑神は見たことがないなぁ」 「龍……」  想像上の、ではない。伝承の元になったとされる水棲生物で、世界でも数匹しか確認されていない幻の魚だ。  個人が所有しようとしたら、費用は桁が億でも足らない。そもそも金では解決できない。死なせれば世界中から非難される、希少生物。 「それに、憑神を狙って作るのは難しい。馬券の三連単を当てるようなものだよ。知識があれば成功率は上がるけど、成功が保証されるわけじゃない。  希少生物を狙って憑神にするのは、ちょっと厳しいかな」 「確実に、憑神にする方法があれば……?」  時雨の言葉に、十五はニタリと嗤った。神連の男が慌てて口を挟む。 「待ってください、加賀博士。そんな方法はありません。  狙って作れた例だって、何度も回数を重ねてやっと成功させてるんです。上手くいくはずが」 「無ければ、作ればいい。それが科学だ」  尚も言い募ろうとした神連が、十五の指で口を塞がれ押し黙る。 「いいじゃない。手伝ってもらいなよ。神連の中で、長寿をもたらす蛇の憑神と、不老を授ける鶏の憑神を作る計画があったでしょ?  資金繰りだって狗神を飼ってるのに万年苦労してるんだからさ。加賀博士くらいビッグネームの人が参加したら、スポンサーも募りやすいと思うなあ」  利用されているのはわかったが、望むところだった。  娘を、雨月を取り戻せるのなら、なんだってする。 「娘の亡骸は、どうすればいい?」 「う~ん。時間を遡らせるとはいえ、保存状態が良好なのに越したことはないからね。  なんなら私のほうで手配しておこうか? 手間賃はもらうけど」 「っ。ああ、頼む。終わったら、私の元に帰してくれ」 「管理も人任せにしたほうがお手軽で確実だと思うけど。  まぁいいや。頼んでおくよ」  十五に感謝して頷く。娘を一時手放すのは抵抗があったが、やむを得ない。  雨月の笑顔が──幼かった頃、肩車をしたときの重みが、時雨の頭を叩く手のひらが、最後の「行ってきます」が、焦燥を募らせる。  必ず、娘を取り戻す。  あんな馬鹿げた事故で娘を失うなど、あってはならない。  煮えたぎるような決意を胸に、時雨は空を見上げた。  月は再び雲に隠れ、雨が降り始めていた。
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記録外:海辺の薬屋にて

 地平の彼方まで続く白浜と海に臨む街。積み重なった歴史が形作る街並みに、煙る緑と古びた影が重なる都。  燃え立つ夕陽が黄金こがねの海に沈んで、紺青の夜を白い月が照らす頃。ようやく、その薬屋は明かりを灯した。  暗闇にポツンと佇む光に誘われて、木枠に曇りガラスをはめ込んだ戸を横に引くと、種々様々な獣や草木を燻した匂いが客を迎え入れた。  木張りの店内には生薬を仕舞った棚が壁際にずらりと並び、商品棚には出来合いの漢方薬の他にも、上品な包装の匂い袋や戯れに作った薬草茶が置かれている。  その奥──薬研や乳鉢、天秤といった調剤器具を飾った木机に肘をついて、夜に咲く大輪の花のような貴人が微笑んでいた。 「いらっしゃい。  おや、十五とうごさん。久しぶり」 「やあルナくん。今晩和」  蓬生アブサン酒めいた芳しい声にサラリと愛想を返して、十五はカウンターに寄った。  机で寛いでいた店主、月輪ツキノワ ルナが、樹海の陰を思わせる黒髪を揺らして小首を傾げる。月光が滴るような白い肌は、間近で見てもシミどころかヒゲの剃り跡すら見つからない。  人間なのが疑わしく思える美貌だが、十五にとって興味深いのは容姿ではなく行いであり、今回用があるのはルナの作る薬だった。 「十五さんが来たということは、また悪巧みかな?」 「やだな、今回は人助けだよ。  ルナくんが面白い酒を手に入れたって聞いてさ」 「ああ、黒髪酒? ちょっと待ってね」  背中を向けた和風のシャツを見送って、十五は店の隅に目をやった。 「今晩和、うみちゃん」  膝を抱えた白い女は、挨拶どころか視線すら返さなかった。髪は白く、肌も白く、ボサボサの前髪から覗く茫洋とした目だけが、鮮血のように赤い。  何度か顔を合わせているのだが、相変わらず慣れる気配がない。餌付けを試みようとしたこともあったのだが、ルナに「十五さんはダメ」と釘を刺されたので諦めている。 「お待たせ。こちらになります」  戻ってきたルナが掲げた酒瓶は、青空を映す清水に墨を垂らしたような、透き通る暗い色を湛えていた。 「九州の呪祖蛇を封じた不老長寿の神酒、って話だったけど、生きてる人が飲んだら死ぬね。薬効以前に呪いが強すぎる」 「死んでる人に飲ませたら面白いことになるんでしょ?」 「新鮮な死体じゃないと意味ないけど、防腐剤としては一級品だね。獲物を美しいまま保とうとするから、浴びせて染み込ませれば内臓までツヤツヤのままだよ」 「美容に使えなくて残念」と赤い唇を尖らせるルナに、十五は白紙の小切手を渡した。 「太っ腹だね」と受け取ったルナが、サラサラと金額を書いて見せる。 「あれ、思ったより安いね。いいの?」 「俺じゃ使い道ないからね。生薬の保存にどうかなとも思ったけど、神憑きならともかく、一般のお客さんが摂取するのは浄めた後でも危なそうだし。  十五さんこそ良いの? この呪祖蛇、封じてるのは神連なんでしょう? 十五さんならそっちからでも手に入れられそうだけど」 「今回は依頼主にあんまり神連と仲良くなって欲しくないんだよね。そのほうが面白くなりそうだから」 「ふぅん。ま、俺はいつも通り、師匠せんせいに会おうとしないって約束を守ってくれたらそれでいいよ」  今度は十五が唇を尖らせた。 「君を躾けたって先生、興味あるんだけどなぁ」 「縁があればそのうち会えるよ。俺がきっかけで悪党に遭わせるのは悪いなってだけだから」  この男がこれほど気を使う人間にますます興味が湧いたが、十五は大人しく小切手に署名した。一石二鳥は企み事の基本だが、この場合は二兎を追う者は、だろう。 「毎度あり。用法用量はお守りください」 「りょーかい。じゃあねルナくん、海ちゃん」  白い女は相変わらず動かず、ルナもそれを咎めない。  自分と話さないよう命じているのだろうなと当たりをつけた十五の背を、冷えた美酒のような声が撫でた。 「十五さん」  月の化身のような男が、真珠色の歯を覗かせている。 「よい月見を」  十五は、サラリと愛想を返した。 「ルナくんも。よい月見を」  店を背に戸を閉める。漢方薬の籠もったにおいから開放されて、涼しい風が頬を撫でた。  あのふたりも面白そうだが、今はこっちだ。もらった毒酒を掲げて、白い半月に透かす。  さて。この話の種は、面白い物語に育ってくれるだろうか。  それを楽しみにしながら、十五は加賀 雨月の遺体の保存処理と搬送ルートの手配をしに、夜の街を歩き、別の店へ向かった。
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記録再開:No.133:氷の棺

 冷気が抜けるのを待って、千夏は棺の中の雨月に触れた。手のひらを刺すような冷たさが、克明に娘の死を告げる。  触れているだけで手がかじかみ、指先の感覚がなくなるほど冷たい亡骸を、それでも千夏は持ち上げた。  どんな施術をしたのか、思ったより柔らかい。流れる血も心臓の鼓動もなく、なのに弾む肌はそのまま、力が抜けたように腕が垂れて、慌てて抱える。  なるべくぶつけないように、引きずらないように、ずっしりとした重みに耐え、そっと床に横たえる。 「あなたが赤ちゃんだった頃は、もっと重かったのよ」  そう、強がりを言う。抱っこしてないとすぐ泣き出して、大変だった。  雨月の頬を撫でる。変わらず冷たい皮膚に、涙が頬を伝った。  夫を止められなかった。私も、あなたに生き返ってほしかったから。また笑ってほしかったから。もっと生きていてほしかった。あなたが羽ばたいていく未来がほしかった。  だけど、そのために他の生き物を虐げるなんて、許されない。サニーと過ごして、やっと、それに気づけた。  だから。娘を土に返して、夫に告げるのだ。雨月は亡くなったのだと。  あなたがいた昨日より、辛く、冷たいけれど、それでも、あなたを悼むことのできる、明日へ向かうために。 「雨月。お母さんを、許して」  何に対する謝罪なのか、千夏にもわからなかった。  わからなかったけれど、何もかもが申し訳なくて、千夏は雨月を抱き起こした。体温ですら傷んでしまう娘の体を、強く抱擁する。胸を刺す冷たさが、今の自分には必要なことだった。 (お母さん……)  雨月の声が聞こえた気がした。  お腹を押されたような心地に、千夏は思わず娘から体を離した。 「雨月?」  雨月は動いていない。当たり前だ。  でも、お腹が、少し、おかしいような。 「…………雨月、ちょっと、ごめんね」  躊躇って、でも、胸騒ぎが止まらなくて、千夏は一言断ってから、雨月に着せられた貫頭衣の裾に触れた。凍らない材質で出来ているらしく、皮膚にくっつきもせず、楽に捲れる。 「なに、これ……」  雨月の白い腹に、傷があった。雑に切られて、縫われている。手術痕なんかじゃない。こんな傷、雨月の腹になかった。  解剖の痕でもない。もっと、もっとつたなくて、おぞましい、何か。  縫い目から、何かが見える。それが娘の腹を膨らませて、こぼれようとしている。  確かめたくなくて、でも、確かめずにはいられなくて、千夏は糸を引っ張った。  凍った糸が折れる。バキポキと。雨月のお腹から、ゴロリと、詰め物が転がり落ちる。  それは、パッケージされたままの、塊肉だった。ハム。真空パックのハンバーグ。鶏肉の照り焼き。ソーセージ。 「なん、で?」  意味がわからなくて、千夏は呻いた。  どうして。誰かが。雨月の内臓を、盗んだ? この部屋に入れるのは夫と私だけ。夫がこんなことするはずがない。  雨月がここに運ばれてくるまでの間に、経由した業者の誰かが。雨月の、娘の、体の、中身を。盗んだ。  代わりに、食肉を入れた。凍ってしまえば、わからないように。この体はただの肉塊なのだと、嗤うように。 「あ」  声が漏れた。何の意味も成さない声。壊れた笛のように、静かに、甲高く、割れて、粉々になる。獣の遠吠えのように。  千夏は悲鳴を上げた。何もかもを拒絶して泣き叫んだ。  警備員が外で扉を叩いても。  駆けつけた夫に怒鳴られ、殴り飛ばされても。  ずっと、ずっと。 【記録中断】
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記録外:ある葬儀会社の食卓

「なんスか? コレ」 「ああ、ウチで預かるよう頼まれたんだ。ほら、最近贔屓のとこの」  清掃員であり家政婦であり、母代わりの義姉であり相棒でもある憑神、狸のアダシノが運ばれてきた冷凍庫を覗いて首を傾げるのに、野辺のべ 送太郎そうたろうは答えた。  送太郎はアダシノと契約した代償で、人肉でしか栄養を得られない体質だ。生きている人間を襲うと面倒が多いので、親から継いだ小さな葬儀会社を営む傍ら、火葬前のご遺体からちょっくら肉を頂戴している。  だが、たまには骨でじっくり出汁を取ったり、遺体で思う存分遊んだり、大皿の飾り付けに挑戦してみたい。引き取り手のない無縁仏や身元不明人ならじっくり丸ごと食べ放題の遊び放題なので、送太郎たちはそういった遺体を積極的に引き受けている。  お陰で公的機関や慈善団体からの覚えがめでたかったが、密かに後ろ暗い遺体を調達するところとも繋がりができた。もちろん、言い逃れできる範疇で。  今回保管を頼まれた冷凍庫も、その筋からだった。 「冷凍してるんスよね、コレ。なんでまた」 「なるべくずっと保存したいんだって。  アレじゃないかな。体を冷凍保存して、遠い未来の科学技術で復活させてもらうっていう」  日本では実施されていないが、海外でそういうサービスがあるのを耳にしたことがある。  費用も莫大で金持ちの道楽としか思えなかったが、首から上を切り取って脳だけの保存なら割引とか、よくもまぁそこまでと思ったものだ。  運ばれてきた特製の冷凍庫に保存されている少女も、その口だろうか。  十代の、愛されて育った健やかな雰囲気で、白い布きれを羽織っただけの肌は凍っているのに瑞々しく、有り体に言って、すごく、美味しそうだった。 「…………」  くだんの、人体冷凍サービスの話を思い出す。作業をする職員の間で預かった体の扱いが雑だったり、残された胴体の内臓を取り出して売り捌いていた施設があったという話。  体を冷凍したって、凍らせるのも解凍させるのも細胞を壊すのには変わりない。それで生き返るのなんてフィクションの中だけだと、送太郎は思う。内臓くらいなら解凍して移植するのに成功した話があった気がするが、どうでもいい。  チラ見すると、アダシノも神妙な顔をしていた。 「これ、ウチの後は、また別の業者のとこに運ばれるんスよね?」 「うん。俺らの前の送り主も大元の依頼主じゃないし、そうやってたらい回しにして、この子の行方をわからなくさせるつもりだろうな」  ふたりして、頷く。同じことを考えているとわかったが、声に出して確認する。 「俺たちがこの子をちょっとつまみ食いしても、たらい回しにされた業者の誰が犯人なのかはわからないし、わざわざ探すやつはいない」 「凍らせてるんだから、ガワを取り繕えば、中身がどうなってても気づかれない、っスよねぇ?」  にんまりと笑い合い、ウキウキと準備する。都合の良い楽観だとわかっているが、こんなに健康的な若い肉、滅多に食べれない。  用意するのは切れ味抜群の刺身包丁。糸と針もついでに。貫頭衣を捲って触れた少女の腹は、思いの外柔らかかった。 「あれ、冷凍してないのかな?」 「アレじゃないスか、血を凍らない汁と交換してるんスよ」  くんくんと取り出した内臓を嗅いだアダシノが眉をしかめる。 「キツめの薬使ってるみたいっスね。下拵えは丁寧にやらないとっス」 「アダシノに任せるよ。  う~ん、縫うのはこれで大丈夫かな。やっぱエンバーミング習ったほうがいいか」 「今回はいいけど、できたほうがご馳走になるチャンスが増えるっスよね。  あ、中に詰めるの、お歳暮でもらった高級ハムがあるっスよ」 「おっ、いいね。なるたけ詰めておくか」  送太郎は偽装のため普段から愛想良く振る舞っているのだが、食事系の雑談で肉料理が好きだと語ったせいで、毎年食べられない肉が大量に贈られるようになってしまった。これを機に処分してしまおう。  空っぽになった少女の腹に、冷凍庫に眠っていた肉を詰め込む。せめてものお礼に、なるべく高いやつを。  送太郎が遺体の偽装をしている間に、アダシノは夕飯の準備を進めた。  桶に入れた肉塊を台所で洗う。酒のにおいのする防腐剤だか不凍液だかが、剥がれて水に流れていく。  さほど新鮮ではないが腐ってもいない、熟成した良い肉だ。それぞれ下拵えを済ませたらサッと湯通しして、今晩は使わないぶんは長く楽しめるよう冷蔵庫に閉まっておく。  心臓は鍋に移して醤油に砂糖とみりんで甘く煮詰める。旨味を逃さないように。肉の風味を損なわず、主人の舌を喜ばせるように。  腸の処理は念入りに。こっちはニンニクと粉唐辛子に塩コショウをまぶして、ゴマ油で炒める。火が通ったら蓋をして、ふっくらジューシーに仕上がるように。  血抜きを済ませた腎臓は、少し迷ったが昨日の残りの肉と合わせることにする。たっぷりの油で炒めて香草といっしょに煮詰めたら、パイシートで包んでオーブンへ。パイは主人の糧にならないが、バターの香りが肉の風味を引き立ててくれるように。  夕飯時。皿に盛られた艶々輝く少女の中身をうっとり眺めて、送太郎とアダシノは食卓を囲み、手を合わせて声を揃えた。 「「いただきます!」」  今日の晩ごはんは、お姫様の心臓の甘露煮。乙女のはらわたのピリ辛炒め。姫と下男のキドニーパイ。  とっても美味しいと舌鼓を打って、送太郎とアダシノは少女に「ごちそうさまでした」と手を合わせて感謝した。
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記録再開:No.133:氷の棺

「どうしてだ。何があった。泣いてないで言え。聞いているのか!!」  夫の怒声に、千夏は泣いていることしかできなかった。  千夏にもわからない。何が起きたのかなんて。どうしてこうなったのかなんて。雨月の身に、何が起きたのかなんて。  何が悪いのか。誰が悪いのか。悪かったのは。間違っていたのは── 「言え、このっ……グズ!」  夫の拳が千夏の頬を殴り飛ばした。床に倒れて、夫を見上げる。夫の、時雨の目が、あの日以来初めて、真正面から千夏を捉えて。  もはや愛情の失せた侮蔑と憎しみが、千夏を射抜いた。 「ご、ごめんなさい……」  囁く。夫が怒鳴る。繰り返し謝罪する。夫は止まらない。誰も止めない。  遠巻きにしている研究員たちが、千夏を見て、気の毒そうに目を逸らす。 「グズ」 「ごめんなさい」 「脳無し」 「ごめんなさい」 「役立たず」 「ごめんなさい」 「おまえなんかと結婚するんじゃなかった」 「ごめんなさい」 「おまえなんかが母親で雨月が可哀想だ」 「ごめんなさい」 「おまえなんかが産まなければ、雨月は」 【記録中断】   *  *  *

補筆

 外部協力者の疲労が限界に達したため、客観的事実を記入し、ここの記録の主観記録は断念する。  加賀 時雨による罵倒は四時間三十六分に渡って続き、その間、加賀 千夏は謝罪を繰り返し続けた。  罵倒が止まった原因は、実験の予定開始時間の超過を研究員が進言したため。時雨は第一実験室へ向かい、千夏は独りで仕事に戻った。  所長である時雨に逆らえる人は誰もいなかったため、その怒りを買った千夏に味方する人も誰もいなかった。  加賀 雨月の亡骸は、体内に詰められていた食用肉を取り除かれた上で冷凍保存箱に戻された。なお、食用肉は時雨の命令で即刻廃棄された。  協力者の強い要請により、下記の言を記入する。 「家族や周りに当たり散らす前にカウンセリングを受けろ」  以上。人命が失われやすい組織で責務を担う一人として、肝に銘じたいと思う。
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記録No.134:転がる石

 洗濯、しなきゃ。お仕事、しなきゃ。  呆然としたまま、蛇行する通路を通って、千夏は洗濯室に来た。  ずっと怒鳴られていたから、耳鳴りがする。ズキズキと、頬が痛む。  いつものように、籠に入れられた白衣のポケットを叩いて、ペンや忘れ物が入ってないか確認する。  いつもの仕事だから、体が勝手に動く。何も考えてなくても。何も考えられなくても。  お湯で満たしたタライに、白衣を浸けていく。その間に、他の洗濯の準備をする。洗濯機の手洗いモードを押して、便利な時代になったわねと、ふふっと笑う。  昔、あの人が白衣のポケットにペンを入れたまま洗濯に出したことがあって、洗濯中にインクがこぼれて白衣にシミが付いてしまったことがあった。 「すまなかった」と平謝りするあの人に、「確認しなかった私も悪かったですから」と言って、染み抜きしたら、あの人はすごいなと目を輝かせて…… 「あ……」  ポロポロと、涙がこぼれた。おかしい。今日は泣いてばかり。あんなに泣いたのに、まだ泣けてくる。  駄目だわ。しっかりしなくちゃ。涙は汗と同じ。ヨダレと同じ。せっかく洗ったものをまた汚す気かって、また叱られちゃう。また。怒られて……  千夏は天井を見上げて、泣いた。涙が沁みて、頬が痛い。  反省は無意味だった。何もかもが無駄だった。千夏がいなければ、こんなことにはならなかった。  雨月が十六歳で死ぬことはなかった。弔われずに氷漬けにされることも。運ばれる最中に体を辱められることも。両親にそれを気づいてもらえないことも。  千夏がいなければ起きなかった。 「ごめんなさい」  娘に謝った。夫に謝った。無惨に死なされた蛇たちに。無駄にさせてしまった命と人生に。繰り返し謝った。  仕事をしなくちゃ。洗濯機に入れる洗剤を探した千夏の目に、漂白剤のボトルが止まった。 「…………」  昔、雨月が飲んじゃって、慌てて救急車を呼んだことがあったっけ。  千夏は漂白剤を手に取り、蓋を外した。  あの人ったら狼狽えてどうしようどうしようって、私はそれで却って落ち着いちゃって。  千夏は蓋を捨てた。  後で君の方が医者みたいだった、って、笑ったのよね。  千夏は、漂白剤に口を付け、一気にあおった。  漂白剤の芳香が喉を突く。  口にしてはいけない液体が胃に滑り落ちるのを、千夏は歓迎した。  ごめんなさい。繰り返す。雨月。あなた。  ごめんなさい。サニー…… (千夏、大好き!) 「あ……」  ボトルが手から滑り落ちる。  一瞬で、後悔が襲ってきた。私、なんてことを。  私が死んだら、サニーは、ひとりになるのに。夫に辛く当たられるあの子を残して、死のうとするなんて。  ごめんなさい。吐き気が込み上げてきて、痙攣する手で胸を押さえ、千夏は今しがた飲み干した毒を吐こうとした。洗面所を探す。  足が。こぼれた漂白剤で滑り、洗濯物でもつれた。  一瞬の浮遊感。  床が目の前に迫る。手が。間に合わない。  頭から追突する。  衝撃。  目眩。  暗転。 (ごめんなさい、サニー)  それが最期の思考になった。   *  *  *  一時間後、職員が洗濯室に来たときには、千夏はもう死んでいた。状況から自殺と判断された。  直接の死因は転倒による脳挫傷。  当たりどころが悪かったのだと、死亡診断を担当した医師は記した。
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記録No.135:加速する地獄

 千夏にもらったスカートを撫でて、サニーは白衣のボタンを止めて身なりを整えると、実験室の前に立った。  自動ドアが開いて、蛇の巣の最奥のような、丸みを帯びた空間に到着する。 「おはよう。精が出るな、サニー」 「おはようございます」  もう昼過ぎだったが、初めて職場で顔を合わせるときは「おはよう」だとサニーは習っていた。今日の実験で使うデータをタブレットで確認し、段取りを調整する。  時雨以外との職員とは、ある程度打ち解けていた。もちろんサニーを下に見る人や露骨に嫌がる人もいたが、優しく接してくれる人もいた。 「サニー」と呼んでほしいと言うと、快く返してくれた人も。そういった人たちには、サニーも作り笑いじゃない笑顔を返せた。  だが、それでサニーが自由になれるわけではない。  時雨の論文、研究データ、資料のファイルを読み比べ、サニーは頭を悩ませた。 (わたしが憑神になったっていう時と、失敗してきた実験の内容に、大きな違いはない。  何が違うの? 何かを見落としてる。それは何?)  この頃のサニーは、真摯に研究に取り組んでいた。仲間の命を奪わなくてはならないのは苦痛だが、実験が成功すれば生き返らせることができるという一縷の希望に縋っていた。  実験が成功すれば。龍を憑神にしたら。雨月さんを生き返らせて、千夏と会わせてあげて、仲間も生き返らせて、みんなで、外に。 『黙れ。畜生』  冷ややかな時雨の顔が脳裏を過ぎり、サニーの思考が凍った。呼吸を繰り返して、不安を和らげる。  大丈夫。実験が成功したら、雨月さんに口添えしてもらえばいい。  きっと大丈夫。千夏があんなに好きな人なんだから。きっと味方してくれる。きっと。  雨月さんが生き返ったら、千夏は。 (わたしのこと、要らなくなる?)  不意に差し込んだ思考に、サニーは首を振った。  こんなことを考えるのは、時雨の命令のせいで、千夏に会えないせいだ。実験が成功したら、きっとまた会える。  だから。なんとしても実験を。 「……?」  実験の予定時刻になっても時雨が現れないのを、サニーは訝しんだ。  研究員たちも顔を見合わせて、何人かが様子を見に行くと席を立つ。 (わたしも……)  行くべきか考えて、あの冷たい顔を思い出して腰を下ろす。あのとき絞り出した勇気は尽きてしまった。必要でないなら、なるべく顔を合わせたくない。  実験の準備をしていよう。今日犠牲になる被検体の入れられた檻に近づいて、サニーは腰を屈めた。 「おはよう。今日は、よろしくね」  鮮やかに赤い蛇が、つぶらな目でこっちを見てくる。かわいいな、とサニーは思い、自分の感情を確認した。  これが、可愛いという感情。職員の中には蛇が苦手な者もいたが、サニーにとって蛇はどれも可愛いものだった。  この命を、今日、奪う。サニーは目を伏せた。実験を早く成功させないと、犠牲が増える一方。なのに、この実験には、何かが足りない。  自由が欲しい。サニーは唇を噛んだ。  サニーが読める書籍は時雨が許可したものだけで、その偏りが検証に死角を生んでいると、サニーの頭脳は告げていた。  だが、所長である時雨はサニーが余計な知識をつけるのを厭い、外と繋がっているインターネットの使用を許さない。どうにもならないとわかっていても、焦燥が募る。自由になるために、自由が欲しい。  ジレンマに悩むサニーの腕に、蛇の舌が触れた。くすぐったさに笑う。 「慰めてくれるの? ありがとう」 「おいサニー、噛まれるなよ。そいつ毒あるんだからな」 「噛まれないよ。わたしだって蛇だし」  軽く笑って被検体D−0365──サンロッコと秘かに名づけた仲間に手を振る。今度こそ成功してほしい、そう思いながら。  時雨が来たのは、結局、五時間近く経ってからだった。命令により千夏に会いにも行けず、偶然すれ違うこともできず、サニーは暇な時間を過ごした。  この五時間を、サニーは生涯悔いることになる。   *  *  * 「待たせたな。実験を開始する」  現れた時雨は様子がおかしかった。助手たちも。なんだか目配せしたり、ちらちらと時雨を見たり、そわそわしてる。  なんだろうと思いながら、主人が来た以上私語は厳禁だった。粛々と実験の準備を進める。 「今回から、実験に一部変更を変える。  今までの実験では、被検体に与える苦痛が足りなかったのではという仮説に基づき、薬剤を……」  主人が何を言っているのか、サニーは理解が遅れた。  主人の投与しようとしている薬剤が、被検体の肉を生きながらに腐らせるものだと理解し、血の気が引く。 「待ってください、なんでそんな、いきなり」 「黙れ。  これは呪祖蛇となった大蛇が、毒によって腐らされ死んだ逸話に基づくものだ。  憑神の起源は祟りを封ずる儀式。  憑神への転生には人間だけでなく獣の想念も関係するという仮説の基、贄となる蛇に、人間を呪わせる」  サニーの頭脳が、主人の仮説に頷いてしまう。憑神の始まりは、贄に捧げられた獣の祟り。原点に則るのは再現実験として正しい。  でも、そんなこと。サンロッコと目が合う。艶々した縦長の瞳孔がサニーを見つめる。今までの毒は、眠るように死ぬものだった。なのに。 「薬剤の投与は、D−0032。おまえがやれ」 (……え?)  声は封じられていた。体が勝手に動く。時雨に従順に。自ら歩いて、注射器を受け取る。 (やめて。やめて)  体が動く。視線だけを彷徨わせる。研究員と目が合う。気の毒そうに顔を逸らされる。研究員と目が合う。顔を顰められる。研究員と目が合う。目が合う。目が合う。  誰も、助けてくれない。どうして。 (それは当然だよ。だって、違う生き物だもの。  わたしだって、みんなにあげるネズミやヒヨコに同情しないでしょ? それといっしょ)  冷静な自分が回答する。冷凍のネズミ。ヒヨコ。いっぱい、仲間に食べさせた。美味しい? なんて聞いたりした。仲間がお腹いっぱいだと、嬉しかった。  人権、という言葉が思い浮かぶ。サニーには与えられない権利。人の形をしていても、死んだ蛇の霊であるサニーは、時雨だけでなく、この場の全員にとって、便利な道具に過ぎない。  愛玩動物、という言葉が思い浮かぶ。サニーに優しいか、優しくないかは関係ない。愛でられるのも道具の役割。道具扱いには変わりない。  それは、仲間たちを慈しみながら、愛しく思いながら、何もできずにいるサニーと、何が違うのだ? 「あ……」  サンロッコと目が合う。やめて。そんな目でわたしを見ないで。逃げて。  サンロッコが首を伸ばす。他の研究員なら、麻酔をかけて眠らせなければ、噛まれる危険がある。でも、サニーなら。サンロッコは噛まない。絶対に。  自分の手が、サンロッコの首をそっと固定するのを、サニーは感じた。ひやりとしていて、すべすべしている。柔らかな喉元に、注射器を向ける。 (お願い、誰か、助けて──!)  祈りは届かず、地獄が始まった。 【記録中断】 【記録再開】  サニーは椅子から立ち上がれなかった。目に、ついさっきまで見続けたサンロッコの死に様が、目に 【記録中断】 【記録再開】 「おい、サニー、大丈夫か」  声をかけられ、サニーは首を振った。誰の顔も見たくなかった。  今のは、いつも挨拶してくれた人の声。さっき、わたしから、顔を背けた人の声。  ヒソヒソと声がする。色んな人の声。 「所長、荒れてたな」 「そりゃ娘さんと奥さんがあんなことになったら」 「でもあれって、所長の」 「ちなつ?」  聞き捨てならない名前に、サニーは顔を上げた。  ひび割れたサニーの表情に、研究員たちが気まずそうに黙り込む。 「千夏が、どうかしたの? 何かあったの? ねぇっ!」 「何の騒ぎだ」  時雨が戻ってきた。不機嫌そうな顔に、いつもより険がある。  息を呑んで、でも勇気を振り絞って、サニーは懇願した。 「千夏に、会わせて、ください」  時雨が青筋を立てる。  怒鳴られる。  身を竦ませたサニーの隣から、声が発せられた。 「あのっ! 所長、会わせてあげてもいいんじゃないかなー……なんて」  沈黙。蛇に睨まれたような。  共感できなかった慣用句が、こういうことかと実感できる時間の末、時雨は踵を返した。 「ついて来い」  信じられない想いで目を見開き、気が変わらないうちにと急いで後を追う。振り返る。  味方してくれた人は早く行けと手を振っていて、サニーは会釈をして、時雨の背中を、初めて喜びと共に追いかけた。  久しぶりに千夏に会えると、このときサニーは、そう浮かれていた。  仲間に薬を打った記憶から逃げるように、足を弾ませた。
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記録No.136:かくて地の底に神は生ずる

 骨のように白い、霊安室。卵のように丸い壁には呪祖を唱える音響装置が埋められて、そのそばに、邪魔にならないようにそっと、千夏が置かれていた。 「ちなつ?」  千夏は眠っていた。無機質な台に仰向けに乗せられて、目を伏せている。  実験で亡くなった蛇はこの部屋に安置され、憑神化の兆候がなければ廃棄される。  でも実は、千夏がこっそり外に運んで、手作りの墓に弔ってくれていた。サニーも、出口まで運ぶところまでは、何度か手伝った。外に出るのは許されなかったけど、千夏といっしょに仲間を弔えるのは、嬉しかった。  千夏がどうして、ここで眠っているのか。こんなところで寝ていたら、風邪を引いてしまう。ここは空調が冷たいから。人間は憑神と違って脆いから。だから。 「千夏」 「その女は死んだ。自殺だ。  まったく、最期まで迷惑な女だ」 「じさつ?」  頭の中で言葉が組み合わさる。自殺。自分を殺すこと。どうして? わたしがいるのに。会いに行けなかったから? いつ?  今日の実験。時雨は遅れた。五時間も。何をしてたの? 千夏。千夏はその間に。わたしは。何を。  何もしていなかった。  サニーはへたり込んだ。体が震える。寒い。そんな言葉が思い浮かぶ。  寒い。これが、寒い。おかしいよ。わたしは蛇なのに。眠くならないの。どうして? 千夏、教えて。 「どう、して、千夏は」 「どうでもいい。D−0365が運ばれてきたら処置をしろ。その後は明日からの実験の計画を」  時雨からの命令が耳を素通りして、頭に刻まれる。  憑神は命令に逆らえない。だから、言われた通りにしないといけない。だけど。 「以上だ」 「──待ってください!」  背を向けた時雨に、サニーは叫んだ。 「実験が成功したら、龍の憑神が作れたら、千夏も、生き返りますよね!?」  時雨は足を止めた。 「生き返らせるわけがないだろう。そんな愚図」  そう言い捨てて、去っていく。扉が閉まる。誰もいなくなる。  ここには誰もいない。千夏がいるのに。ここにはサニーしかいない。  サニーは外を知らない。お日様を知らない。木漏れ日を知らない。日向ぼっこを知らない。  よく晴れた暖かい春の日に、木陰に座って、うとうとお昼寝すると、どんな心地になるのか、体験したことはない。  千夏が読み聞かせてくれた、絵本の中でしか。 『そうしてお姫様はいつまでもいつまでも、暖かな陽だまりのお城で、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。  面白かった? サニー』  その日は永遠に来ないのだと、サニーは悟った。  寒い。とても寒い。きっと、永遠に寒い。  血が冷えて、指先が凍えて、凍った心臓が地面にこぼれ落ちて、暗闇に転がっていく。きっと永遠に帰らない。  涙が凍るという言葉を、サニーは実感した。先ほどの実験を思い出す。  誰も助けてくれなかった。あの後、助けてくれたと思った人も、ただ自分を慰めるために、サニーに口添えしただけだった。  サニーと同じように。仲間たちを助けたいと言いながら、言いなりになって実験に加担して、罪悪感を紛らわせるために優しくしたように。 「誰も、助けてくれない」  千夏は死んだ。仲間たちは囚われていて、無力だ。  人間ではないサニーを助けてくれる人なんて、外の世界にも、どこにもいない。 「わたしが、やるしかない」  時雨の実験が実を結ぶ日は来ないと、サニーの頭脳が冷徹に告げる。  あの男は愚かだ。自分を賢いと思って、自分の考えに拘泥し、過ちを認めない。だから、永遠に成功しない。  龍の憑神が生まれ、失われたものが蘇る日は、やって来ない。誰も生き返らない。罪は赦されない。愛する者は蘇らない。  だから、もう、これ以上、奪わせないために。 「わたしが、加賀 時雨を殺す」  D−0032は、暗い地の底で、死した女を前に誓いを捧げた。  サニーは祈ることをやめ、神になったのだ。憎い主人を殺す、そのためだけの神に。  その行いが何をもたらすのか、知る由もなく。ただ一途に、主人の寝首を掻いてみせると誓った。 【記録中断】