落日の女王

「ああ……」  霊安室でひとり、サニーは顔を覆った。造花の手向けられた祭壇には、最後の被検体D-0666──ムロロだった肉塊が、ついに蠢くのを止めて沈黙している。  わたしは失敗した。暴動は起こらず、外部からの襲撃は来ず、実験は再開され、残された仲間は最後の一匹に至るまで虐殺された。  どうすればよかったのか。虚しくサニーはひとりごちた。なんとしてでも、この手で時雨を殺せば良かったのか。  それができるならとっくにやってる。己の頭脳が冷酷に囁く。ただ、わたしが無力だっただけ。  何もできなかった。仲間を救うことも、時雨を殺すことも、憑神を作ることも。  憑神を作る。それさえできていたら、仲間も、千夏も。 「ぁ……」  天啓が閃いた。人間ならば悪魔の囁きと呼ぶそれに、サニーは己の肩を抱き、打ち震えた。  わたしは馬鹿だ。仲間たちを憑神にする。その手段ならあった。すぐ近くに。  こんな簡単な方法に、今まで気づかなかったなんて。仲間がいなくなって、ようやく。  祭壇の肉塊に顔を寄せる。爆ぜた目玉に囁く。 「ごめんね」  サニーは仲間の亡骸を手のひらで掬い、毒牙を突き立てた。  酸鼻極める死臭が舌から喉に流れ込んできたが、仲間に再会できるのなら耐えられた。   *  *  *  食堂で栄養バーを頬張り、ドリンクで押し流して、研究員の男は虚しさに嘆息した。  所長夫人が亡くなって、研究所の生活水準はみるみる低下していった。後任のスタッフが権力争いに没頭してるから当然だが。  ありゃスパイだなと、自分を棚上げして男は思った。  男は定期的に研究所の様子を神連に報告する任を担っている。場合によっては研究所の殲滅を進言する役だ。その役割を全うできているとは、言い難いが。  男は、自分がラインを超えている自覚があった。ここはもう終わりだ。被検体たちの呪いは限界値に達している。何人ものスタッフが暗闇から蛇の這いずる音を聞き、眠れずに精神に異常を来たしていた。  一刻も早くここを潰さないといけない。わかっているのに、男は考えてしまった。ここを潰したら、サニーは。  金髪の素朴な笑顔の女を思い浮かべる。憑神だ、死霊だ、蛇だと言い聞かせたところで、高鳴る胸は抑えられない。スパイ映画で鼻で笑っていた展開に、まさか自分が引っかかるとは。  どうすればいいのか。決断を先延ばしにしているだけだとわかっていてなお、どうすることもできず、男は顔を上げた。  いつの間にか来ていたサニーが、向かいの席から自分を覗き込んでいた。 「さっ、サニーっ!?」  思わず椅子ごと顔を引いて、男は違和感を覚えた。  サニーが、眼鏡をしていない。笑顔も違う。いつもすっぴんなのに、化粧をしてる。  眉を描き、口紅を引いて、アイラインまで…… 「おまえ、誰だ?」  サニーじゃない。確信は遅かった。足が動かない。蛇の尾に、巻き付かれて。 「君、スパイだよね?」  サニーに良く似た、サニーではない声に首筋を噛まれ、脳と心臓を灼く激痛に、男は永遠に意識を失った。   *  *  *  悲鳴と混乱があちこちに渦巻いていた。なのに警報は鳴らず、扉が開かず、職員らは食堂に誘導され、閉じ込められた。  だれか、たすけて。D−0032が。通信が、警備室に繋がらない。たすけて。D−0032が来る。 「騒がしい。静かにしろ、みっともない」 「所長……!」  うるさげに登場した時雨に、職員たちは泣きついた。 「所長、D−0032が反乱を起こしました! 早く命令で鎮圧を」 「必要ない。反乱など起きていないからな」 「その通り。皆さん、お騒がせしてすみません。  でも大丈夫。この通り、わたしは正気ですよ」  時雨の後ろから現れたサニーに、職員は息を呑んで竦み上がった。  サニーのくたびれた白衣が、血に染まっている。赤黒い布地が細い肢体に貼りついて、まるで淫蕩なドレスのようだった。  靴を脱ぎ捨てた素足も爪先からべったりと血を滴らせ、貴婦人の裳裾のように、這いずる蛇のように、足の輪郭を隠している。  赤く濡れる唇が、すっかり見慣れたと思っていたサニーの毒牙を禍々しく縁取っていた。 「さっ、サニー? ほんとに? 一体、何が……」 「他の被検体を憑神にするのに成功しました。  といっても、わたしの分神にしただけですけどね」  同じ種に分類される複数の獣が、合わせて一柱の憑神になることがある。実験でも何度か試みられ、終ぞ成功しなかった手法だが、サニーがしたのはそれだ。  実行したあとで時雨に確認したところ、既に成立している憑神に後から死んだ獣を加えた事例は、干支という概念に数えられる獣でのみ確認されているそうだ。  サニーに教えなかったのは、時雨たちが求めたのは新たな憑神を作る方法だからだろう。もはやどうでもいいことだ。  仲間たちが、いっしょにいる。サニーは満たされていた。 「サニー、スパイの人たちの処理が終わったわよ」 「おんなじやつは檻にいれておいたよっ」  サニーの言葉を証明するように、サニーより更に背の高い女と、サニーを幼くしたような少女がやってきた。サニーと微妙に顔立ちは違うが、特徴はよく似ている。  サニーが取り込む形で憑神になったせいだろうか。本当に姉妹になったようで、サニーは嬉しかった。 「ありがとう。コハル、ムロロ。  皆さん、お待たせしました。もうじき業務に戻れますよ」 「すっ、スパイ? って……」 「ええ。情報を他所に流していた証拠を掴みました。  所長には報告しましたが、逃げられるわけにはいかなかったので、こうして奇襲を。  怖がらせてしまってごめんなさい」  頭を下げる。サニーは生まれてから一度も狩りをしたことがないが、仲間たちの中には人間と縄張りを奪い合った者もいる。彼らにスパイを狩ってもらった。  さすがに665の同胞すべてを一度に顕現させることはできず、同時に存在できるのはサニーを含めて七匹が限度だが、それで十分だった。  仲間たちの呪いを一身に集めたことで、サニーは己の憑神としての格が上がるのを自覚した。勝手な真似をしたサニーを時雨が許したのも、それが理由だ。  新たに死んだ獣を加えても、憑神の力の総量は変わらず、後付の同胞に力が分割されてしまう事例のほうが多いらしい。だが、サニーは違った。  恐らくはこの地下研究所で行われた一連の実験が、サニーに供物を捧げる儀式とみなされたからだろう。この成果はパトロンを繋ぎ止めるに足るものだ。  浮かれる愚かな主人をサニーは嗤った。 「所長、お待たせしました。  生き血を確保したので、早速始めましょう」 「始めるって、何を……」 「輸血だ。私と同じ血液型のスパイは、生かして捕えるよう命じていた」 「所長も増血剤や血液パックで対応してましたが、限界がありますからね。生き血が多いに越したことはありません。  ああ、皆さんの中にも、所長と同じ血液型の人がいましたね。提供はいつでも歓迎です」  新たな地獄が始まる予感に青ざめた職員たちを、サニーは笑顔の下で言祝いだ。時雨より賢い。  もう、サニーは焦る必要はなかった。仲間たちは死んで、共にいる。また蛇を殺してもサニーの一部になるだけだと予想されるため、実験は次の段階に移行することになった。もう仲間が犠牲になることはない。  喜んで時雨に尽くし続けよう。決して裏切ることなく、忠実に。その寿命を伸ばし続けよう。  一年後も。三年後も。十年後も。百年後も。喜悦にサニーは嗤った。  サニー無しでは生きられなくなっても、時雨は諦められない。永遠に続く妄執に閉じ込める。それがサニーの復讐だった。 「所長、大変です! 外に武装集団が……この研究所を襲うつもりのようですっ」  生き残った無辜の警備員が、泡を食った顔で報告する。時雨は鼻を鳴らした。 「サニー。外に出て良い。対処しろ」 「畏まりました」  恭しくお辞儀をして、サニーは生まれて初めて外へ向かった。  そのことに、もう何の感慨も覚えなかった。   *  *  * 「内部からの連絡なし。不測の事態が起こったようだ。突入する」 「了解。盛り上がってきたな」 「不謹慎だぞ」  ワクワクした様子を隠しもしない馬鹿に注意する。頼もしいが困ったやつだ。  さすがに他の連中の前では士気を下げるようなことは言わないので、信頼の証かもしれないが。  首を振り、隊長を任された神斬は前方の山を確認した。  さほど高くはない山だが、あの山を彫り抜いて秘密裏に築かれた研究所は魔窟だ。神連の目を盗んで行われていた悍ましい実験に、殲滅の命令が下されたのは今朝。  急行だったが、編成された部隊に問題はない。元々今の世の中で悪さをするのは人目を盗む小悪党が大半で、大昔のように暴れまわる妖怪など滅多にいないのだ。  今回の任務でも、確認されている憑神は研究を手伝っている非戦闘員が一柱だけ。職員の大半が研究員とその生活を支えるスタッフで、制圧は容易。相手側に無用な犠牲が出ないよう注意しないといけないくらいだ。  そのはずだったのだが。任務を受けてから、嫌な予感が止まらない。  隊長は目標の山を再度確認した。遠見の術を起動させる。  空が赤く染まっていた。 「は……?」  夕焼け、ではない。天を舐める大蛇が六尾、瘴気を振りまいて空を赤く染め上げる。  その鱗は黒。違う。赤。違う。鱗から噴き出る鮮血が、血煙となって降り注ぐ。頭部から一際強く噴き出る膿が、角のような輪郭を描いた。  その根本に、黄金のように輝く女がいる。世界を赤く染め上げる夕陽のように。  血を浴びながら、穢れを知らず無垢に笑う、蛇の女王。 「楽しめそうだな」  拳を鳴らす戦友が、今だけは途方もなく頼もしかった。