蝙蝠は歌う、狼の春

幕開け Opening

 幕が開ける。  スポットライトを浴びた黒兎が、薄暗い背景を指さして朗々と語り始める。 「緑深い山間にある、長閑で素朴な村。  木こりが木材を調達して、職人が家具や楽器を作り、行商人と商いをして、遠くの都の暮らしに想いを馳せて、教会で祈りを捧げる。  そんな村の外れにある空き家に、余所者がふたり住み着きました。都から来た音楽家と、その従者です。  村人は興味津々。けれど次第に胡散臭く思いました。  従者のほうは、まぁ良いでしょう。一見陰気で物憂げですが、話しかけると気さくで礼儀正しく、洗練された物腰が嫌味でなく様になっている好青年です。  けれど主人のほうは、夜更けに村に来てから誰も顔を見ていません。散歩もせず、教会の礼拝にも出ず、家の前を通りかかった村人は従者を怒鳴る声が聞こえたと証言しました。  流行り病にでも罹っているんじゃないか。村人はそう噂しました。  従者は『確かに主人は病弱だが、感染るような病ではない』と否定しましたが、そう言われると彼の青白い肌も怪しく見えます。  村人は彼らを遠巻きにするようになりましたが、時折聞こえてくるチェロの音色は、さすが都の芸術家だと耳を澄まさずにはいられない旋律で……  おや、準備ができましたか。  では、私の出番はこの辺で。百聞は一見に如かず、とは申しますが、ここは皆様に彼の演奏を聴いていただいて、そこから物語を始めましょう。  準備はよろしいですか? 舞台が終わる頃には、きっともう一度聴きたくなる名曲ですよ」  黒兎はウィンクして袖に引っ込んで、舞台が明るくなる。
ウィンク暁月/画:竹灯
*  *  *

「誰でもいい Anyone is fine」

 よく整えられた、清潔で広々とした居間。窓の外には紅葉がはらはらと降って、暖炉が赤々と火を灯す。冬の迫る、秋の情景。  窓辺には物憂げに椅子に腰を下ろし、外を眺めている男がいる。精悍なハンサムだが、無精髭を生やし、シャツのボタンを外している姿は、端的に言ってだらしがない。  部屋の隅に控えるのは、波打つ髪を結った、佇まいの優雅な執事。白紙の五線譜を広げ、ペンを手に取り、いつでも音符を書き込めるようにしている。  黒兎が舞台袖から顔を覗かせる。 「紹介を忘れておりました。  あちらで外を眺めているのが音楽家のルドルフ。  部屋の隅で控えているのが使用人のメフィルです。  覚えていただけましたか? 彼らが物語の主役です。  主役はもう一人いるのですが……おっと、演奏が始まりますね」  黒兎はまた引っ込んだ。  予告通り、ルドルフが近くに立てかけていたチェロを抱き寄せ、その弓を手に取り、演奏を始めた。  狼の遠吠えのような、郷愁を誘う弦の歌声。  それに合わせて、ルドルフは自らも朗々と歌い始めた。 「ああ〜 オンナぁ〜 おんなーがー、抱きたい〜  だれでもいい〜  穴があってー (濡れてたらなおよし)  俺を受け止めれるならー (締まりが良けりゃ言うことなし)  誰でも~~~ (美人だとうれしい)  ブスでいいんだ~ だけど冷たい目はやめてくれー  キスが嫌ならしないさ~ だけど吐きそうってツラはやめてくれー  キスをくれ キスをくれ 投げキッスでもいいからーーーー  せめて~ 俺に~ 笑顔を~ くれよーーー」  演奏が終わる。舞台袖で、黒兎がアッチャーという顔をしている。  楽譜を書き終えたメフィルがコメントする。 「前半は下品すぎますが、後半は寂しい心情がよく出ています。  もう少し洗練されたら素敵な楽曲になりそうですね、ご主人様」 「てっめぇ人の心は無いのか! 無かったなちくしょうめ!!」  ルドルフは叫んで、肩を落とした。弓でメフィルを指す。 「なぁメフィル、おまえは悪魔だよな?」 「正確には、魔術によって蘇った大蝙蝠コウモリで……」 「細けーこた良いんだよ。おまえが俺に楽才をくれるって言うから、俺は」 「わたしと契約する前からご主人様は才能豊かな方でしたよ。  ですが、あのような酒浸りの毎日を続けておりますと」 「だー! とにかく! おまえと契約した代償に、俺は人に嫌われる呪いを受けたわけだ」 「そうですね。事前に説明しました通り、正確には」 「正確なのは楽譜だけでいいんだよ! ここに来るまでに呪いの威力はバッチリ思い知ったさ!  なんなら歌って聴かせてやろうか、ア゛ア゛!?」  宣言通りルドルフはチェロを弾き始める。
*  *  *

「ルドルフ、最高の男 Rudolf is No.1」

 暗くなっていく舞台で、ルドルフだけがスポットライトを浴びて、背後のスクリーンが都会の町並みを映す。 「俺はルドルフ。都一番のチェロ弾きさ  女はみんな俺の虜 さあ今夜も遊ぶぜ一晩中!」  ルドルフが立ち上がると、両脇から女たちが縋りつく。 「ルドルフ、ルドルフ、最高の男!」 「顔良し、声良し、ベッドも最高、何よりチェロがもう最っ高!」 「ルドルフ、ルドルフ、都一番の色男!」 「だけど最近飲んだくれ 髭面、しゃがれ声、ベッドじゃ勃たない」 「だけどチェロを聴いたら許しちゃう!」 「ルドルフ、ルドルフ、元気を出して」 「いつものあなたは、どうしたの?」  女たちが去っていく。スクリーンが荒れた部屋を映す。  酒瓶を足元に、赤ら顔のルドルフがチェロを弾いてダミ声で歌い出す。 「俺はルドルフ。都一番のチェロ弾きさ  だけど最近上手く行かない 寝不足、頭痛、こいつはスランプ?  ルドルフ、ルドルフ、いつもの俺は、どこ行った?」  家の外で、通りがかったメフィルにスポットライトが当たる。 「この演奏は?  どなたですか?」 「俺はルドルフ。しがない酔っぱらい」  聴こえてきた返事に、メフィルは首を振る 「いいえ。この歌声。耳を奪う素晴らしい旋律。  さぞ名のあるお方では?」 「聞いたことがないならそれが答えさ。  俺はルドルフ。つまらない呑んだくれ」 「申し訳ありません。都には着いたばかりでして……  ですが、胸の高鳴るこの響き。  お顔を拝見しても?」 「おお、いいぜ。入ってこいよ」  恭しく入室したメフィルに、ルドルフは酒瓶を呷りながらガッカリした。 「なんだ、男かよ。  まぁいいや。演奏代に酌してくれよ」  メフィルはルドルフに駆け寄って、酒瓶を拾い上げた。 「ああ、こんなに呑んで。お加減は?」 「全然平気さ。歌ってやろうか?」  ルドルフはまたチェロを弾く。 「俺はルドルフ。大したことないチェロ弾きさ」 「いいえ。胸を掻きむしるこの旋律。  あなたは稀代の音楽家」  メフィルの讃美に、ルドルフは目を瞬かせる。 「そんなにか?」 「ええ」 「ほんとにか?」 「もちろんです」  喜色満面、ルドルフは赤ら顔で歌い出す。 「俺はルドルフ。都一番のチェロ弾きさ  どこのどいつか知らないが アンタ大した慧眼だ!」 「わたしはメフィル。音楽を愛する蝙蝠です  仕える主人を探して ずっと旅して参りました」  メフィルの名乗りに、ルドルフは目を丸くする。 「コウモリ?」 「はい」 「ほんとにか?」 「もちろんです」  メフィルの影が蝙蝠の羽を広げるが、ルドルフは気づかず吹き出した。 「そいつは面白いや!  アンタの話を聴かせてくれよ」 「ありがとうございます。では、」  咳払いして、メフィルはルドルフのチェロに合わせて歌い出す。 「わたしは蝙蝠 悪魔と呼ぶ人もいます  ずっと昔に魔術で蘇り 音楽家に仕えて参りました」 「いいねいいね、好きだぜそういう話!」 「前に仕えた方は 魔女と呼ばれました  心優しい人でした けれど、人に嫌われました  わたしと契約したからです」  スクリーンに後ろ姿の映る黒髪の女が、耳を奪う美声で歌う。 「魔女でもいいわ。呪われたって 吹く風、草原、羽虫の音色  あなたと出会って わたしの世界は輝き出した  メフィル、メフィル、わたしの悪魔  わたしに歌を届けてちょうだい」  一礼して、メフィルは歌を継ぐ。 「わたしの主人は音楽に愛されます  けれど、人に呪われます  誰もが聴き惚れる音を鳴らした あの方を  誰もが愛する音楽を奏でた あの方を  人は魔女と指さし呪いました  わたしの不徳の致すところです」  炎に焼かれる魔女から目を逸らさずに、メフィルは声を張り上げた。 「それでも求めて止みません 愛する主人に仕える夢を  世界に忌まれ 蔑まれても 輝く音色を奏でる方を」  騎士のように、メフィルはルドルフの足元に跪いた。 「もし、ルドルフ様がよろしければ  返事は酔いが醒めた後で構いません  世界中からお守りすると約束します  わたしの主人に、なっていただけませんか?」  大仰な物言いに、ルドルフは破顔一笑、上機嫌でメフィルの手を取った。 「おお、いいぜ! こんなに口説かれたのは初めてだ!  メフィル、メフィル、俺を見初めた伊達だて悪魔  魂くらいくれてやるよ!」  ふたりを目映い光が照らし、契約が結ばれる。  少女の怒鳴り声が水を差す。 「ちょっとメフィル! あんた何考えてんの!?」  メフィルは慌てて立ち上がった。 「申し訳ありません、ご主人様。次の契約はお目付け役の先輩の立ち会いのもとで、と約束しておりましたのに、破ってしまいました。  陳謝して参りますので、お待ち下さい。わたしが帰るまで、決して、人に会わないように」  出かけるメフィルに生返事して、ルドルフはチェロを抱えていびきをかく。  舞台が暗くなり、スポットライトが点いて、朝が来る。  ドアがノックされる。  あくびしながら立ち上がり、ルドルフはドアを開けて婦人を迎えた。 「ふわ~、あ。失礼しました、大家さん。  すみません、作曲が捗らなくて、家賃はまだ……  終わったら、すぐに払いますんで!」  ルドルフの愛嬌たっぷりの謝罪に、大家は目をパチクリさせて、踵を鳴らした。 「ええ、そうね……  いえいいわ。今すぐ出て行って」 「へ? でも、昨日は」 「昨日は昨日、今日は今日! そもそも何ヶ月滞納してると思ってるの!  その悪びれない顔を見たら愛想も尽きたわ。さぁ、荷物をまとめなさい、今すぐ!!」  蹴り出されるルドルフ。  両脇から現れた人々がルドルフを笑う。 「コイツはルドルフ、都一番の嫌われ者さ」 「金の切れ目が縁の切れ目。友達だったのは昨日まで!」  友人たちが去っていく。  ルドルフは女たちに縋るが、誰も彼もが冷たく振り払う。 「ルドルフ、ルドルフ、素敵だったのは昨日まで」 「酔いどれ、髭面、ベッドの中じゃ役立たず!」 「百年の恋も冷めたわ。自慢のチェロも響かない」 「さよなら、ルドルフ、素敵だったのは昨日まで」 「あたしたち、新しい恋を探しに行くわ」  女たちが、舞台の端を指差し黄色い悲鳴を上げて、ルドルフを置き去りに去っていく。  舞台が暗くなる。
*  *  *

「笑ってくれよ Just smile me」

 舞台に光が戻り、背景が現在の家に戻る。  ルドルフがチェロを抱えてイライラと愚痴る。 「あれ以来、道を歩けば舌打ち、人に話しかければ渋面、女を口説けば悲鳴! 色男で鳴らしたこの俺が!!  そもそもこんな田舎じゃイイ女なんていやしいねぇ! どうしてくれんだっ」  地団駄を踏むルドルフに、メフィルは深く頷いた。 「仰る通り、契約の自覚がなかったご主人様を置いて出かけてしまったのは、わたしの落ち度。先輩には『酔っぱらいに大事な話をするな』と叱られました。  家賃は立て替えておきましたが、滞在は赦されず、都では後ろ指を指されるようになり……  ご主人様を都会から遠ざけることになってしまったのは、わたしの不徳の致すところです」 「お、おう。わかりゃいいんだよ」  潔く非を認めたメフィルに、ルドルフが咳払いする。  メフィルは続けた。 「ですが、ご主人様が作曲の締切を破り家賃を滞納なさっていたのは、わたしと会う前からの話では?」 「うっるっせぇぇぇ!! 八つ当たりなんだから黙って頷いてろ!  しばらく集中すっから話しかけんなよっ。買い物にでも行ってろ!!」 「仰せのままに」と主人の癇癪に慣れた様子で一礼して、メフィルは家から出ていく。  ルドルフは大きく息を吐いて、気まずそうに頭を掻いて、今度は真面目な顔で、弓を手にチェロを弾き始めた。 「声を  声を聴かせてくれ 冬の雲雀がそうするように  春の恋しさを聴かせてくれ 寂しいのは俺独りじゃないのだと」  道を歩いていたメフィルは、聴こえてきた主人の音楽に少しふり返り、微笑みを浮かべて先を急ぐ。  入れ違いに通りすがった村娘が、音楽に足を止める。 「下手でもいいさ だけど嫌々はやめてくれ  心からの笑顔を見せてくれ  見られるのが嫌なら そっと隠れておくから  歌ってくれ 歌ってくれよ  鼻歌だって 構わないから  せめて 俺に 笑顔を 見せて」  物悲しくも美しい旋律に、村娘はほぅっと溜め息を吐いた。 「素敵な音色……都から来たっていう楽師さんかな。  お父さんは近寄るなって言ってたけど……」 「あの?」  そろりと窓に近づこうとしたところで、後ろから買い物袋を提げたメフィルに話しかけられ、村娘は飛び上がる。 「すっすすすすすみません! あたし、素敵な曲だなって思って!」 「そうですか、ありがとうございます」  礼儀正しくもわずかに弾んだ声に、娘は緊張を解いてメフィルを見上げた。 「あの……」 「申し遅れました。今しがた音色を奏でていたのは、わたしが仕える主人、ルドルフ様です。  わたしはメフィル。ルドルフ様の身の回りのお世話をさせていただいております。  お名前を伺ってもよろしいでしょうか? レディ」 「レディだなんて! あたし、そんな大層な人間じゃありません!  お父さんが楽器職人で、それで、えっと」 「音楽に親しまれているのですね。素晴らしいことです」  メフィルの笑顔に、娘は最後に残っていた警戒も捨てて頬を染めた。 「ここは森の木のおかげで楽器作りが盛んで、村のみんなも自分で弾いたりするんですよ。お祭りでは合奏したり……  でも、さっきの演奏は今まで聴いたことがないくらい、とっても素敵でした! 切ないのに、ほのかに暖かくて……温もりを求める曲だからでしょうか。雪景色で陽だまりを見つけたような……  あっご、ごめんなさい、お荷物を持ってるのに、長々と引き止めて」 「いいえ。瑞々しいお言葉を拝聴できて、嬉しく思います。  もしよろしければ、今のご感想を主人に伝えて構いませんでしょうか? 実は作曲が行き詰まっておりまして、貴女の賛辞を耳にすれば、きっと励みになると思うのです」 「そっ、そんな! ぁっ、あたしなんかの言葉が応援になるのなら、とても嬉しいです。喜んで。  あたし、ヨハナです。ご主人、えっと、ルドルフさまにも、よろしく伝えてください。メフィルさん」 「確かに。お心遣い感謝します、ヨハナさん」  ヨハナは頷くと、真っ赤な頬を押さえて小走りに去っていく。  メフィルはヨハナの背中に一礼して、家の中に入っていく。 「あーーー俺はもう駄目だーーー悪魔に魂を売ってもコレだーーーー音楽の神は俺を見放したーーーーー」  床に転がって呻く主人を置いて、メフィルは淡々と買い物袋をテーブルに置き、整頓を始める。 「おいメフィル。酒」 「どうぞ」  メフィルの差し出した瓶を一気に煽り、ルドルフは青い汁を噴いてむせた。 「てめっ、これ、野菜汁じゃねぇか!!」 「苦いのは同じかと。薬屋の奥様が、ご親切に酔い醒ましの薬草を煎じてくださいました」 「な、ん、で、おまえは村に溶け込んでるんだよ悪魔のくせに! 不公平だーーー!!」  ルドルフはジタバタと駄々っ子のように床を泳ぎ、ピタリと止まった。 「あーー、もう無理だ。音楽が一滴も湧いて来ない……  メフィルー。なんか楽しいこと言え」 「仰せのままに。  先ほど、家の前を通りかかった女性が、ご主人さまの演奏を褒めてくださいました」 「マジか!! ……いや、騙されねぇぞ。どうせ歳食った御婦人なんだろ」 「いえ、ご主人様より十は年下の……ヨハナというお名前の、可愛らしい、未婚のお嬢様でした。  お父君が楽器職人だそうで。ご主人様の演奏を、今まで聴いた中で一番素敵だったと感激しておられました」 「おお……」  ルドルフはパァァァと顔を輝かせて上体を起こすと、またバターンと床に寝そべった。 「はー。その娘も俺を見たら悲鳴上げてドン引きするんだろ? やってらんねー」 「そうですね。ご結婚でもされない限りは……」 「だよなー。結婚しない限りは……」  ルドルフはガバッと体を起こした。 「待て。結婚したら呪いは解けるのか?」 「いえ。以前も説明しましたが、ご家族に呪いは効かないそうです。  前の主人もその前の主人も天涯孤独でしたので、わたしも先輩に聞いただけですが、信頼できる確かな話です」 「あー、言ってたな。どうせ縁切られてるから関係ねぇと……  うん? つまり、結婚して家族になると、呪いが効かなくなるのか?」 「はい。奥様とそのご家族にだけ、ですが」  頷くメフィルに、ルドルフは立ち上がった。 「それだ!! その娘をコマして結婚を了承させれば、ヤれる!!!」 「ご主人様。細君を娼婦のように扱うのは、いくらご夫君といえども」 「だー! 人をケダモノみたいに言うな! ちゃんと優しくするって!  その娘は音楽が好きなんだろ? そして俺は悪魔も見初めた最高の音楽家! おまけにテクニシャンの色男!  つまり、そこらのつまらん村男より、俺と結婚したほうが、ハッピー!!」  俄然イキイキとし出したルドルフは猛然と机に向かい、紙とペンを取る。 「直接顔を合わせなきゃ嫌われることはないんだよな? っし、手紙を書くぞ。  十代のー、田舎から出たことのない、音楽が好きな、純朴処女に好かれる文章はっと……  ヨハナー、ヨハナ、ヨハナっちゃん♪」  鼻歌を歌い始めた主人に溜め息を吐いて、メフィルはお茶の準備をした。
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「見つけた陽だまり See the Spring」

『初めまして、ヨハナ。貴女が俺の演奏を讃えてくれたと聴いて、心より嬉しく思い、こうして筆を手に取りました。  メフィルから聴いたと思いますが、俺は体を壊し、この空気の清らかで音楽を愛する村に静養に来ました。  家族からも友人からも見捨てられ、メフィル以外の人と顔を合わせるのが恐ろしく、家に引き籠もり、手慰みにチェロを弾く以外の楽しみを失っておりました。  ですが今は、貴女に暖かい言葉を贈られ、暗闇に陽が射したような心地でいます。  今はまだ顔を合わせる勇気がありませんが、いつか俺の演奏で貴女が微笑んでくださるのを、それを目にするのを希望として、日々を懸命に生きたいと思います。  貴女の忠実な演奏家――ルドルフ』  家の前の草むらに腰かけるヨハナとメフィル。ヨハナの尻の下にはメフィルの上着が敷かれている。  メフィルが朗読してくれた手紙の文章に、ヨハナは感激して頬を染め、しかし眉を曇らせる。 「あたしなんかの言葉でこんなに喜んでもらえるなんて……。  でも、お体はだいじょうぶなんですか?」 「ええ。深酒のきらいがありますが、忠言は良く聞き入れてくださいますので。  それに、貴女のお言葉が支えになれば、きっと良くなるでしょう。どうぞ気軽に聴きに来てください」 「あたしで良ければ、喜んで。父の手伝いがありますから、毎日は難しいですけど……」 「ご無理はなさらず。たまにでも聴きに来てくだされば、主人も喜びます」  手紙を丁寧に封筒に仕舞い、手渡そうとしたメフィルに、ヨハナは首を振る。 「あの、お手紙は預かっていてもらえませんか? あたしが持っていても、字が読めませんから」 「そうですか……僭越ですが、よろしければ、わたしがお教えしましょうか?」 「そんな! その、嬉しいですけど、良いんですか? 女が字を学んでも……」 「もちろんです。わたしが前にお仕えしていた主人は女性でしたが、とても教養深い方で、わたしにいろんな国の文字や言葉を教えてくださいました。どうかそのお返しをさせてください。  ご主人様も、わたしが朗読するより、貴女に直接読んでもらえたほうが、きっとお喜びになるでしょう」  ヨハナは目を輝かせて頭を下げる。 「ありがとうございます! とても嬉しいです。ああ、夢のよう」 「夢はこれからですよ。どうぞご清聴ください」  家の窓から音楽が流れ始めて、ヨハナは座り直して姿勢を正し、耳を澄ませる。 「冬の陽だまり 流れ星 雲雀の見つけた小さな春  木枯らしが運んだ花びらを追いかけて 見つけたのが此処だった  都会の雨は冷たくて 友達はみんな去ってしまった  優しかった女たちも上辺だけ いつしか涙も涸れ果てた  そばにいてくれた声だけじゃ 満たされなくて  寂しくて歌っていた 抱きしめてほしくて  切なくて歌っていた 温もりがほしくて  窓の向こうの陽だまりに 手を差し伸べてくれたのが 君だった」  季節が流れていく。ヨハナはメフィルに熱心に教えを乞い、やがて自分ひとりで手紙を読むようになる。  ルドルフの演奏に、ヨハナは手紙を胸に、窓に向かって口ずさむ。 「空に見た星 流れ星 森に灯った小さな明かり  秋風の運んだ旋律を追いかけて 見つけたのが此処だった  都会の光は眩しくて 耳を澄ますだけで楽しかった  聴こえる歌は尊くて 憧れることもやめてしまった  そばにいてくれた音だけで 満たされていて  なのに聴こえてしまった あなたの歌が  なのに求めてしまった あなたの歌を  窓の前で耳を澄ませて 今はこれだけで 満足なの」  窓に背を向けたヨハナに、ルドルフはガッカリしつつも胸を撫で下ろし、机に向かって手紙を書き殴り、丁寧に清書する。  合間に楽譜を綴る手も止まることはなく、転がる酒瓶も次第に減っていく。  舞台が暗くなっていく。  しばしの余韻の後、再び明るくなった舞台の季節は冬。  今年初めての雪に、ヨハナは家の軒先を借りて、窓越しにルドルフとの会話を楽しんでいる。
*  *  *

「最低なルドルフ Rudolf is Worst」

「ヨハナ様、ホットワインをどうぞ」 「わぁ。ありがとうございます、メフィルさん」 「ああ、すまないな、メフィル。  雪も降ってきたし、そろそろヨハナさんを家まで送ってくれないか?」 「あっ、いえ、ちょっと待ったら晴れると思いますから、それまでは。  冬の間は、あまり来られないですし」  名残惜しそうなヨハナに、ルドルフは咳払いをする。ヨハナがホットワインを口にする。 「ヨハナさん、良かったら、家に……」 「美味しい! メフィルさん、ありがとうございますっ」 「お褒めに預かり光栄です」  ヨハナに一礼するメフィルに、ルドルフはカーテンを閉めた窓の向こうで手をワキワキさせる。 「あっ、ルドルフさん、さっき何か仰いましたか?」 「いえっ。寒いでしょう、雪が晴れるまで居間で過ごしませんか?」 「えっ。でも、ルドルフさんは……」 「俺は部屋に引っ込んでいますから、大丈夫ですよ」  ヨハナは少し考えて、首を横に振る。 「いえ、ご負担をおかけしては申し訳ないですから。  それに、暖かい部屋で眺めるより、雪を身近に感じられて、気持ち良いです。ルドルフさんの音楽みたいで」  ヨハナの言葉に、ルドルフは鼻をこする。  ヨハナがホットワインをまた口につけて、「そういえば」と窓を振り向く。 「ルドルフさんは、どうして楽器にチェロを選んだんですか?」 「え。それは……大きさが、ちょうど女を抱いてるみたいで」  メフィルの咳払いが後半を打ち消した。 「あー、えーっとですね、俺は元々、聖歌隊にスカウトされて都に行ったんですよ。奨学金も出してくれるってんでね」 「まぁ。それは、子どものときに?」 「ええ。父は反対したけど、母が応援してくれましてね。  でも、声変わりしたら聖歌隊にはいられなくなりました。奨学金も打ち切られて……」 「そんな……」 「いえ、学校は続けられてたんですよ。それを見越して勉強して、援助してくれる人を見つけてましたから」 「良かった……」  今起きていることかのように一喜一憂するヨハナに、ルドルフの口が軽くなる。 「チェロは、一番人の声に近い楽器って話は知ってますか?  俺は歌では認められなかったけど、チェロを歌わせる腕じゃ誰にも負けなかった。  そのつもり、だったんですが」  ルドルフの声がしゃがれる。咳払いしてチェロを奏でようとして、けれどその音は狼の唸り声のように軋んでいた。  ヨハナはルドルフの言葉を待っている。メフィルは静かに佇んでいる。  やがて沈黙に押し負けたように、ルドルフは再びチェロを弾き始めた。 「俺はルドルフ 都一番のチェロ弾きさ  誰もが認める俺の腕前 都一番の楽団で 俺は首席に抜擢さ  みんなにモテモテ 絶好調 誰もが認めるこの俺を  だけど 母さんが」  旋律が空回りしそうになる。  持ち直したチェロの響きは、しかし、先程までとは違って物悲しかった。 「報せを聞いて 俺は走った  一度も帰らなかった故郷 母さんの墓前で  父は言った ごっこ遊びは終わりだと」  静寂。木枯らしの音。音楽のない時間。  ルドルフはぎこちなく演奏を続ける。 「都一番のこの俺を 父は認めていなかった  ふざけるなと飛び出して それっきり  帰ってきた楽団で 仲間は嗤った  母親が死んだくらいで 青くなって飛び出して  ルドルフ、ルドルフ、都一番の色男  ルドルフ、ルドルフ、都一番の母想い  俺は仲間を殴って 楽団を追い出されて それっきり  後はお決まりの下り坂  ルドルフ、ルドルフ、都一番の飲んだくれ  ルドルフ、ルドルフ、都一番の落ちぶれ野郎  一匹狼のルドルフ もう素敵じゃないルドルフ  都に居場所がなくなって 田舎まで逃げてきた」  チェロを弾き終えて、窓から離れ、俯き、ルドルフは頭を抱えた。  舞台が暗くなり、ルドルフにだけスポットが当たり、心の声が響く。 「やっちまったー! 語りすぎた! ドン引きだろコレ!  ちょっとだけ弱味を見せて『思わず女が支えたくなっちゃう男』アピールのつもりだったのに!」  再び舞台が明るくなり、ヨハナが口を開く。ルドルフが慌てて窓際へ戻る。 「ルドルフさんは……お母さんに演奏を聴いてもらいたかったんですか?」 「え。  そりゃ、結局、一度も聴かせる機会がなかったのは、後悔しましたけど……」 「ごめんなさい。ルドルフさんの演奏はいつも、寒空の下で泣いているみたいに聴こえたから。  ルドルフさんは誰か、自分の演奏を聴いてもらいたい人がいて、でも、その人に聴いてもらえなかったのかなって、勝手に想像していたんです」  ルドルフは絶句して、否定しようとして、できずに口を閉じた。  ヨハナは顔を赤くして、俯いて、口早に言い訳する。 「あの、ごめんなさい、出過ぎたことを。  あたしは、ルドルフさんの演奏、好きです。年明けに最初に花を見つけたときみたいな、冬が終わって、これから春が始まるんだって、そんな気持ちになるから。  だから、きっと、もし都中の音楽が聴けても、ルドルフさんの演奏が、一番好きです」  頬を真っ赤にして、ヨハナは顔を上げた。  雪は止んで、晴れた空から光が降り注いでいる。 「あっ、あたしっ、そろそろ帰りますね! メフィルさん、ホットワインごちそうさまでした!  ルドルフさんも、あの、また来ても、良いですか?」 「ええ、もちろん」  窓の向こう、カーテンで見えない溌剌とした笑顔に、呆然と、ルドルフは繰り返した。 「また、いつでも。歓迎します……ヨハナ」  ヨハナは笑って、溌溂と道を駆けて行く。  メフィルが「お気をつけて」と声をかけて、家に戻る。
*  *  *

「初恋を知る Happy Silly Baby」

 コップを片付けるメフィル。  椅子に座ったルドルフが、呆然と顔を覆い、蚊の鳴くような声で嘆く。 「どうしよう……  しくった。惚れちゃった」 「左様でございますか」  淡々としたメフィルの反応に、ルドルフは顔を上げる。 「おい。なんだその、『わたしは最初からこうなるとわかっておりました』ってツラは!」 「『この世で一番自分の音楽を愛してくれる人が、ずっとそばにいてくれる以上の幸福なんて、この世にない』  わたしの前の主人の言葉です」  メフィルはルドルフにホットワインを運ぶ。 「ヨハナ様が初めてこの家の前を通りかかり、ご主人様の演奏にお顔を輝かせたときから、確信しておりました。  この方はきっと、ご主人様のかけがえのない人になる、と」 「おまえ……そこは、『キィーー何よぽっと出の小娘が! この世で一番ご主人様の音楽を愛してるのはこのアタシよ!』とかなれよ、悪魔なんだから」 「『一番がたくさんあるって嬉しい』。  これも前の主人の言葉ですね。わたしも同感です」  ルドルフは苦々しい顔でホットワインを一気飲みして、空になったコップを涼しい顔のメフィルに突っ返す。  メフィルは恭しくコップを受け取って洗い場へ運ぶ。  ルドルフは頭を掻きむしると、弓を手にチェロを抱き寄せ、おもむろに弾き始める。 「星を数えてたんだ 星座の名前を知りもしないのに  花束を作ってた 花の名前を覚えてもないのに  蜜を運んで良い気になってた 子どもだったのさ  酒の苦さを覚えて 大人になったつもりだった  恋の苦さも知らなかったのに  花を摘んで 棘に刺された その痛みが愛おしかった  口にした葡萄が酸っぱくて その味に焦がれたんだ  知らなかった 知らなかった  知らなかったんだ 君に会うまで  今は焦げつくように恥ずかしい  届かない星に興味なんてなかった 君がそこにいると知るまでは  花なんてどれも同じだった 君が好きな花があると知るまでは  歌なんて 恋なんて どれも同じだと思ってたんだ  君に会うまでは ありきたりな君を見つけるまでは  苦い思い出が、君への道のりだと思うと輝いてる  凍える冬の先に、君と迎える春があると思うと、駆け出しそうだ  火傷したって構わない 溺れたって空も飛べるさ  馬鹿になる そうさ 馬鹿だったんだ  君に会ってなかったのに この世の全部知った気になってた  今やっと 自分が馬鹿だって知れたんだ」  情熱的に曲を奏で終えて、ルドルフはメフィルの拍手にも耳を貸さず頭を抱えた。 「なぁ。冷静に考えて、一度も顔を見たことのない男からのプロポーズに、頷くと思うか?」 「それは……ご家族からの口利きがあれば?」 「そっか! そうだよな、ヨハナさんは確かお義父さんと二人暮らし……  いや、顔も見せない男と大事な一人娘の結婚を認める父親、いるか?」 「それは……まずは、真心を込めた手紙から始めるのはいかがですか?」 「それだ! 真心、手紙……真心、まごころ……  真心って、どうやって籠めるんだ?」 「あの、ご主人様。  そもそもどうやって、ヨハナ様に結婚を承諾していただくおつもりだったのですか?」 「ンなもん考えなかったに決まってるだろうが!  恋は出たとこ勝負、考えるよりまず口説く! これ鉄則!  っし、やるぞ!!」  ルドルフは頭を掻きむしながら、懸命に机に向かい手紙を書き始める。  一礼して、メフィルは今しがた出来上がった楽譜を丁寧に保管する。  舞台が暗くなり、回転して、景色が変わっていく。
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「ロマンスをちょうだい Give me Romance」

 村の広場で、ヨハナと女友達たちが駄弁っている。 「ねぇねぇ。冬祭り、誰と踊る?」 「フッフーン、よくぞ聞いてくれました!  なんとっ。ハンスのやつがようやく誘ってくれたのよ!」 「わぁ、おめでとうっ」 「あら~、あのヘタレが遂に腰を上げたか」 「この間メフィルさんが買い物袋運んでくれたでしょ? ハンスのやつ、それ見てヤキモチ妬いたみたいで。  フッフーン。今度メフィルさんにお礼にクッキー焼かないと」 「また妬かれるわよ?  でもいいなぁ。私はま~たフィリップだもん。変わり映えしないったら」 「こんの贅沢ものがぁ! 浮気されちまえっ」 「そんなこと言っちゃダメだよ。  ふたりとも、本当におめでとう」  心から祝福するヨハナに、友人たちは鼻白む。 「ナニ他人事みたいに言ってるの。アンタはそういう人いないの?」 「そうそう。村一番の音楽好きのくせして、踊らないなんてもったいないわよ」 「あたしは……聴いてるだけで満足だもの」  頬を染めて俯くヨハナに、友人たちは顔を見合わせ、ずいっと身を乗り出す。 「いるのね?」 「白状なさい」 「いっ、いないわっ」 「そんな顔して、説得力ないわよ」 「あっ。さてはメフィルさん? 最近よくあっちのほう行くなって噂になってたけど……」 「ちがっ、そっちじゃなくて!」  ヨハナが口を滑らせそうになったとき、ちょうど鐘が鳴る。少女たちは高らかな音色に耳を澄ませる。  余韻に感じ入りながら、ヨハナがうっとりと囁く。 「素敵な音色……」 「うわ、また始まった。毎日聴いてるのによくもまぁ毎回感動できるわねぇ」 「でもさ、ほんとに素敵じゃない? ほら、祭りの……」 「ああ、神父さまが仰ってた!」  首を傾げるヨハナ。  舞台袖から、神父の格好をした黒兎が現れる。  客席にウィンクを一つ。黒兎は朗々と語り始める。 「信徒たちよ。この鐘は神の祝福を受けた聖なる鐘。  一年で最も長い夜を告げる鐘が響くとき、鐘の音に負けぬ声で愛を告げ、相手が了承したのなら、それは天の国に届く永遠の誓いになるのです」  ヨハナが首を傾げる。 「こんな田舎の教会に、そんな立派な鐘が?  それに、あの鐘ってあたしが生まれる前からあるけど、そんな話聞いたことないわ」  ずっこける神父。呆れる仕草をする女友達。 「ヨハナったら、真実かどうかなんてどうでもいいでしょ」 「大事なのは、信じたいかどうか。そして、信じる心を自分の力に変えられるかどうかよ。  だって、とっても」 「「ロマンティックじゃない!」」  神父は舞台袖に引っ込む。少女たちは腕を組んで踊り始める。 「子どもの頃から退屈な毎日  変わり映えのしない出逢い いつも通りのロマンス  ないよりマシ? おっしゃる通り  贅沢言うな? おっしゃる通り  通り通り道理で済むならこんな退屈飲み込めない!  ロマンスロマンス、ロマンスをちょうだい  いつも通りの毎日に、ほんのひと匙 魔法のスパイス  ロマンスロマンス、ロマンスをちょうだい  いつも通りのあなた、ほんの一言 勇気をちょうだい  口紅でひと撫で ドレスに花飾り  いつも通りのわたし、それだけで魔法になるの  真新しいシャツ、赤い顔で胸を張って  いつも通りのあなた、それだけで魔法になるの  あの鐘が響く頃 一番長い夜が始まる頃  村中に響く声で 愛を誓って 鐘に負けないくらい  夜更けまでそばにいて 夜が明けてもそばにいて  いつも通りのわたしたち それだけで永遠になるの」  スカートを翻して歌い終える少女たち。  ヨハナは手を叩いて、遠くからの声に拍手を止める。 「ヨハナ、ヨハナ、どこにいる?」 「お父さんだわ。帰らなきゃ」  急いで帰るヨハナに、友人たちは叫ぶ。 「ヨハナ、次会うときは白状するのよ!」 「一人だけ高みの見物なんて許さないんだからねっ」  ヨハナは友人たちに会釈して、家に飛び込んでいく。
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「おれのような男は選ぶな Daughter, Don't trust Men」

「ただいま、父さん」 「おかえり。ニカワを切らしてしまってな。雑貨屋で買ってきてくれるか?」 「うん……」 「寄り道しないようにな」  ヨハナは頷いて財布を取りに行く。  家に並ぶのは作りかけのチェロ。ヨハナは見惚れたように足を止める。  父が娘の様子に口を開く。 「……ヨハナ。あの余所者のことだが」 「ルドルフさんとメフィルさん? 余所者じゃないでしょ、村に住んでるんだから」 「一年と経っていないじゃないか。  とにかく、あまり近づくなよ。嫁入り前なんだから気をつけろ」 「わかってます。最近は雪続きだったし、ご迷惑になるから行ってないわ。  でも、ふたりともとっても紳士的な方よ? チェロの音色も素敵だし」 「色男に耳が曇っただけじゃないのか?」 「違います! お父さんったら、家に籠もって聴いたこともないのに、知ったふうに言わないで」 「おまえこそ、男を知らないのに知った口を利くな。みんな狼だと思え」 「失礼なことを言わないで!  生憎だけど、ルドルフさんは療養中で、顔を見たこともありません。  窓越しにおしゃべりはしたけど……」  頬を染めた娘に、父親は肩を怒らせる。 「それは良かった。そのまま会わない方がいいぞ。  人前に出られないってことは、二目と見られない醜男のようだからな!」 「お父さん! いい加減にして!」 「いい加減にするのはおまえだ。男にのぼせて泣くことになるのはおまえなんだぞ!」 「お父さんはあの人のチェロ、聴いたことないじゃない!!」  ヨハナは叫んで家を飛び出す。  父親はため息を吐いて、苦く歌い出す。 「妻よ もうここにはいないおまえ  おれたちを置いて 天の国に渡ったおまえ  おまえはおれを怨んでいるか?  仕事にかまけて おまえの病に気づかなかった  おまえが床に伏せるまで おまえの苦しみに気づかなかった  娘が大きくなって 切に思う  おれのような男は選ぶな  音楽にばかり耳を澄まして  そばにいた声は聞き逃して  静寂が響いて ようやく  幸せが去ったのに気づいた  娘は元気だ おれは何も言えなかったのに  音楽を愛して 明るく育った おまえのように  だけど不安になるんだ  娘よ おまえは知ってるか?  音にならない人の想いを リズムからこぼれた言葉を  教えられなかったおれが 言えたことではないけれど  おれのような男は選ぶな  綺麗な言葉ばかり選んで  耳障りなリズムは打ち捨てて  独りいじけて生きてきた  おれのような男は選ぶな」  舞台が回転して、ルドルフの家が現れる。  メフィルは不在で、ルドルフが頭を掻きむしりながら手紙を書いている。 「『拝啓、ヨハナ様。突然ですがお願いがあります。おれと結婚してください』  いやせっかちすぎるだろ! もっと前置きをだな、 『親愛なるヨハナ。君と出会ってまだ季節がひとつ過ぎただけなんて、信じられません。君と出会ってから、世界は眩しく、空気は美味しく、以前は口に流し込むだけだったメフィルのシチューが味わい深く……』  食レポか!  やっぱり男らしく単刀直入に行くべきか? いや今まで紳士的に振る舞ってたのにいきなりそれは……却ってギャップになるか? でも引かれたら元も子も……」  机に突っ伏すルドルフ。家の前にヨハナが走ってくる。  ヨハナは目元を拭うと、窓のそばに駆け寄った。その上に、屋根に積もった雪が滑り落ちてくる。 「きゃああああっ!?」 「っ? ヨハナっ!!」  ルドルフが立ち上がり、外に出る。窓の下で、雪に埋もれているヨハナがいる。 「ヨハナっ! 大丈夫かっ?」 「だ、だいじょうぶです。ごめんなさい、お邪魔し、て」  ルドルフに腕を取られ、抱き起こされるヨハナ。  ヨハナが顔を上げる。ふたりが見つめ合う。  舞台が暗くなり、舞台袖にヨハナの父が現れ、スポットライトがそこに当たる。 『おまえは男のことなんて何も知らないだろう。  無精髭の汚らしさ。体を洗ってないと、どれだけ臭うのか』  ヨハナとルドルフにスポットライト。  ルドルフが慌ててヨハナから手を離して、頭をかく。 「あっ、すみません。その、作曲が行き詰まっておりまして、身なりが少々、小汚く……」  ヨハナの父にスポットが戻る。 『知らないだろう、男の手の強さを。遠慮なく腕を握られると、どれだけ痛いのか』  ヨハナとルドルフにスポットが戻る。  ヨハナは腕をさする。 「あっ、痛いですか? すみません、咄嗟のことだったので」  ヨハナの父にスポットが戻る。 『知らないだろう。知らない男が、どれだけ恐ろしいのか』  舞台に光が戻る。  心配して腕を伸ばしたルドルフを、ヨハナが突き飛ばし、距離を取る。 「「あ……」」  ふたりは見つめ合う。気まずい沈黙。  ヨハナが顔を逸らし、つっかえながら告げる。 「助けて、くださって、ありがとう、ございます。  ごめんなさい。今日は、帰ります」 「はい……お気をつけて」  ヨハナが俯いてルドルフの脇を横切り、走り去る。  ルドルフは膝を突き、顔を覆い地面にぬかづく。  舞台が暗くなり、幕が降りていく。
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「春よ、帰ってきて Come back My Love」

 舞台は暗闇のまま。  左端にスポットライトが当たり、そこには椅子に項垂れるルドルフと、傍らに立つメフィルがいる。 「あー、いいよ。おまえのせいじゃない。手紙を書くのにかまけて身嗜みを怠ってた俺が悪いんだ。  そしたら、嫌われるにしてももう少し……いや、いいんだ。遅かれ早かれこうなってたさ。  大丈夫だから……ちょっと、独りにしてくれ」  メフィルはお辞儀をして、そばを離れる。  反対側にスポットライトが当たり、そちらにはヨハナと友人たち、それに父親がいる。 「あたしはいいの、みんなで行って。  お祭り、楽しんでね」  落ち込んだ様子のヨハナに、友人たちは後ろ髪を引かれながらも離れていく。  しばらく俯いて、ヨハナは父親を振り返る。 「お父さん、あたし、ちょっと散歩するね。夜までには帰るから。  違うわ。雪を浴びちゃって、助けてもらっただけ。本当に、何も失礼なことはされてないわ。信じて。お願いだから。  大丈夫だから……少し、独りにして」  ヨハナは出かけていく。スポットライトが彼女を追いかけて、舞台の中央へ。  幕が上がる。雪の降る野原で、ヨハナは握りしめていた手紙に目を通して、また閉じる。  か細い声で、ヨハナは歌い始めた。 「春が来るのを待っていたの  冬の中にいたわけではないけど  一番星が見つからなくて  流れ星を追いかけてた  その先で出会ったの  春風のようなあなたと  聴いたことのないメロディーが  知らない世界に運んでくれた  今まで読めなかった文字が  星の名前を教えてくれた  すべて過ぎ去った春のこと  父は言っていたわ  おまえは男を何も知らないと  その言葉から目を背けて  幻を追いかけてた  その先で見てしまったの  狼のようなあなたを  胸を高鳴らせたメロディーが  突然の吹雪に埋もれてしまった  贈られた胸弾む文字が  暗闇に滲んで読めなくなった  すべて過ぎ去った春のこと  あの春風のような気持ちが消えてしまったの どうして?  心ときめくメロディーが こんなことで消えてしまうの?  父の言葉が正しくて 私は愚かな子どもだったの?  知らないメロディーにはしゃいで  聴いたことのないリズムに夢中になって  正しく音楽を聴いてなかった  それがあの日々の正体なの?  春風よ 帰ってきて  音楽よ もう一度  お願い せめて  泥にまみれたままでは 終わらないで」  手紙を握りつぶして、俯くヨハナ。  舞台袖からメフィルが現れる。 「ヨハナ様……」 「メフィルさん」  メフィルは深々とヨハナに頭を下げる。 「申し訳ありません。  わたしのせいで、ヨハナ様の御心を傷つけてしまいました」 「そんな、メフィルさんのせいじゃありません。  あたしが悪いんです。助けてもらったのに」  肩を震わせるヨハナに、メフィルは首を横に振る。 「ヨハナ様のせいではありません。すべてはわたしの罪」  メフィルの影に、蝙蝠の翼が広がる。 「メフィルさん、その翼は?」 「ああ、貴女には見えるのですね。  改めて、ご挨拶を。わたしはメフィル。  契約した主人に音楽の才を授ける代償に、人に忌まれる呪いを与える悪魔です」  メフィルの翼に、ヨハナは後退りながらも問いかける。 「あく、ま……なんですか?」 「正確には、悪魔として蘇った大蝙蝠です。  少し、昔話をしましょうか」
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「冬の昔話 Winter Tale  春よ、帰ってきて(リプライズ) Come back My Love (reprise)」

 背後のスクリーンに映る映像が切り替わり、雪の降る野原から暗い城になる。  マントを羽織った老年の男が、ピアノを奏でている。  物悲しくも荒々しく、それでいて美しい旋律に、メフィルの歌が重なる。 「あれは遠い北の果て 凍てつく海 短い春  温もりを求めて迷い込んだ先は 暗い城 ひとりぼっちの男  男のピアノが わたしを焦がした 篝火のように 雷のように  羽ばたくのを忘れて わたしは城を住処にした 春が過ぎても 冬が近づいても  あの頃はただの蝙蝠で 人の言葉などわからなかった  あの頃はただの蝙蝠で 人の気持ちなどわからなかった  ただ 荒ぶる旋律が 離れがたくて そばにいたくて  自分が蝙蝠であることを忘れた  北の果ての城で」  メフィルが口を噤む。ピアノを弾きながら、老年の男が歌う。 「運命は私から妻子を奪った だから私は神を呪う  亡き妻を想う 亡き息子を想う  人々は嘆く私を嘲った だから私は人を呪う  亡き妻を想う 亡き息子を想う  他には何も要らぬ 嘆き 怒り 憎しみ 怨み  運命を呪う 神を呪う 人を呪う  ああ けれど おまえは人ではなかったから」  城主がスクリーンに映る大蝙蝠を見る。蝙蝠は音楽に耳を傾けている。  城主がピアノを奏でる。メフィルが口を開く。ふたりの歌が重なる。 「私は神を呪う おまえはどうだ?」 「人の言葉なんてわからない」 「私は人を呪う おまえはどうだ?」 「人の気持ちなんてわからない でも」 「おまえはいつも私の演奏を聴いてくれる」 「この音色は心地よくて」 「私のそばにいてくれる」 「あなたのそばは心地よくて」 「だから」 「わたしは」  ふたりの視線が交わる。  メフィルが──大蝙蝠が微笑む。  城主がピアノを止め、立ち上がる。 「おまえも私を嗤うのか!」  城主が何かを投げる仕草をする。ガラスの割れる音。赤く照らされる舞台。  スクリーンの大蝙蝠が、頭から血を流して倒れている。  我に帰った城主が、よろよろと跪く。 「すっ、すまなかった。私は、こんなつもりじゃ。  いやだ……やめてくれ……神よ……お願いだ。  もう二度と、誰にも愛されなくて構わない。おまえさえいてくれれば、それで。だから……  すまない……また、私の演奏を聴いて……」  絞り出すような声で、城主は懇願した。 「私を、見捨てないでくれ……」  光が強くなり、まばゆく舞台を照らすと一転、真っ暗闇になる。  またスポットライトが灯ると、城主の腕の中には、ぐったりとした若い男……メフィルがいた。  舞台が暗くなり、元の野原に戻る。 「こうしてわたしは蘇り、主人のピアノを聴いて過ごしました。礼儀作法なども、そのときに。  ですが、わたしを蘇らせ、神の理に反した代償に、主人は人に忌まれるようになってしまいました。  顔を合わせただけで、理由もなしに、二目と見られぬ怪物に遭ったような心地にさせてしまうのです」  ヨハナは口を抑える。 「それは……その……音楽の才能を授ける、というのは?   ルドルフさんの演奏は、メフィルさんと契約したお陰なんですか?」  メフィルは微笑む。 「最初の主人も、その次の主人も、もちろんルドルフ様も、わたしと契約する前から素晴らしい音楽を奏でておられました。  わたしと契約したことで、より素晴らしい演奏ができるようになったと皆様仰いますが、わたしはただ、彼らに大切なことを思い出させただけではないかと愚考しています」 「大切なこと?」 「自分の音楽を愛することです」  メフィルはヨハナの前に跪く。騎士のように。 「ヨハナ様。説明を怠ったせいで御心を煩わせてしまい、申し訳ありません。  貴女がルドルフ様を見て忌まわしく感じたのは、わたしの呪いゆえ。貴女に責はないのです。  ですから、どうか……ご自分の、音楽を愛する心を、疑わないでください」  ヨハナはメフィルの手を取ろうか迷い、結局自分の胸元で手紙を握りしめる。 「メフィルさん、その……お話はわかりました。  ですが、突然のことで、上手く飲み込めなくて」 「ええ。もっともです」  メフィルが立ち上がる。ヨハナは叫ぶように問う。 「あのっ、呪いを解く方法は、ないんですか?」 「ありません。契約は生涯に渡るもの。破棄はできないのです。  ただ……例外として、ご家族には呪いが通じないのですが」 「家族? あ、結婚!」  ヨハナは気づいて、俯く。 「もしかして、ルドルフさんがあたしに良くしてくれたのは、それで?」 「それは……ご主人様が、ご自分でお答えするほうが良いでしょう。  心の整理ができたら、いつでも構いません。会いに来てくださいますか?」 「……はい」  頷くヨハナに深くお辞儀をして、メフィルは去っていく。  一人残されたヨハナは、野原に囁く。 「メフィルさんが言っていたのは本当かしら?  呪い……そんなものが、本当にあるの?」  ヨハナは答えを探すように野原を見渡して、自分の心に耳を澄ませて、囁くように歌い出す。 「友達は言ってたわ 大切なのは真実かどうかじゃない  自分が信じたいのかどうか  信じる心を力にできるかだって  もしもあの気持ちを奪ったのが 呪いなら  春風を遠ざけて、私を冬に突き飛ばしたのが 呪いなら  あるかどうかもわからない 理不尽なら  そんなものに 負けたくはない」  ヨハナは決然と空を見上げる。雪は止んで、光が射し込む。  その先へ向かって、ヨハナは走り出す。
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「すっ込め蝙蝠野郎! Get away Two faced!」

 舞台が回転して、ルドルフの家の前に村人たちが集まっているところに、メフィルが帰ってくる。 「あ、メフィルさん!」 「皆さん、これは一体?」 「おまえが、おれの娘を誑かしたクズか?」  進み出たヨハナの父親に、メフィルは頭を下げる。 「ご息女の御心を傷つけたことはお詫びします。  ですが、わたしもご主人様も、誓ってヨハナ様の名誉を傷つけてはおりません」 「ぐだぐだ言い訳するなっ」  顔を真っ赤にして怒鳴る父親を、他の村人が止めようとする。 「おい、飲み過ぎだって」 「いえ、良いのです。こちらからお詫びに伺うべきでした」  メフィルの丁重な態度に苛立った父親は、地面を強く踏んで周りの村人を押し退けると、メフィルを指さした。 「スカスカスカした スカし野郎  あっちにぺこぺこ こっちにぺこぺこ  右往左往の澄ましヅラ 見え透いてんだその本性  呼んでやるよその本名──  すっこめ、蝙蝠野郎!!  お人好しぶったおべんちゃら 色ボケ娘にゃ覿面?  残念! バレバレだぞ 都落ちの三下根性  田舎娘は騙せても 大の大人にゃお見通し  バカ娘 でも愛娘  二度とヨハナに 近寄るな!!」 「いろ、ボケ……ばか……むす……?」  粛然と罵声を浴びていたメフィルが、すくっと背筋を正して首の骨を鳴らし、前に進み出た。 「聞き捨てなりません その暴言  お父上 だからこそ 赦せません  ご主人様のチェロは 天下一  ヨハナ様が恋したのは 最高のチェロ弾きチェリスト!!」  息を吸って、喉の調子を整え、メフィルは高らかに歌い上げた。 「顔も名も知らなくても 音楽を聴けば十分だった  声も素性も知らなくても 恋に落ちるには十分だった  その調べに耳を澄ませれば 曇りなく音楽を愛すれば  他でもない父親が その御心を蔑むのか!!」  メフィルの影が翼を広げる。  二人を囲む村人が後退る中、ヨハナの父親が負けじと歌い返す。 「生まれたときから 見守ってきた娘  守り、慈しみ 大切に育ててきた愛娘  顔も見せない男が 泣かせていい女じゃない  顔も見せない臆病者に 娘をやる父などいない!!」  メフィルも怯まず歌い返す。 「耳を塞いだまま 届く言葉なんかない  目を逸らしたままでは 涙の理由もわからない  あなたは此処に来た 娘から逃げて  娘を信じずに 娘の想いを踏み躙った!!」  一歩も引かずに睨み合うふたりに、駆けつけた声が水を差した。 「はい、そこまで!  おふたりがヨハナさんを大好きなのはわかりましたから、不毛な言い争いはやめなさい!」 「神父様……」  大股歩きで割って入ると、神父はヨハナの父をメフィルから引き離した。 「親父さんが心配する気持ちはもっともですが、理由も聴かずに怒鳴り込んだら、娘さんに嫌われますよ。  メフィルさんがこうまで仰るんですから、ご主人もきっとヨハナさんを大切に想っているのでしょう。信じて待ちませんか?」 「おれは……」  躊躇いの沈黙に、窓からルドルフの声が響いた。 「メフィル。親父さんに入ってもらってくれ」 「ご主人様。ですが」 「いいんだ。こっちから詫びに行くべきだったって、おまえも言ってただろ?」  メフィルは頷き、父親を「こちらへ」と案内する。  父親は顔を顰めたが、神父に背中を押され、村人の見守る中、玄関へと上がる。
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「狼の鐘 Wolf tone」

 居間で迎えたルドルフは、髭を剃り、髪を整え正装していた。 「初めまして。ルドルフと申します。  お嬢さんの件で、こちらからお詫びに出向かねばならないところ、ご足労をおかけして……」  ルドルフが頭を下げようとするのを制止して、父親は壁にかけられていたチェロに近づいた。 「見ていいか?」 「は、はい。どうぞ」  父親はチェロを手に取り、ためつすがめつ観察して、弦を軽く奏で、頷く。 「良い品だ。良く手入れされてる」 「……ありがとうございます」 「弾いてみろ」  父親にチェロを突き出され、ルドルフは戸惑った。 「都の気取ったしゃべりで何言われたってわからん。  おれは楽器職人だ。おまえが娘をどう想っていて、どう扱ったのか、演奏なら、隠そうとしたってわかる」  言うだけ言って、父親はどすんと椅子に座る。 「ご主人様」 「……いや、いい。呪いが嫌わせるのは俺だけだ。  音楽は自由なんだ。きっと伝わるさ」  ルドルフはメフィルに頷くと、椅子に腰かけ、少し躊躇い、意を決して、弓で弦を鳴らす。 「誰でも良かったんだ  俺に微笑んでくれるなら 誰でも」  最初の一音は、狼の鳴き声のように軋んでいて、ルドルフは顔を顰め、天を仰ぎ、  気取った音色を上手に演奏するのを諦めて、がむしゃらに弾き始めた。 「ぬくい巣穴から放られて、凍えてここまでやって来た  みんなに笑われ爪弾きにされて、いじけてこんなところにやって来た  誰でも良かった 誰でも良かったんだ  俺に微笑んでくれるなら 俺に冷たくしないなら  だけど手を取ってくれたのは 君だった  誰でも良くなんかない 君だったんだ  寒々としたベッドから温もりを探して 転んでここまでやって来た  着の身着のまま素寒貧で いじけてこんなところにやって来た  誰でも良かった 誰でも良かったんだ  俺を抱きしめてくれるなら 俺を笑ったりしないなら  だけどここで見つけたのは 君だった  他の誰でもない 君だったから  俺に微笑まなくたっていいさ 笑顔でいてくれ  俺を笑ったっていいさ 幸せでいてくれるなら  だけど願うのが止められないんだ 誰か俺を止めてくれ  だって君に笑ってもらいたい 君の笑顔が見たい  俺が君を幸せにしたいんだ」  叫ぶような演奏に、父親は独白する。 「なんてみっともない、情けない男だ。いい年して小僧みたいにのぼせおって。  だが、この男は娘に恋をしておる。妻に恋したおれのように。  それは、間違いない」  ルドルフの演奏が続く。 「願うのが止められない 言葉にするくらいは良いだろう?  口にするのも許されないのか? じゃあ歌うくらいは勘弁してくれ  だって胸が張り裂けそうだ 叫んでないとおかしくなる  俺の代わりに チェロよ歌ってくれ だって心が叫んでる  君と結ばれたい 俺の妻になってほしい そんな言葉じゃ全然足りない  君の笑顔が見たい 君を幸せにしたい だって君といると幸せなんだ  だから、俺と、俺を、俺の」  演奏が失速する。指がもつれる。願いを探して、ルドルフの目が彷徨う。  胸を掻きむしるように、声を振り絞るように、ルドルフは最後の一音を奏でた。 「俺を、君の、夫にしてほしい」  教会の鐘が鳴る。演奏の余韻を掻き鳴らすように。  メフィルが玄関を振り返る。鐘が鳴り響く中、戸口へ向かう。  鐘が鳴っている。誰かが扉を叩いて、叫んでいる。  鐘を鳴らすように。鐘の音に負けないように。鐘の音を掻き消すくらいに。鐘と合奏するように。 「はい、はい、はい、はい」  メフィルが扉を開ける。ヨハナの声が、鐘のように高らかに響く。 「はい!!!」  鐘の余韻が響き渡る中、ヨハナとルドルフが見つめ合う。  ヨハナがもう一度言う。はっきりと。 「はい。なります。あなたの妻に……喜んで」  光が強くなる。影が去り、呪いが晴れていく。  ルドルフがチェロを置こうとして、その前に駆け寄ってきたヨハナがルドルフに抱きつく。  ルドルフはチェロごとヨハナを抱きしめる。  恋人たちを祝福するように、もう一度鐘の音が鳴り始める。  メフィルが拍手をして、父親が複雑そうに見守る中、幕が降りて、一年で一番長い夜が始まる。
*  *  *

エンディング メドレー

 幕の降りた舞台に、舞台袖から黒兎が登壇する。 「さて皆様、今宵の物語はこれにて閉幕。お楽しみいただけたでしょうか?  え? ふたりのその後……うぅーん、それは……  いえいえ、ふたりとも末永く、仲睦まじく暮らしましたとも。  何の波乱も悲劇もこの平和な村には訪れず、心躍る平穏な日々がいつまでもいつまでも続きました。  ですから、わざわざ語るまでもないということで。  ルドルフ氏がその後、いつまでも奥方の尻に敷かれた話とか。  生まれた子どもたちをデレデレに甘やかして、奥方とメフィルさんに叱られた話とか。  そういった余談は当事者の胸の内あいたぁっ!?」  飛んできたルドルフの靴に、黒兎は頭をさする。 「では、演奏の準備ができたようなので、アンコールにお応えしましょう。  準備はよろしいですか? また最初いちからこの舞台を観たくなること請け合いの名曲ですよ」  黒兎はウィンクして舞台袖に引っ込む。  幕が上がり、チェロを構えたルドルフが朗々と歌い始める。 「ああ〜 オンナぁ〜 おんなーがー、抱きたい〜  だれでもいい〜 オンナなーらー、だれでもーーーー」  黒兎がアッチャーと手のひらで覆った顔を覗かせる。  軽やかな歌声が加わる。 「ああ〜 オトコ〜 おとこーにー、会いたい〜  だれでもいい〜 オトコなーらー、だれでもーーーー」  ノリノリで歌うヨハナにルドルフが顎を落とし、愕然と手を伸ばすが、ヨハナは華麗なステップでルドルフを躱して歌い続ける。 「変わり映えのない平凡な毎日  見知った音楽 聞き覚えのある演奏  誰でもいい 知らない音を聴かせて  誰でもいい 知らない世界に連れて行って  だから出かけたの 村外れの家  他所から来た 知らない誰かに会いたくて  だけどそこにいたのは あなただった  誰でも良くなんかない あなただったから」  顔を輝かせたルドルフとヨハナが手を繋ぐ。  朗々とメフィルの歌声が響く。 「冬が終わり 春が来る  物語の幕が降りたら 後に続くのは幸せだけ  それは本当? ええもちろん  嘘じゃない? ええもちろん  お疑いなら翼を見せましょう  わたしは悪魔 信用できない?  わたしは蝙蝠 信用できない?  ならば歌いましょう 高らかに  音楽には決して 嘘はつけない!」  翼を広げたメフィルの両脇から、村娘たちが躍り出て歌い始める。 「ロマンスロマンス ロマンスをちょうだい  抜け駆けなんて許さない 幸せになるならみんなでよ  さぁ  鐘が鳴るわ 高らかに  音楽が始まるわ 高らかに  さぁ 歌って 鐘に負けないくらい  なんでもない私たち そこから永遠が始まるの」  ヨハナの父と、村人たちが現れて、咳払いして歌い始める。 「結婚なんてろくなもんじゃねぇ  女房の輝き 遥かな昔 今じゃ鬼婆 かかあ天下  墓場へようこそ 新米さん  ここは地獄だ そいつは悪魔だ!」  恋人たちは笑って、それぞれがメフィルと手を繋ぎ、メフィルを挟んで歌い始める。 「コイツは悪魔でキューピッド  俺はろくでなしの甲斐性なしで  だけど妻を愛してる!」 「私は魔女で鬼婆で?  だけど良いの幸せだもの  さぁ歌いましょう ごいっしょに  いついつまでも いっしょにいてね」  合唱が始まる。 「昔村にやってきた 狼男と悪魔の主従  村娘を拐かして 魔女に変えて結婚式だ  ところが起こる愛の奇跡  呪いは解けて 男は王子に 魔女は姫に  蝙蝠になった悪魔は 天使といっしょに祝福したさ  いついつまでも終わらない  蝙蝠は歌う、狼の春!!」
ヨハナ&ルドルフ/画:竹灯