魔女の爪弾く煉獄

 音楽が響く。青空の下、風に乗って響く爽快な音色。思わず踊り出したくなり、笑顔がこぼれる。そんな旋律。  楽団が演奏を終えて、聴衆から歓声と拍手があふれる。ずっと我慢していたものを吐き出すように。  中でも熱心に拍手をしていたのは、ボロをまとった旅人だった。目深に被った頭巾の隙間から、見開かれた瞳が感動に輝いている。  それが面白かったので、楽団で竪琴を担当している男は旅人に近づいた。 「こんにちは。俺たちの演奏は如何だったかな?」 「とっっても素晴らしかったですわ!  まるで、まるで、そう、音楽に口づけられて踊っているみたいでした!」  声が女のものだったのに驚いたが、頓珍漢で熱烈な称賛に自尊心をくすぐられ、男は嬉しげに頷いた。拍手はまだ止まない。  彼女のそばに竪琴を持っている青年がいるのに気づいて、男は興味を惹かれた。 「おや、あなたも竪琴を?」 「ああ、それはわたしのなんです。いつも彼が持ってくれていて」  事もなげに娘が言うのに、男は音楽の教養があるのかと納得した。お忍び中のお嬢様だろうか。  好奇心と親切心が疼いて、尋ねる。 「どうです? お嬢さんも一曲弾いてみませんか?」 「よろしいんですの!?」  娘は嬉しそうに声を弾ませた。  この聴衆の前で奏でるのは楽士の誉れ。つたない女の演奏でも、祭りの席では許される。  少なくとも自分は、俺たちの後に演奏を披露する度胸を称賛しようと、男はそのとき、そう思っていた。 「嬉しいですわ。実はさっきから、素晴らしい演奏に指が疼いて。  皆さんに比べたら拙いものですが、では」  心配そうな従者から竪琴を受け取り、娘が小走りに舞台に駆け上がる。聴衆がようやく拍手を止めようとする。  それを待たず、娘は一音、弦を爪弾いた。  それだけで、拍手も余韻も吹っ飛んだ。  ただの一音。水際立った音色が、波紋となって押し寄せる。  音楽が始まる。青空を打ち砕くような、風さえ身を潜めて耳を澄ませるような、荘厳な音色。思わず息が止まり、まばたきさえできなくなる。そんな旋律。  音楽は終わらない。雨のような音色が打ち付ける。雷が鳴っている。これは拍手だ。喜びだ。原始的な、獣のような、言葉を失い、ただ叫び続ける、獰猛な歓喜。  風が吹いた。頭巾がめくれて、ふわりと黒髪が広がる。娘の白い優美な面が露わになる。  風に余韻をこぼすように、娘は弦から手を離した。演奏が終わる。  でも、音楽は止まない。まだ耳で響いている。頭の中で、腹の奥で、骨を、心臓を、奏で続ける。終わらない。  きっと、これから一生。俺の生が終わるまで。この旋律は鳴り続ける。  拍手一つなく沈黙した聴衆を見渡して、娘は溜め息をこぼした。 「ああ、また。恥ずかしいですわ、本当に。わたしの演奏、いつも人を喜ばせられなくて。  お耳汚し、失礼しました」 「とても素晴らしい演奏でしたよ、ご主人様」  慰めではない芯からの称賛を贈る従者に、しゅんとしていた娘が嬉しげな顔をする。  それを言葉もなく眺めながら、男は聴衆と同じ感想を抱いていた。  娘を指して、ただ一言。 「魔女」   *  *  *  耳を掻き毟るような旋律が響いていた。弦が切れそうな指遣い。狩りのつもりで、逆に追い立てられているような、そんな旋律。  演奏が終わったとき、聴衆で拍手をしたのは、ただ一人だった。  ボロを纏っていても、ひと目でわかった。あの女だ。  あの日、罵る聴衆に追い立てられ、従者と共に町を逃げ去った、魔女。 「……馬鹿にしているのか?」  ひび割れた声は誰にも聞かれなかった。たった一つの拍手から逃げるように舞台を後にする。  再起を賭けた舞台だった。あの日、あの魔女の演奏を聴いて以来、自分の音楽を見失ってしまった。  竪琴を奏でると、あの旋律が聴こえてくる。他人の演奏を聴いていても、あの魔女の演奏が蘇ってくる。何をしていても。あの音楽が耳から離れない。  パトロンに見捨てられ、収入は激減した。酒に溺れ、妻子に暴力を振るい、どん底にまで落ちて、かつての楽団の仲間が手を差し伸べてくれた。  絶対に成功しなければならなかった。なのに。あの魔女の音色から逃れようと、手が逸って、逸って、誰にも聴き取れないくらい、逸って──  後悔に顔を覆う。音楽が聴こえてくる。自分の先程の、拙い演奏が……違う。  旋律が実際に聴こえてくるのに、男は顔を上げた。追い立てるような足早の旋律。なのに、はっきりと耳に届く。轟く雲が連れてきた雨音が、世界を奏でているような。  自分がこう演奏したかったと思い描いていた、理想の旋律。それを奏でているのが誰なのか、見に行かずともわかった。屈辱と不条理に膝を突く。  想いばかりが先走って伝わらなかった演奏が、あの女には伝わった。何故だ。どうして、こんな人間が実在するんだ。  音楽が変わる。打って変わってゆったりとした旋律。一音一音を数えて、その余韻に浸るような旋律。母の胸元で聴いた子守唄。生まれる前に聴いていた、羊水のさざ波。  優しく竪琴を爪弾く音色。腕の中の赤子を揺するように。頭を撫でて、背中を叩くように。  どうしてだ。どうしてお前みたいな魔女が、こんな音を奏でられるんだ。  演奏が終わる。涙は止まらない。誰も声を発しない。拍手は起きない。  みんな泣いているから。失ったものを思い出して、それを思い出させた女を憎んでいるから。  声が聞こえてくる。自分が今奏でた音楽の価値を、微塵も察していない嘆息。 「ああ、やっぱり、こうなった」  その音楽を、心から讃える声。 「とても素晴らしい演奏でしたよ、ご主人様」  どうして、そう言えるのか。  男は魔女だけではなく従者も憎んだが、彼が舞台を覗く勇気を振り絞ったときには、魔女は従者に手を引かれその場を後にしていた。   *  *  *  音楽が響く。青空の下、風に乗って響く荘厳な音色。思わず俯いて、涙を誘う。そんな旋律。  鎮魂歌を終えて楽団が沈黙すると、後に響くのは神父の説諭と、家族の泣き声だけだった。  それを耳にしながら、サーシャはそっとメフィルと共に葬列から抜け出した。  空を仰いで、ほうっと溜め息を吐く。 「素晴らしい式だったわね。故人の人柄を偲ばせる、いい音楽だった。素敵な楽団だわ」 「ええ、本当ですね」  心から同意しながら、メフィルは胸のうちに靄を感じていた。  あの男性は、主人を憎んでいた。呪いのせいとはいえ、心から疎み、嫌っていた。  そのことを、主人はどう感じているのか。そもそも、気づいているのか。 「ご主人様、僭越ですが、なぜ、あの方の葬儀に?」 「嫌われていたのにって話?  やだ、気にしてないわよ。呪いのせいだもの」  軽く笑い飛ばして、サーシャは溌溂と笑った。 「嫌われていても、わたしはあの人の音楽が好きだったわ。  だから、見送りにも出たかったの。彼の最期が、どんな旋律を奏でるのか、聴いてみたかったから」  晴れた空を仰いで、サーシャは口笛を吹き始めた。  思わず踊り出したくなるような、軽妙な旋律だった。