白鳥踏み躙る蟻の

 旋律が夜闇を織り上げていた。月が雲に隠れていたか、星が瞬いていたかも思い出せない。  息を吐いて、部屋の空気を吸う。冬の名残りに凍える、春の湿り気。漂うかすかな塵。息絶えた血と、滲み出た汗、垂れたツバに、涙の味。  今しがた自分が絞め殺した友人を見下ろして、シプリアンCyprienコローニュCologneは、胸の内に流れ始めた旋律を小声でくちずさんだ。  高く、遠く、夜空の果てを目指す鳥が、脳裏に羽ばたく。その翼は白く、歌声は美しく、眼差しは気高い。足元に倒れている友人のように。 『シーニュCygne、旅行に行かないか? 今度の競演会の作曲、行き詰まってるんだろ?』 「余裕だな」と皮肉を返した。「哀れんでいるのか」と声を荒げた。  それでも彼は、明るく笑って。 『俺は競い合って音楽の高みを目指したいんだ。みんなが納得のいく演奏をした席で一番に選ばれたら、最高だろ?』  選ばれる自信のあるやつの台詞だった。「放っておいてくれ」と罵って、背を向けて……  友人の留守を狙って部屋に忍び込んだ自分を、彼は見つけてしまった。 『シーニュ? それ、競演会で弾く俺の曲……』  手にしていた楽譜を、シプリアンは机の上に放った。こんなもの、要らなかった。求めていた音楽が、涸れ果てていた楽想インスピレーションが、今、夜を明るく染め上げていた。  そうだ、この傑作を書き写しておかないと。いつも持ち歩いている五線紙を懐から取り出して、ペンを拝借しようと部屋を見渡して。  シプリアンは、扉を背にした女と目が合った。 「こんばんはBonsoir」 「……こんばんは」  頭に響く音楽が途切れなかったのは、彼女が溌剌と笑んでいたから。夢のように美しかったから。  薔薇色に色づく白いかんばせも、ふわりとした白金色の髪も、真っ白なドレスに包まれた体も、蜜を垂らしたように蕩ける甘い声も。 「さっきの鼻歌、素敵ね。あなたの曲?」 「あっ、ああ」  久しく浴びていなかった賛美に頬が緩む。翼のようにスカートを揺らして、男なら誰もが妻にしたくなるような美女が、シプリアンを覗き込んでくる。 「わたくし、音楽をする人って大好き!  ねぇあなた、わたくしの主人になってくださらない?」  闇に濡れた唇の、黒々とした深紅に見惚れて、シプリアンは頷いた。  高鳴る音楽が、永遠に夜を照らすのを予感しながら……
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 それは夏の出来事。空が青く燃え上がり、涼やかな夜に浮浪者が石畳を寝床にする季節。路上の馬糞や残飯が暑さに腐り、蒸した悪臭が風を澱ませる頃。  人気の疎らな路地の日陰で、メフィルは外套のフードを目深に被った主人に頭を下げた。 「申し訳ありません、ご主人様。この街は最近通り魔が出るそうなので、明日には立ち去ったほうがよろしいかと」 「まぁ、そうなの?」  サーシャがフードの奥で声をひそめ、残念そうに眉を曇らせるのに、メフィルは忸怩たる想いで肩を縮めた。  メフィルと契約した代償である「対面した人間に嫌悪される呪い」を避けるため、サーシャはなるべく顔を隠し、人前でしゃべらないようにしている。メフィルが魔術師に聞いた助言を色々と実践して、「対面」を避ければ呪いは発動しないとわかったからだ。  会話はメフィルを介し、人と触れ合うのは演奏だけ。それでも音色に惹かれた人間に顔を覗かれ、呪いが発動してしまうことはあるが、これまではメフィルが対処できる範疇に収まっていた。が。 「夜に出歩いていた方が殺される事件が相次いでいると、新聞に……  女性の共犯者がいるという話もありますので、ご主人様が滞在するのは危険です」  サーシャは背が高く、ほっそりとした中性的な体格だ。外套を羽織りフードを被れば判別しづらいが、顔を見られ声を聞かれたらすぐに女性だと露見する。犯人と疑われて街中から追われれば、メフィルひとりでは守り切れない。 「わかったわ。今日は早めに宿を取って、明日早くに出ましょう。  演奏もやめておいたほうが良いわよね?」 「申し訳ございません……」  音楽を愛するこの街で、主人が演奏を披露すれば、きっと喝采を浴びただろうに。  己の至らなさに俯いたメフィルの肩に、サーシャが触れた。 「落ち込まないで。いつも守ってくれて、ありがとう。メフィル。  あら?」  主人の意識が上に逸れるのを追いかけて、メフィルは振り返った。  サーシャの歓声が耳を打つ。 「まぁ、綺麗な羽!」  建物に切り取られた空に鳥はいない。  代わりに、アパルトマンの二階の窓から身を乗り出して、伸びをしている女性と目が合った。  波打つプラチナブロンド。蠱惑な黒い唇。白いガウンを揺らす豊満な肢体。その背に広がる、真っ白な翼。  天使に喩えるには艶やかな女が、よく通る声で挨拶してくる。 「こんにちは!  もしかして、憑神同類の方かしら?」  羽を畳んで手招く女性にサーシャが顔を輝かせるのを見て、メフィルは危ぶみながらも招待を受けることにした。
*  *  *
「初めまして。わたくしはリャナンシー。白鳥の憑神よ」 「初めまして! わたしはサーシャ。こっちはメフィル。彼は蝙蝠の憑神なの」  案内された暖炉のある居間はチェンバロClavecinやヴァイオリンが置かれ、書きかけの楽譜が一望できるように壁に留められていた。  フードを脱いで椅子に座り、身の上話を済ませたサーシャに、向かいの肘掛け椅子に腰を下ろしたリャナンシーが声を弾ませる。 「それじゃあ、本当に同類なのね。わたくしの旦那様も音楽家なの。今は出かけていらっしゃるけれど」 「まあ、奇遇ね。後でご挨拶したいわ。どんな音楽を奏でられるのかしら?  旦那様ってことは、ご主人と結婚されたの?」 「ええ。内縁の、だけれど。愛し合っているわ」  頬を染めて輝く笑顔を見せたリャナンシーを、サーシャは両手の指を組んで言祝いだ。 「幸せなのね。素敵……  恋って楽しそうよね。わたしもしてみたいんだけど、ピンと来たことがなくて。メフィルはある?」 「わたしも、とんと……見つけるものではなく落ちるもの、と申しますし」 「そうねぇ。そのうち出会いがあるかしら? 恋をしたらどんな音が聴こえるのか、気になるのよねぇ」  楽しげな主人に申し訳なく思いつつ、メフィルは水を差した。 「ご主人様。日が傾く前に宿を探しませないといけませんから、あまり長居は……」  リャナンシーがこともなげに言った。 「あら。うちに泊まればいいじゃない」 「まぁ、よろしいの?」 「ええ。旦那様のお許しがあれば、だけど。  同じ憑神で、音楽家同士なのですもの。すぐにお別れするのは寂しいわ」  すっかり意気投合したサーシャとリャナンシーの会話が弾むのを、メフィルは壁際で見守った。  程なく玄関が開く。 「ただいま。おや、お客さんかい?」 「お帰りなさい、シーニュ!」  リャナンシーが声を弾ませて玄関へ駆けていく。翼を広げた彼女に抱きつかれたのは、サーシャとそう歳の離れていない青年だった。線の細い柔和な面差しだが、長い指は骨ばって男らしい。 「こちら、蝙蝠の憑神のメフィルさんと、主人のサーシャさん。音楽家なんですって」 「それは奇遇だな!  初めまして。僕はシプリアン・コローニュ。自分以外の神憑きに会うのは初めてです」 「初めまして。白鳥Cygne、というのは愛称かしら?」 「ああ、聖歌隊時代のあだ名ですよ。今でも親しい人はそう呼ぶんです。  サーシャさんも、どうぞ気軽に呼んでください」  主人の会話を邪魔しないよう控えていたメフィルが、好奇心を隠せず身を乗り出した。 「すみません。シーニュと言うと、春の競演会で絶賛されていた方でしょうか?」 「ご存知でしたか! お恥ずかしい」  シーニュは謙遜したふうに照れ笑いをしたが、隠しきれない誇らしさに胸を膨らませていた。  メフィルが目にした音楽誌で、シーニュと呼ばれる音楽家はかなりの紙面が割かれていた。曰く、「白鳥の歌もかくやの伸びやかな独唱」「聴衆の魂を深く揺さぶる旋律」「鮮烈で官能的。新たな星の誕生」…… 「妻の歌唱が良かったんですよ。僕の作った歌を楽譜以上に表現してくれました」 「わたくしは旦那様の指示通りに歌っただけよ。  そうだわ! あの歌、サーシャとメフィルにも聴いてもらいましょうよ」 「まぁ、よろしいの?」  シーニュは快く頷いた。 「もちろん構いませんよ。では、お二人に会えた記念に」  チェンバロの前に座ったシーニュの合図を待って、リャナンシーは裾を払って主人の傍らに立ち、白い翼を広げ、高らかに喉を震わせた。  劇場の薄闇に包まれたような心地に、メフィルは改めて背筋を伸ばした。窓から注ぐ午後の陽射しが影を落とす。世界の中心が、音楽を奏でる一対の白鳥になる。  シーニュの弾くチェンバロの音は精緻で美しく、リャナンシーの歌声は見事だった。繊細な音色を溌剌とした歌声が照らし、調和した旋律が幻想へ誘う。  夜空を羽ばたく白鳥が、仲間と共に星を目指す歌だった。伴う鳥たちが一羽、また一羽と闇に飲まれるが、その命の瞬きが夜を照らして、白鳥を高みへと連れて行く。  彼方に羽ばたく音色を見送って、歌は終わった。  世界に色と光が戻り、メフィルは惜しみなくふたりに拍手を贈った。 「素晴らしい歌でした。競演会での評判とは違った印象でしたが……」 「お気づきですか。この歌は僕の代表曲ですからね。さらなる高みを目指して推敲を重ねているんですよ」  かなりの完成度だが、まだ満足していないのか。  素直に感嘆して、リャナンシーにも賛辞を述べたメフィルは、常ならば真っ先に歓声をあげるサーシャが、眉をひそめて黙り込んでいるのを訝んだ。 「ご主人様?」 「おや。サーシャさんはお気に召しませんでしたか?」 「あっ、ごめんなさい。とても素晴らしい歌だったわ。  ただ……」  珍しく言い澱んでから、サーシャは尋ねた。 「最近この街を騒がせている殺人鬼って、あなたたちなの?」
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 月のない夜空を見上げて、女は嘆息した。暖かくなって随分と過ごしやすくなったが、とうがたった年増では中々客が捕まらない。  それでも夜闇に紛れれば誤魔化せるかと、女は街灯の少ない橋に足を運んだ。一張羅のスカートの華やかな薄紅Roseが、少しでも若く見せてくれるのを願う。  あの子も薄紅が好きだったな、と女は思い出した。早くに死んだ夫の一粒種は、今頃どうしているだろうか。里子に出して、それっきり。元気でいてくれたら良いのだけれど。  行く手に程よく清潔な男を見つけて、女は雑念を振り捨てて喉を鳴らした。 「旦那さん。遊んでいかない?」 「ああ、いくらだい?」  男の擦れていない発音と気風のいい台詞に、女は笑い皺を隠そうと咄嗟にスカーフで頬を隠した。いくらか吹っ掛けたが、男は疑いもせずに頷いた。  上客だ。早速 男に腕を絡めて、ガウンの下の乳房を押し付ける。男が鼻を伸ばして上の空になるように。女の顔を覗き込んで来ないように。後から値切られるのはごめんだった。  恥じらいを装って石畳に顔を逸らしながら、女は街灯の影を見下ろした。人気のない路地に向かっていく。最近街が物騒なのが頭をよぎったが、呑気に家で休める身分ではない。  街灯の途切れた薄闇で、女はつと客の横顔を盗み見た。見覚えのある輪郭に、思わず声が漏れる。 「あんた、音楽家の……シプリアン先生じゃないかい? 美人の嫁さん捕まえた……」 「あなたは、屋根裏の?」  しまった、と思ったがもう遅い。星明かりの下でこちらを見下ろす男は、階層こそ違えど同じアパルトマンの住人だった。  うだつの上がらない根暗な音楽家が、ある日煌めくばかりに美しい女と同棲を始めて、あっという間に背筋の伸びた売れっ子になった。 「音楽ではなく妻に心を捧げている」と陰口を叩かれるくらい仲の良い夫婦で、自分には縁のない男だと思っていたが…… 「なんだい、そんなダサい帽子被ってるからわかんなかったよ。あんな可愛い子と暮らしておいて他の女ともだなんて、お盛んだね」  軽口で誤魔化そうとしながら、上目遣いに媚を売る。さっきの言い値で買ってもらえたら、明日はたっぷりパンが買える。ワインだって飲めるかもしれない。 「今更ナシだなんて言わないでおくれよ? 奥さんには黙っててやるからさ。ね?」 「あら、お呼びになりまして?」  夜に光を灯すような艶やかな声に、女は辛うじて悲鳴をこらえた。シプリアンが呆れ声を出す。 「リャナンシー。出てきちゃダメじゃないか」 「だって、正体がバレるなんて初めてでしょう? 旦那様がお困りじゃないかと思って」  物陰から現れた、波打つ金髪を引っ詰めて帽子を被った婦人は、紛れもなくシプリアンの愛妻だった。  仲良し夫婦に揶揄われたのかと怒りが込み上げて、次いで、変装しているようなふたりの服装に、違和感を覚える。  最近街を騒がせている殺人鬼。犠牲者は娼婦かその客。犯行は夜中で、朝方、首を素手で絞められ絶命した遺骸が川に浮かぶ。  目撃者によると、娼婦の犠牲者は帽子姿の紳士に、客の犠牲者は帽子姿の婦人に話しかけられていて…… 「まさか」  後退る女を、夫婦がにこやかに見つめた。 「どうなさるの? 今夜は中止?」 「う〜ん。知られてしまったしね。やっちゃおう」 「まっ、待って! 言わない、誰にも言わないから、だから」  舌がもつれる。声が上擦って、助けが呼べない。汗が白粉を浮かせて、ガウンが肌に張りつく。 「大丈夫よ。ご安心なさって?」  ふわりと距離を詰めた眩い笑顔に、女は縋ろうとした。夜目にも明らかな瑞々しい肌。薔薇の花弁の唇。若さと美貌を惜しげもなく湛える微笑に、助けを乞おうとした。 「旦那様の歌の中で、あなたは永遠になるの」  白い指が、女の首を絞めた。細腕に見合わぬ、人ではあり得ない、獣じみた強さで。  女は叫ぼうとした。潰れた喉が、蛙のようにへしゃげた音で鳴く。プツプツと、頭の血管の切れる音がする。視界が暗く揺らめく。  目の前の笑顔は微動だにしない。絵画のように美しいまま。人を殺しても美しいまま。 『ろぉず!』  聞いたはずの無い声が聴こえた。言葉を発する前に別れた我が子の、愛らしい声。  自分のスカートを握る小さな手を探して、女の指は宙を彷徨い、何も見つけらぬまま、虚空で力尽きた鳥のように落ちていった。
*  *  *
「最近この街を騒がせている殺人鬼って、あなたたちなの?」  神憑きだという女、サーシャの問いに、シーニュは──今や白鳥Cygneと謳われるようになった気鋭の作曲家シプリアン・コローニュは、取り繕った声を上げた。 「何を、突然。どこでそんな話を?」 「だって今、歌で仰っていたでしょう?」  そんな歌詞は綴っていない。反論が喉を迫り上がるが、サーシャの澄んだ眼差しは確信を宿していて、いかなる言い逃れも通じそうになかった。  嘆息して椅子に座る。 「参ったな。それがあなたの権能なんですか?」 「確かに、メフィルと契約してから耳が良くなったけど……  あなたたちが人を殺すのは、代償のせいなの?」 「いいえ? 芸術の、音楽のためですよ」  リャナンシー以外に聞かせる機会のなかった想いが、口からこぼれ出た。 「リャナンシーの権能はインスピレーションを授けてくれますが、その代償は短命の呪い。僕はもうじき死にます。  自棄になってるわけじゃないですよ? 契約も後悔してません。お陰でこんな愛らしい妻を得られたんですから」 「わたくしも、旦那様と夫婦になれて嬉しいわ」  心から幸せそうな妻に相好を崩して、シーニュは話を戻した。 「ただ、残り時間が限られているからこそ、些事に囚われてはいられません。  先程の歌は、僕の最高傑作。あの歌を輝かせ、後世に歌い継がれる名曲にするためなら、僕はいくらでもこの手を汚せます」  明白な目的に、サーシャは困惑を深めたようだった。 「ごめんなさい。後半が、よく……  どうして、殺人が歌を輝かせるの?」 「あの歌は命の輝きを歌った曲だからですよ。この手で奪った命が、最期に瞬く、死。  それを旋律に写し取るには、まだまだ『演奏』しなくては」 「最近はわたくしもお手伝いしているのよ。旦那様が手を怪我されたら大変ですもの」  誇らしげなリャナンシーに、メフィルという憑神が眉を曇らせる。 「あなたは、それで良いのですか?」 「ええ。だってわたくし、旦那様が喜ぶならなんでもしたいの」 「愛してるよ、リャナンシー」  愛しい妻を抱き寄せて、シーニュは黙り込んでいるサーシャを見た。  向こうの出方次第では、このふたりを今夜の生贄にしなくてはいけないが…… 「サーシャさん? ご理解いただけましたか?」 「ごめんなさい。まだ、よく……  死を旋律で表現するために、あなたは人を殺しているの?」  何度もそう言っているだろうと、シーニュは呆れて頷いた。  青みがかった黒髪を揺らして、サーシャは小首を傾げた。無垢な幼子のような清澄な声で、まっすぐに、ただ一言。 「わざわざ?」
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 空気が薄氷のようにひび割れるのを、シーニュは聞いた。  それが自分の憤激の音だと悟るより先に、声が漏れる。 「わざわざ、と、は?」 「だって、死って、どこにでもあるでしょう? 人でも、虫だって」  本気で困惑しているらしく首をひねったサーシャに、乾いた笑いが漏れた。 「サーシャさん。天の父の写し身たる人間の命を、虫けらと同列に語るのは感心しませんね。  僕が求めているのは、輝く死を表現する、理想の旋律です。これでも妥協しているんですよ?  初めて殺した友人は、まだリャナンシーと契約していなかった僕に素晴らしいインスピレーションを与えてくれました。あの輝きは得難いものですが、そのために才能あふれる彼の命を奪ってしまったのは、ええ、申し訳なく思います。  ですから娼婦や凡夫を代わりにしているんですよ。無為に生きて死んでいく命が、僕の歌になって永遠を生きるなんて、素晴らしいと思いませんか?」 「あまり」  即答だった。顔を強張らせたシーニュの肩に手を乗せて、リャナンシーが朗らかに提案した。 「なら、サーシャも死を演奏してみるのはどうかしら?  音楽家ですもの。言葉より音楽で語り合ったほうがわかり合えるわ」 「それだわ! ごめんなさいシーニュさん。わたし、口下手で。  メフィル、お願い」  主人の求めに応え、メフィルは携えていた竪琴を手渡すと、小声で尋ねた。 「よろしいのですか?」 「わたしたちは流れ者だし、憑神のリャナンシーを警察の方が捕まえるのは難しいと思うの。  納得して殺人を止めてもらえるなら、それが一番いいわ」  頷いて壁際に下がったメフィルに微笑んで、サーシャは琴を構えた。  既に期待する気持ちはなく、シーニュは腕を組んだ。同じ神憑きの音楽家ということで興味を持ったが、どうやら真の芸術を解さない凡百な音楽家らしい。竪琴も見るからに粗末な作りの安物で、優れた音色を出せるとは思えなかった。  自分が神に愛された音楽家だと、シーニュは確信していた。あの夜、運命の女に出会い、天命を授かった。この歌を完成させ、永遠に語り継がれる旋律にするために、自分は生まれてきたのだと。  その肥やしになるなら、つまらない演奏を聴くのもやぶさかではない。採点してやるつもりでシーニュは目を閉ざし、耳を澄ませ、爪弾かれた弦の音色に、蟻になった。  圧倒的な音の波が、目蓋の暗闇に押し寄せる。これは星だ。あの夜の果て、白鳥の目指す輝く星が、眩く燃え尽きていく。  巨大な理不尽。抗うなど無意味な運命の奔流。星々が流れていく。一つ、また一つと、止め処なく、尽きることなく。その軌跡が胸を打つ。  隣で響く拍手の音に、呼気を吐き出して、ようやく、シーニュは演奏が終わったのを知った。  汗ばむ額を、頬を伝う汗を感じながら、目蓋を開く。リャナンシーが歓声を上げている。 「すごーい! サーシャ、演奏とっっても上手なのね!」  何を言っているんだ、この女は。シーニュは愕然とした。今の、絶世の演奏を聴いて、出てくるのが、そんな、陳腐な、ありきたりな言葉なのか?  メフィルという憑神が、拍手を続けながら控えめに主人を賞賛する。 「とても素晴らしい演奏でした、ご主人様。  今のが、ご主人様の思い描く死なのですか?」 「ええ。この間見かけた、蟻の行列を弾いてみたの」 「蟻?」  今の、流星群を思わせる旋律が、蟻? 確かに、自分が蟻のようにちっぽけになった心地がしたが…… 「まぁ、伝わらなかった?  じゃあ、もう一曲弾いてみるわね」 「は?」  シーニュが姿勢を正す隙も与えず、サーシャは再び弦を爪弾いた。  重く脳髄を貫く旋律が、世界を打ち崩す。遥か遠い空を仰ぐ力もなく、惨めに俯く。  己の何倍もある荷を、力を合わせて運んでいく。炎天下に灼かれた死骸を引きずり、飢えた仲間たちと貪る。穴を掘り、土を運び、餌を求めて外に出かけて、繰り返す。  やがて地下に完成した大王国が、天から降り注ぐ水の奔流に押し流されて、誰も彼もが溺れて終わった。ちっぽけに生まれついたものは、音もなく潰され、顧みられることなく朽ちていく定めなのか。  その悲哀。絶望。それでもなお続いていく、命。安物の琴で奏でられる旋律が、シーニュの鼓膜で永遠に響く。 「サーシャったら、本当にすばらしいわ。  すっっごく綺麗な曲だった。旦那様のと同じくらい!」  何を言ってるんだ、こいつは。  そんなわけないだろう。僕の音楽が。僕ごときの音楽が。今の旋律に比肩するはずがない。 「本当? 嬉しいわ。メフィル以外に褒めてもらえること、滅多になくて」 「いつも素晴らしい演奏ですよ」  口々にサーシャを絶賛する憑神たちが、シーニュは信じられなかった。なぜ、今の調べを聴いて、そんなに無邪気に感動できるんだ?  恐ろしくなかったのか? 悍ましいと思わなかったのか? ただの蟻の死骸から、こんな凄絶な演奏ができる、この女が。  こいつらは、人ではないからか。音楽家ではないからか。  もしかして。ちっぽけなのは、僕だけだからか?  サーシャが振り向く。 「シーニュさん。やっぱり、人を殺すのはもったいないわ。死に様が輝くのは、生き抜いてこそですもの。  だから、ええと、そうだ! 今から、街の人たちを演奏してみるわね」  立ち上がった主人の意を汲んで、メフィルが窓際に椅子を運ぶ。シーニュはただ、それを眺めていた。リャナンシーが翼を揺らして、シーニュの隣に腰かける。  窓の下を行き交う群衆を楽しげに見下ろしたサーシャが、三度みたび弦を爪弾く。シーニュが毎日見下ろして、何の感慨も覚えなかったつまらない景色が、輝く音色になる。  そうして奏でられた旋律が、シーニュの音楽を、人生を、罪を、愛を、魂を、跡形もなく無意味に粉砕して、無価値に踏み躙り、無惨に焼き払った。
*  *  *
 翌朝、名残惜しそうなリャナンシーに見送られ、サーシャとメフィルは街を後にした。あれはいつのことだったか。  暗くなった窓辺にランタンを灯して机に向かい、シーニュは脳裏に響く輝く旋律を楽譜に書き写そうとしていた。  殺人は、あの日以来していない。あの歌への情熱を、失ってしまったから。  耳に蘇るのは、サーシャの演奏。あの流れ星。蟻の。シーニュには届かない、遥か天上の音楽の名残り。 「旦那様。お夕飯は?」  無邪気に尋ねてくる妻を、シーニュは久方ぶりに見つめた。  首を横に振る。他にやることがある。この傑作を後世に遺す使命が、自分にはある。 「でも、食事をしないと人は死んでしまうわ」 「君は、平気なんだったか」 「ええ。憑神は食べなくても平気。  さ、召し上がって」  リャナンシーの運んできた皿を眺める。白パンに、野菜のポタージュ、骨付きの鶏肉…… 「お金は……」 「旦那様が新作を執筆中だと教えたら、貴族パトロンの方々がくださったわ。期待していると仰っていたわよ」  乾いた笑いが漏れた。シーニュの手元を覗き込んだリャナンシーが、首を傾げる。 「これ、サーシャの曲?」 「ああ。僕の曲じゃなくてガッカリしたかい?」 「サーシャの曲も好きよ? 旦那様のことはもっと好き」  こともなげに愛を告げてくるリャナンシーが、ずっと支えで、救いだった。今までは。  聞けなかった問いが、喉を突いて出る。 「リャナンシー。どうして、僕と契約してくれたんだ?」 「あら、言ったでしょう? わたくし、音楽をする人が大好きなの」 「うん。でも音楽家は、他にも、いくらでもいるだろう?」  なのに自分を選んでくれたのは、シーニュが口ずさんでいた歌に心奪われたからだと、そう信じていた。 「教えてくれ。包み隠さず、全部」  リャナンシーが白金色の髪を揺らす。薔薇の香りが散って、シーニュの胸を掻きむしる。 「実はね、あの日は別の人と契約するつもりだったの。  ほら、あの部屋に住んでた、シーニュのお友達」 「え?」  この手で縊り殺した友人。リャナンシーが遠くに捨ててくれたお陰で、シーニュに疑いがかかることはなかった。  何故あの夜、リャナンシーはあの部屋に現れたのか。 「前にもお願いしたんだけど、『気持ちは嬉しいが妻を養えるほど収入が安定してない』って断られちゃって。  わたくしも焦ってたのよ? そろそろ新しい旦那様を娶らないと、体が消えそうだったから。  だからとにかく押しかけて、憑神のことも説明して改めてお願いしようって、こっそり作った合鍵で忍び込んだら、あの人は死んでて、シーニュが歌ってたの。  だから、いっかって」  あの夜と同じ、溌剌とした笑顔に、シーニュは見惚れた。鼓膜に反響する言葉が、じわじわと、心に染み込んでくる。  リャナンシーはあの夜、本当は、シーニュの友人と契約するつもりで。契約しないと消えそうで。目を付けた友人は死んでいて。シーニュは歌っていて。  だから。  シーニュは尋ねた。 「リャナンシー。僕を愛してる?」 「もちろん。いつも言ってるじゃない」 「そっか」  愛しい妻に笑いかけて、立ち上がり。  シーニュは彼女の首を絞めた。あの夜のように。白い首を、力の限り。  シーニュの表情に、主人が心からそれを望んでいると悟って、リャナンシーの体は抵抗を禁じた。指に感じる鼓動を、握り潰すように力を込める。あの夜のように。  僕の妻。僕の天使。僕の憑神ミューズ。  どうか、僕の音楽を蘇らせてくれ。あの夜のように。  色褪せた旋律を燃え上がらせて、夜を明るく染め上げてくれ。あの夜のように!  指先から力が抜けて、リャナンシーが崩れ落ちる。床に転がった妻の亡骸を見下ろしながら、シーニュは息を吐いて、部屋の空気を吸った。  妻の纏う、夏の薔薇の香り。漂うかすかな塵。息絶えた血と、滲み出た汗、垂れたツバに、涙の味。  けれど部屋は静かなまま。なんの楽想も湧かないまま。  泣き笑いを浮かべて、シーニュはランタンをチェンバロに放った。  燃え上がる炎が、永遠の静寂と暗闇を連れてくるのを予感しながら……
*  *  *
 その火はアパルトマンを焼き尽くしたが、奇跡的に死者はシーニュひとりだった。  警察は行方のわからない妻を放火犯と見て捜査を続けたが、瓦礫から見つかった白鳥の羽根を彼女と関連付けることはなく、その羽根も風に攫われ、脆く砕けて灰に混ざって散っていった。  将来を嘱望された音楽家の突然の死は、音楽誌にも訃報が載った。  メフィルとサーシャは哀悼したが、自らの演奏がどれだけ彼を打ちのめしたかは思い至らず、白鳥たちとの出会いは旅の思い出のひとつに埋没していった。  シーニュの私物はほとんどが燃え、彼が心血を注いだ歌曲も失われた。  燃え残ったのは金庫が一つ。厳重に保護されていた中身は、「蟻の行列の三部曲」と題された楽譜だった。  筆跡はシーニュのものだったが、記された作者の名はシーニュではなく、歌手だったというシーニュの妻の筆名か、シーニュの別の筆名か、他の音楽家か、結論は出なかった。  楽譜はシーニュを後援していた貴族に引き取られたが、あまりの難度に演奏できる奏者が見つからず、死蔵され、誰に聴かれることもなく忘れ去られた。