蝙蝠羽ばたく幕間

 蝋燭の油の臭いが籠もる狭い個室。外の明かりは羊皮紙で覆われた小さな窓がひとつ。  修道士の住まいらしい質素な部屋で、簡素な机に座り真っ白なミルク菓子を頬張るミハイルに、メアリーは険の籠もった声で聞き返した。 「ローマ教会に出向? あたしが? なんで?」 「メアリーが適任なんですよ。お願いします」  のほほんとしたミハイルの毛むくじゃらのヒゲ面を、メアリーはイライラと睨めつけた。小柄な肩を精一杯怒らせて、冷静に抗議しようと息を整える。 「あのね、ミハイル。あたしが何からこんな北の果てまで逃げてきたのか、忘れた?」 「魔女狩りのことでしたら、最近のローマ教会は明確に反対していますし、憑神だからと襲われる心配はないですよ。そもそもメアリーを追い回したのは教会の祓魔師ではなく民衆ですし」 「そうさせたのはあいつらの広めてる信仰でしょうがっ」  メアリーが憑神に成ったのはおよそ百年前、魔女狩りが最も苛烈だった頃のイギリスでだ。土着の宗教団体が贄に捧げたコウモリが、祭司の娘の祈りによって憑神に変じた。  姉と慕う最初の主人を迫害した信徒を、メアリーは今も赦していない。それを言えば、宗派が違うとはいえミハイルもその一人なのだが。 「ですから、メアリーに彼らを導いてほしいのですよ。メアリーのような気高く勇敢で心優しい憑神と知り合えば、憑神だからと迫害するのは間違っていると実感できるでしょう?」  起呪を掠める懇願にメアリーの耳が跳ねたが、平静を装って腕を組んだ。 「だ、れ、が、優しいって? 頭お花畑か。そんな無謀で危ない橋を渡るなんてまっぴら」  けんもほろろに断ると、ミハイルは目を潤ませた。 「そんな……メアリー、ここを安全だと信じてくださったのですね。ありがとうございます」 「ああ言えばこう言うわねアンタっ? そんなの外に比べたらの話で」  ミハイルのつまんでいるパスハ──四角錐の型にミルクを固めて作る、救い主の復活を祝う菓子──が目の端に止まり、メアリーはミハイルがこんな提案をした理由に思い当たった。  突然黙り込んだメアリーに、ミハイルがまだ口をつけていないほうのパスハを指さす。 「やっぱり、メアリーも食べますか?」 「いいからあんたが食べなさいよ。大斎おおものいみの間ずっとミルクだけだったでしょ」  ミハイルが籍を置くロシアの教会では、復活祭の前の四十八日間、信者たちが精進潔斎を心がける大斎という風習がある。その慎むべき贅沢には、「ミルクを使った食事」も含まれていた。  か細く尋ねる。 「ここは、危ないの?」  吸血コウモリであるメアリーと契約したミハイルの体は、血液以外の食事を受け付けない。例外は母乳ミルクで、幸いミルク料理が盛んなこの国では発酵乳ケフィール乳酪トヴォログで容易に腹を満たすことができた。  だが、いくら病気や体調に応じて免除されるとはいえ、信徒の模範となるべき司祭が大斎の節制を守れないのは外聞が悪い。その理由が死した獣と契った代償と知られれば、死刑は免れられないだろう。 「大丈夫ですよ、メアリー。あなたのお陰で私は聖歌の名手と有名なんですから。心配させてすみません」  メアリーの権能は主人に楽才を授ける。特に音楽で感情を表現する能力が格段に向上するため、ミハイルが力強く豊かなバリトンで歌う聖歌は、斉唱の中でも聴衆を魅惑した。ミハイルが憑神あくまと契約したという囁きが、一笑に付されるほどに。 「悪魔は美声だって噂もされてるでしょ。本当に大丈夫なの?」 「正直に言うと、巡礼の旅に出てはどうかと院長様に勧められています。ほとぼりが冷めるまで、という名目ですが」  メアリーは唇を引き結んだ。実質の追放だ。壮年で経験も人望も厚いミハイルは、この島の修道院を治める後継と目されていたのに。 「どうして、あたしを助けたのよ」  ミハイルは頷いた。 「実は、ローマ教会が追っている魔女と契約しているのが、以前お話した、この城で生まれ育った憑神のようなのです」 「ここで生まれた、って、コウモリの?」  メアリーがこの島に流れ着く前に主人を亡くし旅に出たという、メアリーと同じ、楽才を授けるコウモリの憑神。 「ええ、メフィルさんですね。メアリーより大きなコウモリでしたし、権能で授ける楽才も音感を高めるものでしたが、似た者同士きっと仲良くなれると」 「待ちなさい。そいつを魔女狩りから助けて面倒見ろってこと?」 「いけませんか? メフィルさんと出会ってその人となりを知っていたからこそ、私もメアリーを迷わず助けられたのですが」 「恩に着せるつもり?」 「着てくださるのですか?」  椅子に座っていたせいでミハイルの脛を蹴れなかったのに、メアリーの腹で鬱憤が燻った。机に爪を立てて苛立ちを紛らわせる。  魔女狩りの暴徒からコウモリの姿で飛んで逃げ、北の果てのこの島に逃げ延びた。狭い島でコウモリから人の姿に化けるところを見られて、もう終わりだと思ったら、目撃した司祭──ミハイルに手を差し伸べられた。「自分がここであなたに会ったことこそ、神の御心です」と言って。  頼んだわけじゃない。赦したわけじゃない。だが。耳に蘇る祈りがあった。 『メアリー。わたしを導いて』 「~~~~わかったわよ! 言っておくけど、どうしようもないやつだったら見捨てるからね!」 「ありがとうございます、メアリー。あなたの翼ならきっと間に合うでしょう。  信頼できる方に護衛を頼む手紙を送っておきましたから、合流して教会に向かってください。私もなるべく早く追いかけますから」  鼻を鳴らして、メアリーは改めて行くべき道のりを確認した。この北の果ての島から西欧まで、人の足なら馬車を乗り継いで三月以上。メアリーならコウモリになって飛べば一月で行ける。危険は多いが、主人を得た憑神はほぼ不死身だ。 「離れてる間もあたしの五体満足と無事をちゃんと命令すること。距離があっても効果はゼロじゃないから。  なるべくさっさと来なさいよ」 「もちろん。あなたの無事と幸福を、いつも祈っています。  どうか気を付けて、メアリー」  あんたの口車にわざと乗ってやったんだからね、とメアリーは顰め面で思った。  乗ってくださってありがとうございます、とミハイルは笑顔で考えた。