狩人射殺す讃美歌

 都市の外。人が足を踏み入れぬ山の奥。救い主たる神の子が荒野で悪魔の誘惑を退けた逸話にあやかって建てられた、世俗から隔絶した修道院にて。  空き部屋に集まった影が、大仰に声を仰け反らせた。 「魔女ォ?」 「ああ。そう呼ばれているあくま憑きが、教会の網にかかった。  名はサーシャ。二十半ばそこらのロシア人で、流浪の竪琴弾きだ」  上司の説明に、影のひとりがホコリを払うような仕草をした。 「魔女って、ま〜た神憑きってだけの女がそう呼ばれてんのかよ。やだやだ、人間はいつまで経っても愚かだね〜」 「おまえも人間だろう、ポルポ。  それに、今回は魔女と呼ばれて当然の女だ。もう何人も死ぬか心を壊してる」 「へぇ? そいつはまた……」 「何人もって、そんなに強力な権能なんですか?」  また別の影に聞かれ、上司は頷きながら資料を手渡した。 「魔女の弾く竪琴を聴いてから、病んで伏せった者、酒に溺れた者、家族に暴力を振るうようになった者、自ら命を絶った者……これだけの被害が、権能と無関係とは考えづらい。  どの犠牲者も『声を失うほど美しい音色だった。それを弾いていた女は悍ましかった』と口を揃えてる」 「音楽で人を魅了する権能に、代償は人に嫌われる呪いってところか」 「呪いのせいで悪心に取り憑かれたのかもですけど、同情するには被害が大きすぎますね」  資料をめくった部下の指摘に、上司は頷いた。 「魔女たちは国境を跨いで旅をしている。実際の被害はこれ以上だろう。  異端審問会は処刑命令を下した。異論はあるか?」 「「いいえ」」  影たちは声を揃えた。上司が立ち上がる。 「我らは何だ」 「「天なる父の代理人。   たましい視えぬ人のため、悪しき憑神けものと罪深き神憑きまじょを狩る騎士」」 「悪とは何か。罪とは何か」 「「天の御業を盗み、不死の体で人を惑わす大罪。それは赦そう。   奇跡ならざる権能ちからと呪いで理に背く悪徳。それも赦そう。   しかし、我らが兄弟姉妹に災いもたらす非道。断じて赦すまじ」」  誓言を唱え終えると、彼らは一斉に出口に向かった。 「魔女に憑いている憑神は腕の立つ護衛だ。そちらは私と……」 「僕の担当ですね。魔女はポルポ先輩にお願いしますけど、大丈夫ですか? 音楽お好きでしたよね?」 「平気だよ。権能は他の神憑きには通じない。知ってんだろ。  それより、ロシア帝国の横槍が入ったりしねぇか?」 「そういえば、おまえも生まれはロシアだったな。  大丈夫だろう。魔女は美人だし、かの女帝はお気に召さないさ」 「……そりゃ安心だ」  上司の言に顔を歪めて、ポルポと呼ばれた影は資料に描かれている憑神の似顔絵に視線を落とした。   *  *  *  ヨーロッパ各地で熱病のように流行った魔女狩りが廃れて、ローマ教会の憑神と神憑きへの対応も和らいだ。神の教えを信じる憑神もいれば、呪いに負けず権能を善行に役立てる神憑きもいる。彼らを迫害するのではなく、教会で保護し仲間に迎え入れようと……  実態は有用な神憑きを駒にする口実だとしても、問答無用で処刑されなくなったのは有り難い。気まぐれな女帝のいぬとしてこき使われるより、善人ぶれるローマ教会の祓魔師のほうがマシだ。 「お仕事がんばりますか、っと」  宿の個室でうそぶいて、ポルポは骨を鳴らした。  全身の皮膚と肉が蠕動して、顔が変わる。体格が変わる。頬から首筋に流れていった肉を縫い留めるように髪を後ろで結んで、色粉をまぶす。  憑神や神憑きは霊感の有無で毛髪などの視え方が変わるので、そこはまじないを併用する。シャツとジャケットで輪郭を整え、背筋を伸ばしてコートを着込み、靴底の厚いブーツを履いて振り向くと、後輩が拍手をした。 「お見事。標的のメフィルって憑神そっくりです。  いつ見ても凄いですね、ポルポ先輩の《変形》って」 「どーも、ゴホン。ありがとうございます」 「うわキモ」 「感想ではなく評価を言ってくださいますか?」 「大丈夫だ、声色も発音もよく似ている」  上司の太鼓判に頷いて、ポルポは作り声を喉に馴染ませた。  神憑きの権能と、代償の呪いは他の神憑きや憑神には通じない。  それは絶対の法則だが、抜け穴がある。単純な話で、他者に働きかけず、自身にのみ働く力は打ち消しようがない。  ポルポの《変形》は自分の肉体を器用に動かせる──タコの擬態能力に由来する──権能だ。魔女の権能はポルポに通じず、ポルポの変装を魔女は見破れない。 「今、メフィルは買い出しで魔女と離れている。  俺たちで奇襲するが、憑神は主人がいる限り致命傷を負っても復活する。深追いはしない」 「お任せを。皆さんが彼を追い詰めている間に、わたしが魔女を仕留めます」  頷き合い、上司と後輩を見送って、ポルポは魔女が仮宿にしている寂れた教会へ向かった。   *  *  *  一口に教会と言っても、宗派の違いによる溝は深い。ローマ教会と東方正教会の対立は血濡れた歴史を繰り返し、二百年前に興った新教プロテスタントは多彩に分化して、それぞれが聖典を異なる解釈で捉えている。  この教会も、新たな教えに信徒を奪われ、廃れた場所だった。屋根に空いた穴から、光がこぼれる。隙間風の寂しい鳴き声が、扉の軋む音と唱和する。 「あら?」  礼拝堂の祭壇──情報通り、魔女はそこにいた。  くすんだ十字架に祈りを捧げていた背中が振り返り、立ち上がる。女にしては背が高く、背筋は真っすぐで、細やかな所作が美しい。  粗末な服に不釣り合いに艷やかな黒髪と、きめ細やかな白い肌。何の憂いもなく溌溂と輝く瞳にはひとかけらの悪意も見当たらないが、そんなものに騙されはしない。廃れたとはいえ、生まれ故郷とは異なる宗派の教会に構わず祈る無頓着さは、全く魔女らしかった。  穏やかな表情を繕い、背筋を伸ばして、ポルポは恭しく魔女に一礼した。 「ただいま戻りました、サーシャ様」  本物と寸分違わぬ、会心の作り声。  魔女はにこやかに笑みを返して、おっとりと小首をかしげた。 「初めまして。どなたかしら?」  一切の迷いのない返答に、ポルポは固まった。誤魔化そうと探した台詞が、喉で潰える。  魔女の瞳に揺らぎはない。芯から、疑う余地なく、眼の前にいるのが自分の従者ではないと見抜いている。  ポルポが羞恥を覚えるより先に、魔女が手を叩いた。 「その格好、もしかしてメフィルの真似?  嬉しいわ。わたしもメフィルが大好きなの!」 「……は?」 「ごめんなさいね。メフィルは今出かけていて……  そうだ! 待ってる間、いっしょに合奏しない? メフィルの真似をするくらいだもの、あなたも音楽がお好きなのよね?」  なるほど、そう繋げるためか。素知らぬ顔でポルポは頷いた。 「構いませんよ。ですが、生憎と今は手ぶらですので、讃美歌はどうでしょうか?」 「素敵。嬉しいわ、人と合奏する機会はあまりなくて」  よく言う。呆れを顔の下に隠して、ポルポは懐のナイフを握った。  ポルポが神憑きと気づいていないのか、権能が他の神憑きに通じないのを知らないのか。いずれにせよ、魔女は自分の権能に絶対の自信を持っている。  それを打ち砕く。演奏の最中に凶刃に斃れる。幾人もの信徒の心を壊してきた魔女に相応しい最期だ。  ポルポは義憤に燃える心を隠して、ガタついた椅子に座った魔女がいそいそと竪琴を構えるのを待ち、  白い指が最初の一音を奏でた瞬間、己の思い違いを悟った。  神を讃美する、無邪気で、あどけない、清らかな音色が、世界を塗り替える夜明けのように響く。  寂れた教会に、天が耳を傾けるのがわかった。埃っぽい空気を震わせる音の波が、肌を撫でて心臓に触れ、奥の魂を爪弾く。  耳ではなく全身で、心で、命で、傾聴するに相応しい絶奏。権能によるまじないではない。これは。この女の権能は。 (楽才を授かる権能──ただ、演奏が上手くなる、それだけの力で、こんな)  こんなにも心を震えさせることが、人間にできるものなのか。命を、世界を、讃えることが。言葉ではなく音楽で、こんなにも雄弁に。  声は出せなかった。この音色に自分の濁声を混ぜるなんて冒涜だ。だって、こんなにも素晴らしい。ずっと聴いていたい。演奏が終わらないでほしい。  だって、本当に、神が教会ここにいるみたいで。そう感じられたのは初めてで。だって。 『地上の教会に正義はないから』  冷えた声が胸の奥で告げるのが聴こえた。陶酔に五感が蕩けているからこそよく聴こえる、耳を塞いでいた己の本音が、血飛沫のように噴き出す。 『殺した。罪のない人を大勢。教会の役に立たないって理由で。見殺しにした』 (仕方なかったんだ。オレ一人じゃ助けられなかった) 『止めようともしなかった。教会を偽善者だって蔑んで、オレだって何も変わらないくせに』 (オレは、オレにできることをしてきた!) 『ローマ教会に都合の良い手駒集めをな。ご苦労さん』  足元を見下ろす。自分を睨む目が、影に見える。  いつか保護した神憑きの子どもと、その憑神。敬虔な信徒足りうると判断して、教会に送ろうとして、ロシアの……女帝エリザヴェータの横槍が入った。 『その子、欲しいわ。ちょうだい』  そうしてふたりは帝国ロシアに送られ、憑神は女帝の命令で顔を剥がれた。  憑神は、美しい女の姿をしていたから。自分以外の美しい女を、陛下は許さないから。 『助けてやるって言ったくせに』 (助けた。助けたじゃないか。殺さなかったじゃないか。  おまえは死ななかった。憑神もいっしょだ。陛下だって永遠には生きられない。生きていれば、そのうち、きっと) 『だから感謝しろと?』 『だからおまえを許せと?』 『偽善者』 『おまえの手に正義はない』 『おまえの心に信念はない』 『だって』 (やめてくれ!)  耳を塞ごうとして、ポルポはそれができないのに気づいた。  だって、音楽がまだ止んでいない。耳を蕩けさせる美しい音色が、耳を塞ごうとする手を縫い留める。  これが、数多の人間を狂わせた魔女の絶奏。あまりに透き通った輝かしい旋律が、聴衆の闇を照らし出し、それを直視した人間の心を破壊する。  ポルポの煩悶に気づいていないわけがなかろうに、魔女は頬を綻ばせて、楽しげに演奏を続けて、 『素晴らしいわ』  囁いた。肉声ではなく音楽で。心の何もかもをつまびらかにする旋律が、明け透けにポルポを讃える。 『これが、あなたの讃美歌なのね』  ポルポの弱さを、醜さを、罪を、悪を、生涯を──見透かし、認め、赦し、愛し、褒め讃える、至上の調べ。  理解する。この魔女に悪意はない。蔑意もなければ、敵意すらない。  彼女はただ、音楽を愛しているだけ。人に、命に、神の創りたもうた世界のあらゆる光と影すべてに、音楽の美を見出して、それを奏でているだけ。 (やめてくれ)  すべてを理解して、ポルポは声を漏らさず呻いた。  こんな音楽が赦されるはずがない。こんな幸福が、地上にあって良いはずがない。  だって、これは、天の国で聴こえるはずの音色だ。信仰を守り、命を全うしたその先で、やっと味わえるはずの歓びを、生者が味わうなんて冒瀆だ。  懐のナイフを探る。この殺意もサーシャは気にしないと、確信していた。  こんな女は、地上に在ってはいけない。この美しさ、清らかさ、輝かしさを、赦してはいけない。  殺さなくては。消し去らなくては。この素晴らしい音楽を。至福のひとときを。消し去って、教会の正義を、俺が。 (できないよ、おまえには)  懐かしい声が、冷ややかに告げた。 (だって、おまえの受けた代償は、『気骨を失う』だもの)  育て親──今は遠い故郷に囚われているはずの憑神の声に、ポルポはナイフを振りかぶった。   *  *  * 「ご主人様!!」 「メフィル」  教会に飛び込んで、メフィルは己の主人の無事を確認して安堵した。  微笑むサーシャには傷ひとつなく、その足元には、胸にナイフを突き立てて倒れている男がいる。 「この方は……」  駆け寄って覗き込んだ死に顔は、皮膚が緩んで変装が解けていた。メフィルに化けていたのだろう、年嵩の男。恐らくは神憑きを狙う狩人の一味なのだろうが。 「わたしを守ってくださったみたい」  そう呟いて屈むと、サーシャは男の目蓋を伏せてやった。主人の言葉を疑わず、メフィルは跪いた。  指を組んで、男の冥福を祈る。獣に過ぎない自分の祈りが、天に届くかはわからなかったけれど。 「申し訳ありません、ご主人様。市場で憑神を狙う者たちに襲われました。すぐにここを離れねばなりません」 「そうなの。わかったわ」  立ち上がったサーシャを先導しながら、男の亡骸に黙礼すると、メフィルは足早に教会を後にした。  市場で襲いかかってきた男たちはなんとか撒くことができたが、恐らくは先に主人を殺すのを目的とした足止めだった。憑神の知識を持ち、憑神を狩ることを目的とした、教会の尖兵。  人間の生と死後を司る組織から追われている事実に、メフィルは忸怩たる想いに駆られた。 「申し訳ありません、ご主人様。わたしと契約したために、こんな」 「気にしないで、メフィル。歌劇みたいで楽しいわ」  天の調べを余興で奏でる女は、何の曇りもなく微笑んだ。 「それに、さっきの人の旋律、とても綺麗だったもの」  そうしてメフィルに手を引かれて逃げながら、サーシャは鼻歌を口ずさんだ。  迷い、流され、己の無力を嘆き続けた男の生涯を讃える、輝かしい旋律だった。