魔女の爪弾く煉獄

 彼女との出会いは春の始め。冬を退ける陽射しが、わずかに地面を温める頃。  しんとした朝の空気に響く、踊るような旋律に、メフィルは橋の入口で足を止めた。  橋の隅で、ボロをまとった楽士が竪琴を爪弾いている。目深に被ったフードから、手入れのされていないパサパサの髪が覗く。竪琴も安物で、見るからに通行人に慈悲を縋る物乞いだった。  なのに、弦を奏でる指は豊かで楽しげで、投げ銭を入れる皿も用意していない。そのせいでせっかくチラホラと足を止めている人がいるのに、小銭を落とす人はごくわずかで、それも誰かに蹴飛ばされたり勝手に拾われてしまう。  なのに、楽士は頓着せずに演奏を続けて……それは違うと、メフィルは気づいた。この演奏は、通行人に向けられたものではない。  この音楽は、橋の下を流れる、川のせせらぎに向けられたもの。だからこんなに見事な演奏なのに、足を止める人は少ない。突出した技量ゆえに、自分に聴かせている音楽ではないと聴衆に悟らせて、耳をすり抜けさせてしまう。 「あの……通行人の足音と、合奏しては?」  気がつけば、メフィルは楽士のそばに寄って、そう提案していた。  顔を上げた楽士と目が合う。線の細い柔和な面差しが、優美なまつ毛を瞬かせて、やがて弾かれたように頷く。 「それ、面白そう!」  そうして楽士は、打って変わって伸びやかな音色を奏で始めた。水面の落とす波紋のような眠たげな旋律から一転、目が覚める旭日のような、爽やかな和音が響く。  憂鬱な一日の始まりに、俯いていた人が顔を上げる。しんどそうに荷物を抱えていた人が足を止める。どこかくすんだ面持ちだった人々が、まばゆい音色に顔を輝かせる。  太陽がすっかりと昇り、空が落ち着いた青に染まる頃、メフィルが楽士に提供した革袋は、硬貨で満杯になっていた。   *  *  * 「ありがとう、助かっちゃった!」  賑やかな酒場で、メフィルは楽士に話を聞いていた。フードを外した楽士は、長い髪は洗っていないせいでクシャクシャで、肌もくすんでいるが、身なりを整えればさぞ衆目を惹く美女だろうと予感させた。  運ばれてきたパンとスープを食べる所作にも気品が滲んでいる。出自はどこかの令嬢だろうか。  初対面でそこまで立ち入ったことを聞くわけにもいかず、メフィルはお辞儀をした。 「すみません。ご挨拶がまだでしたね。  メフィル、と申します。貴女のお名前をお伺いしても?」 「あっ、そうだったわね。  アレクサンドラよ。サーシャって呼んで」 「サーシャСаша……ロシアの方ですか?」 「ええ。あなたも? 発音に少しあっちの訛があるけど」  頷くと、サーシャは「奇遇ね!」と手を叩いて喜んだ。気品ある所作と天真爛漫な仕草に、ますます彼女への興味が湧いてくる。  身勝手な好奇心を抑えて、メフィルは他のことを尋ねた。 「どうして、通行人ではなく、川に向かって演奏をされていたのですか? お金を稼ぐなら、お客様へ聴かせる音楽のほうがよろしいのでは」 「だって弾きたくなったんだもの。  わたしっていつもこうなのよねぇ。酒場でも気分が盛り上がる曲をって言われてたのに、なんだか暗い顔の人がいたから気になっちゃって、慰めたくて子守唄を演奏しちゃったり。お葬式で鎮魂曲をって言われたのに、みーんななんだか嬉しそうだからお祝いの曲を奏でちゃったり。  そしたら『何考えてんだ!』って、追い出されちゃって。怒られてばっかり」  なるほど、自分の感性を制御できていないのか。相槌を打ちながら、メフィルは葛藤を押し殺した。  彼女の音楽を、もっと聴いていたい。そう思う自分がいる一方で、それは赦されないことだと断じる自分がいる。  主人ニコライを看取り、城を旅立って四年。ニコライの遺言通りにヨーロッパを旅して、様々な音楽を耳にしてきたが、新たな主人は得ていない。  ニコライが言っていたヨーロッパの音楽に、感動しなかったわけではない。かけがえのない出会いがあった。印象深い人もいた。だが、ニコライの最期の言葉が、新たな手を取るのを躊躇わせた。 『メフィル。おまえは憑神と呼ばれる存在だ。人の祈りと呪いを浴びて蘇った獣。人に化け、人に取り憑き、力と呪いを与える、神の摂理に背く存在。  おまえは主人に楽才を与え、代償に他者に忌まれる呪いを授ける。  ……私のことは気にするな。元よりおまえ以外に信じる者なぞいない。だが、おまえは。  主人亡き後、憑神は新たな主人を得なければ消えてしまう。  赦してくれ。見捨てないでくれ。おまえを、おまえを、私は……』  ……あの孤独な主人に最期まで寄り添えたことは、メフィルの誇りで、喜びだ。  だが、城で主人の死を悼んだ者は、自分の他はごくわずかだった。 『おめでとうメフィル。これで自由ね!』 『城主様も困った人だよな。最期までメフィルを引き留めて』 『城を出るんだろ? 言わなくてもわかってるって! 外に出ても、俺たちのこと忘れないでくれよな!』  そうメフィルを言祝ことほいでくれた、優しい人たち。  彼らが皆ニコライを嫌っていたことが、メフィルには衝撃だった。主人が奏でる鍵盤の美しい音色に、城中聴き惚れていたのに。 『城主様? ええ、演奏はね、凄かったわよね』 『メフィルが惚れ込むのもわかるよ。次は、演奏以外もまともな主人に会えるといいな!』 『あの音色を奏でるために、悪魔と契約したんだろう?  修道院の目もあるし、大きな声じゃ言えないけどな。とばっちりはごめんだし』 『教えたでしょう? あなたの主人は人に忌まれる。  選択は慎重に。どんなに素晴らしい音楽を奏でて喝采を浴びても、主人自身が聴衆に愛されることはないのですから』  サーシャを新たな主人にすれば、あの孤独を彼女も味わうことになる。先ほどのような拍手と歓声を浴びることは、二度となくなる。  ここで別れたほうが、彼女のためには、いい。  そう決意したメフィルに、サーシャは改めて礼を告げた。 「本当にありがとう。演奏をして人に喜ばれることって、滅多にないの。最後に良い思い出ができたわ」 「いえ、わたしはただ……  お待ちください。最後、とは?」 「向いてないみたいだから、楽士やめようと思って」 「そっ……う、です、ヵ」  あっけらかんとした告白に、かすれ声で返答しながら、メフィルは己の腕を抑えた。  落ち着け。わたしに、彼女の人生に口出す権利はない。  声が震えないよう必死に自制しながら、問う。 「なにか、働くあてはあるのですか?」 「ないわよ? どうしようかなぁ、娼婦をやるにしても、色気がないと厳しいかしら」 「しょっ……!?」  体格を隠す外套越しに平らな胸をペタペタ触るサーシャに、メフィルは恐る恐る尋ねた。 「あの、娼婦がどのようなお仕事なのか、理解されていますか?」 「なんとなく? 足を開いて寝てるだけの簡単な仕事だって言うけど、そんなわけないわよねぇ。  でも、やるだけなら誰でもできるって言うし、それならわたしにもできるかしらって」 「……僭越ながらお聞きしたいのですが、今まで、どのような生活をされていたのですか?」 「え? 適当に人のいるところに行ってー、弾きたくなったら弾いてー、たまにお金もらえるからそれでごはん食べてー、適当に外で寝てー、  うーん。昔は周りがみんなしてくれてたから、よくわかんないのよねー、生活って」  えへへ、と照れ笑いするサーシャに、メフィルは悟った。 (ここで別れたら、この方は野垂れ死ぬ)  メフィルは告白した。 「サーシャ様。実はわたしは人間ではありません。コウモリなのです」 「まぁ、そうなの?」 「はい。正確には憑神と呼ばれる……」  サーシャが疑わないのを良いことに説明を続ける。  自分に憑かれると、音感がより高まること。代償に、他の人から忌み嫌われること。 「ですがわたしは、貴女の音楽をこれからも聴き続けたい。そのためのお手伝いをしたいのです。  お願いします。貴女を忌む世界のすべてから、貴女をお守りすると誓います。  ですからどうか、わたしを貴女のお側に置いてくださいませんか」  椅子から立ち上がり、跪く。下町の酒場で、姫君に忠誠を誓う騎士のように、手を差し出す。  サーシャはきょとんとして、笑んでメフィルの手を取った。 「いいわ。なんだか面白そう!」  軽やかなその返事が、永遠の絆になる。 「見せつけやがって」と怒った酔っぱらいから逃げて、ふたりは酒場を後にした。   *  *  *  後にメフィルは尋ねた。 「世界中から忌み嫌われるのに、どうしてあのとき、わたしの手を取ってくださったのですか?  わたしの助けなぞ、貴女は必要としていなかったのに」  サーシャはおかしそうに笑った。 「メフィルったら。  世界で一番自分の音楽を愛してくれるひとが、ずっと傍にいてくれる以上の幸福が、この世のどこにあるって言うの?」