魔女の在らざる墓標

「失せろ、魔女ッ!!」  投げつけた石が魔女の顔に当たったのは偶然だったが、少年は喝采を上げた。  直後に、女の割れた額から滴った血に口を噤む。白い肌を伝う赤は生々しく、鉄錆の臭いがこちらまで届くようだった。  父が狂ったのは、この女のせいだ。仕事人間で、優しい父親ではなかった。  でも、あんな、所構わず怒鳴って、泣いて、支離滅裂に当たり散らすような人じゃなかったのに。 『ちがう。ちがうちがうちがう。こんなのは俺の音楽じゃない。こんなものは音楽じゃない』 『父さん、お酒やめてくれよ。どうして』 『うるさい! 俺の音楽を邪魔するなっ。ちがう! これもちがうっ。  これじゃ、あの女の模倣だ』 『あの女って、演奏会に来たって言う、魔女? 女の演奏なんて、気にすること……』 『お前に何がわかる! あれは、あれこそが演奏だ! 本物の音楽だ!!  ちがう……あれは、あれは俺の音楽だ。俺が奏でるはずだった音楽だ。失せろ。やめろ!  俺の頭から出て行け! 魔女!!』  そう泣いて、叫んで、酒浸りのまま、父は亡くなった。  葬儀に現れたという魔女を少年が追いかけたのは当然だった。  父の仇を討とうと思ったわけではない。だが、その顔を見て、罵り、本物の音楽とやらを嘲ってやるつもりだった。  魔女は、血の滴る額を押さえて、蕾が花開くように微笑んだ。 「素敵な音」 「ご主人様っ!」  慌てて駆け寄ってきた従者が、素早く女の額を手巾で拭い、止血する。  チラリと少年を見てから、従者は主人に謝罪した。 「申し訳ありません。わたしが傍にいながら……」 「いいのよ、メフィル。  それより、竪琴をちょうだい。今すぐ弾きたいの」  従者は躊躇ったが、強く求める主人に逆らえず、預かっていた竪琴を渡した。  少年のことなど眼中にないという態度のふたりに、挫けていた怒りが再燃する。  もう一度石を投げてやろうと、道端を探して俯いた耳に、流星が横切った。  顔を上げる。従者に手当てされながら、地べたに腰を下ろした魔女が竪琴を鳴らす。  その音色が、燃え盛る星のように少年を打ちのめした。  炸裂する炎が空を駆ける。輝く音色が次々に閃いて、他の光が見えなくなる。  踏み躙られた薔薇の香りがした。芳しく、痛ましく、胸を打つ。  何も見えない。暗闇の中、薔薇の香りを頼りに星を探す。  だけど見つからない。過ぎ去ってしまったものに、手は届かない。  それでも歩き続ける。それでも探し続ける。求めるのを止められない。これは。 (父さんの音楽だ)  そう思ってしまった裏切りに、少年は──少年だった男は、追憶から覚めて外を眺めた。  草原の向こうに、風にそよぐ麦穂が見える。 「お客さん、着きましたよ」 「ああ、ありがとう」  御者に礼を言って、馬車を降りる。今日は風が強くて、遠くに雲が見えた。草が靡くのを聴きながら、帽子を手で押さえる。  なんの変哲もない村だった。農民たちにじろじろと見られるのに、自分が場違いなのを自覚する。  あの日から時を経て、一人前の音楽家になった自分。  あの後、一頻り演奏して満足した魔女は、礼を言って去っていった。  言葉を失い立ち竦んでいた幼い自分が、どう母の元に帰ったのかは、覚えていない。  父の友人に才能を認められ、援助してもらえたのは幸いだった。恩に報いようと努力を重ねた。亡き父に恥じない息子になろうとした。  けれど。目指してしまうのは父の旋律ではなくあの日の調べ。あの忌まわしい魔女が奏でた、絶世の。 「こちらです」  案内を頼んだ恰幅の良い女が指した墓は、ひっそりと草原に佇んでいた。 「流行病に冒された方でしたので、教会の墓地に弔うのは障りがあったのです。  ですが、野晒しにするのも忍びなく……」 「最期に演奏していたと聞くが、そんなに素晴らしい演奏だったのか?」 「はい! 村中聴き惚れました。  いえ、都の楽師様なら、もっと素晴らしい音楽を耳にしてらっしゃるのでしょうが……」 「いや……」  首を横に振ったが、それ以上語る気にはなれず、女を帰してひとりにしてもらった。  竪琴弾きの聖女が最期を迎えた村の話を聞いたのは偶然だった。病に冒されながら、絶世の音色を奏でて息絶えた女を、あの魔女だと思った根拠はない。  実際、こうして墓を見舞っても、この下にあの女がいると実感は湧かなかった。墓標に刻まれた名前を見て、こんな名前だったのかと、ぼんやりと思う。  どうして休暇を取ってまで、不確かな噂を頼りに、見ず知らずの村に足を運んだのか。  あの日の旋律が耳を離れない。あの微笑みが。血塗れの顔で溌剌と笑んだ女のことが、ずっと忘れられない。  未だに彼女を怨んでいるのか、それとも憧れているのか、それすらわからない。こんな場所にあのひとはいない。あの旋律の続きを聴けることはない。  わかっていたのに、どうして来てしまったのか。  踵を返そうとして、彼は立ち止まり、耳を澄ました。  竪琴の音色が聴こえた。技術を知らない、拙い音色。音楽を愛する熱意のほとばしる、きらめく旋律。  音の在り処を探して振り返る。丘の上の草むらに座り込んで、古びた竪琴を爪弾いていた、十五歳かそこらの少女が、びっくりした顔で彼を見つめる。 「……どなた?」 「ああ、私は……旅人だよ。たまたまこの村に来ていたんだ。  それは、竪琴かい?」 「うん。じゃなかった、はい。  畑仕事の手伝いであんま練習できてないんだけど、でも、お姉ちゃんみたいに弾きたいの」  俯いて弦を見つめる少女が、誰に憧れているのか、聞かずともわかった。 「……私も、弾かせてくれないかい? 実は、音楽家なんだ」 「ほんと? 聴かせてっ!」  いささか不用心じゃないかと思いながら丘を登って、少女の隣に腰かけると、彼は受け取った竪琴を爪弾いた。鈴のような音がこぼれて、風に散っていく。  なんてことのない音色だ。安物の弦が震える。花が咲きほころぶように。  夕暮れを浴びた頬が、草むらの影で輝くのが聴こえる。 『とっても素敵! もっと聴かせて』  楽しそうにはしゃぐ声。  手を止めた彼に、少女がねだる。 「今の、どうやったの?  おねがいっ。わたしにも教えて、先生っ!」  憧れに燃える瞳。紅潮した頬。夕陽に染まる、音楽に焦がれて止まない心。  自分に才があるか、それは将来に役立つものなのか、そんなことは考えず、ただただひたむきに伸ばされた手に、彼は頷いた。 「ああ、良いよ」  少女が跳び上がって喜ぶ。暗くなる前に一曲だけと断って、彼はもう一度弦を爪弾いた。  今も耳に焼き付く旋律が、ありふれた景色のように流れる。 「これ、先生の好きな曲?」 「……そうだね。そうだったかもしれない」  今も目蓋を焦がす微笑みが聴こえた気がして、彼はそちらに目をやった。つられた少女が振り返る。  夕暮れに燃える草むらが、風に靡いて音を奏でている。  世界は音楽にあふれていて、そのすべてに、彼女は耳を澄ませているのだった。