魔女の爪弾く煉獄 後編

 寒い。身の内から湧き起こる悪寒に身動ぎしようとして、サーシャは自分が燃えているのに気づいた。  冷たい骨が熔けた肉を刺して、痛い。吸った端から息が燃えて顔を焦がし、呼吸をしなければ籠もった熱が内臓を煮やして、逃げ場がない。 『これは報いよ。あんたが知らずに踏み躙ってきた人の呪い』  まぁそうなの。聴こえてきた叱責に、サーシャは納得した。仕方がないと受け入れた。  わたしはわたし。わたし以外にはなれない。わたしらしく生きて、奏でたい曲を奏でたいときに奏でて、これがその結末なら、受け入れるしかない。 『どうしておまえは、人の気持ちがわからないんだ』  ごめんなさい、お父様。嘆く父に頭を下げる。その振る舞いが余計に父を傷つけるのはわかったが、ではどうすればいいのかはわからなかった。  北の果ての帝国ロシアで、サーシャは生まれた。裕福な貴族の末娘として、父や兄たちに愛されて育った。  物心ついたときには母はいなかった。詳しくは聞いていない。自分が覚えていないだけかもしれない。奔放な方だったとは聞いている。フランスの生まれで、竪琴の名手だったと。風に攫われていってしまったと。おまえは母に似ていると。 『おまえが男に生まれていたら良かったのに』  兄の溜め息を思い出す。昔から、サーシャはなんでもできた。教養として習った竪琴は家族や使用人たちを魅了した。家庭教師とは一月もしないうちに教わった外国語で語らうようになった。ねだって乗せてもらった兄の愛馬とはあっという間に友達になり、ドレスだと兄たちのように跨がれないのが不満だった。  お兄様たちより優秀ね、と、誰かに言われた。女の子で勿体ないと。よくわからなかった。男と女、何が違うんだろう。自分が男に生まれていたら、何が違ったんだろう。 『あなたは、私を愛してくださらないのですね』  嘆いていた婚約者を思い出す。良い人だったと思う。貴族の結婚は家のためにするものと言われて、家族のためになるならと納得して、夫によくよく仕えるよう言われて、そのつもりだったけど、あの人はわたしに優しかった。  竪琴を奏でるのを赦してくれた。馬に乗るのも赦してくれた。頓珍漢な物言いも赦してくれた。でも、わたしがあの人に触れられてもなんとも思わないのは、耐えられなかったらしい。  貴族の結婚にそういうのは不要だと教えられて、鵜呑みにしていた自分が、良くなかったのだろう。婚約を破断にされた後、貴女を愛さずにいられる男なんかいるものかと、あの人のお母様に詰られた。 『皇太子妃殿下は理知的で聡明な方だ。きっとおまえをお気に召すだろう』  氷の女と噂され嫁ぎ先に困っていたら、お父様が宮廷の侍女に推薦してくれた。  学んできたことを実践するのは楽しかった。サロンで演奏もできたし、妃殿下も良くしてくれた。  けれど。 『陛下は二度と貴女を目にしたくないようですよ』  何がいけなかったのか。皇帝陛下の不興を買って、わたしは宮廷を追い出された。  お父様も、お兄様たちも、財産を没収され一兵卒として前線に行かされることになって…… 『俺は何者にもなれなかったけど、最後に、おまえの兄でいさせてくれ』  お兄様に逃がされて、身一つで欧州へ来て、それから…… 「ご主人様」  涙の落ちる声に、サーシャは目を覚ました。重く腫れた目蓋を、ゆっくりと開く。  午後の陽射しが落ちる薄闇に、泣き腫らした顔を見つけて、サーシャは微笑んだ。 「メフィル」  手を伸ばして、冷えた重たい体を起こしてもらう。燃えているようだった体の熱が、引いている。  痘瘡は一旦解熱した後、再び熱が出て発疹が始まる。すでに全身膿疱だらけで、その行程は省かれると思ったが……これが自分が起きていられる、最後の時間なのだろう。  肌に纏わりつく声が、嗤っている。自分を怨んでいるらしいが、やっぱり、何をそんなに呪っているのか、サーシャにはよくわからなかった。 「すみ、ません。ご主人様」 「メフィル?」  匙で薬湯を飲ませてくれていたメフィルの鼻声に、サーシャは首を傾げた。 「わた、私が、貴女を主人に選んだせいで、こんな、こんなことに」 「あら、どうして? わたし、メフィルと会えてよかったわ」  ボロボロと涙をこぼしていたメフィルが、顔を上げる。いつだったか、歌劇に感動したときもこんなに泣いてはいなかった。  初めて見る顔を奏でたい気もしたし、涙を拭ってやりたい気もしたが、手足が痺れて上手く動かせなかった。体が重くて、息がしづらい。  目減りしていく残り時間を、サーシャはメフィルと語らうのに費やすことにした。 「本当よ? メフィルの主人になって、いっしょに旅をして、楽しかった。他の人生なんて要らないわ」  身一つで生活しないといけなくなって、どうして音楽を選んだのか、今はもう思い出せないけれど、音楽を選んでよかったと思う。  馬を育てるのも楽しそうだったし、家庭教師になるのも面白そうだった。勧められた娼婦は、上手くできたかわからないけど、音楽以外の道だって、自分は選べた。  でも、そうしなくてよかったと、心から思う。 「どうして……?」  途方に暮れた幼子のように、メフィルは尋ねてきた。 「世界中から忌み嫌われるのに、どうしてあのとき、わたしの手を取ってくださったのですか?  わたしの助けなぞ、貴女は必要としていなかったのに」  サーシャは、おかしそうに笑った。 「メフィルったら。  世界で一番自分の音楽を愛してくれるひとが、ずっと傍にいてくれる以上の幸福が、この世のどこにあるって言うの?」  言い終えた途端、針で肺を滅多刺しにされたような痛みに、サーシャは咳き込んだ。 「ご主人様!!」  呪いたちが怒っている。サーシャの骨に爪を立て、内側から体を腐らせようとする。  おまえの幸福など赦さない。そう聴こえた気がして、まぁそうなの、とサーシャは納得した。  納得して、自分の背を撫でるメフィルの泣き顔を見て、でも、ちょっと待ってちょうだいね、と、サーシャは根性で背筋を伸ばした。 「メフィル。竪琴をちょうだい」 「ご主人様?」  メフィルは安静にしてほしかったが、憑神は主人の命令に逆らえなかった。隅に置いていた竪琴を手渡す。  ありがとう。喉が辛いので声には出さず、サーシャは感謝を唇に乗せた。今までずっと。本当にありがとう。  弦を爪弾く。指先に走る痛みが音色を狂わせる。腕が重く、いつものように動かせない。  常ならば最初の一音で耳を魅了した主人の指が、辿々しく旋律をなぞるのに、メフィルは顔を伏せ、これ以上泣くのをこらえた。  自分にはこの演奏を聴き届ける義務があると、強く拳を握りしめた。  短い一小節を弾き終えて。サーシャは今の体調と、どう修正すればいつも通り弾けるのかを把握した。 「メフィル」  きっと最期になる言葉を、サーシャは告げた。 「メフィルにはこれから、悪魔になってもらいます」 「……ご主人様?」  顔を上げて目を瞬かせるメフィルに、サーシャは生まれて初めて、精一杯悪女らしく、ニィ、と笑った。 「嗚呼、サーシャ様を主人に選んで、ほんとうによかった。  サーシャ様がおおぜいに呪われて、おかげでこんな素晴らしい演奏が聴けて、なんてしあわせなんだろう。  そう思ってもらえる、演奏をします」  俯いて、息を整える。いつもは瞬時にできる集中ができない。骨が凍えて、肉が沸騰して、血が裂けて、ああ、なんて。  なんて、綺麗な音楽だろう!  心から笑んで、サーシャは弦を爪弾いた。
*  *  *
「僕は反対です」  納屋を見下ろす村外れの丘で、メアリーはローマ教会の祓魔師の反論を聞いていた。 「作為がなかろうとあの魔女の演奏で多くの不幸が起きたのは事実ですし、その原因になったのはあの憑神です。  罪は裁かれるべきです。違いますか?」 「違わないけど、人間じゃないやつを人の法で裁くのも乱暴でしょ。  そもそもそんな余裕、あなたたちにあるの?」 「無いな」 「師匠せんせいっ!」  もう一人の祓魔師が、部下の反駁を宥めた。 「単純に、憑神を封じる牢に余裕がない。  あのメフィルという憑神は一年や二年では消滅しないようだし、再犯の恐れが無いなら、わざわざ封じる手間が惜しい」  憑神は主人がいる限り不滅だが、では主人を失えばたちどころに消え失せるかというと、個体差が激しい。肉体を破壊しても意識は残り、何かの拍子に主人を得れば復活するため、それなりの霊地か呪物で封じ続ける必要があった。 「ですが、本当に再犯の恐れが無いのか、検証が不十分では?  あの憑神とまともに話したのはメアリーさんだけですし、彼女の主人は憑神と旧知の仲です」 「そうね」  面と向かって疑われるのは腹が立ったが、どう言い繕っても自分の裁定が甘い自覚があったので、メアリーは頷いた。 「監視も鞭打ちもお好きにどうぞ。そこまで庇う義理はないし」 「無駄に痛めつけて怨みを買うつもりはないですけど、監視は続けたいですね。それと、改めて審問を」 「『それはこちらで引き受けますわ』  と、あるじ様が仰せでつ」  少女を装った作り声と、舌足らずの子どもの声。  それを同じ喉から発した小さな影が、音もなく祓魔師たちの後ろに降り立った。 「「ガブリエル殿」」  青空の陽射しを浴びて輝く、絹糸のように真っ白な髪に、天使のような白い翼。薔薇色に匂い付く丸みを帯びた頬。幼い手足を包む丈の短いジャケットとズボンが、無垢な愛らしさを高貴に彩る。  翼を背中に畳むと、幼子の姿をした憑神は黒スグリのようなつぶらな目を細め、跪いた祓魔師たちを叱った。 「異教生まれの外様とざまに、そこまでかちこまる必要ひちゅようはありまちぇん。  あるじの伝令としちぇ遇してくだちゃれば、結構でつ」 (無茶言うんじゃないわよ)  口には出さずメアリーは呆れた。異教生まれとは言うが、この憑神が生まれた時代は教会より古い。ガブリエルという名は当代の主人が名付けた通名だ。  それほど古くから善なる人を救うため奔走し、魔女狩りで教会に裏切られ、主人を失い封じられてなお、封印が解かれた後も教会の善なる行いに助力している。聖人や天使の逸話のいくつかはこの憑神だという噂もあった。 「メアリー。メフィルの教育は任せてもよろちいでつか?」 「ミハイルに丸投げするわ」 「では心配いらないでつね」  しれっと頷いたガブリエルに、メアリーは帽子の影で渋面を隠した。  メフィルが島から旅立った後、メアリーを拾う前に、ミハイルはガブリエルと知り合ったらしい。そのとき憑神が関わっていた事件の解決に協力した縁で、メアリーの護衛をガブリエルの主人に頼んだそうだが、ガブリエルの年長者然とした振る舞いはいちいちメアリーの癪に障った。できればさっさと縁を切りたいのだが、しばらくはそうもいかないらしい。 「罰は主人をうちなうことで十分でつ。ちゅぐないに、メフィルにはあるじ様の手伝てちゅだいをしちぇもらいまつ」 「待ってください。メフィルの権能はもっと精査すべきではありませんか?  正直、他者に働きかける権能なしにあそこまでの被害をもたらしたとは、未だに信じ難いです」 「極まった達人たちゅじんなら、十分ありえると思いまつが。  メアリー。あなたの意見はどうでつか?」 「霊能の影響があるにしても魔女個人のものでしょ。権能のせいなら、メフィルが前にいた島で人死が出てないのはおかしいわ」 「ええ、神憑きだった先輩も亡くなってますからね。でも、最初の主人と魔女の二例だけでは、どっちが例外だったのか判断できません。  ガブリエル殿の申し出は有り難いですが、やはり、メフィルは教会で管理すべきです」 「メフィルの代償は、組織に不和を招くのでおすすめできまちぇんが……」  話が振り出しに戻った。反論はガブリエルに任せて、メアリーは手近な草むらにハンカチを敷いて腰を下ろした。  正論のように言い繕ってはいるが、祓魔師の本音は仲間の仇討ちだろう。仲間の死に関わった憑神を自分の手で裁きたい、あるいは更生させたい。  その願望を否定する気は起きず、メアリーは納屋を見下ろした。処刑には反対したし、最低限の義理は果たしている。 (メフィルに借りがあるのは認めるけど、危険を冒してまで助ける気はないわよ。早く来なさい、ミハイル)  もうじき日が暮れる。風が冷えていく夕暮れに、メアリーは不意に立ち上がった。 「これ以上は平行線でしょう。魔女の演奏を実際に聴いて確かめるのは、もう不可能ですし」 「神憑き以外が検証するのは危険でつ。演奏はともかく、嫌悪の呪いは」 「静かにして」  きっぱりと告げて、メアリーは後ろの議論を止めさせた。風に交じる音色に、頭上の耳が震える。  世界が燃えている。納屋から漏れる竪琴の旋律が。メアリーの肌を粟立たせる。  聴こえるわけがない。納屋でチラと見えたサーシャの竪琴は何の変哲もない小さな安物で、あんな短い弦で、納屋の壁を越えて、この丘にまで届く音色を奏でられるはずがない。  そう頭ではわかっているのに、心は竪琴を聴いていた。踊る風が草木を奏でる。夕暮れに燃える草原を雲の影が泳ぐ。青空に浮かぶ赤々とした雲が、見る間に金色に華やいでいく。  一瞬の情景が、琴の音色に連れられて、耳から頭に、頭から心に押し寄せる。溺れるような心地に息を呑んだ途端、メアリーは自分が翼を広げ、空を飛んでいるのに気づいた。 『メアリー!』  手を振る声を見下ろして、メアリーは笑いそうになった。懐かしい、かつての主人たちの笑顔に、泣きそうになる。  似たような景色を目にしたことが、確かにあった。羽ばたくメアリーを見上げて羨ましがる声が。尊く見送る眼差しが。メアリーばっかりズルいと拗ねる唇が。いつかの思い出に残されていた。  吹き散る血が、投げつけられた罵声が、石礫が──吸血鬼を殺せと罵る足音から、主人の亡骸を背に逃げるしかなかった無念が、思い出を踏み躙った。  怒りと怨みを天に吠えようとして、竪琴の音色が、絶叫を羽ばたく火の粉に変えた。  炎が、憎しみに凍えるメアリーを暖める。骨が燃え上がり、肉が爆ぜ、皮膚が熔けて、血が弾ける。貫かれた鼓膜から涼やかな風が流れ込み、剥き出しになった骨が再び燃え上がる。  そのすべてが、美しかった。おかしいだろうと思うのに、そう感じるのを止められない。感動が胸を灼く。痛みより激しく、輝かしく。 『ありがとう、メアリー。  わたしを、あなたのお姉さんにしてくれて』  懐かしい声が聴こえた気がした。夕映えに火照った肌を風に撫でられて、メアリーは頬をぬぐった。  丘の上で、納屋を見下ろす。心は暮れなずむ空を羽ばたいたまま。風と草木の葉擦れに、戸口の音が混じる。  村の家々の窓から、夕飯の支度をしていた女たちが顔を覗かせる。農夫たちは足を止めて夕暮れに目を凝らし、外で遊んでいた子どもらが息を止めて風に耳を澄ませている。教会から出てきた恰幅の良い女がその場に跪き、天に祈りを捧げた。 (認めるわ)  聴こえるはずがないだろうと思うのすら、もはや野暮に感じて、メアリーは帽子を脱いだ。  ほどけた髪が、風にそよぐ。耳に触れるすべての音が、サーシャの演奏を伝えようと囁いている。  その行いは赦せず、愚かさには呆れ果て、だが、この音色を拒むことはできなかった。 (あんたの主人は、身命を賭して仕えるに足る音楽家よ。メフィル)  罪も怨みも灼き尽くす黄金の夕暮れの中、メアリーはドレスの裾を握りしめた。  この音に釣り合う歌声を、自分はまだ出せない。それが悔しくて、でも、認めないのも癪で、思い出に響く主人たちの歌声を、地平に熔けゆく旋律に重ねた。
*  *  *
 指先に走る痛みを、サーシャはそのまま旋律に乗せた。激しく震える弦に死霊たちの呻きが乗って、納屋の壁を殴打する。  迫力ある響きが楽しくなって、サーシャは夢中で指を動かした。あなたたちも楽しい? 尋ねると、死霊たちは「そんなわけがあるか!」と合唱した。  それはいけないわ。炉に薪を焚べるように、サーシャは旋律を燃え上がらせた。  ほら、思い出して。音楽って、とっても楽しいの!  どうして身一つで世を渡る杖に音楽を選んだのか、今なら思い出せた。  子どもの頃、竪琴を弾くと、仏頂面だった父が笑みをこぼした。お母様の音色を思い出すと仰って……  馬のことで喧嘩した兄には、謝っても赦してもらえなかったけど、竪琴を奏でれば聴きに来てくれて、仲直りできた。  婚約者の気持ちには応えられなかったけれど、彼の恋する気持ちを弾いてみると、「あなたから見た私はこんなふうなのですね」と喜んでもらえた。  人の気持ちがわからなくて、口を開けば怒らせてばかり。でも、竪琴を弾けば、わかり合えた気がしたから。 (それでこの有様なんだから、自惚れだったかもしれないけど)  それでも。残念な気持ちも、心細さも、旋律にしてしまえば素敵な音色になったから。 (あなたたちも、そうだったでしょう?)  ほら、思い出して。隙間風に音を乗せると、死霊たちが「黙れ」と哭いた。 「もう思い出せない。みんな、おまえの旋律に奪われてしまった」  そんなことないわ。サーシャはくるりと手首を返し、輝かしく弦を鳴らした。  だって聴こえるもの。あなたたちが、どんなに音楽を愛していたか!  憎らしい。恨めしい。悔しい。苦しい。  過ぎ去った日々が、今も遠く輝く思い出が、それより輝く旋律に穢されて、嫉妬に焦がれる想いに踏み躙られて、辛くて、手放せなくて、赦せない。  だから。 「おまえも、ここまで堕ちて来い」  ほら、やっぱり! 暗闇に引きずり込もうと全身に走った痛みを、サーシャはさらりと旋律に焚べた。  忘れてなんかないわ。覚えてる。  だってこんなに苦しいってことは、今でも愛おしいってことだもの!  思い出して。穏やかな音色が波のように広がって、納屋から風に乗って運ばれていく。  思い出して。外は夕暮れ。雲が流れる。踊る影に、草のざわめき。  思い出して。心に広がる景色に、サーシャは耳を澄ませた。 「どうして?」  そんな声が聴こえた。暗闇から、サーシャの膿だらけになった頬を指さす声。 「どうして、おまえは美しいんだ。そんなになっても、ずっと清らかで、輝いていて、おまえばかりが。  私たちはおまえに灼かれてから、ずっと惨めで、醜く腐って、なのに、おまえばかり」  サーシャは首を傾げた。どうしてそんなふうに思うの?  明かりを灯すように微笑んだ。わたしずっと、あなたたちのことを弾いていたのよ。  サーシャの両手が弦を爪弾く。一本一本、鐘を鳴らすように。  音楽の中で、暗闇に火が灯る。炎に空気が灼かれて、風が舞い上がる。塵を糧に、高らかに、光が世界を照らしていく。 「この音。私の──」  晴れた薄闇に、サーシャは頷いた。  広場で聴いた楽団の溌剌とした音色。祭りで耳にした聖歌の荘厳な響き。白鳥憑きに奏でた蟻の行列。  一音一音が、旅を彩る出会いだった。体を蝕む呪い一つ一つを聴き分けて、サーシャはその音色を奏でていった。  辛くはないのかと声が聴こえた。これが終わりで満足なのかと。  納得してるわ、とサーシャは答えた。だって、とっても楽しかったもの。  結末が惨たらしかったら、幸せだった日々が消えてなくなるなんて、そんなことはないでしょう? 「だから苦しい」  ええそうね。 「だから悔しい」  そうかもしれない。 「ずっと、あの日々が続いてほしかった」  わたしもよ。  あの日々が、永遠に続いてほしかった。これからも。終わらないものなどないのだとしても。繰り返してほしかった。  さざ波のように。夜明けのように。何度でも。これからも。  あなたに幸せでいてほしい。  涙の気配に、サーシャは隣を見上げた。  ポロポロと頬を濡らすメフィルの真っ赤な泣き顔に、満足を覚える。  この曲、どうかしら? 琴の音色でサーシャは尋ねた。 「とても、素晴らしいですっ……! 今までの、今までが、今までで、一番……っ」  あら。ニコライさん前のご主人の演奏より? 「選べません。とても、とても……」  そうね。一番って、たくさんあると嬉しいもの!  迫り来る静寂に、サーシャは耳を澄ませた。  夕暮れが終わる。暮れなずむ空に星屑が架かる。指先の痛みは遠のいて、体の熱も引いて、命の灯火も消えようとしている。  閉じゆく光に、サーシャは最後の問いを投げかけた。  わたしがいなくなったら、また、誰かを主人にしてくれる? 「っ…………、はい」  搾り出すように頷いたメフィルの答えが嬉しくて、サーシャは弦を鳴らした。  世界が恋する音色が、弾んで空へと舞い上がる。流れ星のように。 「ご主人様!」  倒れそうになった主人をメフィルは支えた。竪琴が藁に受け止められる。  音楽は続いている。夕暮れの木漏れ陽のように。去っていく星が、手を振るように瞬く。  約束よ?  メフィルが選んだ人の音楽なんて、絶対、わたしも大好きだもの! 「あ……」  演奏は、終わっていた。とっくに。メフィルは余韻を聴いていた。  腕の中で、主人は安らかに眠っている。この上なく幸せそうに。熱の残る体は冷えていって、もう、永遠に目を覚まさない。 「はい……」  もう一度、メフィルは頷いた。耳にはまだ、主人の演奏が響いている。  その旋律に向けて、メフィルは繰り返した。 「はい……はい。御心のままに。  これより先も、あなたに、音楽を贈り続けます。サーシャ様」  彼女の微笑みに、誓いを捧げる。  日は落ちて、納屋の外で瞬く星空が、サーシャの寝顔とメフィルの涙を見送っていた。
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 村外れの草原に木材でこしらえた十字架を挿して、メフィルは日の高くなった空を仰いだ。  サーシャの最期の演奏は納屋の外にも響いていたらしく、「聖女の奇跡だ」と慄いた村人らが墓地の提供を申し出てくれたが、「病が感染するかもしれないから」と断り、ひとまずここに埋葬させてもらった。  掘った穴に藁を敷いて布で包んだ亡骸を収め、十字架に名と生没年を記しただけの粗末な墓だが、主人は気にしないだろうと思えた。いずれは朽ちて、メフィルの記憶にしか残らない。それでいいのだろう。  村の子どもがくれた花を供えて、祈りを捧げる。 「本当にこんなところで良いのかい?」と尋ねてきた、恰幅の良い女性を思い出す。彼女がメフィルたちを受け入れ、メアリーたちが来るまで不安がる村人を宥めてくれたから、最期まで主人に付き添い、看取ることができた。  どうしてそこまでしてくれたのか。尋ねると、彼女は「病人を見捨てていい道理なんてないだろ」と答えてきた。当たり前のように。嫌悪の呪いを受けながら、善心を見失わなかった。  奇跡に恵まれて、自分はここにいる。幸運を噛みしめていると、小柄な影が背を叩いた。 「終わった?」 「はい。お待たせしました、メアリーさん」  罪人のように頭を垂れたメフィルに、メアリーは貴婦人の装いのまま腕を組んで、鼻を鳴らした。 「竪琴はあんたの望み通り、花をくれた子にあげるよう教会に頼んでおいたわ。消毒と聖別が終わったらの話になるけど」 「ありがとうございます。元々旅の最中に買い直した安物ですし、壊れるまで弾いてもらったほうが、ご主人様……サーシャ様もお喜びになると思います」  まだ疫病の恐ろしさも死の実感も知らない幼子は、ただ「きれいな音楽を鳴らしていたおねえちゃんに」と花をくれた。サーシャが生きていたらさぞ喜んだだろうと思えて、その心遣いが嬉しかった。 「そ。さっきも言ったけど、あんたにはあたしの主人の巡礼に付き合ってもらうわ。  あたしの許可なしで次の契約はさせないし、まともな主人を選べるようになるまでビシバシ扱くから。そのつもりでいなさい」 「はい。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」  サーシャを主人に選んだことは、後悔しない。  主人の最期の演奏でそう誓ったが、自分は人間の心にあまりに疎かった。その罪を忘れてはいけない。  頷いたメアリーが、鞄から取り出した紙束を差し出してきた。 「あげる。暇だったから書いてあげたわ」 「これは……」  受け取った五線譜に書かれていたのは、サーシャの最期の演奏だった。走り書きの音符をなぞる指に、旋律が蘇る。  くしゃりと顔が歪む。すっかり栓の緩んだ目頭を押さえ、メフィルは声が震えないよう気をつけた。 「重ね重ね、ありがとうございます。どう、お礼を申し上げれば良いのか」 「暇潰しって言ったでしょ。礼なんていらな」  立ち止まったメアリーを怪訝に思い、顔を上げると、村への道を塞ぐように、二人の修道師が立ちはだかっていた。 「こんにちは、メアリーさん。教育は主人に丸投げするんじゃなかったんですか?」 「気が変わったのよ。  忙しいんでしょ。まだなんか用があるわけ?」 「魔女さんの演奏で毒気も抜かれましたし、一応、誘うだけ誘っておこうと思って。  メフィルさん。ローマ教会に仕える気はないですか?」  戸惑いに即答できずにいると、修道師は流れるように言葉を継いできた。 「音楽もまた神の恩寵です。国に仕えず最高峰の音楽家と巡り会いたいなら、教会は悪くない選択ですよ。  メアリーさんには断られちゃいましたが」 「当たり前でしょ。あんたらの仲間になったらお行儀のいい宗教音楽しかれないじゃない」  キッパリ断ったメアリーに背中を押されて、メフィルは前に進み出た。 「わたしも、様々な音楽に触れたいので、せっかくのお誘いですが、お断りします。  ただ……ご主人様の最期の曲を、お願いしてもよろしいでしょうか?」  メアリーに渡された楽譜を差し出す。若い修道師は眉を寄せたが、黙っていた壮年の修道師が受け取った。 「あれだけの呪いと怨みを焼き浄めた曲をもらえるなら、君を見逃す取引としては悪くない」 「え~? 弾ける人いるんですかアレ。霊感と音感両方良くないと厳しくないです?」 「教会にも音楽家の神憑きはいる。なんとかなるさ。  ではな。二度と会わないことを祈っている」 「ハ。あんたらの耳にも届く名曲を作ってやるわ。楽しみになさい」  メフィルたちとは別方向に去っていく修道師たちを見送って、メフィルはメアリーに頭を下げた。 「申し訳ございません。せっかくいただいたものを、勝手に」 「あんたの主人の曲でしょ。好きになさい。  それより、さっさと行くわよ。もう一組、偏屈爺とその主人も監視役で同行するから、まずはそいつらと合流するわ」  頷いて道を歩む。空は青く、世界は広く、胸の痛みは果てしない。  だけどいつか、また、その痛みが塞がるような出会いがあるだろう。彼女と同じように、かつて仕えた城主と同じくらいに、忘れがたい人と、きっと会える。  その人に出逢うため、メフィルは風に身を投じ、荒れた道を強く踏みしめた。