魔女の爪弾く煉獄 前編

 それはなんでもない春の終わりだった。夏の陽射しを思わせる青空に、髪に覆われた頭皮が汗ばむ晴れやかな朝。  草原を眺めながら街道を歩くサーシャの背中に、メフィルは説明を続けた。 「アイルランドに行くには、やはり海を渡らないといけないのが厳しいですね。狭い船で代償が発動したら逃げ場がありません。  神憑きの方の船が見つかれば良いのですが……」 「そうね……」  コクリ、と頷いたサーシャが、ガクリと崩れ落ちた。 「ご主人様っ!?」  咄嗟に抱き止めて転倒は防げたが、腕に伝わる熱にメフィルは瞠目した。溶けゆく蝋燭のようにグッタリとしたサーシャが、朦朧と囁く。 「ごめんなさい。熱が、あるみたい」 「しゃべらないでください。すぐに安静にできる場所へお連れします」  サーシャは滅多に体調を崩さず、怪我をしてもケロリとしていて、後で気づいたメフィルが肝を冷やすこともしょっちゅうだ。  そんな主人が立っていられずに息を乱しているのに、メフィルは己を責めた。いつからだ。いつから、どこで、こんな病を。 「前の街でおひねりを頂戴しておりますから、懐には余裕があります。すぐにお医者様を……」  主人の顔を覗き込んで、メフィルは息を呑んだ。  紅潮するサーシャの汗ばむ額に、発疹がある。白い肌をブクブクと膨らませて、赤い豆を埋め込んだように歪ませている。これは。 (痘瘡とうそう……!?)  悪名高い死に至る疫病を思わせる症状に、メフィルはサーシャを背負い、地を蹴る足を必死に早めた。
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「病人が休める場所を貸してくださいっ。感染うつるかもしれないから近づかないで!」  ようやく辿り着いた村を前に、メフィルは声を張り上げた。青々と麦の揺れる長閑な農村から、村人が足を止めて遠巻きにこちらを見る。  ベルトに縫い込んだ隠しポケットから、メフィルは銀貨を一枚取り出した。白鳥の神憑きが別れ際にくれた取って置き。鈍く輝く国王の横顔に、注目が集まる。 「寝泊まりできる場所と食糧をくださるなら、これをもう一枚差し上げます。どなたか、案内をお願いできませんか?」  無言の目配せが飛び交う静寂に、メフィルは焦燥を押し殺した。疫病を申告したのは失敗だったか。だが、他の人々を危険に晒すわけには。  憑神は病にかからないが、病を仲介してしまう危険は否定できない。もし、受け入れを拒まれたら。金目当てに襲われたら。  力尽くでも。 「メフィル。だめよ」  背に負ったサーシャのか細い声に、メフィルは我に返った。力強い叱責が耳朶を打つ。 「何グズグズしてんだい! 端っこに使ってない納屋があるだろっ。さっさと案内してやんな!」  恰幅の良い壮年の女性がノシノシと前に出る。目を瞠るメフィルに、女性はこっちに来いと腕を振った。 「感謝します。あの、これを」 「後にしな。ったく、どいつもこいつも情けないったら。こんな若い娘っ子が苦しんでる、って、のに……」  差し出した銀貨に見向きもしなかった女性が、何か、悍ましいものを目にしたように固まった。  視線を追いかけて、朦朧としたサーシャが彼女を見つめているのに気づく。 (しまった!)  代償の呪いが、善良な女を蝕む。同情に細められていた目が嫌悪にわななくのを、力強い言葉を紡いだ唇が恐怖に震えるのを、なすすべなくメフィルは見つめた。  女が、声を振り絞る。 「アンタ……こっちだよ! 早く!!」  逃げるように、女は村はずれの納屋の木戸を開いた。 「わらは後で持ってきてやるから、ひとまず寝かせてやんな。飯と水も、後で持ってきてやるから」  口早に言って背を向けた女性を信じていいかわからず、メフィルは納屋の前で立ち竦んだ。たわんだ藁きの屋根に、剥き出しの地面の横たわる土間。空っぽの板張りの壁にかかる、自分たちの影。  女の声がメフィルの背を叩いた。 「さっさと寝かせてやんなっ!!」 「はいっ!」  振り返る。女は「仕事に戻りな!」と男たちを叱りながら、教会へ駆けていく。  信じるしかない。メフィルは女の背に頭を下げて、納屋に入った。
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 受け取った藁を敷いて、サーシャを寝かせる。呼吸が熱い。熱が一向に下がらない。  濡らした布を、膨れた膿疱を潰さないように額に乗せる。頬や手足にも発疹が出始めていて、完治しても痘痕あばたや手足の痺れが残り、失明の恐れもあるという話が頭をよぎった。 (落ち着け。今はご主人様の御命を救うことが先決だ)  昼間は暖かいが、夜はまだ肌寒い。少しでも寒気が和らぐよう、薄い壁に布を貼り、自分のぶんの外套もサーシャに被せる。  食事は……今は厳しい。水差しを手に取る。 「ご主人様、お水です」  主人の返事はなかった。意識がないのか、起き上がれないのか。  水を含ませた綿で、メフィルは主人の腫れた唇を湿らせた。ほっそりしていた白い指は赤く浮腫んで、肌は汗ばむことを忘れて乾いている。 「ご主人様」  不安に囁く。主人の体を濡れた布巾で拭こうとして、肌が沸騰したようにびっしりと浮かぶ膿疱に手が止まった。  どうすれば。痕が残るとしても潰してしまったほうがいいのか。なるべく触らず刺激しないようにしたほうがいいのか。メフィルの知識では判断できない。 「ご主人様。返事をしてください。ご主人様……サーシャ様!!」  サーシャは返事をしない。膿んだ発疹に目蓋も覆われて、声が返らない。主人は目の前にいるのに。メフィルには救うことができない。 「誰か……」  サーシャの元を離れて医者を呼ぶべきか。村人が呼んできてくれているとしても、後どれくらいで来るのか。行き違いになって、メフィルがいないときに呪いが発動すれば、疫病への恐れが病より先にサーシャの命を奪うだろう。  だが、このままでは。迷走して、固まった頭に、木戸が開く音が届いた。 「お医者様ですか!?」 「医者が来ても無駄よ。その女を苛んでいるのは病じゃないもの」  光を背にした小柄な少女に、メフィルは目を瞬かせた。  ふんわりと広がる、ライラックの花を思わせる薄紫色のドレス。高く結い上げた、豊かで華やかなスミレ色の髪。前髪で両目は隠れて、リボンで飾られた日除けの帽子からは、薄紅色の大きな耳がはみ出ていた。  貴婦人の装いの背には、悪魔のような羽。メフィルと同じ、蝙蝠の。 「あなたは、憑神、ですか?」 「メアリーよ。初めましてね、魔女とその下僕」  愛らしい姿に不釣り合いな鋭い声で、憑神は名乗った。
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「あの、魔女、とは……  いえ、それより病ではないとは? これは痘瘡ではないのですか?」 「あんた、視えてないの?」  メアリーという憑神が何を訝んでいるのか、メフィルにはわからなかった。呆れたふうな溜め息が返ってくる。 「こいつらも報われないわね。こんだけ怨んで呪っても相手にされないなんて」 「呪う? 神憑きに呪いは」 「効きづらいけど、全く効かないわけじゃない。知ってるわよね?」  頷くが、確信を持てない。ヨーロッパを旅する中でいくらか遭遇したことはあるが、呪いを専門的に学んだ経験はなかった。  メアリーがサーシャを覗き込む。止めるか迷うが、真剣な横顔に敵意は感じられなかった。 「熱が出たのはいつ?」 「今朝です。あっという間に倒れて、水膨れが……」 「症状が進むのが早すぎるわね。ふつう、痘瘡は発熱してから二日は経たないと肌に発疹は出ないわ。  呪いが痘瘡を強めているのか痘瘡の形をした呪いなのか知らないけど、万が一にも人に感染らないよう気をつけなさい」 「あなたは、お医者様なのですか?」 「あんたより長生きしてるだけよ」  素っ気なく言って、メアリーはメフィルを睨んできた。 「で、神憑きが呪われるほど怨まれた感想は?」 「……わかりません。怨まれたとは、わたしがご主人様に与えてしまっている代償のせいですか?」  メアリーが眉を顰めた気配に、メフィルは言い募った。 「お願いします。ご主人様は一度として、人を意図的に傷つけたことはありません。  罪があるとしたら、わたしに。如何様いかようにも償います。  どうか、ご主人様を……サーシャ様をお救いください」  深く、深く、頭を下げる。主人の苦しげな寝息が聞こえる。  それを遮る、重く、忌々しげな声が。 「本気で言っているなら、あんたは人の心を知らなすぎる」  顔を上げたメフィルに、メアリーは尋ねた。 「あんたたち、旅籠はたごで演奏したことがあったわよね?」 「はい。そういったことは、何度かありましたが」 「同席した音楽隊と同じ曲をったやつよ。覚えてる?」  頷く。旅芸人たちの笛の音やフィドルヴァイオリンの旋律に、サーシャが目を輝かせていた。 「そいつらの演奏、どう思った?」 「どう、とは……皆様、素晴らしい演奏でしたが」 「……そこの魔女より?」 「? 演奏に巧拙はあれど、音楽はどれも等しく尊いのでは?  わたしはご主人様の演奏のほうが好ましかったですが、宿の皆様は音楽隊の方々の演奏が好ましかったようですし」 「待ちなさい。音楽隊のほうが人気だった? どうしてそう思ったの」 「拍手を多く贈られたのは音楽隊のほうでしたので……あの?」  頭を抱えたメアリーに、メフィルは自分がおかしなことを言っていると察したが、どこがおかしいのかはわからなかった。  乱れた帽子を直しながら、メアリーが詰問してくる。 「あんたの主人は、なんで音楽隊と同じ曲を演ったの?」 「感動されたからです。ご主人様は他の方の演奏を聴くのがお好きで、感動を音楽で表現されるので……」 「それ、自分が同じことされたら、嬉しい?」 「? はい。何度かご主人様に乞われて拙い演奏を披露しましたが、返礼にご主人様の演奏を聴けて、幸せでした」 「…………そうね、そういうやつもいるわね。今のはあたしの質問が悪かったわ」  メアリーは極めて不本意そうに口を歪めて、きょとんとしているメフィルに告げた。 「あんたの主人の演奏を聴いた音楽隊は解散したわ。音楽も辞めてる」 「え? なぜ……」 「……あんたってば、本当に、どうしてかわからないのね」 「あなたは、おわかりになるの?」  か細い声に、メフィルは振り返った。  火膨れしたような顔のサーシャが、目蓋を開けて、いつものように微笑んでいた。
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「ご主人様! 良かった……  お水をどうぞ。体を潤さねば」 「ありがとう、メフィル」  メフィルの手を借りて、ゆっくりとサーシャは上体を起こした。メフィルが匙で口に運んだ水を、静かに飲み込む。  それを待って、メアリーはサーシャに問うた。 「まさかと思ったけど、あんたも本気でわからないわけ? 人でなしの自覚はなかったの?」 「お父様には、おまえは人の心を知らないと、よく叱られました」 「知らないんじゃなくて無いんでしょ。コウモリのあたしが言うのもなんだけど、本当に人間?」 「人に生まれなければ、今より人を傷つけずに済んだのでしょうね」  膿んだ顔で、サーシャは囁いた。主人のいつになく儚い声に、メフィルが瞠目する。 「わたしは本当に至らぬ娘で、皇帝陛下の怒りを買い、父も兄たちも、わたしのために命を落としました。  今に至っても、わたしは己の愚かさを克服できず……あなたがわたしの罪をご存知なら、どうか教えていただきたいのです」 「ご主人様。今は安静になさらなくては」  頭を下げるサーシャを、メフィルは再び横たえらせた。メアリーが嘆息する。 「荷が重いけど、頼まれたから言うわ。  あのね、自分の演奏した曲を、演奏が終わってすぐ、自分より上手に演奏されたら、大抵の人間は嫌な気持ちになるのよ」 「まぁ、そうなの?」 「そうなのですか?」  帽子の奥で、メアリーのこめかみが痙攣した。 「あんたたちはわからないみたいだけどね。自分で音楽を演るやつには、理想があるのよ。自分の手で奏でたい理想の音がね。  憧れだったり、目標だったり、色々だけど、あんたたちには無いの? こんなふうに楽器を奏でたい、この曲を演奏できるくらい上手くなりたいって思ったことが」  メフィルの脳裏を、懐かしい記憶が掠めた。最初の主人ニコライの奏でる鍵盤の音色に合わせて、ヴァイオリンの弓を引いた思い出。  夢中で音を奏でながら、もっと、この旋律を損なうのではなく、引き立たせたいと願った── 「わかりませんわ」  途方に暮れたサーシャの声が、追憶を覚ました。 「だって、わたし、好きな音を奏でてる、だけで、目標とか、理想とか、よく、わからなくて」  譫言めいたサーシャの声に、メアリーは同情しなかった。 「あんたがやったのは泥棒よ。聴き取った人の理想を勝手に演奏するなんて、どんな高慢ちきだと思ってたら、こんな天然お馬鹿だなんて。  言っておくけど、あんたの演奏がそこのお馬鹿以外に拍手されなかったのは、気に入られなかったんじゃなくて、度肝を抜かれてたのよ。  音楽ばっか聴いてないで、ちょっとは人の声にも耳を澄ませなさい!」 「不甲斐ない、限りですわ……わたし、昔から、人の仰ることが、わからないことが多くて……  この方たちが、何を訴えているのかも、よく……」 「は? あんたまさか、視えててそれなの?」  メアリーが怖気が走ったように靴を鳴らすのに、メフィルは困惑した。 「あの、メアリーさん。先程も仰っていましたが、視えている、とは一体……」 「メフィル」  サーシャに袖を引かれ、メフィルはそちらを見た。  サーシャの腕の、赤く火照った肌を蝕む、無数のクリーム色の膿疱が目に入る。  見るだけで痛ましいそれらが、メフィルと目が合い、ボコリと泡立った。 「は……」  サーシャの腕で、無数の髑髏しゃれこうべが踊る。踊るように悶える。怒っている。嘆いている。怨んでいる。憎んでいる。サーシャに向けて歯を打ち鳴らし、骨だけになった指で皮膚を掻き、苦しみを訴える。  けれどサーシャは微笑んだまま。愛しげに目を細めて、いつものように、弾んだ声で囁く。 「あなたたちの音色、とても綺麗ね」  夢想が醒めた。サーシャの腕にある発疹が、元通り沈黙しているのを見て、メフィルは息を吐いた。  今のは、単なる幻ではない。そう釘を刺すように、メアリーが告げる。 「あんたは死ぬ」  サーシャは、静かにメアリーを見上げた。 「あんたに悪気がないのはよくわかったけど、だからこそ、反省も後悔もしないあんたを生かしておくのは危険すぎる。  そいつらの怨みは正当だし、浄化するにしてもあんたが呪い殺された後よ」 「メフィルは?」  サーシャの問いに、メアリーは縋るような目のメフィルを見下ろして、深々と息を吐いた。 「……いいわ。そいつには借りがあるし、教会に手を出さないよう口添えしとく。向こうが頷くかはわかんないけどね」 「ありがとう。あなたは優しい方ね、メアリー」 「気安く呼ばないで」  メアリーが背を向ける。サーシャは目蓋を閉じた。  主人が二度と目覚めないのではという悪寒に、メフィルが声を張り上げる。 「ご主人様……メアリーさん!」  入口で一度だけ止まって、メアリーは言った。 「看病の邪魔はしないわ。万が一生き残っても、もう演奏はできないだろうし。  あんたの選んだ主人よ。悔いのないように、最期まで仕えなさい」