闇夜に破れた約束
いつもの通り、陰鬱な夜だった。
自分を爪弾きに繰り広げられるどんちゃん騒ぎに嫌気が差して、少女はひっそりと広間から抜け出した。
足音を殺すまでもなく、毛足の長い絨毯はドレスの衣擦れすら吸い取ってくれる。ほっとして、けれど溜め息は我慢して、綺羅びやかな絵画の並ぶ通路を進む。盗人のように。咎人のように。
月明かりが少女を照らす。高く結い上げて真珠を編み込んだ、艶のある栗色の髪。光を浴びて華やぐ灰青色の瞳。固く閉じた蕾を思わせる可憐な面差し。青白い肌に映える純白のドレスを纏った、ほっそりした優美な姿態。
神聖ローマ帝国からロシア皇太子に嫁いだ公女ゾフィー──婚礼にあたり故郷の教会からロシア正教会に改宗した今の名は、エカチェリーナ。
ロシアの栄華が結集するこの帝都サンクト・ペテルブルクにおいて、無数の崇敬と羨望を浴びる立場にあるはずの少女は、望まぬ孤独を強いられていた。
夜風に誘われるままに、回廊に足を向ける。
月光を浴びる先客がいたのに、エカチェリーナは足を止めた。振り返った影が、丁重でいて弾んだ声音で告げる。
「まぁ、皇太子妃殿下。こんばんは」
動揺は表情には出さなかった。鋼の意思で鍛えた微笑で、挨拶を返す。
「こんばんは、アレクサンドラ。気持ちの良い夜ですね」
淡いライラック色のドレスを優雅に持ち上げて深く一礼したアレクサンドラが、エカチェリーナの許しを得てゆったりと姿勢を戻す。夜闇に浮かぶ仄白い面は、美にあふれる宮殿でも印象深いものの一つだった。
アレクサンドラ・ファリドヴナ・クリロワ。エカチェリーナがロシア語に親しむため集められた侍女の一人。フランス人の母を持ち、語学が堪能で、フランス語やラテン語、イタリア語やドイツ語も流暢に話す。十六歳のエカチェリーナより六つも歳上だが、婚約者に破断され独身。気取らない態度で親しみやすい。
エカチェリーナより頭一つぶん近く高い位置にある黒髪は、今夜は白鳥の羽根をあしらっていた。冴え冴えとした碧い瞳が、月光に濡れて柔らかな色を宿す。
「ほんとうに。昨日の雨のお陰かしら。空気が澄んで、快いです」
その微笑みは、自分より無垢な少女のようだった。この世の闇を知らず、光だけを浴びてきたような声。
「妃殿下も風を浴びにいらっしゃったのですか?」
「ええ……少し、酔ってしまって」
当たり障りのない理由で誤魔化す。
アレクサンドラは邪気のない人柄で、政治的にもエカチェリーナに敵意を抱く立場ではない。教養があり、機知に富む魅力的な人物だが……だからといって、無邪気に信頼はできなかった。
「妃殿下は音楽がお嫌いですものね」
嫌味かとエカチェリーナは素早くアレクサンドラの表情を窺ったが、悪意も敵意も見つけられはしなかった。用心して頷く。
「音楽より勉学のほうが好きなだけです。
価値の分からぬ者が演奏に水を差しては、ピョートル様もご不快でしょうから」
それも嘘だった。広間で奏でられている夫のヴァイオリンが、エカチェリーナには騒音としか思えない。あらゆる点で幼稚な夫が、これだけは毎日欠かさず熱心に練習しているが、そのたびに耳を塞ぎたくなる。
夫が浴びる聴衆からの喝采が、おべっかか本心か、エカチェリーナには判断できなかった。正直に言えば関心もない。
夫──自分と同じように神聖ローマ帝国からロシアを継ぐために連れて来られ、名を「ピョートル」に改められた、エカチェリーナより一つ歳上の青年。本来なら手を取り合い、人生を分かち合うはずの伴侶──は、エカチェリーナを疎み、羨み、そのくせ甘えてくる。親しんでも女帝から咎められることのない、唯一の女として。
わざと嫌われるようなことを告げて憂さを晴らし、かと思えば自分より賢いからと図々しく頼ってくる。エカチェリーナを愛する気などなく、愛されるつもりもなく、気遣いもしない。
元より乏しかった親愛の情はとっくに尽きて、しかしエカチェリーナに夫と縁を断つ気はさらさらなかった。自分は皇后になるためここに来たのだから。神聖ローマ帝国の片隅で、田舎貴族で生涯を終えたくはなかった。だから後悔はない。
だが。これほどの孤独が待っていると、自分は果たして、覚悟していただろうか?
「そうでしょうか?」
澄んだ声にエカチェリーナは神経を張り詰めさせたが、アレクサンドラは芯から不思議そうに、小首を傾げただけだった。
「殿下の一番のお傍にいらっしゃるのは妃殿下ですもの。
演奏を聴いてくださるだけで、きっと嬉しいと思いますわ」
「……貴女は、演奏をするのでしたね」
「ええ。ヴァイオリンは習っていませんが、琴と鍵盤なら」
エカチェリーナは聴き流していたが、アレクサンドラの竪琴はサロンでも評価が高かった。女帝の歌に伴奏したこともあると……少しも自慢げではなく、楽しかった思い出話のように軽やかに語るので、どう反応したものやら困った覚えがある。
「貴女から見て、殿下の演奏は、どうですか? 聴き苦しくはありませんか?」
侍女の立場で、皇太子の演奏に難を言えるはずがない。
わかりきった返事をエカチェリーナは待った。暗闇の底で、より冷たい寒さに身を浸して、安寧を得ようとするように。
「好きですよ? 冬の風の中で、焚き火に手を伸ばすような音色で。
縋るようで、寂しくて、重くて、咽び泣いているようで」
アレクサンドラの吟じるような批評に、エカチェリーナは沈黙した。
心からの賞賛に満ちた、思いやりのない言葉だった。女帝の甥という理由で引き離された故国に今でも焦がれ、ロシアを愛さず、周囲を拒絶し続けているピョートル。彼の苦境を的確に読み取りながら、アレクサンドラはその演奏を賛美するだけだった。
ただ美しいと感じたものを美しいと讃えただけの、清澄な声。間違えて地上に降ってきた、天使のような……
「……そんなにピョートル様の演奏がお好きなら、どうして広間にいないのですか?」
エカチェリーナの疑問に、アレクサンドラは声を転がした。
「殿下の演奏は好きですけれど、自然の音楽も好きですから。
今夜は風が心地良くて、ほら」
夏が過ぎ去るとあっという間に寒さがやって来るが、今夜はまだ、夏の名残りが風を涼しいものにしていた。
木の葉擦れ。庭園で眠る蕾たち。噴水の水音。星の瞬く夜。
しばし耳をそば立てて、エカチェリーナは耳に染みついた不快なヴァイオリンの音色が、綺麗に拭われているのに気づいた。
隣のアレクサンドラは、楽しげに夜景を眺めている。隣にいるのが誰かも忘れたように。
いいや、彼女は最初からそうだった。当たり前のようにエカチェリーナに敬意を示し、けれど媚びず、蔑みもしなかった。ただ自然に……親しげに微笑みかけてきた。
「今度、サロンで演奏してくれますか?」
アレクサンドラは目を丸くするのに、エカチェリーナは驚いた。そういえば、こんなふうに演奏を頼むのは初めてだったかもしれない。
「その、妃殿下がお聴きになりたいのでしたら、今からでも琴を持って参りますが……」
さっきまでの泰然っぷりが嘘のような恐縮した上目遣いに、エカチェリーナはつい吹き出してしまった。
「サロンで、で良いですよ。楽しみにしています」
満更お世辞でもなく、エカチェリーナはそう返した。彼女の奏でる曲なら、夜風のように快く耳を撫でてくれるのではないかと、そう思えた。
アレクサンドラが嬉しげに手を叩く。
「光栄です。
ああ、妃殿下さえよろしければ、わたしのことはサーシャとお呼びください。そう呼ばれる方が好きですの」
「わかりました、サーシャ」
久方ぶりに、ただの少女のように、エカチェリーナは微笑んだ。
談笑するふたりの姿を、陰から覗く目があったことには、気づきもせず。
約束は果たされることなく、ふたりが会話したのは、これが生涯最後となった。
* * *
後継者に選んだ甥とその妻の仲が一向に進展しないのに業を煮やした女帝エリザヴェータは、ふたりと親しすぎると見做した者を次々に帝都から追放した。男も女も関係なく。ふたりきりになれば愛し合うだろうと期待するように。
あるいはそれは、甥たちが最も頼りにする相手は自分でありたいという欲望だったのかもしれない。絶世の美貌を誇り、愛情深く、寂しがり屋の皇帝は、ピョートルとエカチェリーナを慈しみながらも、その人生を支配しようと気ままに振り回した。
真相はわからない。追放された人々は歴史から姿を消し、その消息は定かでない。
エリザヴェータが亡くなり、エカチェリーナが最期までロシアを愛さなかった夫を玉座から追い落とし、自らがロシアに君臨する皇帝となるのは、この夜から二十年近く先の未来になる。
皇帝となったエカチェリーナは帝国の発展に力を注ぎ、その一環として音楽などの芸術文化も啓蒙した。
楽才がないと自嘲しながらも、自ら歌劇の台本を執筆するまで力を尽くした皇帝の胸の内も、時の流れに埋もれている。