逝ける皇帝に捧ぐ舞踊

「頭が痛いわ……」  豪奢な寝台に横たわろうとして、女は低く呻いた。コルセットとパニエから開放された体は休息を訴えているが、頭がギシギシと痛んで眠れない。絹のガウンを体に巻き付けても、寂しさは薄れてくれない。  夜はとっぷりと更けて、不寝番の兵や夜勤の使用人以外はみな寝静まっている。  なのに、自分はまだ眠れない。夜通し騒いで、深酒が頭を鈍く霞ませているのに、一向に気鬱が晴れない。 「誰か。楽しいことをしてちょうだい。  わたくしを笑わせて。美しい夢を見せて。幸せな夢を。  わたくしを暖めて。シーツが冷たいの。誰か……」 「お呼びですか、エリザヴェータ陛下」  暗闇から声が返ってきたのに、エリザヴェータは安堵した。 「ああ、おまえ。帰っていたの」 「ええ。陛下の無聊を慰める催しを、あれこれと覗いて参りました」  影は、『鼠』と呼ばれる魔術師だった。名品だろうと珍品だろうと、美男だろうと醜女だろうと、とかく変わったものを好んだ父が蒐集した土産のひとつ。正教会は聖書の教えに反すると目の敵にしたが、魔王と畏れられた父は聞き流した。  父が亡くなった後は多くが散逸したが、この鼠は今も忠実に彼女に仕え、間諜として各地を巡り、集めた情報を魔術で伝えてくれる。  影が暗闇に火を灯すのを、エリザヴェータはワクワクと見守った。 「さあ、今宵陛下にお見せするのは、かつてちまたで語り草になった魔女にございます。  古びた琴を手に、奏でる音色は至福の調べ。  澄み渡る旋律を耳にした聴衆は、己の闇を覗き込み、憐れにも狂ってしまったとか」 「あら。おまえ、わたくしを呪うつもり?」 「おや、バレてしまいましたか。  そう、これは幼いみぎりに獣と番わされ、鼠と嘲られながら雌伏の時を過ごした道化の復讐譚。  どうかご堪能くださいまし」  鼠の冗談に、エリザヴェータはくすくすと笑った。煌々と熾る火に、鼠の目にしてきた情景が鮮やかに映る。  雑踏。街並み。暗闇に紛れそうな暗がりを経て、炎が小汚い外套を目深に纏った人間を映す。  自分が君臨する帝国の、自分が目にすることのない景色に、エリザヴェータは目を細めた。  最初は、男だと思った。外套を目深に被り、ズボンを穿いていて、スラリとした長身だったから。  次いで、外套から覗く優美な顎と滑らかな白い肌に、女だと気づく。それがどれだけ稀有なことか、週に一度、異性装の舞踏会を開かせているエリザヴェータは知っていた。  そこらの男がドレスを着ても滑稽なだけ。そこらの女がズボンを穿いても貧相なだけ。自分のようにスラリと脚が長い颯爽とした美女でなければ、男装など似合わない。  だからあの舞踏会は、エリザヴェータの美しさをこの上なく際立たせた。自分に比肩する男装の麗人なぞ、どこを見渡しても、そう、あの娘以外には。 「サーシャ?」  サーシャ──アレクサンドラ・ファリドヴナ・クリロワ。皇太子妃の侍女になるべく集められた貴族子女の一人で、粗相をしたのでエリザヴェータが家族ともども帝都から追放した。  とっくに死んだものと思っていたのに、どうしてまだ生きているのか。  ボロを纏っていても、サーシャは美しかった。磨かれた肌は曇りなく白く、梳られた黒髪は鴉の羽根のように青みを帯びて柔らかに毛先を巻いている。  血色の良い唇が、あの頃のように無垢に微笑んだ。 『陛下に曲を? まぁ、嬉しい。  わたくしの拙い演奏が皇帝陛下の慰めになるのなら、喜んで弾かせていただきますわ』  なんの濁りもない、清澄な声。  嘘だ。恨んでないはずがない。憤りを感じていないはずがない。そう思うのに、灯火に映るサーシャはあの頃のまま。清らかで美しいまま。  見窄らしいところを見つけようとした。薄汚れたマント、擦り切れた木靴、荒れた指先、見るからに安物の、間に合わせの竪琴。  ああ、よかった。あんな楽器でろくな曲が弾けるはずがない。胸を震わす音楽が奏でられるはずがない。  安心して、甥のヴァイオリンを聴いてやるような心地で、エリザヴェータはサーシャが爪弾く弦に耳をそば立てた。  暗闇を星々で埋め尽くすような旋律が、頭蓋を吹き抜けた。  心の壁を打ち壊すような、澱みを遥か天空へ吹き飛ばすような、眩い音色。  体の重みが消える。頭の痛みが晴れる。酒の残り香も、汗ばんだシーツの感触もどこかへ飛んでしまって、心が、思い出を駆け巡る。 『お姉様っ!』 『もう、足運びがめちゃくちゃよ? 先生に怒られてしまうわ』  姉と手を繋いでくるくると回った、楽しい思い出。  ああ、懐かしい、愛おしいお姉様。あんなに聡明で、読書家でなければ、もっと長生きしてくださったろうに。  読書が姉の健康を損なったのだと、エリザヴェータは信じていた。彼女がもっと、長く生きてくれていたら。出産直後の疲弊した体で、冬の窓を開け放って花火を眺めて、風邪を拗らせてしまわなければ。 『ねぇ、エリザヴェータ。わたくしのこと、好き?』 『もちろんよ! お姉様、大好き!』  愛する姉。尊敬する姉。数多くの兄弟の中で、唯一共に生き延びた姉妹。  読書家で物静かな姉と、奔放で活発な自分。姉が亡くなって、こんなにも時経ても、その思い出は色褪せなくて。  だから。 『だからあなたは、わたくしの息子を不幸にしたの?』  思い出にない冷ややかな声に、エリザヴェータは青ざめた。 『ちがう……ちがうわ、お姉様。  わたくしは、あの子に、お姉様の子に、玉座を継がせたくて』 『嫌だ。皇帝になんかなりたくない!』  甲高い少年の声に、エリザヴェータは振り向いた。 『まぁ。ピョートル、なんてこと言うの』 『僕はペーターだ! ピョートルじゃない!!  僕は兵士になるんだ。プロイセン軍に入って、フリードリヒ大王にお仕えする。だから』 『ピョートル!!』  甥は、くしゃりと顔を歪めた。 『うちに帰りたい。こんな国もうやだ。僕はロシア人じゃない!  どうして、僕の故郷はここじゃないのに、僕がロシアの皇帝にならないといけないの?』  こんな言葉は聞いていない。こんなことは言われていない。  甥はいつもムスッとしていて、何を考えているのかわからなくて、だから甥は、わたくしにこんなことは言っていない。  耳を貸さなかっただけでしょう? 誰かの声が聴こえた。  下々の訴えに、貴女はいつも耳を塞いだ。 そう嗤っていた。  敬愛する姉がドイツ貴族に嫁いで産んだ子、ペーター。  ロシアに連れてきた彼を改宗させ、父と同じ名に改名させ、皇太子の座に就けたのは、わたくし。だって彼は、お姉様の子だから。だから。 『叔母様、あの家庭教師を辞めさせて。あいつは嫌なんだ。いつも僕を馬鹿にして、殴って、罰だって言って食事をさせないんだ。使用人たちも僕を馬鹿にして、だから』 『まぁ、ピョートル。先生はあなたを思って罰をくださるのですよ。  もっと勉強して、立派な皇太子に』 『叔母様なんて嫌いだっ!!』  そんな言葉は言われていない。そんな口を利くのを許したことはない。  だから。エリザヴェータは唇を震わせた。 『わたくしは、ピョートルを愛していたわ。本当よ。  できるだけのことをしてやった。ねぇ、そうでしょう?』 『ええ、もちろんですとも。陛下』  感情を窺わせない怜悧な声。  自分を見上げる娘に、エリザヴェータはドレスの裾を握りしめた。 『エカチェリーナ……』 『はい、陛下』  甥の妻にとエリザヴェータが選んだ娘は、『わたくしはゾフィーです』などとは言わなかった。  甥と歳の近いドイツ娘を、ロシアに招いて改宗させ、母の名を与え、皇太子妃の座に就けてやった。だって、彼女は、わたくしが結婚するはずだった人の、妹だから。  病に倒れ帰らぬ人となった、思い出の婚約者。彼の妹と、姉の遺児が結ばれれば、失われた幸福が実を結ぶ気がした。だから。  エリザヴェータはエカチェリーナに尋ねた。自分の望む答え以外は赦さないと言うように、傲然と。 『あなたは、あなたはわたくしが好きよね? わたくしに、感謝しているわよね?』 『もちろんです、陛下。  あなたは地方貴族の子女に過ぎなかったわたくしに、皇妃になる道を授けてくださった。感謝してもしきれません』  甥とよく似た境遇なのに、甥とは正反対に如才ない嫁。寝る間を惜しんでロシア語を猛勉強して風邪に倒れ、臣民の同情と尊敬を勝ち取った女。  肖像画で見たときはパッとしない小娘だったのに、宮廷に来てから花開くように美しくなってきた──生意気な。 『陛下がわたくしを気まぐれに振り回しても、わたくしは陛下への感謝と崇敬を忘れたことはありません。  陛下が母のことでいつまでもわたくしに嫌味を言っても、わたくしは陛下を敬愛しております。  陛下がこの不幸な結婚の首謀者だとしても、わたくしは陛下を愛しています。  例え、陛下がわたくしの子をかどわかしても』  腕の中の愛しい重みに、エリザヴェータは瞠目した。 『パーヴェル』  エカチェリーナが産んだ子、パーヴェル。相好を崩して、エリザヴェータは赤子に頬擦りした。  柔らかな頬。お乳の匂い。ずっと求めていた、欲してやまなかった、わたくしの赤ちゃん。 『パーヴェル、パーヴェル。わたくしのことは、どうぞ大叔母と……  いいえ、祖母のように思ってちょうだい。だって、あなたはわたくしの、お姉様の孫なのだから』 『いいえ。その子はピョートルの子ではありません』  甥の嫁の言葉に、エリザヴェータは凍りついた。 『何を言っているの』 『ピョートルは結婚以来一度も、わたくしの寝室を訪ねたことはありません。  訪ねるのはいつも他の女の部屋。わたくしと違って下品で、頭の悪い、ご自分と釣り合いの取れた女が、ピョートルの好みなのです。ご存知でしょう?』 『嘘よっ!!』  そんな報告は受けていない。面と向かっては。言われたことがない。  でも真実だ。知ってたでしょう? 囁きに、エリザヴェータは耳を塞いだ。  やめて。そんな言葉は聴きたくない。夢を見たいの。美しい夢を。楽しい夢を。  愛しいお姉様の子と、わたくしと結ばれるはずだったあの人の妹との間に、子どもが生まれて、その子は、わたくしを。 『大叔母様』  いつの間にか、パーヴェルは幼子になっていた。愛らしい温もりに、エリザヴェータは涙をこぼした。 『パーヴェル、パーヴェル。あなたは、あなたはわたくしのことが好きよね?』 『はいっ。もちろんです、大叔母様』 『本当ね? 嘘じゃないわね?』 『もちろんです。ぼくは、大叔母様のことが、大好きです!』  世辞を知らない無邪気な声音に、エリザヴェータは感謝した。  顔を覗き込むと、パーヴェルは幼い頬に満面の笑みを浮かべていた。  その笑顔に励まされて、ずっと秘めていた願いを口にする。 『パーヴェル……わたくしのこと、お母様より、好き?』 『はいっ!!』  迷いのない返事に、エリザヴェータは満たされた。 『というか、お母様のことは嫌いです』  幼い口が吐き捨てた毒に、幸福はすぐに萎れてしまった。 『な、何を言うの、パーヴェル。いけませんよ。あなたを産んでくださったお母様に、そんな』 『だって、あの人が僕を抱きしめたことなんか、一度もありません。  どうして、そんな女を母と敬えますか?』  それは、エリザヴェータが許さなかったから。  パーヴェルが奪われるのが怖くて、自分だけがパーヴェルの母親になりたくて。エカチェリーナから生まれたばかりの赤ん坊を取り上げて、決して返さなかったから。 『それに、あの女はふしだらです。色んな男に身を任せて不潔だって、みんな言ってます』  氷の剣で貫かれたように、エリザヴェータは胸を抑えた。  色んな男を楽しんだのは、エリザヴェータも同じだった。皇位継承権のない皇女という立場がそれを許し、後ろ盾のいない危うさが子を成すことを許さなかった。  寂しかった。いけないこととは思わなかった。だって、お父様と同じことをしただけ。  色んな女を、ときには男を、寝室で、どころかそこらの空き部屋で楽しんだお父様。その娘がわたくし。  大帝の娘。皆がわたくしを讃えた。父に良く似た美貌。父に良く似た好色。誰もに愛される姫。それがわたくし。  だから謀反も成功した。近衛は一人残らずわたくしの味方。誰も殺すことなく、無血で玉座を手にした。その偉業を皆が讃えた。だから。 「誰も貴女に逆らえなくなった」  囁きが聞こえた。美しい音色が。  エリザヴェータは顔を上げた。暗闇はなく、竪琴を弾き終えた、内側から光り輝くような女と目が合った。 「まぁ、陛下?」 「サーシャ……」  幼子めいた無垢な笑顔で、貴婦人だった頃のように、サーシャは非の打ち所なく優雅に一礼した。  端のほつれた外套の裾を、ドレスのように持ち上げて。姿勢はまっすぐ、会釈はさり気なく。自然で、飾り気のない、清らかな仕草で。 「お久しゅうございます、陛下。アレクサンドラにございます。  まさか、陛下に再びおまみえできるなんて」 「やめなさい」  それ以上聞きたくなくて、麗句を遮る。顔を見たくなくて目を逸らす。 「そなたがわたくしに聞かせたいのは、そのような言葉ではないでしょう?」  わかっている。自分が、アレクサンドラを追放した。親兄弟の地位も財産も奪い、前線に追いやって犬死にさせた。  アレクサンドラは彼女の兄たちが逃したようだが、世間知らずで無邪気な美人が無一文で流離えばどうなるか、想像は容易い。  エリザヴェータへの恨み言はいくらでもあるはずだ。常ならば皇帝たる自分への批判なぞ許さないが、今だけは別だ。  アレクサンドラの……サーシャの無垢な声音に苛まれるくらいなら、その声が恨みに濁るほうが、ずっと。 「では……お言葉に甘えて、お尋ねしますが……  わたくしは、どんな粗相で、陛下のお心を傷つけてしまったのでしょう?」 「は?」  叱られるのを待つ子どものような声に、エリザヴェータは唖然とした。  告解をするように指を胸の前で組み、裁きを待つ潤んだ瞳で、サーシャは尋ねてきた。 「恥ずかしながら、わたくしは昔から人を怒らせてばかりで、父には『おまえは人の心がわかっていない』と叱られる始末。  今でも、自分の何が陛下の不興を買ってしまったのか、わからないのです。  罪を重ねるようで心苦しいのですが、どうか、わたくしの至らぬ点を教えていただきたく……」  深々と頭を下げるサーシャに、エリザヴェータは言葉を失った。  首を振り、後ずさる。サーシャは低頭した姿勢のまま、身じろぎもせずエリザヴェータの言葉を待っている。  その姿に、偽りを見つけようとした。皇帝に媚びようとしているのだと、思い込もうとした。  けれど、サーシャの背筋はまっすぐで、地面に下げた顔が、醜く歪んでいるのが、想像できなくて。 「だって」  叱られて泣く寸前の、子どものような声で、エリザヴェータは答えた。 「そなたが、わたくしより、美しかったから」  だから追放した。復讐されないよう、家族も根絶やしにした。  怖かった。誰かが、自分より愛されるのが。自分が最も美しく、愛される姫でなくなる日が。  そんな日が来たら、自分があの言葉を言われる日が、来てしまいそうで。 『起きなさい。貴女の夢は終わりよ』  かつてそう告げて、エリザヴェータは寝入っていた政敵──幼い皇帝の摂政だったアンナを宮廷から追い出し、玉座を奪った。  生き延びるためにしたことだった。権力になんて、玉座になんて、興味がなかった。でも、一度手にしたら、手離せなくて。  幽閉した先帝が、追放した女たちが、死なせてしまった男たちが、復讐に来るのが怖くて、恐ろしくて、ずっと眠れなくて、だから。 「まぁ……申し訳ありません。やっぱり、さっぱりわかりませんわ」  怯えるエリザヴェータに、サーシャはゆったりと姿勢を戻して、不思議そうに小首を傾げた。 「だって、あの頃と変わらず、陛下はお美しいですもの」  その言葉に、一欠片の嘘も感じなかったから。  エリザヴェータは心底、サーシャを憎んだ。 「やめなさい。わかっているのよ。  もう何日もろくに眠れていないの。寝酒のし過ぎて、顔が浮腫んでる。  食べ過ぎで太ってしまって、薄紅色のドレスは膨らんで見えるから着れなくなった。  ええ、人が指摘するのは許さないわ。でもわたくしはめしいじゃない。鏡くらい自分で見れるわ。わかってるのよ!!」  言いがかりだ。サーシャは心底、エリザヴェータを美しいと思っている。  だからこそ許せない。病で毛の禿げた野良猫すら賛美する女の賞賛なぞ、侮辱と変わりない。 「うぅん……ごめんなさい。わたくし、口下手で」  恐縮したふうにサーシャは俯いて。  弁明を口にする代わりに竪琴を持ち上げ、弦を奏でた。  輝きが、エリザヴェータを圧倒する。空気を撫でる音の波が、細やかに肌を撫でる。  弛んだ皺のひとつひとつ、黒粉の剥げて斑らになった金髪、寝間着を膨らませる腹肉、その下に隠れた、若さを失って肥えた脚さえも。 (やめて)  命令すれば従わぬ者などいない、地上における神の代行者が、憐れに懇願した。  気づいていたつもりだった。自分がどれだけ醜く肥えたのか。政治に興味がない癖に権力を振るい、美を誇りながら妬心に苛まれ、愛に飢えながら愛を蔑ろにする浅ましさを、自覚しているつもりだった。  直視したつもりで目を逸らしていた汚点を、澄み渡る旋律が数え上げ、尊い美点として歌い上げる。神の庭で天使たちが歌い継ぐ、とこしえの宝として。 (やめてちょうだい)  丸裸で神の御前に連れてこられた咎人のように、エリザヴェータはすすり泣いた。  わかっていたつもりだった。知っていたつもりだった。老いて醜くなってしまった自分に比べて、サーシャは、アレクサンドラは、若く美しいと。  知りたくなかった。跪くエリザヴェータの前で、サーシャは無心で竪琴を奏でている。  その微笑みの清らかさ。長い指の爪弾く音色の美しさ。夕暮れを背にしたその姿は、怒りも悲しみも、怨みも妬みも知らない、無垢な天使のようで。 「ふぅっ、楽しかった。  如何ですか、陛下。陛下の美が伝わりましたでしょうか」  瑞々しく白い面が、エリザヴェータを覗き込む。  その瞳に映る表情に、サーシャは残念そうに眉を曇らせ、すぐに微笑んだ。 「では、もう一曲弾かせていただきますね」  悲鳴を上げて、エリザヴェータは逃げ出した。遠くへ。サーシャのいない過去へ。如何なる旋律も響かない静寂へ。  手を伸ばし、体を起こす。寝台で寝入っていた自分に気づく。  ああ、良かった。夢だった。汗だくで息を吐いて、傍らに立つ影に気づく。鼠かと思ったが、違った。  長身の女だった。一瞬、サーシャかと思ったが、違った。背の高い、目映い金髪の、颯爽とした美女。  誰だったかしら。知らない顔だわ。こんな美しい女、まだ宮廷にいたのかしら。  いいえ、知っているわ。見たことがある。これは。この顔は。 (わたくし?)  反乱を起こした日の自分が、あの言葉を告げた。 「起きなさい。貴女の夢は終わりよ」  エリザヴェータは悲鳴を上げて、逃げて行った。  深い奈落へ。一度落ちたらもう這い上がれない、二度と帰れない暗闇へ、とこしえに。   *  *  *  見開いた皇帝の目を閉じて、鼠は恭しく一礼した。 「おやすみなさいませ、陛下」  そうして姿を消す。寝室から、宮廷から、この国から、とこしえに。   *  *  *  エリザヴェータ・ペトロヴナ。大帝と讃えられ魔王と畏れられた、偉大なるピョートルの娘。  後に夫を廃して皇帝となり、優れた治世により新たな大帝と讃えられたエカチェリーナ二世を、ロシアに招いた女。  絶世の美貌で知られた彼女の死に顔は、いかなるものだったのか。  歴史は黙して語らない。