朝陽に瞼を刺され、ニコライは目を開いた。
毛布で覆われた木窓の隙間から、なおも眩い光が差し込んでいる。メフィルが蘇ったあの朝のように。
『どうなのでしょうね』
魔術師の言葉を思い出した。憑神は死した獣の蘇りという話の中で。
『殺された獣が憑神の核なのは間違いないでしょう。
ですが、憑神になる前、ただの獣だった頃。私は人語を解するほど賢くもなく、今振り返っても、あの頃のことはよく思い出せません』
メフィルもそう言っていた。
「何故私の演奏を聴きに来ていたのか」と尋ねても、「上手く思い出せませんが、今の感覚で言うと、焚き火を眺めるような心地でした」と、朧な物言いだった。
『土地に降り積もった呪い、主人となる人間との縁、それらが死した獣を焦点にして人の形を得たのが、憑神。
そう考える人が、遠い明日にいるようです』
その考えには納得できた。単にコウモリが人の姿になったというなら、何故メフィルはあんな姿になったのか。髭のない洗練された面差しの、若い頃のニコライに似た目鼻で、妻の目と髪を持つ……
ニコライはメフィルを殺した。その罪はなくなったわけでも、贖われたわけでもないのだ。
「赦してくれ……」
身勝手な祈りが漏れて、ニコライはベッドにうずくまった。
その浅ましさに、声が聴こえてくる。
『ならどうして、そんなところでメソメソしてらっしゃるの?』
妻の声。怒り、呆れ、蔑んでいる妻が、刺々しくニコライを詰る。
『結局ご自分のことばかり。あの子のこともわたくしのことも、どうだってよろしいのね』
そんなことはない! おまえたちのためなら、我が身がどうなろうと構わない。
心からそう思っている。なのに、贖うすべすら、私には。
『ならどうして、あの子を言葉で説得しようだなんて、無駄なことをしてらっしゃるの?
百万言費やしたって、閣下には無理ですわ。口下手ですもの』
呆れきった、しかし、今までと違う声音に、ニコライは顔を上げた。
朝陽を背にした、細い指が見える。すみれ色のスカート。リボンで結んで垂らしたふわりとした黒髪。澄んだ碧い瞳の、輝く細面。
「ナターリヤ」
久方ぶりに名を呼んだ妻は、冷ややかにニコライを見下ろした。
『目上にはいつも黙って従って、目下はいつも怒鳴って黙らせて。
そんなだから、真摯に説き伏せるすべをご存じないのね』
その通りだと跪く。どうすればいいのか教えてほしいと、妻のスカートに縋り懇願する。
『嫌だわ。やっぱり、わたくしのことなんてすっかり忘れていらっしゃる』
そんなことはない。お前を忘れたことなど、ひとときもない。
『どうだか。わたくしが閣下になんと申し上げたのか、さっぱり思い出せないようですけれど』
妻の皮肉に、ニコライは必死に頭を巡らせた。
音色が聴こえる。迷いながら一音一音鍵盤を押す、チェンバロの間延びした音。
恥ずかしいくらいに拙く辿々しい、ニコライの、初めての演奏。
『そうそう。お上手ですわ、閣下』
『指が攣りそうだ……やはり、君が自分で演奏したほうがいいのではないか?』
『わたくし、人の演奏を聴くほうが好きですの。
それにほら。殴ったり怒鳴ったりするより、鍵盤を叩くほうがずっと心が軽くなりませんこと?』
ナターリヤに広げられた十本の指が、鍵盤を押して壮麗な音を奏でる。
思わず、ニコライはすべての鍵盤に指を滑らせた。流れるような旋律が自分の指から生まれたことに、胸が高鳴る。
『ね? 楽器でおしゃべりするのって、楽しいでしょう?』
『おっ、おしゃべり?』
『ええ! 人前ではとても口に出せないような下品な言葉も、美しい旋律にしてしまえば、ほらっ』
『??? なんと言ったんだ?』
『内緒ですわ。上達して、お当てになって。閣下』
『……やはり、君もいっしょに弾いてくれ』
そう願って、妻の小さな手に、己の手を重ねた。
思い出が、朝陽の下に蘇る。
「……赦してくれ」
囁いたときには既に、妻の姿はなかった。
涙を拭い、寝台から降りる。杖を手にする。
「ご主人様?」
ニコライが起きたのを察して入室したメフィルに、ニコライは告げた。
「演奏をする。メフィル、部屋に連れて行ってくれ」
この部屋に来るのも久方ぶりだと、メフィルに椅子に座らせてもらい、鍵盤を前にして、ニコライは実感した。
朝陽の照らす部屋。ピョートルの贈ってきたガラス窓に、あの日のメフィルを思い描いて、ニコライは腕を広げ、鍵盤に指を下ろした。
もつれるような旋律に、すぐに悟る。
(指が、固い)
当たり前だ。メフィルの説得に頭を悩まして、このところずっと鍵盤に触れていなかった。
鈍い指。遅れる旋律。自分でもわかるほどぎこちない音色に、ニコライの意気は見る間に挫けて──
己の怯懦を捩じ伏せる力強さで、指を振り下ろした。雷鳴の如き音律が重々しく窓を揺らし、世界を歪ませる。
たった一小節で逃げ出すつもりか。
その程度の覚悟で赦してくれなどと抜かしたか。
この臆病者。
愚か者。
恥知らず!!
己への憤怒が旋律になる。壁際で見守るメフィルが、目を見張らせているのがわかる。
彼を説き伏せる言葉が見つかるまで、何度でも。何日でも。幾夜でも。例え皇帝の使者が現れて背中を刺し貫かれようと、演奏を止めはしない。
旋律に決意を焚べて、ニコライは音色を燃え上がらせた。
* * *
「あら、久しぶりだねぇ」
中庭にまで届く旋律に、年配の洗濯女はシーツを広げながらつぶやいた。パンっと布を振り下ろして空気で膨らませて、なんだか合いの手を入れたみたいだったとおかしくなる。
「ここ最近静かだったけどね。今日は一段とおどろおどろしいわ」
「あら、あたしは好きだよ。こんな島じゃ娯楽もないし。まぁご城主様はアレだけど」
同僚の声をひそめた陰口に、「聴こえるよ、地獄耳なんだから」と注意する。
城主は厳しい人柄だが、近習のメフィルのお陰か使用人に暴力を振るうことはなく、金払いもいい。が、一目見ただけでゾッとするような不吉な顔と、目が合うと呪われそうな暗い目つきはいただけない。
悪魔に憑かれたって話は本当なのか。メフィルみたいな男前な悪魔なら歓迎だけど、と独りごちて、洗濯女はいつの間にか同僚たちが静まり返り、手を止めているのに気づいた。
「ちょっとあんたたち。仕事しないと」
「いや、あんたも……」
言われてみれば、自分も洗濯物を干す手が止まっていた。今日はいい天気で、早いところ干して、他の仕事に取りかからないといけないのに。
音がする。頭の上から。晴れ渡っているはずの空に、稲光が走る音がする。天使様が行軍するような。
頭上から降る重く烈しい音色に、女たちは口を開けて、ただただ旋律に聴き惚れていた。
* * *
「止めなくてよろしいのですか、司祭様」
聖堂にまで届く城主の演奏に、司祭は写本の手を止めて耳を澄ませていた。
忠言してきた修道士に、静かに尋ねる。
「なぜ止める必要が? 荒々しいですが、これは歴としたミサ曲でしょう」
「神憑きの奏でている音楽です」
修道士の頑迷な表情に、司祭は苦笑した。
「あなたから見て、メフィルさんは主の教えに反した存在ですか?」
「それは」
そう見えないから困っているのだろうと、言葉に詰まった修道士を司祭は憐れんだ。
美しいもの、清らかなものは望む望まないに関わらず、人を惑わせる。赦されぬ恋慕に身を焦がしながら、想い人を自分の信仰を妨げる悪魔だと罵る者も、中にはいるのだ。
「天の国は空の彼方ではなく人の心の内にあり、悪魔もまた人の心にあります。
主は内なる悪と戦う者を嘉したもうた。そのことを忘れてはなりませんよ」
「はい……ミハイル司祭様」
己の庇護下にある迷い子を導くべく、ミハイルは修道士を隣に座らせ、共に旋律に耳を傾けた。
「あれが、城主殿の祈りなのでしょう」
* * *
旋律が嵐のように迸る。惰弱な己を打ち砕かんと、ニコライはがむしゃらに指を走らせた。
ピョートル。輝かしいピョートル。勇猛なピョートル。自分と違って陽気で、自信に満ち、人に愛され、己の不安をねじ伏せる強さを持っていたピョートル。彼といっしょにいるのは誇らしく、彼の下で戦った日々は輝かしく、だから、ピョートルよりも自分を愛してくれる女人がいるなんて、信じられなかった。信じる勇気がなかった。自分がピョートルを赦し、妻を赦せば、変わらぬ日々が続くと目を背けた。
すまない、ナターリヤ。美しいお前。賢いお前。私よりずっと強かったお前。ピョートルを前にしても畏れなかったお前を、私は信じられなかった。他の何よりも、ピョートルよりも、ヨーロッパの楽団よりも、私を愛してくれていると、信じてやることができなかった。お前の勇気を、貞節を、私こそが信じてやらねばいけなかったのに。
『あら。わたくし、そこまで閣下を愛してはいませんでしたわ。陛下よりはマシでしたけど』
聴こえてきた妻の辛辣な物言いに、ニコライは泣き笑いを浮かべた。
メフィル。騒がしい独り言でしかなかった私の演奏を、唯一愛してくれたお前。冬の夜、共に篝火を囲むように、孤独を癒してくれたお前。お前がどうして私の演奏を聴きに来てくれたのか、本当に私の演奏を愛してくれていたのか、その答えはもう永遠にわからないけれど。
ニコライは指を広げた。忙しなかった旋律が、ゆるりと広がる。指が動く。油を差したばかりの蝶番のように。旋律と潮騒が調和する。
『ねぇ閣下。宮廷に行かせるつもりがなかったのなら、どうしてあの子をあんなに厳しく躾けたんですの?』
ヨーロッパに行かせたかった。お前が聴けなかった音楽を、メフィルには聴かせてやりたかった。
私よりも素晴らしい世界があると、こんな狭い城で一生を終えることはないと、羽ばたく息子を見送りたかった。
『……ねぇ閣下。音楽はお好き?』
ニコライは微笑んだ。
『好きだ。お前が好きにさせてくれた』
『あら。まだわたくしにおんぶに抱っこですの?』
『嫌か?』
『嫌ですわ。わたくし、閣下を赦したわけではなくてよ』
『でも、赦してくれるだろう?』
『まぁ、どうしてわたくしが閣下を赦さなくてはいけませんの?』
もうニコライは指を意識していなかった。胸に浮かぶ旋律が、そのまま鍵盤を通じて響く。
黄金の朝陽に輝く白い海。その頭上には轟く雷雲。稲光が迸り、その先に、眩い春が広がっている。
心のままにニコライは答えた。
『こんな素晴らしい演奏をする私を、音楽好きのお前が赦さないはず、ないじゃないか』
『……憎たらしい人!』
妻のビンタを甘んじて受けて、ニコライはその愛しい雷で演奏を終えた。
* * *
拍手が聴こえる。万雷の、ひとりでそのくらい鳴らしてみせるという感激の音。
整わない息をこぼしながら、滴る汗を拭いもせずに、ニコライは手を鳴らし続けるメフィルを振り返り、微笑んだ。
「そんなに素晴らしい演奏だったか?」
「はい! 今までで、一番!!」
頬を興奮で赤らめて、目を輝かせるメフィルに、ニコライは頷いた。
「ヨーロッパの音楽よりも素晴らしかったか?」
「はい! わたしは聴いたことがありませんが、きっと!」
「百年後の音楽よりも、素晴らしいか?」
「はい! きっと、きっと……!」
ニコライの頬を、涙が伝った。
「そうか……
なら、それを確かめてきてくれ」
メフィルが、拍手を止めた。
「ご主人様?」
駆け寄ってきたメフィルの肩に手を乗せて、ニコライは崩れ落ちそうになる体を支えた。
まだ倒れるわけにはいかない。もう少し、もうしばらくは、演奏ではなく、はっきりとした言葉で、メフィルに伝えなければいけない。
「お前は、どこへでも行ける。ヨーロッパにも、百年後の未来にも、その先にも」
「ご主人様。ご主人様もいっしょでなければ、わたしは」
「ああ。私も連れて行ってくれ。
私の音楽を、いっしょに」
抱きしめる。縋りつくのではなく、背中を押すために。
「私の音楽が何より素晴らしいと言うのなら、確かめて来い。
その先で、私以上に素晴らしいものを見つけても、構わない」
追い出したはずの弱気の虫が湧いてきて、己を叱咤する。
「それでも、お前の心を初めて、こんなにも打ったのが私であることは、揺るがないはずだ。私がかつて、妻の演奏に心震わせたように。
連れて行ってくれ。私の音楽を、お前と共に、未来へ。メフィル」
心からの願いを乗せて、ニコライは声を震わせた。
「私の音楽を、見捨てないでくれ」
メフィルが、背中に手を回す。その手が震えている。
ニコライの肩に、熱い、涙が滴り落ちる。
「承知、しました」
メフィルが繰り返す。
「かしこまりました、ご主人様。かならずっ……必ず」
メフィルが鼻を啜る、その情けない声を聴きながら。
ニコライはやっと、己を赦せた気がした。
旅立ちは真夜中になった。月は雲に隠れたが、雨はない。外套を突き刺す冷気が押し寄せ、吐いた息が白くなる。
メフィルは礼拝堂から出ると、見慣れた海に目を細めた。まだちらほらと氷が流れているが、次の晴れには船がやって来るだろう。
その船には皇帝の使者が乗っている。メフィルは岸を目指したが、海を眺める影に足を止めた。
「おや。こんばんは、メフィルさん」
「ミハイル司祭様」
自分と同じくらい高い背。質素な僧衣に隠れているが体格は逞しく、戒律に従って伸ばした顎髭は、彼の丸顔に威厳よりも愛嬌を足していた。
「どうなさったのですか、こんな夜更けに」
「城主殿を偲んで、散歩をしておりました。メフィルさんは、お別れは済まされましたか?」
「……はい」
あの素晴らしい演奏を最後に、ニコライはベッドから起き上がれなくなり、メフィルが旅の支度を終えるのを待つようにして、今朝、息を引き取った。
すべての気力を使い果たしたのか、寝台のニコライはメフィルを急かしたかと思えば泣きじゃくり、赦しを乞うてはメフィルを激励した。
今は修道院に安置されている亡骸に後ろ髪を引かれて振り返ると、ニコライが励ますように言った。
「葬儀は私どもの方で、粛に執り行います。どうかご安心ください」
「はい。ありがとうございます。
あの、司祭様は、ご主人様のことは……」
城内の者がニコライを嫌う中で、この司祭はいつも温かな笑顔を崩さなかった。魔術師は、この城に他の憑神や神憑きの縁者はいないと言っていたが……
「城主様には、親近感を抱いておりました。今のご時世、髭を生やせるのは神職にある者くらいですので」
茶目っ気のある答えに、なんと返したものかと迷う。聖職者は聖書に髭剃りを戒める記述があることを根拠に髭税を免除されているが、それで抗えるほど神憑きの呪いは甘くはない、はずだが。
「正直に申し上げると、ありがたく感じていました。
ニコライ殿にまみえると湧き立つ心地は、呪いによるものだと明白でしたので、良い鍛錬でしたよ」
「は……」
教会は憑神を忌んでいる。聖書によると人は唯一なる神の写し身であり、天の国で永遠の命を授かる資格は敬虔な信徒に限られている。なのに下等な獣が不死なる人の姿で蘇るのは、悪魔の所業に違いないから。
だがミハイル司祭は、温厚な笑顔を崩さずに言った。
「私は主を信じております。主が人の子を愛し、打ち克つ望みのない試練には遭わせず、悪心を退ける道を示してくださっていると」
雲間から月が覗いた。冴え冴えとした月光が、凍てつく大気の中で仄かに暖かい。
夜の中で、海の波が青く瞬いた。旅立つメフィルを祝福するように。
「あなたのような孝行息子を天の父が厭うだなんてことが、果たしてあるでしょうか?
どうかお元気で。無事の旅路と、良き出会いを祈っております」
「……ありがとうございます。ミハイル司祭様も、どうかお元気で」
背を向けて、メフィルは走った。崖から飛び降りると同時に、闇に紛れて翼を広げる。人の姿を脱ぎ捨てて、大コウモリの姿で夜に羽ばたく。
海面を滑るように浮かび上がって、メフィルは自分が羽ばたき方を忘れていなかったのに驚いた。憑神であることを隠すため、ずっとコウモリの姿に戻ることはなかったのだが。
大気は耐え難く冷たかったが、ニコライに鍛えられた心は挫けなかった。暗闇を見通す目が、遠ざかっていく城が月光に照らされるのを見つける。
憑神となって、人の知恵と体を得てから、ずっと過ごした場所。愛され、守られ、育まれ、赦された、彼の故郷。
(さようなら。どうか、お元気で)
城に背を向けて、身を切る冷たい風を羽ばたきに変えて、メフィルは見知らぬ世界を目指して飛んだ。
主人の葬儀に参加できなかったのは心残りだが、出立を遅らせれば亡き人に叱られるとわかっていた。
「では、メフィルさんは無事に旅立ちましたし、陛下には『神憑きは亡くなって、憑神も消滅したようだ』と伝えておきます。
メフィルさんが国内で捕まらなければ大丈夫でしょう。怪しまれても、なんだかんだ私は有用ですからね。確証もなしに処分されることはありません」
鍵盤に触れながら、ニコライは魔術師の報告を聴いていた。陽光を浴びたホコリが舞い散って、雪のようにキラキラ輝いている。
「城の皆さんも、まぁ大丈夫じゃないですか? ミハイル司祭は傑物ですし、エリザヴェータ様は人を見る目は確かですから。ここに相応しい新しい城主を派遣してくれますよ」
少し黙ってから、魔術師は付け加えた。
「他に何か聞きたいことはありますか?」
「……そういえば、何故、お前たち憑神はエリザヴェータ様が玉座に就くまで離散していたのだ?
ピョートルの遺志を尊重するのなら、エカチェリーナが皇帝になったときも助力しそうなものだが」
「あ〜、それは、意見が分かれたと申しますか……
エカチェリーナ様、浮気したんですよね。陛下の晩年に」
「……なんでだ?」
本気で理解できなくて、ニコライは尋ね返した。
ピョートルは数多の女を愉しんだが、本気で愛したのは……肉体だけでなく心と知性に敬意を払い、尊重したのは、エカチェリーナだけだ。
エカチェリーナは農夫の娘だったが、牧師に育てられたお陰で全くの無教養ではなかった。政治に興味はなかったが人心には敏く……ピョートルの寵愛を失えば破滅するのがわからない愚物ではない、はず、なのに。
「さぁ……いえ、ピョートル様もちょっと他の女にフラついてまして、結局嫁入り前の姫様たちを名実ともに庶子にするわけにはいかないと怒りをこらえられたので、そこまで計算通りだった、の、かも、しれないですが。
もしかしたら、ご自分もつまみ食いしてみたくなっただけかもしれないですね。処刑された間男殿は気の毒でしたが」
しばし口をあんぐりと開けて、おもむろに、ニコライは腹を抱えて笑った。
「なっ、なんだ、ピョートル、あいつ、あんな偉そうにしておいて、嫁に愛想尽かされてるんじゃないか!」
「笑ったら悪いですよ。失意のうちに亡くなられたんですから」
「フンっ、自業自得だ」
言い切って、妙に清々しい心地で、ニコライはガラス窓を見た。
海の上に、雷雲が来ている。あれでは船が来るのはもう少し遅れるだろう。
「この楽器は、どうなる?」
「陛下の使者が回収すると思います。手ぶらで帰るのは嫌でしょうしね。
……邪魔してほしいですか?」
「いや……良い。城主らしいことはほとんど何もしていなかったからな。城民の安全が買えるなら安いものだ」
晩年の相棒だった鍵盤をニコライは撫でた。名残惜しくはあったが。
「それに、百年後にはまた聴けるのだろう?」
「ええ。息子さんとお楽しみください」
魔術師は頷いて、窓を開けた。
* * *
(はぁ〜終わった終わった)
葬儀の準備が終わり、女中は足早に最後の点検をしていた。恐ろしく、好きになれない城主だったが、葬儀はちゃんとしないといけない。手を抜くと祟られそうだし。
それに、なんだかんだずっと城の主人だった人なのだ。好む好まざるに関わらず、慣れ親しんだものが終わる寂寥感があった。
(最後の演奏は、ちょっと、忘れられないしね)
そういえば、メフィルさんはどこに行ったのだろう。ミハイル司祭様が代わりに音頭を取ってくださったから良かったけど……
父親のように慕っていたし、悲しみは自分の比ではないだろうと、女中は同情した。葬儀の席で顔を見たら、きっと慰めようと決意して、ふと足を止める。
あの演奏が行われた……城主がずっと、自分とメフィルの他は誰も入れようとしなかった部屋。
(メフィルさん、ここかな?)
少し躊躇ったが、どの道掃除をすることになるだろう。扉を叩くと、鍵は開いていた。
いつも閉まっているのに。やっぱりここだと部屋を覗き込んで、誰もいないのに拍子抜けする。
窓が開いていて、風が吹き込んでいる。海の向こうに黒々とした雲を見つけて、女中は雨が降ってきたら大変と窓に近づこうとして、ふと足を止めた。
あのチェンバロのような楽器の前の椅子が、ついさっきまで、誰かが座っていたような向きになっている。
あの窓も、誰かが開け放って、外に羽ばたいたような。
城主が悪魔と契約したという噂を思い出して、女中は「まさかね」と肩をすくめて、ガラスに見惚れながら窓を閉めた。
窓の外では、春を連れてくる雷が、弔いのように響いていた。