1724年
「ああ、それは憑神ですね」
翌年の春に訪れた魔術師の言で、メフィルに何が起きたかはわかった。疑問は数え切れないほど増えたが。
「人に殺された獣が、人の姿になって蘇る? 神の御技ではないのか?」
「教会は悪魔の仕業と断じていますね。不滅の魂を持たない獣が神の愛し子たる人間となって蘇るのは不自然、というのもありますが……
憑神の主人となった者は、権能を授かるだけでなく、呪われるのですよ」
「別段何も変わっていないが」
「いえいえ。あのコウモリに憑かれたことで主人が受けた《代償》は、対面した人間に《嫌悪》される呪いで間違いありません。心当たりはありませんか?」
なかったので、ニコライは鼻を鳴らした。城主が嵐の夜に窓を開けっぱなしで騒いでも、一晩誰も助けに来なかったのだ。変化を感じろと言うほうが難しい。
「外野から見ると瞭然なんですけどねぇ。去年来たときは、結構評判良くなっていたんですよ、あなた。
でも今は、あなたにまみえる機会のある人ほどあなたを恐れて忌んでいて、演奏を耳にしているだけの人はそうでもない。
一晩助けが来なかったのだって、駆けつけた人があなたを見て逃げ出したからですよ」
「その理屈で言えば、お前も私を忌み嫌っていることになるな?」
無関心なニコライに、魔術師は苦笑した。
「私は魔術師ですから、呪いは通じないんですよ。
あなたは良いのかもしれませんが……気をつけてくださいね。あなたが無事なのは、城主という立場のおかげです」
それも元々そうだったので、ニコライは聞き流した。
自分は幸運だ。弱者は使い潰され、敗者は踏み躙られるこの国で、罪を犯し追放された先で新たな友を得て、過ちで失うところを神の慈悲で取り戻し、こうして余生を満喫できているのだから。
「メフィルは、憑神にされるために連れて来られたのか?」
「その候補、だったのは否定しませんね。他の子たちはみんな海に沈んでしまいましたが。
珍しい獣──何か変わった特徴や、力のある獣ほど、憑神になりやすいんですよ。でもそれ以上に大切なのは、人間との縁です」
「縁?」
「ええ。それが獣を現世に呼び戻す手綱となる。
ここに回収に来たとき、あの子はあなたと既に深い縁を結んでいましたから。あの子を憑神にするなら、あなただと思いました」
だから放っておいて、今、こうして様子を見に来ている。
「……メフィルを、ピョートルの元へ連れて行くつもりか?」
「いいえ? 想い合うふたりを引き裂く趣味はありません。陛下には上手く誤魔化しますよ。
実際、戦にも政にも役立つ権能ではないですし、見逃しても支障はないでしょう」
そう嘯く魔術師を信用したわけではないが、信用できないからと言って、ニコライにできることはない。
「演奏の時間だ」と立ち上がったニコライに、魔術師は尋ねた。
「聞いて行っても?」
「好きにしろ」
それだけ言って、ニコライは楽器を置いてある部屋に向かった。
* * *
旋律が炎となって城を照らす。鍵盤の奏でる一音一音が雨粒のように降り注ぎ、反響が火の粉のように肌をひりつかせる。
感情に任せるばかりで疎かだった指の動きが、今は感情を伝えるためにしなやかに動く。胸に満ち旋律となって広がるのは、天への感謝、安堵、そして、畏れ──
薄氷がひび割れるような澄んだ音色を最後に、演奏は終わった。ただ一人同席を許された影の、熱心な無言の拍手が響く。
「素晴らしい演奏でした、くらいは言ったらどうだ。メフィル」
「すばらしい、えんそうでした。ご主人様」
辿々しい鸚鵡返しだったが、紅潮した頬が、潤んだ瞳が、未だ止まらない拍手が、その賛美が本心からのものだと告げていた。
誇らしさを胸に、ニコライはメフィルを眺めた。スラリと背が高く、昔のコネを頼って誂えさせた服がよく似合っている。侍従と言い張れる範疇には収めたが、洗練された気品ある所作はヨーロッパの貴公子を名乗っても疑われまい。
言葉がまだ辿々しいのは、完璧な上流階級の発音を身につけさせるためだった。元がコウモリだからか耳が良く、少し目を離すと下々の言葉を真似してしまうのが玉に瑕だ。
「メフィル。お前は憑神と呼ばれる存在らしい」
「悪魔、ですか?」
「ああ。だから私以外の誰にも、お前がコウモリであることは悟られないようにしろ。特に、修道院の連中には」
「憑神も神憑きも、教会には睨まれていますからね。お気をつけください」
音もなく部屋に入ってきた無礼者をニコライは睨め付けたが、魔術師はどこ吹く風だった。
「素晴らしい演奏でしたよ。以前のも悪くありませんでしたが……いやはや、見違えました」
主人に《楽才》──旋律を正しく捉える聴覚を授ける。それがメフィルの権能だった。
帰ってきたメフィルを抱きしめたあの日、ニコライの聴く世界は一変した。感情のままにがなり立てていた以前の演奏は、思い返せばただの騒音だったと、メフィルに授けられた聴覚は如実に知らしめた。
鍵盤をどう押せばどんな音が返るのか、今のニコライにはわかる。鏡を見て佇まいを直すように、ニコライの演奏は日に日に洗練されていった。
城内の者は言う。あのコウモリは悪魔だった。城主様は悪魔に魂を売って楽才を授かったんだ。
真実を掠めていたが、構わなかった。彼らが怪しんでいるのはニコライだけで、同時期に城に拾われたメフィルのことは、ニコライのお気に入り、哀れな犠牲者と見ている。
それでいい。誰にもメフィルは渡さない。
後ろを向くと、メフィルは口を押さえていた。
「メフィル、どうした?」
「……だれにも、ひみつ」
「ご安心ください。ニコライ様に憑神のことを教えたのはわたしですから」
会釈した魔術師と、メフィルの視線が交わる。
「あなたは……とり?」
魔術師は目を細めた。
「賢い子だ。大切にしてあげてください」
「言われるまでもない」
今はまだ幼さが残るが、メフィルは完璧な貴公子になれる。しなやかな背、髭のない麗しい細面、美しい所作、新しい時代を生きる完璧な男に。息子が生まれていたら、きっとそうしてやったように。
ニコライの熾火のような眼に、魔術師は気遣わしげに目を伏せた。
「もう一つ。憑神は主人の命令に逆らえません。かける言葉にはお気をつけを。
憑神になって最初に降された命令は《起呪》と呼ばれ、憑神の魂を縛る楔になっています。これに反する命令を降すことは、憑神の心身を二つに裂くにも等しい行為です」
「わかった」
頷いて、ニコライは思い返した。
あの夜。メフィルに告げた願い。
『また、私の演奏を聴いて……』
言われるまでもないと、ニコライはメフィルに視線を向けた。
小首をかしげるメフィルはあどけなさが目立ち、まだまだ躾をしなくてはと思うと気が重かった。
「起きんか! メフィル!!」
落雷のような叱責が中庭に響いた。剣を落として地面に転がったメフィルが、肩で息をしながら立ち上がる。
その喉元に杖を突きつけて、酷薄にニコライは告げた。
「戦場ならもう死んでいる。グズグズするな」
「もうし、わけ、ありませっ……」
剣を拾おうとしたメフィルが、指に力が入らず「クソッ」と呻いた。
途端にニコライの眦が吊り上がる。
「メフィル!!」
「ごめんなさいっ」
「メフィル!!!」
再度の叱責。怯えて俯いたメフィルを許さず、ニコライは杖で顎を持ち上げさせた。
「今、なんと言った? メフィル」
「申し訳ありません、ご主人様」
「言葉は品性を形作る。汚い言葉はお前の品性を損なう。
お前は奴隷ではない。お前は獣ではない。お前は」
何なのか。
言葉に詰まり、ニコライは息を吐いた。頭が冷える。
汗ばみ、白い顔を土気色にしているメフィルを見遣って、もう一度息を吐いた。
「今日はここまで。手当てして、体を休めなさい」
「はい」
頷くメフィルを背に、部屋に戻る。剣の稽古はニコライが手ずから務めたが、まだ未熟なメフィル相手では足を動かす必要もなかった。
銃火器が戦場の主役となっていく昨今では、剣技はさほど重要ではないが、護身としては役に立つ。
格闘術も覚えさせないといけない。もちろん銃の扱いも。狩りに連れていくのがいいだろう。それから……
「城主様の道楽に付き合わされて、気の毒に」
潜めた声を耳が拾った。
メフィルを得て授かった聴覚は、音楽以外の音を拾うのも、以前よりも鋭くなっている。
「こんな孤島で剣を習って、何になるんだか」
「宮廷にでも行かせるつもりかね。左遷された分際で」
「別にいいだろ。癇癪に巻き込まれなくなって万々歳だ」
どれも聞く価値がないと、ニコライは歩みを再開した。
メフィルを立派に育てる。私の知るすべてを教える。
ただそれだけを胸に、ニコライは日々を過ごした。
* * *
上流階級の証であり社交界で必須のフランス語。欧州諸国の知識人の間で共通語として使われるラテン語。少なくともこの二つは外せない。
発音を教え込む。悠長に、自然と、高貴に、徹底的に。
「ァ……ルィガトウ、グォザマ、っス!!」
間違えたら鞭を振り下ろす。痛みで忘れないように。
「もう一度、最初からだ。メフィル」
「ハイ、ご主人サマ……」
終わったら手当てをする。丁寧に。怪しまれないように。
魔術師の忠告を思い出す。
『お気をつけくださいね。憑神は命じれば傷の治りも早くなります。それで教会に勘づかれるやも……』
ピョートルの改革で教会の力は衰えているが、だからこそ手柄を求めてくるかもしれない。それに、教会と対立してピョートルにメフィルのことを知られるのも危険だった。
それでも躾に手は抜けない。教えなければ。早く。立派に育て上げなければ。
何より大切なのは……
* * *
輝く黄金のような音の粒に、小川のせせらぎを思わせる旋律が寄り添う。
ヴァイオリンを構えたメフィルが嬉しげに弓を引くのを、ニコライは最後まで止めずに鍵盤を奏でた。
遠ざかる音の粒を、控えめなビブラートが追いかけて、合奏が終わる。
「スバラシイ、演奏でした。ご主人様」
フランス語の発音は少し怪しかったが、今だけは大目に見てやることにして、ニコライは頷いた。
「お前も良い演奏だった。やはり、お前には……」
『音楽の才能がございます!』
懐かしい声を思い出して、ニコライはギクリと体を強張らせた。
「ご主人様?」
「……なんでもない。
お前は耳が良いな。上達が早い」
「ありがとうございます。ご主人様の、お陰です」
頬を染めるメフィルは素直すぎて心配になる。表情を御する方法も教えたほうがいいだろう。顔色を自在に変えるまで行かなくとも、無表情に徹するだけで格段に心を読まれなくなる。
それを命じるのは明日にして、ニコライは尋ねた。
「演奏は好きか?」
「はい。ご主人様の音が、前よりわかります」
頷く。言葉はまだ拙いが、やはり、メフィルは賢い。演奏を通じて、より深く音楽を理解している。
「そうだ。私の楽器も弾いてみるか?
一般的な楽器ではないが、音階がはっきりしていて、ヴァイオリンとは異なる表現ができる。より音感が研ぎ澄まされるだろう」
「よろしいのですか? ぜひ!」
声を弾ませて、メフィルが隣に座る。愛おしく思いながら、ニコライはメフィルの手を取り、鍵盤の上で指を踊らせてやった。
音楽の時間には、叱責も鞭の音もない。そんなものがなくともメフィルの覚えは良いし、ニコライもこの時間は強く己を戒めていた。
もう二度と。お前を失ってなるものか。もう二度と、あんな失敗はしない。決して。
『わたくしを死なせた反省はできなかったのにね?』
「ご主人様?」
メフィルの気遣わしげな声に、ニコライは我に返った。冷や汗が滲み出る。
耳が良くなったから。最近、よく声を思い出す。
懐かしい声。もう聴くことはない、記憶から薄れゆくばかりだった声を。
「……なんでもない。今、なんと言った? メフィル」
「あの、今日、漁師殿の、マダムに話を伺って……」
下人にも丁寧すぎる呼称をするのは正直いただけなかったが、コウモリのメフィルに区別は付きづらいのだろう。
そのうち学ぶのを願って、ニコライは続きに耳を傾けた。
「ご主人様の奥様は」
「その話はするな」
強引に話を打ち切って、ニコライは目を背けた。
「これは命令だ」
「……はい」
メフィルが従順に頷く音に安堵したが、そちらを見る勇気は持てなかった。音楽の時間でなかったら、癇癪を起こしていたかもしれない。
声が聞こえる。懐かしい声が。もう二度と聞くことはない、妻の声が。
『あなたの、どこが変わったと仰るの?』
嘲りに耳を塞ぐように、ニコライはメフィルへのレッスンを再開した。
* * *
『お気をつけを。権能や呪いとは別に、神憑きはこの世ならざるものを知覚しやすくなります。
憑神との繋がりで、幽世の霊に気づきやすくなるのですよ』
魔術師が残していった忠告の一つをニコライは思い出したが、時折聴こえる声が、妻の怨念か自分の幻聴かは判別できなかった。
この城は罪人の流刑地になったことも、反逆者の拠点になったこともある。血生臭い怨霊なら、壁の奥にいくらでも染み付いているだろうに、他の声は聴こえない。聴こえるのは、決まって……
『見て、あなた!』
弾んだ声に誘われるように、ニコライは椅子から立ち上がり、木窓をそっと開くと、下を見遣った。
下女の荷運びを手伝ってやっていたメフィルが、女たちに囲まれている。
「ほら坊ちゃん。上手に結えたでしょう?」
「ほんと、ふわふわな髪だねぇ。油は何を使ってんだい?」
「手入れはしてる? 毎日? 櫛は??」
「あの、まず、わたしは坊ちゃんでは……」
「なぁに言ってんだい。城主様の隠し子なんだろ?」
「えっ、寵童じゃないの?」
「馬鹿っ!!」
ニコライの眉間が深くなったが、窓から叱責する前に他の女が口の軽い娘を叱った。メフィルが首を傾げる。
「あの、寵童? とは?」
「あはは、いいのいいの、悪い言葉だから気にしないで。城主様に叱られちゃう」
「でも、ほんとに可愛がられてるよねぇ。色々教わってさ」
色々あったが、メフィルは城内の人間から好かれていた。寵愛を妬むにはニコライの教育は苛烈で、メフィルは島から出ることがなく、上にも下にも親切で、苦にせず仕事を手伝ってやっていた。
ニコライが嫌悪されるのと反比例するように、メフィルは頼りにされるようになった。見るも忌まわしい城主との橋渡しとして、便利に使われているというのもあるのだろうが。
「島から出たいって思ったことはないの?」
聴こえてきた女の問いに、ニコライは息を止めた。
「それ思った! メフィルさんならどこでも行けるよね。腕っぷしは強いし、字が読めて、色んな言葉も話せて、地図だって読めるんだろ?」
「そうそう。こんな最果ての島で一生を終えるなんてもったいないよ」
女たちの言葉に、ニコライは言い返せなかった。自分でメフィルを育て上げておきながら。そんな想像はしていなかった。
メフィルがいなくなる。この島から。城から。自分の元から。
メフィルが答える。迷いなく。キッパリと。
「いいえ。ご主人様の演奏を聴くのが、わたしの喜びですから」
どっと止めていた息を吐き出して、ニコライは窓から離れ、椅子に腰を下ろした。安堵に力が抜けて、ぐったりと天井を仰ぐ。
じわじわと、喜びが込み上げる。外の世界よりも、何よりも、メフィルが、ニコライの演奏を選んでくれた。それが嬉しくて。
『おめでとう、あなた』
不安だった。
息を漏らす。どうして。胸が苦しい。
嬉しいのに。こんなにも嬉しいのに。積年の夢が叶った喜びで、身が打ち震えているのに、薄氷の上でひび割れる湖面を眺めているように、不安が消えない。
身を揺すって、寒さを振るい落とす。目を瞑り、耳を塞ぎ、幸福に酔いしれて、ニコライは恐怖に蓋をした。
そうして日々は過ぎて行った。
1742年 春
雷の落ちたような音に、ニコライは目を開いた。
今のは銃声だ。体の軋みを無視して上体を起こす。耳を澄ませると、城は平穏そのもので、動乱の予兆はなかった。
緊張を解いて、ベッドに横たわる。ゆったりと体を休めていると、ノックの音がして、扉が開いた。
「ご主人様? お目覚めでしたか」
「ああ……銃声でな。あれは狩りか?」
「申し訳ありません。見事なヘラジカがいたものですから」
恐縮したふうなメフィルに、ニコライは微笑をこぼした。
「構わん。仕留めたのだろう? 良い春の祝いになる。城の者も喜んだろう」
「はい」
控えめに、しかし確固とした自信を持って胸を張ったメフィルを、ニコライは惚れ惚れと眺めた。
立派になった。人の体に慣れていなかった所作は洗練され、無防備だった表情は落ち着いた揺るぎない微笑で鎧われた。言葉は流麗で気品に富み、城主の近習として非の打ち所がなく、宮廷に出仕しても脚光を浴びると確信できた。
自分が自然とそう思ったのに、ニコライは驚いた。窓を開け放つような心地で尋ねる。
「メフィル。私に仕えて何年になる?」
「来年で二十年になります」
もうそんなになるのか、とニコライは振り返り、だからか、と納得した。
メフィルと契約してもうじき二十年。この世に生を受けて七十年。歩くのに杖が手放せなくなり、口にできる食事が減り、寝ている時間が増えた。演奏は、まだ続けられているが……
別れの準備をしなければいけない時期だ。
「城内の者に、老けないのを怪しまれていないか?」
「それは……大丈夫です。皆さん、元々が老けていたのだろうと思われているようで」
それは楽観的すぎるし、メフィルもわかっているだろうとニコライは苦く息をこぼした。
本当は、自分が気にかけねばいけないことだった。美容に気を使い化粧をしている者も多い宮廷ならともかく、苦労が如実に肌に刻まれる寒々しい孤島で、いつまでも若々しい男は目立ちすぎる。
「そろそろ、お前を外に出す算段を立てないとな」
「そんな。ご主人様、ずっとお傍にいさせてください」
「こら。嬉しいが、遅いくらいだぞ。私が死んでもこの城にいるつもりか?」
「はい」
軽口のつもりだった揶揄に、メフィルが当然のように頷くのを聞いて、ニコライは凍りついた。
「ご主人様の演奏を聴くことが、わたしの喜びです。
ご主人様がお亡くなりになれば……ご主人様の聴かせてくださった音楽を偲びながら、この世との縁が消え果てるそのときまで、ご主人様の墓を守らせていただければと願っております」
メフィルが何を言っているのか。何を願っているのか。
理解が頭に染み渡り、次いで、湧き出てきた溺れるような幸福と、それに倍する羞恥が、ニコライから言葉を奪った。
拍手が聴こえる。満面の笑顔の妻が、ニコライを祝福している。
『おめでとう、あなた!
お望み通りの人形が手に入ったわね!』
「違う、私は……」
『何が違うの? ずっと願っていたんでしょう?
ヨーロッパの音楽なんて聴かないでほしい。自分の演奏が、世界で一番素晴らしいと思っていてほしいって』
耳を塞ぐ。目を瞑る。
妻の声が、笑みが、脳裏に響き続ける。
『ずっと城にいてほしい。島から出ないでほしい。広い世界なんて知らなくていい。永遠に、自分だけの憑神でいてほしい。
だってあなたは、正式に音楽の教育を受けたわけでもない、特別に才能があるわけでもない、古臭い楽譜しか知らない、陰気で、根暗な、見窄らしい老人にすぎないものね?』
喉が潰れる。胸が潰れる。凍りついた心臓を、妻の言葉が滅多刺しにする。
『外の世界に、あなたより素晴らしい人はたくさんいる。あなたの演奏より素晴らしい音楽が、いくらでもある。外の世界を知られたら、あなたはすぐに特別じゃなくなる。
ずっとそう怯えていたんでしょう? だからわたくしのときも、あんなに取り乱したのよね』
妻がピョートルとベッドで絡み合っているのを見つけたとき。やっぱりこうなったと思った。女はみんな、自分ではなくピョートルに惹かれる。いつものように。
新都に招かれたヨーロッパの楽団の演奏を耳にしたら、妻はきっと、夫の演奏に飽き果てていた。そうなるとわかっていた。だから。
『だからわたくしを殺したの?』
違う。それでも離れてほしくなくて、手を伸ばした。あれは事故だった。
『だからメフィルを殺したの?』
違う。お前もいなくなると思ったら、怖くて。当てるつもりなんかなかった。当たると思わなかった。あれは、
『だから、メフィルを殺すのね。あなただけのものにするために』
違う。私の持てるものすべてを与えたかった。そうすれば、ずっと覚えていてもらえると、それだけで。
『嘘つき、嘘つき、嘘つき!
あなたって本当に、嫉妬深くて欲深で、ムッツリ助平の見栄っ張り。愛情を独り占めにして貪るくせに、人を愛するのは怠けて、中でも最悪なのは怒りん坊なところよ、あなた。
本当は覚えているんでしょう?』
声が聴こえる。自分の声。
メフィルが憑神になった夜。メフィルを呼び戻した願い。
『すまない……また、私の演奏を聴いて……』
それがメフィルを憑神にした願いであればと思った。それならずっと、演奏を聴いてもらえる。
その後の言葉は忘れたかった。無かったことにしたかった。
だって、あの願いがメフィルを縛る起呪なら。永遠の呪いなら。もしそうだったなら──
『私を、見捨てないでくれ』
ニコライが生きている限り、死した後も、メフィルがこの城から自由になることは、決してない。
その恐怖が、紛れもなく甘美な響きをしていることに、ニコライは今度こそ、己の浅ましさに絶望した。
* * *
雨粒のような音に、ニコライは目を開いた。悪夢の名残りで全身が汗ばみ、節々が痛んでいる。
息が苦しい。じっと横たわっていたかったが、窓を叩く硬い音は止む気配を見せず、仕方なくニコライはベッドから身を起こし、のろのろと立ち上がった。
そっと木窓を開く。朝陽と冷たい風が眩しく目を細めると、窓枠にいた銀灰色に輝く羽の鳥と目が合った。
カッコウだ。もうそんな季節かと春を想っていると、するりと部屋に入ったカッコウが羽を広げ、懐かしい魔術師に変身した。
「お前は」
「お久しぶりです、ニコライ殿。
いやぁ、ちょっとまずいことになりました」
困ったふうに頬をかく魔術師は、二十年の時を経ても、ちっとも老けていなかった。