回想:1710年
暗闇の横たわる、広々とした白い部屋。薄明かりをこぼすガラス窓を背に、ポツンとチェンバロが──チェンバロに似ているが、別物の楽器が置かれていた。
チェンバロと違って一列に並んだ鍵盤。足元には踏み板。全体の形が似通っているだけに、細かな差異が気にかかる。
「これはGravicembalo col piano e forte。少し前にイタリアで発明された、これから先の音楽を代表することになる楽器です。
まだ数が少なく、この期を逃せば我らが帝国にもたらされるのは百年は後のことになると申し上げたのですが、皇帝陛下はあなたへの詫びに贈ると仰って耳を貸さず……
どうぞお受け取りください」
恩着せがましく頭を下げた魔術師に、ニコライは蔑みを返した。
「アイツに詫びなんて感情があるとはな」
「もちろん、陛下は情け深い御方です。ご存知でしょう?」
知っている。ピョートルは情け深い。巷では魔王だなんだと畏れられているが、実際には臆病で、見栄っ張りで、好奇心が強く、珍品に目がなく、女にも弱い……
「!!!!」
力任せに、ニコライは鍵盤を叩いた。輝く音階が白い壁に反響し、天井の薄闇を撫でて降ってくる。
その一音で、ニコライは悟った。この楽器はチェンバロとはまるで違う。優しげに弦を奏でるチェンバロにはない、弦を叩く重厚な力強さ。
「なんだ、これは」
「まだこの国にはない、世界のどこにもない、百年先の未来の楽器です。
どうか大切にしてくださいね」
魔術師の言葉に反感を覚えなかったわけではないが、ニコライは頷いた。手が、滑らかな木目に触れる。
女体のように優美な曲線。黒壇の黒と象牙の白が規則正しく配置され、強く押せば大きく、小さく押せばかすかな音色を返す鍵盤。チェンバロにはない、音の響きを調整する踏み板。
皇帝が彼の忠誠と友情を裏切った詫びに寄越した、まだこの世のどこにもない──この国に訪れるのは、後世の歴史によると百年は先の──未来の楽器、ピアノ。
その名を知る由もなく、ニコライは椅子に座り、鍵盤に向き合った。
わかることは一つだけ。この楽器の音は──妻が求めていた音色だ。
両手を叩きつける。妻が褒め讃えた長い指が荒々しく鍵盤を踊る。煮えたぎる憤怒が、孤独な旋律となって城に響く。
憎い。主君が憎い。長年の友情を出来心で踏み躙ったピョートルが憎い。永遠の宝として差し出した忠誠を塵紙のように穢して、悪びれなく赦しを乞うてくるあの男が憎い。
憎い。笑っていた戦友たちが憎い。ニコライがどれだけ妻を愛していたか知っていながら、名誉なことじゃないかと宥めてきた、主君を諌めもしない佞臣どもが憎い。
憎い。ピョートルを罰しない神が憎い。ああも瀆神に背教を重ねる男を、何故ロシアにおける代行者として野放しにするのか。早逝すべきは兄王でなくピョートルであるべきだった。
憎い。あんな男を信じて仕えて守ってきた自分が。自分を裏切った妻が──
『わたくしはあなたを裏切ってなどおりません! どうして信じてくださらないの?』
「!!!!」
追憶を断ち切るように、鍵盤を雷鳴の如く轟かせて……
* * *
ニコライは夢想から覚めた。汗ばんだ顔を撫でつけて、随分と額が広くなったことを実感する。シワの浮き出た手。顎に蓄えた髭は白く、演奏の興奮から冷めてきた体がズキズキと痛みを訴えている。
広々とした部屋に、独り。鍵盤を撫でる。この城と楽器を贈られてからどれだけの月日が流れたのか。もう十年は過ぎたと思うが、数えてはいない。
聴衆はなく、潮騒だけがニコライに寄り添っていた。いや……
月明かりを部屋にこぼす、この城で唯一の、波紋の揺らめく分厚い窓ガラスに、逆しまにこちらを見る影があった。
「おまえ、また来ていたのか」
窓にぶら下がっているのは、随分と大きい──背丈が猫くらいはあるコウモリだった。従僕や修道士たちは悪魔の化身だと怯えていたが、睨めつけるような目が自分に似ている気がして、ニコライは恐れも嫌悪も抱かなかった。
殺さず放っておくよう命じて……それだけだったのだが。何故かしばしば姿を見せるコウモリを、ニコライは奇異に感じていた。
餌をやったこともないのに、こうして鍵盤を奏でていると、いつの間にか窓辺にいて……
「おまえまさか、私の演奏を聴いているのか?」
特別上手いわけではない。妻に長い指を褒められて、ねだられて覚えただけ。
妻を失い、この城に来てから、誰にも求められていないのに、ずっと手慰みに弾いてきた、それだけの。
「……」
今日の演奏は終わったと判じたのか、コウモリは羽ばたいて姿を消した。
どこに消えたのか。あのコウモリが普段どこで何をしているのか、ニコライは知らない。
どことなく据わりの悪さを感じながら、ニコライは鍵盤の蓋を下ろし、部屋を後にした。
1723年 夏
「ああ。それはきっと、陛下に献上するはずだったコウモリですね」
久方ぶりに城を訪ねてきた魔術師の言で、コウモリの正体は判明した。
「そんなに珍しい獣なのか?」
「そこまでは。南の国ならわんさかとおりますよ。でもこの国には全然ですねぇ。
ほら、翼が薄くて大きいでしょう? あれじゃ寒風に耐えられなくて、冬を越せませんよ」
そう言われて、ギクリとする。今は夏。冬には海が白く凍てつくこの島も、束の間の緑を咲かせている。
だが。冬になれば、あのコウモリは。
「……実は、ここに来たのはあのコウモリを回収するためだったんです。
正確には、沈んだ船に乗っていた献上品を、ですけどね。回収できそうなのはあの子くらいだったんですが、やめておきましょう」
「何故だ?」
「あの楽器に、ガラス窓。あなたへの詫びがもう一品増えたくらいで、陛下は怒りませんよ」
「これ、お土産です」と、魔術師は重たげなガラスの杯を置いた。濁りの少ない良質なガラスで、底に向かって窄まり、胴体は円に近い多角形になって景色を歪ませている。
「陛下が気に入って帝室御用達にした杯です。ここでは外の品は中々手に入らないでしょう?」
「構わん。どうせ朽ちていく身だ」
「ご隠居のようなことを仰るわりには、お髭は剃らないんですね」
鼻を鳴らす。ヨーロッパかぶれのピョートルは、ロシア中の男に髭を剃らせようと髭税なんてものを課してきたが、そんなくだらない命令に屈して髭を剃るのは業腹だ。どうせ金には困っていないし、楽器の調律の他に私的な使い道もない。
「良いと思います。似合ってますよ」
「貴様は誰の味方だ」
「もちろん、私は陛下の鳥。
歴史に細波を起こすため、今日も健気に羽ばたく、憐れな歌鳥ですとも」
そう笑って、魔術師は帰って行った。
この絶海の孤島に来るのは一苦労だったろうに、まるで、少し羽を伸ばしにきただけだとでも言うように。
* * *
『そう、その調子! やっぱり、閣下には音楽の才能がございますわ』
お前が煽てるから、その気になってしまった。
『ほら。殴ったり怒鳴ったりするより、鍵盤を叩くほうがずっと心が軽くなりませんこと?』
お前が喜んでくれるなら、それで良かった。
『チェンバロの音色は閣下には優しすぎるかもしれませんね。もっと力強く響く楽器が、どこかにないかしら。
でも、閣下の大きな手には鍵盤がぴったり。ねぇ、もっと弾いてくださいませんか?』
お前が願うなら、いくらでも。憂さ晴らしなんかじゃなくたって、いつだって。
お前が傍にいてくれるなら。
『どうして信じてくださらないの?』
鍵盤を雷鳴のように轟かせて、演奏は終わった。
いつものこと。
だが、ニコライが荒く息を吐きながら顔を上げると、ガラス窓の向こうに、コウモリがいた。
「……」
何があったわけでもない。いつもの夜だった。
だがニコライは、何も言わず、もう一曲弾き始めた。
今度は静かに。荒々しい怒りを宥めるように。潮騒と溶け合うように。
この冷えた、寒々しい世界に寄り添うように、音色を輝かせて。
「……」
コウモリは外の窓辺にいた。
窓に近づこうとはせず、ただずっと、ニコライが演奏を終えるまで、暗闇に佇んでいた。
鍵盤を叩く時間が増えた。
元より演奏はニコライの鬱憤を晴らす日課だったが、その音色が変わり始めた。がなり立てるような割れた音が、朗々とした雄叫びに。急き立てるような音の連なりが、足早な拍子に。
暴力を振るわれるよりはマシと思いながら辟易としていた使用人たちも、この変化は歓迎していた。
「そのうちミサで弾きたがるんじゃないのか?」
「修道士様に怒られるぞ。蝙蝠城主が弾いたら黒ミサになるだろ」
「でも、礼拝堂のオルガンより良い音だよな。夜中に城中響く音で演奏されんのは勘弁だけど」
不敬な軽口は、以前にはなかった親しみを帯びていた。
当のニコライはといえば、自分の変化には無頓着だった。
彼が気にしているのは、演奏をしているとひっそりと窓辺に現れるコウモリだけ。物言わぬ獣が、自分の演奏の何をそんなに気に入っているのか、わかるはずもなかったが。
演奏を終えて、鍵盤から指を離しても、しばらくの間、コウモリは窓辺に佇むようになった。
歪んだガラス越しに目が合う。自分と同じ、睨め上げるような、拗ねた、暗い眼差し。
「お前も、世を呪っているのか?」
コウモリは返事をしない。できるはずもない。
だが、交わる視線が、心を通わせた気がして。
『いいわ。そうやって、永遠に、誰も信じられないでいればいい!!』
恐ろしくて。
「お前も……いつか私を嫌い、見限って去っていくのだろう!?」
ニコライは怒鳴り、手元にあったペンを投げつけた。ガラスに当たり、無力に跳ね返る。
罵声にも騒音にもコウモリは動じず、小首を傾げると、羽ばたいて去っていった。
ニコライは荒い息を吐き、頭を抱え、後悔に苛まれた。自分で追い払うような真似をしておきながら、来てくれなくなったらどうしようと、不安にうずくまった。
だがコウモリは、次の夜も何事もなかったかのように現れた。
ニコライも、何事もなかったかのように演奏を続けた。
そうして夜を重ねながら、短い夏はあっという間に過ぎ去ろうとしていた。
* * *
魔術師曰く、あのコウモリは冬眠できない。そんな必要がない、もっと暖かい土地の動物だからだ。
だからあのコウモリが冬を越すには、南下するか、ニコライの城に匿うしかない。
それを知りながら、ニコライは窓を開ける勇気が持てなかった。
「わかっているぞ。冬を越すために、私に媚びようとしているのだな!?」
怒鳴りながら窓に毛布を投げつける。言いがかりだ。わかっている。その気になればいくらでも忍び込めるだろうに、この大コウモリは城内に入って来ない。
つまり、その気がないのではないか。私が窓を開けても。コウモリは入って来ないのではないか?
「城主様も飼ってやればいいのに。あいつ、あのままじゃ凍え死んじまうぞ」
うるさい。そんなことはわかっている。
「所詮お貴族様さ。獣畜生を城に招くなんて御免なんだろ」
うるさい。お前たちに私の何がわかる。
「ちょっとやめてよね。コウモリなんて気色悪い。病気を感染されたらどうするの」
うるさい。うるさい。うるさい。
鬱憤をニコライは奏でた。強く。激しく。怒鳴るように。泣き叫ぶように。
拒絶される不安と恐怖を掻き消すように。窓越しに見守るコウモリに向かって、音を鳴らし続けた。
その夜は、島に嵐が近づいていた。
朝から風が唸り、木々が揺れていた。家畜は小屋に逃がされ、窓には格子が降ろされ、人が屋内に逃げ込んだ頃、横殴りに雨が降り始めた。
静まり返った城で、激しさを増す雨音とかすかな雷鳴を聞きながら、ニコライは酒を飲んでいた。
魔術師の持ってきた、ピョートルのお気に入りだというガラスの杯になみなみと蒸留酒を注いで、薄めずに一気に飲み干す。喉を焼く酒精が胃の腑を燃え上がらせ、頭を痺れさせると、束の間恐怖を追い払った。
格子を下ろしたガラス窓を見る。朝から待っていたが、何の影もなく、渦巻く灰色と歪んだ雨粒だけが映っている。
手遅れかもしれないという不安が、ずっと腰を椅子に張り付かせていたが。空になった杯を小机に置くと、ニコライは立ち上がって窓へ駆け寄った。指が震えたが、構わずガラス窓を開け、格子を上げる。
風に煽られ、雨粒がニコライの頬を打った。夏の雨は冷たいが、骨に凍みるほどではない。今はまだ。間に合うはずだ。
目を凝らしたが、轟々と木々を揺らす風と黒雲から降り頻る雨が織りなす闇に、コウモリの姿は見当たらなかった。雷が空を走り、一瞬世界を白く染め上げる。大気を打ち鳴らす雷鳴が、ビリビリと酒精に燃える腹を叩いた。
ニコライは鍵盤に戻り、椅子に腰を下ろすと、最初の一音を奏でた。
語りかけるように、堂々と。震えていた指が胸を張る。
怯懦を忘れた旋律が、豪雨と雷鳴に音を合わせる。
ここに来てくれ。鍵盤でニコライは歌った。
私の傍にいてくれ。ありのままの想いを、赤裸々に。
お前がいないとダメなんだ。隠していた恥も余さず。
この城で、共に冬を越してくれ。切実な願いを投げかけて。
譜面から顔を上げると、窓からコウモリが逆しまに顔を覗かせていた。
固唾を飲んで見守る。大コウモリは部屋に鼻先を入れて、クンクンと空気を嗅ぐ仕草をすると、するりと絨毯に飛び降りて、プルプルと震えて毛先から水を弾き飛ばした。
翼を広げる。飛んでいる姿は前にも見かけたことがあったが、間近で見ると、本当に大きい。胴は猫くらいだが、翼は……ピョートルに匹敵するかもしれない。
「お前は──」
思わず呼びかけて、顔を上げたコウモリと、目が合った。
初めて、揺らめくガラス越しにではなく、その姿を見る。その、暗い──暗いと思っていた眼差しを、かすかな月明かりではなく、蜜蝋の灯火の下に見つける。
意外なほどつぶらな、澄んだ瞳。妻と同じ。憂いを帯びた眼差し。妻と同じ。私を、慈しむような。
『わかっているよ。ピョートルは美男子で、おまけにこの国の君主だ。私なんか比較にもならない。
わかっている。だから、せめて認めてくれ』
『わたくしはあなたを裏切ってなどおりません! どうして信じてくださらないの?』
私を、憐れむような。
『いいわ。そうやって、永遠に、誰も信じられないでいればいい!!』
私を、見捨てる眼──
「馬鹿にしているのか?」
身を焼く怒りのままに、ニコライはペンを投げつけた。虚空を通り過ぎたペンが壁にぶつかって転がって来るのを、目障りだと踏み潰す。
恥ずかしい。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。床を踏み鳴らし、頭を掻きむしる。
このコウモリは、自分と同じように、世を呪う者だと思っていた。自分の演奏に聞き惚れているのかと。
違った。憐れまれていた。妻のように。才能があるだのもっと聴きたいだの煽てて、その実、癇癪をいなしたかっただけの、妻のように。コウモリ風情に見下されていた!
「ふざけるな!!」
投げつけた毛布をコウモリは避けようともせず、実際当たりもせず虚空ではためいてニコライの頭上に落ちた。
恥の上塗りに怒りが燃え盛る。赦さない。赦さない赦さない赦さない。吠えながらめちゃくちゃに虚空を掻きむしる。
コウモリは逃げない。憐れむようにこちらを見ている。妻のように。妻のように。妻のように!
あの、私を裏切った毒婦のように──
ニコライの妻は、ピョートルの改革に賛同する貴族の娘だった。ピョートルの幼馴染みで戦友とはいえ、貴族の生まれでもない一介の軍人の自分には、過ぎた姫君だった。
『そんなこと仰らないで。陛下は能力のある人なら誰でも出世できるようにとお考えではないですか。
雷将と謳われた閣下がわたくしのような小娘に引け目を感じるなんて、おかしいですわ』
『それは私がピョートルに言われて銃兵の残党を率いることになったからで……
あなたは何故、私との結婚に賛同されたのですか? 御父上が、娘も乗り気だと仰っていましたが』
『あら。だってお父様ったら、西欧の音楽家に嫁ぐのは絶対にダメだと仰るのですもの。わたくしは音楽に囲まれて暮らしたいのに』
音楽のことなど、ニコライもまるで知らなかった。ピョートルは西欧から楽団を招き、熱心に演奏会や歌劇を開催しているが、いつものヨーロッパかぶれだろうと聞き流していた。
でも妻は、ニコライの手を指さして。
『閣下の指は長くて、手が広いでしょう?
ですからきっと、楽器を奏でる才能があると思いましたの』
そう、碧い瞳を煌めかせたから。
なら、試しに弾いてみようかと、ニコライは思ったのだ。単純にも、愚かに。
不安になると癇癪を起こすニコライの悪癖にも、妻は物怖じしなかった。怒鳴るより楽器を弾くほうがいいと言って。それに従う内に、ニコライの悪癖も鳴りを潜めていった。
──あの日までは。
* * *
建造中の港サンクトペテルブルクに帝都を移すというピョートルの無茶振りに、ロシア中が忙しなかった頃だ。
『あら、わたくしは楽しみですわ。陛下が新帝都にヨーロッパの楽団を招いてくださるのですもの!』
妻の無邪気な言葉に苦笑した。土台の安定しない沼地を港にするため、ロシア中の財と労働者が集められている。過酷な苦役に命を落とした人間は既に万を超え、戦争よりも民を死なせていると批判が噴き出ているが、ピョートルはどこ吹く風だ。
『妬けるな。私の演奏では満足できないのか?』
『閣下の演奏は好きですわ。だからたくさん聴き比べたいんですの』
そんな現実を聞かせたくなくて叩いた軽口は、あっさりいなされた。それで自分が本気で嫉妬しているのに気づいたが、幼稚なのを自覚して抑え込んだ。
そのときは、そうできた。
宮廷に出仕したときだ。もう思い出せないが、何か用があって、ニコライはピョートルを探していた。
空き部屋から声がした。いつものように女を引っ張り込んでいるのだろう。そう呆れて、断りもせず踏み入った。
『あなた……』
ドレスのはだけた妻と、ズボンを脱いだピョートルが、ベッドで絡み合っていた。
* * *
よくあることだった。珍味好きのピョートルは、臣下の妻や愛人を好んで味見する。一番のお気に入りのマルタ──後にエカチェリーナと名を改めて皇后となった──も、元はそうやって捧げられた、臣下の愛人だった。
皇帝に妻を賞味されるのは名誉なことだと喜ぶ者もいた。ピョートルの馬鹿力で殴られて、愛の鞭だと喜ぶように。実際間違ってはいない。本気でピョートルを怒らせたら、待つのは拳ではなく処刑台だ。
だが自分は同意していない。妻を寝取られて喜ぶ趣味もない。絶対に。
『わたくしはあなたを裏切ってなどおりません! どうして信じてくださらないの?』
『じゃあどうしてピョートルとベッドにいたんだ?』
『部屋に引っ張り込まれて、押し倒されたのですわ。逆らえるはずも、拒めるはずもありませんでした。
でも、お願いしました。どうか閣下への貞節を守らせてほしいと。そこにあなたが来てくださったのです。
助けに来てくださったと信じてましたのに、まさか不貞をお疑いだなんて』
ピョートルもあれが最初で、未遂だと言っていたが、とても信じられなかった。あの暴君が臣下に遠慮するなんてありえない。
どんなに問い詰めても、妻は泣きながら無実を訴えていた。それでも信じられなかった。
それでも、赦したくて。言ったのだ。
『わかっているよ。ピョートルは美男子で、おまけにこの国の君主だ。私なんか比較にもならない。
わかっている。だから、せめて認めてくれ』
妻は、目を吊り上げて。
『いいわ。そうやって、永遠に、誰も信じられないでいればいい!!』
背を向けて。
私は。
『待ってくれ!!』
伸ばした手が、妻を階段から突き飛ばした。
* * *
声がする。医者の声が。
『奥様は、ご懐妊しておられました』
自分の声がする。ピョートルの子か?
『いいえ。陛下のお手つきがあったとされる日では、胎児の計算が』
『陛下が都にいなかった時期』
『間違いなく閣下の子です』
『奥様はあの日、閣下に伝えに、宮廷へ』
医者の声がする。
『男の子でした』
ガラスが割れる音が。
(……ガラス?)
足元にまで散らばったガラスの破片を踏みそうになり、ニコライは我に返った。
怒り狂って暴れ回り怒鳴り散らした後の、覚えのある虚脱感が体を重くしていた。額が汗ばみ、萎んだ肺が息苦しい。手足が鉛のようで、今すぐ膝を突いて、寝転んでしまいたい。
辛うじて踏みとどまり、息を整え、ニコライは部屋を見渡した。
あちこちに叩きつけた物が散乱して、倒れた燭台が窓から吹き込む雨に打たれていた。毛布に燃え移る前に火が消えたようでホッとする。
暗闇に慣れた目によると、楽器は狂乱の最中にあっても避けたらしく無事だが、床はいくらかひび割れ、砕け散ったガラスの破片が、水晶のように光を集めて輝いていた。
その傍らに、あのコウモリがいた。
頭から血を流して。
弱々しい呼吸で。
「……ちがう」
何が違うと言うのか。
疲弊した体に鞭打って、ニコライはコウモリに近づいた。毛皮の室内履きの下で、ガラスの破片がパキパキと鳴る。
しなびた翼の中心にある、小さな体を抱きかかえる。雨に濡れた体。血の臭いがする。温かい、湿った感触。
腕の中で弱まっていく呼吸を繰り返しながら、コウモリはニコライを見た。
あの、憐れむような……妻に似た、慈しみに満ちた目で。
「違うんだ」
何が違うと言うのか。
ニコライは首を横に振った。
「聞いてくれ。名前を考えたんだ、お前の。
城に入ってくれたら、呼ぼうと」
何を言っているのか。
首を横に振る。現実は何も変わらない。
自分で殺しておきながら、その亡骸に追い縋る。あの日、妻の亡骸に縋ったように。
「すまない。すまない。すまない……」
バラバラになった言葉を繰り返す。
コウモリを抱きしめる。ガラスの杯が当たってしまった額の傷口に、手を当てる。温かい感触が冷えていく。
血が止まらない。
弱まっていく呼吸。
力の抜ける体。
光の薄れる目。
「待ってくれ。お願いだ、頼む」
ニコライは開け放たれた窓を仰いだ。
雨が頬を嬲る。雷鳴が轟き、雷光がニコライの罪を照らし出す。
「すまない……また、私の演奏を聴いて……」
見開いた目に、妻の背が浮かんで、心からの願いがこぼれた。
「私を、見捨てないでくれ……」
この期に及んで。祈ることがそれなのかと。
己の浅ましさに、ニコライは慟哭した。
* * *
海鳥の声がする。まばゆい朝焼けの陽射しに、ニコライは重い目蓋を開こうと身じろぎした。
嵐は去り、窓の外には澄んだ青空が広がっていた。平和な白雲に目を細めて、しばしぼうっとする。
一晩中蹲っていたせいで、関節が痛む。雨風を浴びていた手足は強張り、すっかり体が冷えていた。
夏とはいえ、北の果ての海は寒く、抱きしめている温もりがなければ凍死していたかもしれない。
毛布に包まるように腕に力を込めて、ニコライは自分が何を抱きしめていたか思い出した。
「メフィル?」
コウモリの名を呼ぶ。勝手に付けた、悪魔から取った名前。
本当は彼に相応しい名ではなかったかもしれないと、そう気づく前に呼んでしまって、ニコライは今度こそ目蓋を開けて、腕の中を見た。
そこにいたのは、柔らかな髪で、髭のないつるりとした顎の、一糸纏わぬ青年だった。血の気のない白い肌が、朝焼けを浴びて神々しく輝く。
暖かい。生きている。見覚えはない。
けれど、彼の額には傷があって。
ニコライに似た目鼻と、妻の面影のある細面は、まるで、生まれることのなかった息子のようで。
「メフィル……!」
すべての疑問を打ち捨てて、ニコライはメフィルを抱きしめた。
産声のような慟哭が、神の声を告げる雷のように、夜明けの海に轟いていた。