蛇を殺めた毒

 とても、腹が満ちていた。  月光も届かぬ山の陰に、ゴポゴポと泡立つ血がこぼれていた。口から。目から。鱗の隙間から。  この山で最も古い巨木よりも太く、満天の星々よりも輝かしく、轟音を奏でる滝よりも雄大な蛇の体が、ふやけた肉塊に変わっていく。  硬く煌びやかな自慢の鱗が、褪せて生気を失う。視界が熱を映すのをやめて、嗅覚が自分の臓物の臭いでいっぱいになる。毒に冒された血に地虫たちが逃げ出し、血の川が流れ着いた水辺で魚たちがぷかぷかと浮かんでいく。  それらすべて、蛇にはどうでも良かった。自分が死にかけていることを自覚しているかすら怪しい。  蛇の頭を満たすのは、今しがたまで己の腹を満たしていた、美しい人間のことだった。  美しい人間だった。夜闇に濡れてなお輝く黒髪は、蛇自慢の鱗と競うのを許されるほど芳しかった。  匂やかな男だった。そうだ、男だ。贄は女にしろと言っておいたのに。口にする前に気づいたのに、それがどうでも良くなるほど、美味かった。男の臭さがまるでない、熟す寸前の果実を漬け込んだ酒のような、馥郁ふくいくとした香りが蛇をくすぐった。  甘やかな肌だった。蛇の舌をなめらかに喜ばし、喉を潤した。身の内を通る息吹の匂やかさと来たら! 上機嫌で舌を鳴らして、その香りの奥にある毒に気づいてなお、蛇は贄を腹に仕舞い込んだ。  吐き出すなどとんでもない! いや、いつかは吐き出さねければならないだろうが、今ではない。まだ皮膚が剥けて血が滲んできたところだ。喉を焼く血潮の心地良さよ! 吐いたツバさえ舐めてしまいそうだ。  ああ、まだだ! まだ筋肉が解けて蛇の骨に絡まってきたばかり。なんて心地よい締めつけだろう! コリコリとして、プチプチと爆ぜる臓物の蕩けた食感ときたら! これを味わい尽くさないなんてもったいない!  なんてことだ! この骨! 骨さえ俺を喜ばせるとは! 砕けた骨片は固まった蜜のよう。噛み締めるたびに旨味が湧いてくる。一片残らずしゃぶり尽くさなくては!  溶け出る滋味が血管を腐らせてようやく、蛇は気づいた。美味に毒を隠したのではない。この毒が美味なのだ。  逃れられない。迫りくる死に絶望するには、蛇は満たされていた。  腹の中で、贄が何か言っている。聞いていなかった。味に夢中だったから。だが、今はその声さえ蛇を満たす毒だった。  臓物が溶けていく。血が溢れて体の外に逃げていく。脳が沸騰して、視界が崩れだす。  蛇の思考を満たすのは、ただ一つの、万感の想い。 (ああ、美味かったなァ……)  それを最期に、蛇は事切れた。
*  *  *
 はず、だったのだが。 「うん?」  蛇は目を覚ました。乾いた木の板を並べた地面が背に触れて、眼に暗い天井が映る。  ひんやりとした寒さに身が震える。寒いのは嫌いだ。頭から胴半分を起こし、すぐに違和感を覚える。  体を見下ろす。人間の体がそこにあった。毛も鱗もない柔い肌、ほっそりとした胴、優美な足。  肌を伝う滑らかな髪を芳しい指で辿ってようやく、これが己の体だと気づいた。 「道理でちっとも食う気がしねぇわけだ」 「目覚めましたか」  声をかけてきた女のほうに首を向ける。目覚める前と物の見え方が違って面倒だが、これはこれで面白かった。  舌を出して空気を味わう。床に敷いた指から振動を察知する。それに加えて、今は広い視野から色というものを感じ取れていた。耳が空気の音も拾ってやかましいが、耐えられないほどではない。  部屋の隅からこちらを睨めつけているのは、とうが立った女だった。若い頃はさぞ甘やかな肉だったろうに、今は見るからに味が抜けて固くなっている。あちこちの皮膚が弛み、細まった髪には白髪が混じっていた。  白。黒。これが色というものか。己の髪が艶めく黒なのに蛇は満足した。同時に既視感を覚える。  この香り。この滑らかさ。これは…… 「お前……その姿は、何のつもりですか」 「うん?」  ようやっと声を発した女に視線を移す。今更ながら疑問を覚えた。ここはどこだ。  人間たちの住処だ。木造の密閉された空間に、馴染んだ暗闇が寝そべっている。どこからか酒の気配を感じて、蛇は自分の口角が持ち上がるのを感じた。酒は好きだ。  なぜか人間の姿になっているが、動かし方は自然とわかった。これは紛れもなく己の体だ。ならば惑うことなどない。  自分の喉が人間の言葉を発するのを面白がりながら、蛇は戯れに答えてやった。 「何のつもりも何も、俺をこの姿にしたのはお前じゃないのか? 俺は満腹で気持ちよく寝てただけだぞ?」 「よくも、しゃあしゃあとっ……!」  声を荒げた女が、それを飲み込んで息を整える。粗末な着物の袖を握る手は震えていた。  つまらん。興味を失おうとして、蛇は不意に引っかかるものを覚えた。  瞑目する女の目に、先ほどまで映っていたもの。長い黒髪の、既視感を誘う美貌。 「この姿は、あの人間のモノか」  蛇の顔が、恍惚に蕩けた。  あの人間。贄の乙女をかたり、蛇に毒を喰らわせた男。違う。毒はあの人間そのものだった。  髪に、肌に、肉に、血に、内臓から骨に至るまで隅々まで毒を巡らせて、蛇の臓腑を煮溶かした。あの美味、思い出すだけで腹が疼く。  湧き出るツバを飲み下す蛇に、女は震える声をこぼした。 「あの子は、仇を討てたのですね」 「仇?」  そういえば、そんなことを腹の中で言っていたかもしれない。姉の仇だとか、なんとか。  人間に捧げさせた贄をいちいち覚えちゃいないが、不味い女だったら暴れてやったので、外れは久しく喰っていない。  ならばきっと、その姉とやらも美味かったのだろう。どうでもよかった女を改めて眺めれば、あの人間と似たところがあった。  芳しさは比べるべくもないが、基本となる匂いは同じ。ひらけた視界を得た今では、見目にも似通ったところがあるのがわかる。 「お前、母親か」  図星の臭いだ。賞賛する心地で、蛇は女に言った。 「美味かった。また産めよ」 「は?」  唖然とした臭いだ。愚鈍だなと蔑みつつも、蛇にしては辛抱強く言葉を重ねた。 「姉弟どっちも美味いなんて大したもんだ。特に弟。  また喰いたいから、もっかい孕めよ。ギリギリいけるだろ」 「何、を……」  本当に頭が悪い。稀な辛抱が早くも尽きかけていくが、喉に残るあの旨味がそれを躊躇わせる。  あれを、また喰いたい。その一心で、蛇は記憶を浚い、聞き流していた言葉を思い出した。 「お前、余所者なんだろ? 男に捨てられて村に逃げてきた。子持ちだったから俺の餌には選ばれなかったが、住ませてやる代わりに娘を贄にと言われて断れなかった。  惨めなもんだな」 「なぜ、それを……」 「こいつが腹ン中で言ってたぜ? 『おっかぁ、おっかぁ』ってな。イイ声だった。  また聞きたいから、もっかい」 「黙れ」  たかが人間。その気になればいつでも肉塊にできる。  その前提が、崩れた。自分の体だと認識したはずの手足が力を失う。なすすべなく頭から床に激突する。  怒りよりも戸惑いが強く、蛇は無様に女の足元に転がった。女の声が冷ややかに告げる。 「お前、まだ生きているつもりなのですか?」  言われ、思い出す。あの恍惚。己の血肉が沸騰して、内から煮崩れていく感覚。  死んだ。そうだ。俺はあのとき死んだ。あの人間に殺された。  なのに、ここにいる。 「お前を殺す毒の対価に、まじない師殿に要求されたのですよ。  代わりにお前の魂を縛り、使役せよとね」 「ふざけ、ん、なっ。この俺が……」 「全くの同感です。お前が死してなお在り続けるなど、考えただけで悍ましい。まして我が子に化けるなど。  ですが、考えを改めました」  戸が開く。足音が響く。顔を呪符で隠した人相のわからない男たちが、不敬に蛇を持ち上げる。 「触れるな、人間グァッ!!」 「お前は蛇なのですから、手足が動かないのが当然ですよね?」  鈍い音を立てて、蛇の肩が外れた。人の姿で得た剛健な四肢が、女の命令に抵抗を許されず、男たちの手で無力化されていく。  関節の外れた手足をだらりと投げ出した蛇の様子は、女の言葉通り、人の形で蛇を真似ているようだった。顎さえ外され、罵声も許されなくなった蛇を、女が覗き込む。 「こうすれば、あの子とは少しも似ていません。ええ、少しは爽快です。  では皆さん、どうぞよしなに」  女の頷きに、男たちが無言のまま蛇を持ち上げる。不吉な予感に身をよじるが、適切に破壊された人体は蛇の膂力を発揮させない。  視界が揺れる時間は短かった。男たちより背の高い梯子をかけられた大甕おおがめが、暗く冷ややかな地下で蛇を出迎える。 「蛇神を漬けた酒は、不老長寿の妙薬なのだそうですよ。  本当かどうかは知りませんが、お前が人に喰われるのは痛快です」  女の含み笑いを足元に、大甕の蓋が開く。ぷんとした酒の匂い。  蛇の艶やかな黒髪が、闇を映す水面に沈んでいく。 「お前はこれから、ずっと酒の中。お前の魂が潰えるのは、私の血脈が絶えたとき。  けど、私の子は、お前が殺したふたりだけ」  手足が沈む。胴が。首が。眼に酒が染みて、蛇はようやく瞼を閉じるという行為を覚えた。  すぐに開く。揺蕩う視界に、手ずから蓋を閉じる女が映る。 「黒髪」  矛を振り下ろすように、女は告げた。  それが己を縛る名だと蛇が悟ると同時、永遠に蛇を呪う命が降される。 「魂潰えるそのときまで、永遠に飢え続けるがいい」  闇に閉ざされる最後の一瞬。垣間見えた女の笑みは、あの人間によく似ていた。
*  *  *
 あれから何年経ったのか。何十年か。何百年か。千年か。  開いたままの口から流れ込む酒に、思考が酩酊する。酒は好きだ。美しい女のほうが好みだが、女を丸呑みした後に飲み干す酒は美味かった。  だが満たされない。喉が渇く。いくら飲み干しても、空っぽの胃はとっくに酒に溺れている。手足は萎えて動かず、視界は闇と酒に呑まれて用を為さない。  時折、酒が外に注がれていき、後で上から足される気配を肌で感じる。だがどうでもいい。腹が空いた。喉が渇く。  女を食べたい。肉を喰いたい。腹の中で泣き喚く声、少しずつ溶けて弱々しくなっていく音、噯気おくびとなって漏れる断末魔が恋しい。  闇に呑まれて幾夜目か。蛇は口を開いた。  眩い轟音と共に、蛇の体は酒といっしょに外へ流れ出ていった。   *  *  * 「なんと痛ましい。おい、早く治療してやれ」  朦朧とした意識が覚めていく。闇に慣れた目に光が痛く、忌々しく瞼を閉じて耐える。  その間に、外された関節は戻されていった。これも痛みが走ったが、耐えて飛び交う声に意識を集中させる。  身を清められ。  瞼を刺す光が和らぎ。  時の流れか土地の違いか、記憶と微妙に異なる人語に意識を馴染ませ。  四肢に残る痛みが癒えた頃。  連れ込まれた屋敷の布団で身を起こし、ようやく蛇は言葉を発した。 「何者だ、お前」 「あなたを封じた者の子孫でございます。蛇神様」 「? あの女は自分に子どもはいないと言っていたぞ」  あれからどれだけ経ったのかはわからないが、闇に呑まれる寸前に交わした会話は覚えていた。藁を編んだ床を引っかきながら、傍らに正座した男を見やる。  裕福な男なのだろう。人間の文化に興味など無いが、襖から覗く屋敷の庭は広く、男の着物は刺繍細やかで生地も上等なのが見て取れた。屋敷にある人の気配は多く、空気に伝わる声は男を中心に動いているのが察せられる。  屋敷の主らしき男は、しばし考え込んでから答えた。 「恐らく……あなたを封じた女は、厳密には主人ではなかったのでしょう」 「主人?」  蛇の勘気を悟り、男は頭を下げた。 「便宜上の呼称です。ご寛恕ください。  あなた様を憑神に祭り上げたのは、殺めた獣の魂を人の形に縛る術によるもの。  つまり、あなたの縛られる血縁は、あなたを封じた女ではなく、あなたを殺めた美童の血なのです」  術の仔細を聞き、しばし考える。  殺した獣を名で縛り、命令で従える。この男は勘違いしているが、重要なのは殺したのが誰かでなく、名付けと命令のほうだと、蛇の感覚が告げていた。  あの女が蛇を呼んだ名は、前々から人間どもが蛇を畏れて呼んでいた名。命令も。思い返せば、あの美味極まりなかった贄が腹の中で唱えていた怨み言にあった気がする。  つまり、あの女は自分でなく息子を蛇の主人として儀式を遂行した。いや、呪い師とやらが謀ったのかもしれない。女の命令が強制力を伴っていたのは、息子の唱えていた呪いを主人からの命令と蛇に認識させたに過ぎない。  血縁のほうは…… 「あー。父親が逃げたとか言ってたな。そいつが他所で女作ってたのか」  あの女。偉そうに勝ち誇っておいて、自分を捨てた男に最後まで足を引っ張られたらしい。  わずかに溜飲が下がり、蛇はそれきり己を封じた女への興味を無くした。こちらを窺っている男に意識を戻す。 「で、何の用だ? お前」 「ッ……蛇神様。あなた様に、人の寿命を伸ばす力があるのはご存じでしょうか?」 「ンなこと言ってたな。それが?」 「私には息子がいます。生来病がちで、成人することはないと言われている息子です。  ですが、蛇神様の御力なら……」 「へー。どこにいるんだ? そいつ」  顔を輝かせた男に、蛇は思い直して言った。 「あー、いいや。めんどくせぇ。後で案内しろ」   *  *  *  久方ぶりに味わった血肉の感触に、蛇は失望を覚えた。己が憑神とやらにされたせいか、いくら喰っても腹が満ちない。  それだけならまだしも、どいつもこいつも美味くもなければ歯応えもない。砂を噛むような心地だった。  やはり獲物は妥協するべきではなかったか。後悔を覚えて、蛇はかつてはなかった己の四肢というものを眺めた。  大蛇の姿に戻ることはできないようだ。被せられた人の姿は蛇と一体となり、もはやこの形に慣れる他ない。面白くないが、あの美しい人間の似姿と思えば許容できなくもなかった。  戯れに、血に濡れた黒髪を梳く。腹の中で声がした。 『へび、がみ、様……なぜ……』 「あん? まだ生きてたのか、お前」  蛇を酒甕から出した、あの人間の父親の子孫とかいうやつだ。  最初に丸呑みにしたので、蛇の胃の中で屋敷中の人間の死体に圧迫されているはずだが、しぶとく息をしているらしい。 『なぜ、なぜです、私は、あなたを助けて……』 「あー。それが?」  どうでも良かったので聞き流して、蛇はそれより、と尋ねた。 「お前の息子っての、どこにいるんだ?」 『っ。息子に、何を……』 「何って、食うんだよ。腹が空いて仕方ねぇんだよなぁ」  絶句する気配といっしょに、ぴきぱきと腹の中で骨がへしゃげる音がする。前は好ましかった感触が、どうにも食欲を満たしてくれない。  体が変わったせいか、己が死んでいるせいか。考えて、蛇はよく丸呑みにした生贄が命乞いをしていたのを思い出した。 「そうだ! 教えてくれたら、腹の中から出してやるよ。どうする?」  どっちでも良かったので返事は待たず、蛇は颯爽と歩き出した。髪に感じる音、足裏に伝わる気配、舌に感じる匂いを頼りに人里を目指す。  今は粗食でもなんでも、とにかく腹を満たしたかった。
*  *  *
「蛇神さま、今月の贄にございます」 「おー」  従者が連れてきた女を一瞥して、蛇は酒瓶から口を離した。葡萄酒とかいうコレは血のような色合いと喉越しが中々気に入っていたが、腹を燃やす酒精は望む熱量には程遠い。  やはり、腹を満たすのは女に限る。洋風だとかいう館はあちこちが石造りで、木造の屋敷より蛇の好みに合っていた。冷たい石の床に素足を下ろし、窓枠から降りる。  今宵の贄は、要求した通り中々の美女だった。手錠で連れられているが、目はぼんやりと宙を彷徨い、怯えた様子がないのは気に入った。  ぱかりと口を開き、ごくりと丸呑みにする。  人の形になった蛇の体には到底収まらないはずの質量だったが、神たる身には何の支障もなかった。  喉越しを楽しんだ後で、胃に溶け出てくる味に眉をしかめる。 「おい、薬を飲ませたのか?」 「はっ、はい。その、命乞いは飽きたと仰っていたので」  確かに飽きたが、何の反応もないのはそれより興醒めだ。胃の中でじわじわと溶ける恐怖に跳ねる音、決して外に出られない絶望に少しずつ壊れていく声、それらが獲物の味に深みを与えるというのに。  すぐに壊れるのはつまらないが、気丈に振る舞っていた獲物が泣きじゃくって命乞いを始めるのは美味い。その機微がわからない愚鈍をどう仕置きするか。  青ざめた従者の顔に、蛇は繰り返さないならいいかと思い直した。自分で獲物を探すより、捧げられるほうが面倒が少ない。  俺も丸くなったもんだと独りごちて、蛇は慰みに胃に溶け出た女の血を味わった。血に混じる薬の臭いが意外に面白い。  機嫌を持ち直していると、従者が恐る恐る片手を差し出してきた。 「その、蛇神さま。褒美のほうは……」 「あー。いいぞ」  顔を輝かせた従者に興味はなく、蛇は無造作に口を開き、萎びた手首に牙を突き立てた。ドロリと湧き出た旨くもない血を、渋々一口飲み干す。  途端、従者の乾いた皮膚が潤いを帯びた。髪に混じっていた白髪が色を取り戻し、弛んだ輪郭が締まりを取り戻す。牙の開けた傷口は見る間に塞がり、痕すら残らなかった。 「おぉぉ……何度体験しても、素晴らしい」 「そんなにいいもんかね」 「もちろんですとも! 蛇神はおよそ寿命を伸ばす権能を持ちますが、こんなにもはっきりと、若返らせるという形で寿命を伸ばしてくれるのは呪祖たる貴方様だからこそ。  さすがは霊山の主、最も古き憑神のひと柱……」  従者の賛美を聞き流し、蛇は口直しに葡萄酒を瓶から煽った。杯に注いだ方が香りが花開いて美味になるそうだが、面倒臭い。どうせいくら飲んでも満たされない。  やはり、駄目だ。もう腹が減った。いくら美しい女を呑んでも腹が疼く。  臓腑で悲鳴を聞いている間はいくらか慰められるが、それだけ。最後に腹が満されたのはいつだったか。決まっている。 (あいつだ。あの人間。この俺が見惚れるほど、美しかった男)  従者の用意した鏡を覗けば、あの人間の顔は容易に思い出せた。あの美貌かおがそこにいる。だが届かない。この体は面影を写し取ったに過ぎず、仮に己の体に牙を突き立てても、あの血肉は味わえない。  未だにさえずり続けている従者を見る。こいつもあの人間の子孫だそうだが、まるで似ていない。  それも当然か。あの美貌は母親譲りだった。その母の血は途絶え、残っているのは父方の血だけ…… 「あの、蛇神さま。どうなさいましたか?」 「いや。お前を喰ってみようか考えてた」  さほど本気ではなかったが、真に受けた従者は蒼白になり、逃げるように帰っていった。  望む望まずに関わらず、蛇の魂はあの血脈に縛られている。それを実感したのは、蛇を酒甕から救い出した男を消化した後だった。己の身が、どこかに引き寄せられる感覚がした。  どうにも逆らえず、引き寄せられた先でも人間を食い散らかしたが、血脈が絶えれば蛇も消えるのを思い出してからは自重した。人間に仕えるのも縛られるのも不快だったため、我慢が利くのはそう長い時間ではなかったが。  此度の従者は長い。蛇に血を捧げれば若返るのを理解して、定期的に贄を運んでくる。不快な言動を避けて蛇にへつらい、下手を踏めば即座に許しを乞うのは賢明だった。  蛇も無知な人間や勘違いした人間に憑くのは面倒なので、不味い血を飲むくらいは許容してやっていた。どうせ何を口にしても満足できないのだから同じことだと。  そのときは、そう思っていた。   *  *  * 「なんだ? そいつ」  次に従者が連れてきたのは、これまでとは違う女だった。  縛られてもなければ薬で意識を奪われてもいない。身なりは清潔だが、虐げられ、飢えた者の気配がした。見えない鎖で繋がれているかのように、従者の傍らに突っ立ち、俯いている。 「私の娘です。蛇神様が子孫を増やせと仰ったので囲っためかけの子でしてな。  愚図で取り柄もなく使い道に困っておりましたが、顔は母親譲りですので、蛇神さまの慰みになれば、と。他に子はいくらでもおりますので」  娘だというその女の髪は長かった。長い黒髪。ほっそりとした白い面差し。胸は平らで慎ましく、熟れる前の果実に似た香りがした。  少し、あの人間に似ていた。 「あの? いかがでしょう、蛇神さま」  へつらう従者を見る。皺が増えて、肉も弛み、臭い。 「老けたな、お前」 「は。え、ええ、あまり若返りすぎても怪しまれますし。  いえ、いつかは息子と成り代わるつもりですが、今はまだ時期尚早と申しますか」 「もういいか」  ばくり、と飲み込む。長年の褒美のつもりで、喉を通るときに首の骨を折ってやった。  娘とかいう女を見ると、何が起きたかわからないというふうに目を白黒とさせていた。親切のつもりで、父親の爪先を舌から覗かせてやる。  娘は理解して床にへたり込み、青ざめて震え始めた。失禁した臭いが空気に漂ったが、その程度で蛇の食欲は落ちない。 「なぁ、お前。ちょっとコレ飲んでみろ」 「。ぁ、ゎ、わた、し……?」  取り出した瓶の蓋を開けて手渡すと、女は歯の根を鳴らしながら蛇を窺ってきた。  笑んで頷いてやると、強張っていた女の頬が緩み、震えが和らいだ。瓶を見下ろし、蛇を見上げ、もう一度揺れる液の水面を見つめ、意を決した顔で瓶をあおる。震えた指が口の端から中身をこぼしたが、喉が何度か嚥下すればそれで十分だった。  ほんの数秒。ただでさえ青ざめていた女の顔が紙のように白くなり、唇が青紫に変色する。  瓶を落とした女が、胸を押さえて床に倒れる。 「ひゅっ、け゜、ごっ……ぇ?」 「毒だよ。内臓どころか血肉も冒して食えなくする猛毒だ」  女が視線を動かす。涙が凍り、呼吸が止まる。唇が動く。そんなの。なんで。わたしに。  人間の調理とかいう振る舞いを真似る心地で、蛇は答えた。 「その方が美味そうだから」   *  *  *  あの人間は美味かった。毒を浸した肉だというのに、その毒こそが美味かった。  だから蛇は薬や毒に冒された人間の味も嫌いではない。己に害を成そうとする毒は、あの味を思い出させる。  あの味を再現するつもりだったのだが。腹の中で暴れる毒と悶える女を味わいながら、蛇は首をひねった。  わりと長く過ごした館を振り返り、腹の中の従者に告げるつもりで囁く。 「いまいちだな、お前の娘」  それきり蛇は振り向かず、従者のことも二度と思い出さなかった。
*  *  *
 やはり、見目だけでは駄目だ。それがひとまず蛇の下した結論だった。  憑神とやらになった蛇の腹を満たすのは、肉そのものではなく魂。あるいは生前からそうだったのかもしれないが、そこはどうでもいい。  求めているのは、あのときのように腹を満たすこと。あの人間を喰らったときのように。強く、美しく、末期の際まで蛇を罵ってみせたあいつのような人間を再び喰えたなら、きっとまた満たされるはずだ。 「勘違いだな。お前の空腹は起呪に依るものだ」  凛々しい声に、蛇は一瞬呆けた。  燃え立つ夕暮れが空と雲を染め上げ、影を深める刻限だった。久方ぶりに故郷の山に赴いた蛇は、そこで女の声を聞いた。  湿った地面を滑り、草むらの臭いを浴びながら、声を探して駆ける。  鸚鵡返しに尋ねる。またその声を聞きたい一心で。 「起呪ってなんだ?」 「憑神を縛る最初にして永遠の命令だ。  お前の最初の主人は、お前を呪おうと起呪を発した。『永遠に飢え続けろ』とな」  雲が晴れる。木々の隙間に立ち、蛇の結論を誤りだと断じた女は、蛇が思い描いていた理想の獲物だった。  あの人間とは似ていない。正反対とさえ言える。あの人間は美女に見紛う男だったが、こいつは若武者と見紛う女だ。まっすぐに伸びた背は高く、刀を支える腕は頑強で、蛇を見据える眼差しは鋭い。  ただ、射干玉ぬばたまの髪が、あの人間と同じように、蛇の鱗と張り合えるほどに、艷やかに黒かった。 「家族を喰われた怨みには同情するが、困ったものだ。それでお前は際限なく人を喰らうようになってしまった。  誰をどれだけ喰おうと、お前が満たされることは決してないというのに」 「どうでもいい」  人間に見惚れるのはいつぶりか。決まっている。あいつ以来だ。  口角がつり上がるのを蛇は自覚した。倦んでいた血が沸き立つ。惰性めいていた空腹がツバを滴らせ、ご馳走の匂いを味わおうと舌が空気を舐める。 「お前を喰えば、俺はきっと満たされる」 「そうか」  女が刀を抜く。白刃の鋭さよりも、女の鋭利な眼光のほうが蛇には脅威だった。  思考が酩酊する。迷いが生じる。喰えば無くなる。また飢えることになる。 「なぁ、お前。  永遠の命に興味はないか?」 「何?」  らしくなく、蛇は誘った。女が眉を顰める。 「俺の権能ちからなら、お前を永遠に若くしてやれる。失うには惜しい美貌だ。  俺はお前をずっと味わいたい。悪い話じゃないだろう?」 「なるほど」  頷いて、女は刀を鞘に戻した。かかった。蛇は笑った。  丸呑みにして、血を啜ろう。永遠に俺の腹の中で飼ってやる。  めくるめく快楽の日々を予感して、蛇は涎を垂らした。  刹那。 「生憎だが」  声より速く振られた刃に、蛇の腕は宙を舞った。 「老いた皺の美しさも解さぬ青二才を侍らすほど、わたしは安い女ではない」 「てっっ、めぇえええ!!」  咄嗟に仰け反らなければ首が飛んでいた。  理解して、蛇は首を振った。女の雷光の如き刃が、蛇の黒く輝く髪に阻まれる。 「これは」 「俺の鱗だ。人間なんぞに断てるもんじゃねぇぞ!」  吠えながら滑るように樹上に這う。邂逅が山中だったのは幸いだった。いくら時が経とうと、ここは蛇の庭。女を生きたまま丸呑みにするのなど容易い。  その驕りは一瞬で断たれた。蛇が乗った木が女に両断され、幹から地面へと投げ出される。  咄嗟に舞い上げた髪が、女の剣閃に澄んだ音を立てた。 「なるほど、厄介な鱗だな。私の刃を防ぐとは」 「それ、ただの刀じゃねぇな」  蛇と同じ、憑神の手によるものか。白い刃は振るうたびに黄金色に燃え立ち、夕暮れの雲のような霊光が、生意気に蛇のを軋ませる。  女の技量も卓抜している。速く、鋭く、重い。これほどまでに強い獣が、自分以外にいたとは。  己の髪が何本か地面に剥がれ落ちたのに、蛇は恥辱を覚えた。束ねれば纏めて断たれることはないだろうが、束ねねば断たれるのがまず屈辱だ。  たかが人間を狩るのに、防御を考えねばならないとは……面白い。 (この女の断末魔を味わえば、きっと俺は満たされる)  躍る髪が女の視界を遮った。うねる毛髪の流れから根本は頭上にあると読んだ女が、視線を地面から離す。  その一瞬の隙に、蛇は女の足元にいた。  気づいた女が刃を振り下ろすより先に、その爪先に口づける。  ごくり、と喉を鳴らす。  女の喉越しを味わいながら立ち上がる。抜け落ちた髪が地面に落ちて、煌びやかに蛇の勝利を彩った。 「鱗だからな。当然、脱皮できるんだよ」  元通り生えた艶めく髪を梳きながら、蛇は腹の中の女に勝ち誇った。  言うほど容易くはなく、本来はこれほど一瞬でやるものでもなかったが、頭皮に走る痛みすら今は甘美だった。  女の体が、ぽちゃんと胃液に落ちる。波紋の一つ一つを胃袋で舐め取りながら、蛇はツバを呑んで耳を澄ました。  聞こえてくるのは苦悶の声か、それとも泣き声か、命乞いか。 「……」  期待に反して、返ってきたのは沈黙だけだった。即死した、わけではない。生きている気配はするが、じっと黙っている。  焦れた気分になったが、これがいつまで保つか待つのも醍醐味だと蛇は思い直した。  女は胃酸を泳いでいるらしい。元気なものだが、ほんの数秒で手足が溶けて爛れた顔で泣き叫ぶ羽目になるだろう。  久方ぶりに浮かれて、蛇は女の匂いを味わおうと噯気ゲップを漏らした。  その噯気ゲップは、血と鋼の臭いがした。 「あ゛?」  蛇の腹から、刃が伸びていた。白刃に燃え立つ黄金の神気。女の刀だ。  理解と同時に、振り下ろされた刃が蛇の腹を斬り裂いた。 「ぁ゛っ、がっぁアアアア!!? でめ゛、なン゛、て゜」 「鱗を断つのは骨が折れそうだったのでな。内から斬らせてもらった」  外に跳び出た女が、バサリと羽織を脱ぎ、血と酸を払い落とす。  対峙していたときは纏っていなかった、黒い羽織。黒い。漆黒の。夜闇を浴びてなお黒く煌めくだろう、それは。 「おれ゛、の、皮!?」 「ご明察。お前が生前脱皮したものだ。手に入れるのは苦労したぞ」  狩りは、戦う前から始まっていた。敗北を悟り、蛇は膝をついた。  腹が熱い。臓物がこぼれ落ち、力が抜け落ちる。  この程度。そう虚勢を張っても、裂かれた腹の痛みは耐え難かった。ただの刀ではない。神を殺すための刀だ。  無力に萎びていく蛇を、女が冷ややかに見下ろす。 「良かったじゃないか。これがお前の望みだったんだろう?」  違う。俺はお前を喰いたかった。もう一度満たされたかった。 「望み通りじゃないか。かつてお前を満たした美童は、お前を殺すことでお前を満たした。  満足だろう? また殺してもらえて」  違う。この俺が。人間如きに。  呪おうと口を開き、蛇は湧き出る血に既視感を覚えた。  腹が熱い。あのときのように。血が流れていく。あのときのように。  ちがう。違うはずだ。でも、腹が熱い。血で満杯になって。空っぽじゃない。満たされている。  違うはずだった。けれど恍惚を覚えて、蛇は女を探した。  女は既に背を向けていた。振り返らない。遠ざかっていく。  どこからか現れた男たちが蛇を囲む。女が見えなくなる。男たちの手には鉈。それと酒の匂い。  蛇の手足が切り落とされる。絶叫が血に沈む。髪を掴まれ、持ち上げられる。  どこかへ運ばれ、酒甕に落とされる。酒が手足の断面に染みて、再び蛇は絶叫した。  女はもういない。蓋が閉まる。記憶が蘇る。とっくに忘れていた声。あの人間の声。  ずっと聞き流していた、思い出しもしなかった、それで終わったはずの声が、鮮やかに蛇を打った。 『ザマァみろ』   *  *  *  日が落ち切る前に山を出て、女は伸びをした。久々の大物だった。本当はさっくり丸呑みされるつもりだったのだが、あまりにムカついてつい真剣勝負をしてしまった。  結果的に当初の狙いと同じになったが、うっかり手傷を負っていたら危なかったかもしれない。  反省しつつ、女は足を早めた。あの蛇は血筋に憑くモノ。絶やすには蛇憑きの血は広まりすぎた。封印し続けるしか対処できない以上、この場で彼女ができることは残っていない。  ならとっとと宿で休むのが賢明というものだ。今頃は蛇を封じているだろう対神連盟に用意してもらった豪勢な食事を想い、女は浮かれて足を弾ませた。  晩餐に舌鼓を打つ頃には、女は蛇のことを、かけらも思い出さなくなっていた。