自室の灯りもつけないまま、ムゲンは寝台に腰かけて、手のひらのガラス玉を眺めていた。青と赤の溶け合う二色の輝きは、薄闇の中でも十分鮮やかだ。
けれどムゲンの心は晴れず、工房に行く気にもなれず、無為に時間を過ごしていた。部屋の外で足音がする。
ペタペタとした素足と、コツコツとした硬い響きが交互に鳴る特徴的な足音に、ムゲンは顔を上げた。
「藤花っがっ来ったぞ~~~!」
「…………おぅ」
ノックもせずに扉を開けた少年の元気のよい挨拶に、ムゲンは辛うじて返事をした。
毛先のうねる青みがかかった黒髪に、浅黒い肌。腰を追い越すほど垂れた長髪から、好奇心に煌めく金色の目が覗いている。右腕と左足がそれぞれ義手義足になっているが、弾むような動きはそれを感じさせない。
現れた少年──藤花は憑神である。本性は大型船を飲み込めるほどの巨大な大蛸が、人の姿だと十を一つ二つ越したくらいの子どもの背丈に縮んでいる。
好奇心旺盛でモノ作りに興味がある藤花は、鍛治を生業にしているムゲンと馬が合った。勉強熱心な藤花の質問に答え、共にアイデアを膨らませるのは、ムゲンにとっても楽しい時間だ。
普段なら、藤花のテンションの高い言動に、ムゲンの熱意も高まるのだが……ムゲンの鬱々とした表情に、藤花は首を傾げた。
「おー? なんだなんだ、ほんとに元気ないな! なんかあったのか?」
藤花の視線が、ムゲンが撫でていた、拳ほどもあるガラス玉に移る。
「なんだそれ! きれーだなー、ほーせきか? ムゲンが作ったのか?」
「あー、いや、ビー玉だよ。オレが作ったんだけど……
渡すはずだったやつが、死んじまったんだ」
青と赤の二色で染めたビー玉を藤花に手渡す。どちらの色を下にするかで夜明けになるか日没になるかが入れ替わり、中にひと粒入れた気泡が光を浴びると太陽のように輝く自信作だったが、それを見せるはずの相手は死んでしまった。
訃報を伝えに来た神連を思い出す。ご丁寧にビー玉の代金を支払ってきて、アイツの……深夜の縁者の墓に供えようかと言われたが、断った。
これは深夜に贈るはずだったものだ。深夜が人に贈るのは構わないが、それを素通りするのは違う気がした。上手く言えないが。
じゃあ、どうすれば納得できるかも、わからないが。
くるくるとビー玉を光に透かせて眺めていた藤花が、ムゲンを見上げて尋ねる。
「そっかー。
なームゲン。この玉、藤花があずかっていいか?」
「いいけど……なんでだ?」
「海に放る!」
「なんでだ!?」
さすがに目を剥いたムゲンに、藤花はキョトンとした。
「だって、コレわたすやつ、死んじゃったんだろ?
なら、とどけてやらなきゃ」
今度は、ムゲンが目を瞬かせる番だった。
藤花がニカッと笑う。
「海はあの世につながってるっていうからな! 藤花のうでなら海のそこまでとどくぞっ」
「あー……いや、ちょっと、貸してくれ」
重荷を払い除けられた心地で、ムゲンは藤花からビー玉を受け取った。
届ける。コイツを。深夜のところまで。
深夜にまだ、してやれることが、あった、のかもしれない。自己満足に過ぎないかもしれないが、ムゲンは立ち上がり、工房に足を急かした。
「おっ? なんだなんだ? 元気出たか? なんか作るのか?」
「コイツを鋳直す」
神連から借り受けたビー玉を作る設備は、まだ工房に置かれている。仕事仲間に断りを入れて炉を灯す。
熱が回るまでの間、考えをまとめるように声に出す。
「コレをデカくしたのは、オレのワガママなんだ。
アイツはきっと、小さいほうが好きだったから」
拳ほどもあるビー玉を手のひらで握って、神連に聞いた深夜の話を思い出す。
深夜はガラスが好きだった。けど、きっと、見つけたガラスを主人に渡す時間が、一番好きだった。
「アイツに届けるなら、小さく鋳直して、海に撒くのがいいと思うんだ。
ホントはダメだろうけど、その、散骨みたいなモンってことで」
「いーんじゃないか? 藤花にまかせておけ。きっととどけてやるぞ!」
藤花に背中を押され、ムゲンは火の回った炉にビー玉を焚べた。
海の青と陽の赤の、小粒のビー玉にする。深夜が見つけて、拾いやすいように。主人のところまで、運べるように。
深夜が本当はどういうやつだったのか、ムゲンは知らない。神連に思考を封じられた状態でしか、話したことがない。
何をしたかは知っている。罪のある憑神も神憑きも、罪のない憑神も神憑きも、大勢殺した。深夜が正気だったら、ムゲンもきっと襲われていた。
だけど会って、話をしてみたかった。深夜が光り物が好きだったことを知ってる。炉の火や工房にある金物を、熱心に見ていた。
ビー玉が好きだったことを知ってる。主人のことが大好きだったことも。だから、主人が触れても怪我をしないビー玉が良かったのだと、わかっている。
深夜が喜ぶ顔が見たかった。その気持ちがわかるから──自己満足に過ぎないと、わかっていても。
「おー! お日さまみたいだなっ」
藤花が歓声をあげる。
白熱して炉に融けていくビー玉は、地平に融ける夕暮れか、地平を染める夜明けのようだった。
さて、それではここでお耳を拝借。
これは内緒の物語。神連にも秘密だし、あのクソ狸にも教えません。どうせ語っても「なにそれツマンネ」って顔するだけだしね。
昔々、と言うほど昔ではなく、少し昔というにも抵抗のある、百年は経ってないくらいの昔の話。
夜山を独り、足早に去っていく旅人を追って、声を張り上げる少年がおりました。
「お待ちください、旅人さま! ありがとう、ありがとうございますっ。どうかお礼を」
「礼など不要だ。おまえにとって、俺は人殺しだろう」
「そんなことはありません! あなたがあの男たちを殺してくださらなければ、姉は、姉は……」
三月ほど前のことです。山間の小さな村で、歳の離れた姉と暮らしていた少年の家に、別れた姉の亭主がやってきて、狼藉を繰り返すようになったのは。
誰も助けてくれませんでした。駐在さんは家庭のことだからと目を逸らしました。親切にしてくれていた隣家の人々も、気の毒そうにしながら目を逸らしました。姉に心惹かれていた様子の青年も。狭い村できょうだいのようだった友人たちも。
みんなみんな、手を差し伸べてはくれませんでした。当の少年自身すらも。
亭主の友人だという、山猿のような男が恐ろしかったからです。長い手、ギラつく眼光、毛深くて獣臭い男に睨みつけられると、恐ろしくて俯くしかできません。
姉が殴られているとき、蹴られているとき、罵られているとき、寝床に引っ張られているとき、少年は俯いて耳を塞ぎ、目をつむって時が過ぎるのを待つしかできませんでした。
颯爽と舞い降りた旅人が、矛で亭主を貫くまでは。
「あなたが助けてくださったおかげで、自分と姉は救われました。どうかお礼をさせてください。どうか」
戦いは血生臭く、バラバラにされた亭主と山猿男を埋めるのは恐ろしかったけれど。
自分の無力さを憎み、呪っていた少年に、旅人はまばゆく見えたのです。夜空に閃く流れ星のように。
しつこく言い募る少年に、旅人は重い口を開きました。
「なんでも、と言ったな。どんなに不可解で、不運を招くことでもか」
「はい!」
恐れも迷いもなく少年は答えました。
あの地獄から救い出してくれた恩返しになるのなら、何を躊躇うことがあるでしょう。
「なら……ひと月にひと粒だけ、ビー玉を飲め」
「はい?」
「いいか、ひと月に、ひと粒だけだぞ。わかったな?」
さすがに意味がわからなかったけれど、旅人の凄みを帯びた念押しに、少年は慌てて頷きました。
「そのときに、俺の無事を祈れ。俺が五体満足でいることを願うんだ」
「そんな! 月に一度なぞと仰っしゃらずとも、日毎夜毎に祈ります!」
「それでもいい。別に、途絶えても。だが、月に一度は祈れ。それだけだ」
そう言うと、旅人はひと粒、夜闇に鈍く輝くビー玉を差し出しました。
「誓うのなら、これを飲め」
受け取ったビー玉を、少年は躊躇なく口に運び、ゴクリと飲み下しました。硬い無味の球体が、喉を押し開いて腹へ落ちていきます。
それを見届けて、なぜか、古傷が開いたような顔をして、旅人は言い捨てました。
「いくら祈ってもいい。いっそ、祈らなくても。
だが、ビー玉を口にするのは月に一度だ。覚えておけ」
その背に翼が広がるのを、少年は見ました。青みのある黒から、まばゆい白に染まる羽。
引き止める間もなく飛び立った旅人の姿が、山頂を照らす朝陽を浴びて羽ばたく夜明け色の翼が、いつまでも少年の目を焦がしました。
そう、今でも。
* * *
うたた寝から覚めて、老人となったかつての少年は、寝ぼけ眼をこすりました。
肩は重く、首がギシギシと軋みます。すっかり馴染みとなった体の節々の痛みに、あれから随分時が過ぎたのを思い出しました。
けれど、目蓋にはまだ、あの日の翼が焼き付いています。
カレンダーを見て、老人は今日が約束の日だったことを思い出しました。
ゆっくり寝椅子から立ち上がると、よろめく体を机の端を掴んで支えて歩き、台所の冷蔵庫からビー玉の入ったラムネ瓶を取り出します。
ええ、今でも老人は、旅人の言いつけを守っています。
正直に言えば、日々の生活に押されて、祈りが途絶えそうになったときもありました。旅人の姿形もうろ覚えで、あの翼は忘れがたくとも、声や目鼻立ちはもう思い出せません。
ですが、受けた恩は忘れ難く、また、その優しい心も折りに触れ思い出されました。
だって、あの日以来、老人はビー玉が飲みたくて飲みたくて仕方がないのですから。
『ビー玉を口にするのは月に一度だ。覚えておけ』
喉が鳴るたびに、老人は恩人の言葉を思い出します。ええ、もうわかってます。ビー玉をいくら口にしたところで、それであの人がどうなることはない。
あの言いつけは、自分を案じてのものだった。ビー玉を口にしすぎて、健康を害さないよう、あの人は月に一度と念押ししてくださったのだと。
ならば、自分の捧げる祈りも、きっとあの人の助けになっているはずだ。
ラムネ瓶の蓋を外して、老人は炭酸水ごとビー玉を喉に流し込みました。泡を纏う甘露のような丸みが喉を撫でて、パチパチと爆ぜながら腹の底へ転がっていきます。
その甘美なひとときに、老人は目をつむり、目蓋に羽ばたくあの日の翼に、彼の人の無事を祈りました。
どうかあの人が、五体満足でいられますように。あの翼が力強く羽ばたけますように。無事でありますように。幸せになれますように。
私と姉があの人に救われて、今日まで苦労はあれど幸せを得られたように。あの人にもいつか、献身への報いが訪れますように。
ああ、どうか。この世から去るときは、最後に思いきり、ビー玉を飲みたい。
祈りに混ざった恥知らずな思考に赤面して、だけど老人は願いました。
この甘露が喉を滑り落ちる感覚を、この世の別れとのよすがにしたいと。
祈りを終えて、さて、洗濯物を取り込まなくてはと老人は考えます。
いつからか、老人は天気予報を見ずとも、今日明日の天気がわかるようになっていました。もうすぐ夕立ち。急がなくてはなりません。
これもあの人のくれた恩寵なのだろうか。いや、きっとそうに違いない。
有り難く思いながら、まずはラムネ瓶をゴミ箱にと考えて、老人はドタドタと賑やかな足音が玄関から聞こえてくるのに気づきました。
「ひいじいちゃーん! いないのぉ?」
聞き覚えのある幼い声に、老人は飛び上がりました。そうだった、カレンダーに書いた約束は祈りのことじゃない。今日は孫夫婦が訪ねてくる日だった。
隠す時間はなく、ガヤガヤと居間にやってきた孫娘が、空のラムネ瓶を見て顔を顰めます。
「ちょっとお祖父ちゃん、またビー玉飲んだの?」
「ひと粒だけだよ。月に一度だけだから見逃しておくれ」
「もうっ。だから病院行ってって言ってるのに。
こんなところに一人暮らしで、体調を崩しても誰にも気づいてもらえないんじゃないかってこっちは心配して」
「悪い悪い、ほら、ちゃんと隣の一羽くんが訪ねてきてくれるから。ほら、一穂姉さんの子の」
「あっちもいい歳じゃない。もうっ!」
「そのくらいにしておけって。
ほらおまえたち、ひい爺ちゃんに遊んでもらいな」
孫娘の心配に頭を下げつつ、宥めてくれた孫の旦那に感謝して、老人は寝椅子に腰かけました。すぐに小さな怪獣たちが突進してきます。
「れいじおじーちゃん、遊んでーっ」
「おうおう、ひいお祖父ちゃんが遊んでやろうな」
可愛い曾孫たちに相好を崩して、黎二は膝に飛び込んでくる小さな体を抱き止めるのでした。
この幸せを授けてくれた恩人への感謝を、一段と深めながら。
夜にいる。暗闇を歩いている。足元は冷たく、湿っているような心地がしたが、定かではない。
行く手に光が見つかり、深夜は目を細めた。白々とした蛍のような灯りと戯れる少年が、暗闇に腰かけている。
玉虫色に艶めく黒髪が、童女のように無垢な面差しを彩っている。丈の短いズボンから覗く生白い脚は膝から下が黒ずんでいて、ほっそりとした指もそれは同じ。
見覚えのある少年だった。熟れ始める寸前の果実のような、あどけない蠱惑な気配が匂う。美しいが、どこか悍ましい気配の。色とりどりの光る蝶に手足を啄まれながら、嬉しげに、愛おしげに微笑う──
「おまえは……」
「やぁ、久しぶり」
思い出して、深夜はいつの間にか握っていた矛を構えた。
「おまえは、憑神だ」
「そうだね」
虫の憑神。名はグレーテと言ったか。主人に選んだ人間を虫の姿に変える、危険な憑神。
駆除を躊躇う理由はない。深夜だけでなく、神連だって、彼を許さないだろう。
(……神連? なぜ、神連を気にするんだ?)
自分の思考が理解できず、深夜はこめかみを押さえた。
記憶が混濁している。直前の記憶が思い出せない。憑神。グレーテ。こいつは。
「おまえは、……死んだはずだ」
「そうだね」
認めて、グレーテは指に集る蝶を愛でた。自分の生死より、彼らを愛でるほうが大事だと告げるように。
グレーテは、深夜が殺した憑神だ。主人を虫に変えて愛でる習性で、主人が亡くなると、虫のままの亡骸を標本箱に入れて飾っていた。
標本箱は作りのしっかりしたもので、グレーテが大切にしているのは見て取れた。だから深夜は、まず標本箱を盗んだ。グレーテの本性はすばしっこい小さな虫で、その姿になって逃げられると面倒だったからだ。
狙い通り、グレーテは血相を変えて追ってきた。そこを襲った。主人が庇ったので、主人ごと。
グレーテは主人を抱きしめて泣いて、標本箱に手を伸ばして泣いて、深夜の矛で貫かれて、それで終わりだった。
深夜が神連に捕まる、少し前の話だ。
神連に、捕まる。
頭が痛くなって、深夜は左眼を押さえた。
そこが、特に痛い。理由はわからないが、とても。
「ここは、どこだ? 俺は、どうなって……」
「どうでも良くない? そんなこと」
グレーテに言われて、深夜はなぜか、納得した。
いつの間にか、持っていたはずの矛が消えている。そのことにも納得する。グレーテはもう死んでいる。なら、矛はもう必要ない。
グレーテが笑う。深夜に向かって、毒蛾のように。
「君には一言、お礼を言いたかったんだ。文句もあるけど、それはいいや」
「礼?」
いわゆるお礼参りかと深夜は身構えた。
「謝罪する気はない。おまえは憑神だ。
人間の法規範に則っても、おまえのしたことは許されない」
グレーテは吹き出した。滑稽な冗談を聞いたときのように。
どうでもいいことを、大真面目に言われたときのように。
「それって、主人の幸せより大事なことなの?」
その返答に、怒るべきだと深夜は思ったのだが。
納得してしまった。確かに、どうでもいい。主人の幸せに比べたら。そんなこと。
「おまえがしたことで、主人は幸せになったのか?」
「幸せだったよ。誓って独りよがりじゃない。僕らは愛し合っていた。
ふふ、他の人は納得しないかもしれないね? でも、そんなことはいいんだ。
僕は、僕にできるすべてで、主人を愛して、幸せにしたかっただけ」
自分の持てるすべてで。主人を幸せにしたかった。
深夜は戸惑った。こんなやつ、とは思うのだが。その気持ちがわかるから。
「君に言いたいことはひとつだよ。
標本箱、埋めてくれてありがとう。主人を弔ってくれたのも。
本当は大切に保管してほしかったけど、足蹴にされてゴミ箱に捨てられるよりはマシだったから」
標本箱。言われて思い出す。
グレーテと、グレーテが最期の力を振り絞って虫に変えた主人を見下ろして、深夜は標本箱といっしょに、彼らを公園の隅に埋めた。
グレーテは本性である小さな害虫に戻っていた。放っておいても消えるが、人目を忍んで埋めるのは簡単だった。だから埋めた。
捨て置いてすぐにその場を去らなかったのは、それだけの理由だった。たった、それだけの。
「おまえは、俺を怨んでないのか?」
頭に留まった青い蝶を愛でながら、グレーテが答える。
「怨んでるし、憎んでるけど、別に嫌いじゃないよ。
その有り様には、さすがに同情するしね」
意味がわからず、深夜は自分の身体を見下ろした。
腹が裂けて、中身が空っぽになっていた。羽と腕が折れて、動かせない。
左眼が。空っぽだ。義眼が。なくなっている。
自覚とともに、膝から力が抜けた。受け身も取れず頭から暗闇にぶつかる。何も見えなくなる。
グレーテの笑い声が遠ざかる。何も聴こえない。何にも触れない。離れていく。誰も助けてくれない。
ひとりぼっちの闇の中へ、なすすべもなく、深夜は墜ちていった。
闇にいる。暗闇に包まれている。生温かくて、湿っていて、熱が籠もって、息苦しい。
目蓋を開けて、深夜は戸惑った。何も見えない。暗闇にいるのは同じだが、さっきまでと違う。
何が違うのか。夢を見ていた気がする。ここは温かい。だから夢じゃない。
羽を広げようとして、深夜は骨が肉を突き破る激痛に苛まれた。
「ィャーァァァァァ──ァ──ァ──」
絶叫は掠れ、気の抜けた笛の音のような声しか出なかった。
痛い。痛い。痛い。羽が折れている。腕が動かない。脚が。どこにあるのかわからない。
自分の体がカササギになっているのを、辛うじて深夜は自覚した。
人の姿になれない。人? どうして人の姿になるの? おれは、カササギなのに。
おれはなんなのか。ここはどこなのか。どうしてここにいるのか。
記憶が混濁する。何もわからない。痛い。何もできない。
助けを求め喉を仰け反らせて。
『ん~──、うるさぁぁい』
暗闇の外側から眠たげな誰かに殴りつけられ、嘴がへしゃげる衝撃に、深夜の意識は途絶えた。
* * *
意識が戻る。生温かくて、血の臭いがして、暗くて、動けない。まだ、闇の中にいる。
痛い。叫びそうになって、不機嫌そうな誰かの声を思い出して止める。だけど、いたい。こわい。縮こまって震える。頭を働かせる。
じっとしていると、自分がどんな状態か、段々とわかってくる。
何も見えないのは、ここが暗いからだけじゃなくて、おれの目がつぶれてるから。体がいたいのは、あちこちの骨がおれて、肉がさけているから。
それが少しずつなおっていくのを感じる。じっとしていたら、いつかはいたくなくなって、ここから出られるかもしれない。
だけど、いつ? 出られたとして、どこに帰れば?
怖くなって、深夜はまた叫んでしまった。
また「うるさい」と誰かに殴られて、頭蓋がひび割れる衝撃が意識を途絶えさせた。
* * *
目が覚める。まだ、闇の中にいる。まだ、体がいたい。動けない。
こわい。たすけて。か細い声を聞いてくれる者は誰もいない。
「たすけて、れいじ」
応える声はない。何も見えない。大きな声は出せなくて、譫言を繰り返す。
れいじ。思い出せるのはその名前だけ。覚えているのはその名前だけ。
れいじ、たすけて。声は返らない。
たすけてよ、れいじ。泣き声が混じる。
大声で鳴きたい。そんなことしたってどうにもならない。わかっていても叫びたい。れいじの名前を呼びたい。
でも、れいじは助けに来ない。だって。れいじは、
(れいじは、おれのこと、きらいになったんだから)
『そんなことないよ。零時は、深夜のことが大好きだよ』
うるさい。誰かの声を思い出して、深夜は唸った。
おまえなんかに、れいじの何がわかるんだ。
『確かに零時のことは知らないけど、深夜のことはわかるよ。
深夜は、零時に嫌われたいんだろう?』
うるさい。耳を塞ごうとして、耳を塞ぐ腕がないのに気づく。羽が動かない。頭が痛い。逃げられない。
『零時が死んだと思うより、零時に嫌われたと思うほうがいい。
零時がもういないと思うより、零時が助けてくれないと思うほうがいい。
零時にもう会えないと思うより、零時に忘れられてしまったと思うほうが』
うるさい。だまれ。
叫びの代わりに喀血して、深夜はうずくまった。
闇の外で、誰かが笑っている。
『あ、光輝!』
『ただいま、燐子。何もなかった?』
『なかったよぅ。ちょっとたいくつ。
にんむ? って、まだなのぉ?』
誰かが体をくねらせる。闇が蠕動する。誰かが誰かにのしかかる。
衣擦れの音がする。愛し合う音。幸福な笑い声。
その幸せが闇を煮え上がらせ、中にいる深夜を茹でて、また意識が途絶えた。
* * *
目が覚める。まだ、闇の中にいる。絶望が、身を苛む。
もういやだ。答える声はない。誰かが、深夜の体を癒している。
やめて。応えはなく、少しずつ体が癒えていく。
もう、やめてよ。楽にさせて。これ以上、苦しめないで。どうして、そんなことするの? おれのことがきらいなの?
『嫌いに決まってるじゃないか』
たくさんの眼が、闇の中から深夜を睨めつけた。深夜がころした人たちが。
怯えて泣き叫び、身を縮こまらせ逃げ惑う。頭の中で。浮かんできた名前を呼ぶ。
きんぐ。
『すまんな』
ちか。
『おまえのこと、嫌いだ』
むげん。
『ビー玉、作ってやろうか?』
誰も助けてくれない。深夜は泣いた。れいじは来ないと、呼ばなくてもわかっていた。
それでも呼んだ。助けは来ないと知っていたから。何を言っても届かないのなら、何を言っても許されるから。
れいじ。たすけてよ、れいじ。すごくいたいんだ。さむい。たすけてよ。
どうしてきてくれないの? うそつき。れいじはおれのこと、きらいになったんだ。
うそつき。れいじのうそつき。ずっといっしょって、いってくれたのに。
恥知らずな怨み言を吐き捨てる。どうせ、れいじにはきこえない。とどかない。れいじはもう、いないんだから。
ちがう。れいじは。おれのこと、きらいになったんだ。だから。もうあえない。わらわない。こえもきこえない。だから。
『深夜。目ぇ開けろ』
誰かの声がした。誰かの声。聞き覚えのある声。
名前は知らない。顔も知らない。教えてもらえなかったから。
だから、返事なんかしない。
『悪かったって。決まりなんだよ。呪い除けに顔も名前も隠すって……
ほら、泣くな。目ぇ開けろ』
やだ。だって、開けても何も見えない。誰にも会えない。だから、開けたくない。
『そんなことないぞ。開けたらきっと、会いたいやつに会えるから』
うそつき。おれだって、わかってる。
れいじには、もう会えない。声もきこえない。わらってくれない。なでてもくれない。わかってる。
そのはずだったのに。
「……れいじ?」
コツンと、嘴に何かが当たったから。
目を開けて、深夜は、闇の底で零時を見つけた。
それは、ビー玉だった。星空色のビー玉が、闇の中を転がって、天の川のように瞬いている。
どうして、こんなところに、ビー玉があるのか。零時のビー玉が。業火に融けず、闇に溶けず、失われずに、輝いているのか。
だって、これを鋳直したムゲンは、願ったのだ。
この輝きが、もう壊れることがないように。
この輝きを大切にしていた、誰かの思い出で、深夜の心が満たされるように。
零時の声が聞こえる。
「深夜。久々に、ガラスを拾ってきてくれないかい?
今日は、晴れだから、おまえの羽で、海まで行けるだろう?」
病床の零時の頼みに、深夜は眉をひそめた。
零時の顔色はいつもよりさらに青白く、視線は熱で朦朧としていて、なのに、汗一つかいていないのが不安だった。
「また今度でいいか? 今夜は雨になるだろう?」
カササギ憑きは気象が読める。零時ほどではないが、力の源泉である深夜も、数刻先が晴れか雨かくらいの先読みはできた。
夜には雨が降る。零時にもそれはわかっているはずだ。わかっているはずだと、そう思っていた。
何故、雨になると言われた零時が、驚いたように目を見開いたのか。そのときの深夜にはわからなかった。
その後の、静かな微笑みの理由も。
「今日がいいんだ。七夕だから。
きっと、綺麗なガラスが見つかるよ……おまえの羽のように、青い……」
あれが、自分は今夜死ぬと、悟った顔だったなど。
あのときの深夜は知らなかった。零時があんなにも、深夜を行かせたがった理由も。
「拾ってきておくれ。星空みたいな……思い出せるように……」
苦しげに咳を始めて、なおも哀願する零時に根負けして、深夜は遠出を了承した。
看護を使用人に任せ、中庭から飛び立つ。
美しいガラスを見つけよう。今夜の星空の、天の川のような。
病床でも、曇りの日でも、零時が星空を思い出せるような、そんな輝きを。
そういう意味だと思ったのだ。ガラスは見つけたけれど、雨に降られて、間に合わなくて、帰ったら零時が亡くなっていて、拾ってきたガラスは見せられなくて。
悲しくて、ガラスごと打ち捨てて、忘れていた。取り違えていた、零時の遺言。
「ガラスを拾ってきておくれ。星空みたいな、青いガラスを……
会えなくなっても、深夜が、零時のことを……思い出せるように」
夜にいる。暗闇を歩いている。夜風に誘われて、頭上を見上げる。星空が見える。
自分がどこにいるのかわからなくて、深夜は戸惑った。森の中のような、霧の中のような、人混みのような、夢のような、曖昧な景色の中にいる。
懐かしい声が聞こえる。
「おうっ、にいちゃん。家族に会いに来たのか?」
妻子と連れ立って歩く酔っ払いに声をかけられて、深夜は何故か頷いた。
それならあっちだと指差されて、礼を言って歩く。
「こんにちはっ、旅人さん。ひとばんいかが?
じいじとばあばのお料理、とっても美味しいのよ!」
見覚えのある気がする女童の宿への誘いに、すまないが、と首を振る。残念、と気にしたふうもなく女童は駆けていって、老夫婦に抱きつく。
他にもたくさんの顔を見かけた気がする。みんな幸せそうで、深夜のことを気にしていない。
訂正。くしゃくしゃの老人と老婆に深く何度も頭を下げられ困惑する。ふたりとも号泣していて、会話にならない。
逃げるように深夜が背を向けても、老いた姉弟はずっと頭を下げていた。
ここはどこだろう。この人たちは誰だろう。見覚えがある気がするが、わからない。思い出せない。
思い出せるのは、ひとりだけ。ひとつの名前だけ。
知らない顔の若い男が、深夜に手を振って、夜空を指差した。
満開の星空に、天の川が広がっている。
その向こう岸に、ずっと会いたかった人がいた。
「零時」
──これは内緒の話。単なる走馬燈の幻か、生者は知る由もない彼岸の話か、あるいは語り部の脚色か。
──嘘も真も定かでない、みんな秘密の物語。
よたよたと、深夜は歩き出した。身体の痛みは感じなかった。あるいは、もうないのか。わからない。気にならない。
暗闇の中を走る。地面を蹴って、夜空に羽を広げる。
零時の声が聞こえる。
「深夜! こっちだよ!」
その笑顔が、はっきりと思い出せる。
零時の背には暁。まばゆい夜明けの青と紅。
その笑顔を目指して、夜明け色の翼を広げて、カササギは天の川を羽ばたいていった。