暁にカササギ羽ばたき燃え尽きる

「おはよう、美夜」 「おはよう……」  居間に降りてきた美夜の「寝れませんでした」と書いてあるような顔色に、暁月は眉をひそめた。暁月が帰ってから、和らぐどころか日に日に酷くなっている。 「今度は誰の声が聴こえて寝れなかったの?」 「神連の、あの熱血男の……婚約者……前にプロポーズの相談乗っちゃったから、聞こえてきちゃって……」  神連にしては真っ当な好人物だった、先日の『狐狩り』で戦死した男を思い出して、暁月は美夜に見えないよう口を曲げた。  彼は元々神結──神連の交渉部署──の人間で、上司といっしょに奇蒐園と神連の窓口を担当していた。あの喰えないほうの神連も美夜が絆されるのを狙って連れてきていたのだろうが、おかげで主人の不調は深刻だ。  美夜はそもそも正義感が強い上に感受性も強い。ほとんど店から外に出ないのは、下手に出歩くと不意打ちで呪いや犯罪の音声を拾ってノイローゼになるからだ。  神連との取引は、そういった危険な情報を丸投げするためでもあったのだが……助言を求められた案件の悲惨な顛末に、罪悪感を覚えた美夜の《遠耳》は連日亡くなった神連や遺族の嘆きを拾ってしまっている。 「美夜。今日は休みにして、京都に薬もらいに行こう」 「ええええ。わたしアイツ嫌いなんだけど」 「ワガママ言わない。その顔で接客されてもお客さんも迷惑だよ」  言い聞かせると、美夜は渋々と頷いた。  京都の薬局は、心痛にも効く漢方薬を処方してくれる神憑きの店だ。美夜は店主を毛嫌いしているが、薬がよく効くのでたびたび頼っている。  店の扉に「本日休店」の看板を立てて、電話で予約を済ませ、居間で朝食にする。暁月と美夜の二人暮らしにしては大きすぎる机は、先代の奇蒐園店主──美夜の伯父──とその妻子のお下がりだ。磨かれた木製の机に、軽くトーストしたパン、ハムとレタス、お湯で戻したインスタントスープを配膳し、バターとマヨネーズを冷蔵庫から取り出す。  自分でサンドイッチを作ってもそもそと食べる美夜に、暁月はティーバックの紅茶を啜りながら報告した。 「皇 光輝くんだけど、神連に入ることになったってさ」 「ああ、悪狐の主人の……ほんとに勧誘したのね、神連」  自分も手伝っておいてなんだが、暁月は「よくやるよねぇ」と相槌を打った。  実際、仲間を大勢殺された神連の怨みを考えなければ、合理的な手ではある。狐退治の前に試みるのが一番良かったのかもしれないが……後悔先に立たずというやつだろう。  スープの水面に視線を落として、美夜が尋ねてくる。 「ねぇ、暁月。  神連は結局、わたしたちが提案した『狐狩り』をやるのよね?」 「うん。それが一番確実だからね」 「……本当に、上手くいくかしら?」 「きっとね。光輝くんと話して、狐との様子を見て、確信したよ」  主人の、神連の前では見せない不安げな顔に、暁月はかつてと同じ言葉を返した。 「あの狐にとって、皇 光輝は唯一無二だ。  喰えば必ず、死に至る」
*  *  *
「皇 光輝を、悪狐に喰わせるぅ?」  神連が悪狐に敗れ、多大な犠牲を出すより前。  美夜たちの提案が断られる少し前。  その断られることになる作戦を練っていた席でのこと。  暁月の出した案に、美夜は盛大に顔を顰めた。 「念のため聞くけど、皇 光輝って今年十五歳の、中学三年生の未成年子どもよね?  それを? 人喰い妖怪に喰わせる? 正気?」  美夜が踵で床に叩く振動で、地下室を照らすテーブルランプが小刻みに揺れる。  奇蒐園の地下にある隠し部屋は、店を守る結界の要であり、店には出せない呪物を眠らせる蔵でもあり、一切の盗聴も覗き見も防ぐ、密談には持って来いの会議室でもあった。空調は最悪で長居したい空間ではなかったが。  美夜の反発は予想通りの反応ではあったので、暁月は苦笑してプレゼンを続けた。 「まず、悪狐に喰われるのは光輝くん自身の望みだ。じゃなきゃこんな案出さないよ」 「自分の命と引き換えに両親やクラスメイトを食わせようとしてるんでしょ?  いじめられてる中学生の破滅願望なんて、まともに取り合う必要ある? 病人の譫言みたいなもんでしょ」 「多分だけど、光輝くんが悪狐に喰われたがってるのは手段じゃなくて、性的な願望だと思う。いじめっ子が目の前で喰われたのが精通だったんじゃないかな」  神連に用意してもらった皇 光輝の資料と、捨てられていた私物から美夜が読み取った思念のメモを、暁月はちらりと眺めた。  憑神と契約した神憑きは、呪いや霊といったこの世ならざるものを感じ取りやすくなる──平たく言えば、霊感に目覚めやすくなる。個人差があり、全く目覚めない者も中にはいるが、美夜くらい霊感が強くなる者も珍しい。  物品に染み付いた人の思念を読み取る──サイコメトリーとか過去視オブジェクト・リーディングと呼ばれる霊能が、神憑きになって目覚めた美夜の特技だ。単体では朧なそれを《遠耳》の権能と併用することで、美夜は呪物の来歴を解き明かす。  今回で言えば、神連から送られた狐に喰われた生徒たちの遺品を聴いて、生前彼らがしていた皇 光輝へのいじめの内容を把握(冥福を祈る気が失せた)。家庭や学校での光輝の様子と評判、食事や身嗜みに以前より気を遣うようになったこと、狐の待つ廃神社に人目を忍んで足繁く通っている事実を踏まえれば、皇 光輝の秘めた殺意と悪狐への恋慕は容易に読み解けた。 「悪狐の好みは『成熟した悪どい男』。光輝くんが狐に食われるのは、早くても三年後だ。  環境が改善して成人しても心変わりしないなら、本人の選択として認めていいんじゃない?」 「乱暴な……街中の人を殺そうとしてるのは? 直接加害行為を働いた連中や放置した教師はともかく、このままじゃ巻き添えが大勢出るわよ?」 「光輝くんにとってはあくまで『ついで』だから大丈夫じゃない? 隙を見て一人ずつならともかく、成人祝いの前菜にまとめてドカンって計画なら、神連ならいくらでも止められるでしょ」  皇 光輝は計画殺人を何度も成功できると自惚れないくらいには賢いが、大人になるまで殺意を保てると自惚れてる辺りは子どもだ。  否、いじめっ子たちの死を野犬の仕業と隠蔽できているつもりの時点で、物知らずの子どもだろう。神連に補足されて携帯端末をハッキングされ、胸に秘めているつもりの野望は丸裸にされている。 「僕たちが神連に頼まれたのは、悪狐の攻略情報だ。採用不採用は向こうに任せるけど、ご期待には添わないとね」 「わかったわよ、もう。自殺を止めたいなら改心させろってことね。  ……まぁ、あの熱血神連あたりに面倒見させれば、絆されそうな目はあるか」  肩をすくめて、美夜は話を進めた。 「じゃ、本題。どうして、光輝くんを食べると悪狐も死ぬの?」 「美夜が言ったんでしょ? 悪狐も皇 光輝に恋をしてるって」 「それは『だから美味しそうって感じてる』って話!  食べ終わったら新しい恋を探すんじゃないの? 黒髪呪祖蛇がそうだったじゃない」  美夜の指摘に暁月は頷いた。 「呪祖蛇と比較するのはわかりやすいね。  答えは簡単。呪祖蛇は人間に食欲しか感じないけど、狐は好意と食欲の区別が付いてないだけだからさ」 「えっと?」  端的にまとめたつもりの回答に美夜がピンと来ていないのに、暁月は反省した。 「確認するけど、美夜はどうして悪狐が光輝くんに好意を抱いてるって思ったの?」 「挙動がおかしいから。確認できた限り、悪狐の今までの主人はみんな行きずりの人間で、命じられない限りはすぐに別れてるわ。好みの人間を選んでる節もないし、主人を食い殺したケースもうるさいから黙らせたって感じ。  なのに皇 光輝とは離れるのを嫌がって、一つ所にとどまって、その癖すぐに食べようともしない。言葉を覚えてコミュニケーションを取ろうとさえしている。明らかに特別扱いでしょ」 「その通り。悪狐は皇 光輝と言葉を交わして、傍にいたがっている。食べ頃を待ってるだけなら、撫でられて歓ぶのは不自然だ。  呪祖蛇なら人間と交流なんてしない。彼の言う『美しい』は『美味そう』って意味だからね。徹頭徹尾、人間を餌としか見ていないケダモノだ。  悪狐は、おそらく『美味そう』『不味そう』以外で人を判断した経験がないから、勘違いしてるだけ。  彼女は本当は、光輝くんを殺したべたくなんてないのさ。自分では気づいてないだろうけどね」 「それは飛躍しすぎじゃない? 明日にでも飽きて食い殺す可能性だって……」 「あるの?」  美夜は渋面になって黙った。確たる証拠はないが、それはないと確信していた。 「……つまり、光輝くんを食べたら、悪狐は最愛の人を食い殺した罪悪感で死ぬと?」 「罪悪感を覚えるほど複雑な精神構造はしてないんじゃないかな。彼女はずっと人語を覚えて来なかった。だから思考を言語化できず、初めての『例外』を食事と区別できていない。  光輝くんを食べたら、彼女は愛する人と一つになれた歓びに満たされる。他の肉には見向きもしなくなり、新しい主人も求めず、愛する人の味を反芻しながら消えていく。  僕はそう予測しているよ」  暁月の結論に、美夜はしばし考えて、頷いた。 「光輝くんを実際に悪狐に食わせるかはともかく、今急いで狩る必要はなさそうね。次に被害が出る猶予を三年以上先にするのは、そう難しくないし。  その方向で提案しましょうか」  それで話は纏まった。発覚している悪狐の被害者は、今のところ強姦魔やチンピラが大半。神連なら現状維持はそう難しくないだろうと、暁月と美夜の意見は一致した。  神連が悪人だろうと人命を犠牲にするのに難色を示したのと、「皇 光輝の自殺願望を和らげるには、一刻も早く悪狐と引き離す必要がある」と判断して……あの惨事が起きてしまった。
*  *  *
「美夜。そろそろ着くよ〜」 「うう、はぁい……」  運転席の暁月に返事をして、美夜は後部座席で起き上がった。結局眠れず目をつむっているだけだったのに嘆息する。  車内に流れるBGMは、ヘルメスに教えてもらった作曲家の音楽だ。ブレイクする前のインディーズ時代の曲まで漁るほどハマったが、今流れている曲は耳にへばりついた悲嘆を払拭するには穏やかで繊細すぎた。 「暁月。もっと激しい曲にしてくれる? 気分転換したいの」 「あ~、じゃあ別のアーティストの曲でいい? インディーズで、美夜の好みじゃないかもだけど」 「うん、知らない曲のがいい」 《遠耳》の意図しない発動を防ぐのに、音楽は有用だった。気に入った曲をずっと聴くタチなので中々新規開拓はしないのだが、聴いたことのない曲はそれだけで耳を傾けやすい。  信号の待ち時間に暁月が曲を変えて、美夜は車内に轟いた濁音に飛び上がった。 「なっ、なになになに!? デスボっ?」 「うん。『バノックバーン』っていう名前の、メタルバンド」  存在は知っていたが好んで聴いたことはないデス・ヴォイス──極端に野太い濁声の歌唱に、美夜は反射的に耳を塞ごうとして、ピタリと止まった手に自分の代償を思い出し……ここ最近ずっと止まなかった泣き声が、聴こえなくなっているのに気づいた。  全く好みではない。うるさくて歌詞が全然聴き取れないし、正直言って獣の唸り声を延々聴いてるのと変わりない。  だけど、力強い音楽だった。耳に染み込んだ泣き声を、力尽くで洗い流すような。生命に満ちた嵐のような歌だった。 「ん? 気に入った?」 「……趣味じゃないけど、気分には合ってるわ」  腕を下ろして、美夜は耳を澄ませた。濁音に思考が押し流され、頭が空っぽになる。  久しく味わえなかった静寂に、美夜は目をつむった。   *  *  *  後部座席で眠ってしまった主人に苦笑して、暁月は車を駐車した。エンジンは止めず空調はそのまま、騒がしい音楽もつけっ放しにして、薬局に行くのを少し遅らせることにする。今しばらくは、久々の熟睡を味あわせてやりたかった。  車から出て伸びをする。昼寝だし、寝かせるのは三十分くらいでいいだろう。  ずっと運転して凝った体を木陰で伸ばしていると、人影に声をかけられた。 「すみません、ちょっといいですか?」 「はい?」  黒い帽子。赤い羽織。白いチャイナ服に、黒い杖。褐色の精悍な面差し。引き締まった身体。  十五クソ狸がそこにいた。 「はい、預かってた端末。遅くなってごめんね?」 「失せろ」  ウィンクに罵倒で返して、暁月は咄嗟に車の鍵を締めた。十五が差し出してきた端末を引ったくる。 「預かってたんじゃなくて掏ったんだろうが! 本当に中身見てないだろうなっ」 「見てない見てない」 「見てはないけど抜き取ったりは?」 「してないしてない。疑り深いなぁ。なんならその確認も報酬に含める? 私は構わないよ」  自分から仕掛けてきたくせに恩着せがましい物言いに、暁月はこめかみを引き攣らせた。  狐狩りの失敗の原因は九割コイツだが、神連は「あそこまでの事態になると予測してはないだろう」と十五の討伐を見送った。  今回は場を引っ掻き回したが、十五は神連にたびたび協力している。大物の呪いを封じる鍵もいくつか握っており、戦力が大幅に削れたこのタイミングで敵対できる相手ではない。  神連としてはこの件は十五の失点ということにして、埋め合わせを要求したいようだ。さっさと縁を切ったほうがいいと思うが、部外者の暁月が口出しすることではない。 「やぁ、凄かったみたいだね! まさかあんなお祭りになるとは!  直接見れなかったのは残念だけど、暁月くんの語りで聴けるなら文句はないや。  もちろん、お礼はするよ? 花代はケチらない主義だからね、私」 「へぇ。何をくれるんだ?」  奇蒐園としては、これを最後に十五と縁を切るつもりだった。善人を狙って破滅させる趣味ではないと判断していたから店に上がるのを許容していたが、ここまでの惨事を笑って招かれて付き合いを続けるほど、暁月も美夜も寛容ではない。  十五はしれっと答えた。 「呪祖蛇被害者遺族への死亡報告工作」 「………ッッッ!!」  やられた。暁月は天を仰いだ。 「神連は狐狩りの後始末で当面手一杯だろうし、このぶんだと年単位で先になるかな。  せっかく美夜くんが身を削ったのに、残念だね?」 「誰の、せいだと……ッ」 「うんうん、だから誠心誠意ご奉仕するよ?  なんなら、お詫びに暁月くんと契約してもいい」  契約、の声の重みに、暁月の頭がスッと冷えた。 「……本気か?」 「もちろん。内容はそっちで決めていいよ。どうする?」  まじないの使い手の結ぶ契約は、霊的な強制力を持つ。憑神は他の呪いに耐性を持つが、やりようによっては主人の命令に匹敵させることも可能だ。  主人を持たず、自力で権能を振るい、組織に属さない十五に、こちら主導で契約を課せる機会は貴重だ。十五の危険性を改めて意識したこのタイミングなら、尚更。  もちろん、穴を突かれ騙される危険は大きい。伊達に六百年生きている古狸ではないのだ。プロの詐欺師と渡り合えると自惚れるほど、暁月は幼くない。  だが。ここまで虚仮にされて泣き寝入りするのは、暁月のプライドが許さなかった。  ちらりと車内を見る。美夜はまだ起きる気配はない。  辺りに人影がないのを確認して、暁月は木漏れ陽を背に、懐から扇子と、まじないに使うガラス玉を取り出した。緊急時の護身用のつもりだったが、小道具にちょうどいい。 「おっ、前払いしてくれるの?」 「ええ、お客様。不義理を働いて縁を切られるのは勿体ないと思わせた方が、安心できますので」  期待に口の端を持ち上げた十五に獰猛な笑みを返して、暁月は扇子を広げた。 「それではしばし、お耳を拝借」  意識を切り替えて声を発する。耳に残るように、馴染むように、情景が目蓋に浮かぶように。木漏れ陽が月明かりに、木陰が夜の暗闇に見えるように。赤紫のガラス玉が、星空を灯すビー玉に見えるように。  知りたいことは、まだまだ山程ある。  夜空の星を数えるように。舞い散る火の粉が燃え広がるように。まだまだ語り尽くせない。 「これより語りまするは、このビー玉にまつわる物語。  夜空に白雲を散らしたような見事な羽が、光を浴びると青空を灯す──愚かで憐れで美しい、一羽のカササギの物語。  聴くも涙、語るも涙。地獄の坂を転げて落ちる、それは滑稽な物語にございます」
タイトル/画:塔島ジューゴ