暁にカササギ羽ばたき燃え尽きる

 高台から見える海がまばゆい朝陽を返し、風に潮の味が混じる。  神連の運転する車から降りて、暁月は帰ってきた、と実感を噛みしめた。軽く伸びをして、陽射しに俯きながら慣れ親しんだ坂道を登る。  暁月が生まれたのは──憑神になったのも──この街ではないが、同じように海の見える街だった。店をここに構えた先代の気遣いに感謝しながら奇蒐園みせの裏手に回り、生け垣に挟まれた邸宅としての玄関を開ける。 「ただいまぁ」 「おかえりなさい……」  手洗いうがいを済ませて居間に入ると、待っていた美夜もゲッソリと青白い顔をしていた。今回はとびきりの厄ネタだったと、改めて疲れが肩にのしかかる。  端末で気晴らしに流していたらしい音楽──ヘルメスに紹介されたアーティストの曲で、冴え冴えとした月光の降る草原を、可愛らしい兎たちが跳ねる情景が目に浮かんでくる──を切って、美夜が暁月をいたわってくる。 「お疲れ様。災難だったわね。  ホントやってくれるわ、あのクソ狸」 「ホントにね……」  あの後、結局 皇 光輝に追いつけず、十五にやられた喉の痛みが引いてきた頃にやっと山道を登りきったと思えば、突然の大火災。炎上する廃神社と巨大化して暴れ回る悪狐を、林から遠巻きに眺めるしかなかった。戦時中の空襲を想起させる光景は、しばらく頭から離れそうにない。 「改めて報告するね。廃神社にいた神斬は全滅。キングさんの体は回収できたけど、損傷が激しくて復活できるのがいつになるかはわかんない。  深夜くんは狐に喰われた。キャパオーバーで爆発することは、まずないと思う」  憑神に憑神を喰わせるのはかなり危険な行為だ。危険な憑神を滅ぼそうと試みた事例はあるが、憑神が腹に収めた憑神のろいを消化できなかった場合、あふれた呪いが辺り一帯を汚染してしまう。  呪祖相手にはとても使えない手だが、深夜は大正時代──およそ百年前に生まれた、そこそこ若い憑神だ。あれだけの炎を権能抜きで振るえる狐が、近代生まれの少し賢かっただけのカササギに、憑神の格で負けることはないだろう。 「じゃあ、あの狐の権能は炎ではないの?」 「うん。光輝くんと少し話せたから、試しに狐憑きによくある治癒の権能を使わせてみたけど、問題なく使えたよ」  権能は憑神一柱につき一つだが、未だ科学で解き明かされない不可思議な力は、なにも憑神だけではない。あの炎は狐が生前から持つ力なのだろう。  あんな派手な力が記録に残らないとはまず考えられないので、憑神にされたときに封じられていたのだろうが……それが主人の危機に目覚めた、といったところか。危うく主人も焼き殺すところだったのを見るに、狐自身も制御が覚束ないようだが。 「代償はまだわからないけど、光輝くんは特に不自由を感じてないって。もしかしたら踏み倒してるのかも」 「視覚に異常が現れるタイプの代償なら、全盲の主人には効果を及ぼさないわね。代償が支払えない人間とは契約できない憑神も多いんだけど……  神連からの報告じゃあまり聞けなかったけど、光輝くんと狐って、実際どうだったの?」 「光輝くんは予想より拗らせてたね。狐は一途だった」  炎の中でさほど突っ込んだ話ができたわけではないが、皇 光輝は人並み外れて賢く、強く闇に惹かれた、ありふれた少年だった。狐とは直接の接触は避けたが、遠目にうかがう限り、光輝といると懐っこい愛玩犬のようだった。 「僕たちの案なら、たぶん神連の損害なしで滅ぼせたと思う」 「そう……」  主人の鈍い相槌と、物憂げな青白い顔に、暁月は半眼になった。 「美夜。『狐狩り』を聴いてたね? 戦場の音が聴こえたら眠剤飲んで寝なさいって言ったでしょ」 「……聴いてたんじゃなくて聴こえるのよ。知ってるでしょ」  わかりやすく目を逸らした美夜に嘆息する。自分が悪いと自覚して、反論できないときの顔だ。  暁月が主人に授ける《遠耳》は、主人が気になった情報を耳で拾わせる。便利で有用な権能ではあるが、「気になる情報を聴かないようにする」のは極めて難しい。自制心の問題もあるが、代償で「耳を塞げない」からだ。  暁月がわざわざ出張して狐狩りの顛末を見届けることにしたのは、待っていれば報告が来ると美夜の不安を和らげ自制心を強めるためだったのだが……これなら傍にいてやったほうが良かったかもしれない。 「最終的には神連の判断だし、殉職した人たちも覚悟してたよ。気に病みすぎないようにね?」 「わかってるけど、神斬に戦死者多数ってことは、呪いに対処する人材がかなり減ったってことじゃない。  これから、あちこちで災いが起こるのかしら」  神連は憑神に対抗するために生まれた組織だが、様々な呪いの専門家が所属し、歴史のある家や騙りでない霊能者、神憑きとの繋がりも強い。結果的に呪い全般に対処する治安機関になっている。  呪いを祓うために人心を置き去りにしたような振る舞いを見せることもあるが、紛れもなく人の世を守る組織だ。神連の弱体化による弊害は、遠耳で憑神の情報を漁る美夜には実感しやすいだろう。  不安に眉を曇らせた美夜に、暁月は口ごもった。 「あー、それなんだけどさ。神連に、戦力を補充する考えがあるみたいで。僕たちも無関係じゃないんだけど」 「? どういうこと?」  暁月が伝えた神連の作戦に、美夜は口をあんぐりと開けた。 「……正気?」 「みたいだよ。意見を求められたから僕もアドバイスしたけど、たぶん成功すると思う。元は美夜の案だし」 「大枠は暁月の案でしょ。  はー、舐めてたわ、神連。そこまでやるんだ……」  呻く美夜に、暁月は笑みをこぼした。  引いているのは本心だろうが、美夜も勝算のある試みだと判断したのだろう。軽口を叩けるくらいには元気になったらしい。 「あ、光輝くんからメール来てないかパソコンでチェックしないと。十五に盗られた携帯端末まだ返ってないし」 「それ、大丈夫なの? 今頃知られたらまずい情報抜かれてない?」 「そういうわかりやすい約束破りはしないと思うけど、盗聴アプリを入れるくらいはしてるかも。返ってきたら神連にチェックしてもらう……  っと、言い忘れてた。神連に送ってもらう途中でみつるの診療所に寄ってもらったんだけどさ」 「満伯父さん? 何かあったの?」  首を横に振ってから、暁月は答えた。 「入院してる深夜くんの主人、そろそろ危ないみたい。  まだ起きるときもあるそうだけど、深夜くんのこと、教える?」 「……いいえ」  美夜の父方の伯父 満は診療所を営んでいる。神憑きや呪いのことも知っているので、頼めば協力してくれるだろうが…… 「状況からして、狐の腹にいる深夜を救出するのは難しいし、天寿を全うされようとしているご高齢の方に耐えられる話でも、聴かせたい話でもないわ。  このまま冥福を祈りましょう」 「……そうだね」  主人の判断に同意して、暁月は居間にある仕事用のパソコンを起動した。電源が点くのを待つ間、窓から見える中庭と、その向こうにある海を眺める。  太陽に煌めく青い海は、少し、深夜のビー玉に似ていた。
*  *  *
「はい。ええ、ありがとうございます、暁月さん。  そうなんですか? わかりました。  はい、ではまた」  当たり障りのない返事に終始して、光輝は通話を終えた。霊視でうっすらとわかる輪郭を頼りに液晶画面をなぞり、ポケットに仕舞う。  携帯端末は元々音声読み上げ機能で支障なく使えていたが、擬似的な視覚を得てより便利になっていた。同級生に嫌がらせで取り上げられなくなったことが、一番快適だったが。 (あの暁月って兎のひと、色々親切に教えてくれるけど、精査するには他にも情報源がほしいな。  でも霊感商法との区別なんて付かないし……しばらくは我慢するしかないか)  あの夜に声をかけてきた兎に憑神や神憑きについて基礎的なことは教わったが、真偽がわからない話も多い。  体感できる限りでは教わった知識に嘘はないし、無駄にからかわれるようなこともないが、他人の話を鵜呑みにするしかない現状が歯がゆかった。  夏の日差しが道路に反射して暑い。白杖で確認をしながら、光輝は霊視の訓練を兼ねて道を歩いた。  あの日以来、世界は『色』であふれている。少しずつわかってきたのは、この『光景』はやはり『視界』ではないということだ。  背後や足元、遮蔽物の向こう側がわかるのもそうだし、脳裏に結ばれる像は聴覚や触覚で拾った情報も反映しているらしい。共感覚に近いだろうか? 近くのもの、触れているものほど造形がはっきりする。最初は地面の凹凸に苦労したが、今では白杖で叩けば音が響く範囲の起伏は読み解けるようになった。  とはいえ、凹凸がないホワイトボードや印刷、液晶画面の文字は読めない。あくまで物の輪郭と気配がわかるようになっただけだ。無機物と生き物の区別は簡単だし、中でも人間はわかりやすいが、大抵は色も光も似たりよったりで個人の識別は難しかった。  光輝が物が少し見えるようになったと知って、両親は泣いて喜んだ(どうでもいいが)。  医者は驚嘆した(得たのが視覚ではないと誤魔化すのに少し苦労した)。  教師や同級生には話していないが、いつの間にか知られていた(良かったねとお愛想を言われて鬱陶しかった)。  光輝としては、あまり関心はない。便利ではあると思う。だが、光輝が『視』て喜ばしいと思うのは、一つだけ。  その『光』を目指して、光輝は山に足を踏み入れた。人の踏みしめた道を頼りに坂道を登る。行く手を遮る蔓草を避けて、汗を拭う。向かい側から人がやって来る気配がする。  足音がしなかったのに気づいたときには、もう遅かった。 『見ツケタ』 「ッ!」  空気の振動を伴わない『声』に、光輝は油断を悟った。生き物の中でも人間はわかりやすいが、そのせいで生者と死者の判別がしづらい。  死霊。それがどういうものなのか、本当のところ光輝にはわからない。わかるのは、時折なにもないはずの空間に、生き物に似た『光』があること。それにうっかり声をかけてしまうと、肉声ではない『声』が近づいてくること。  あるいは死者の思念を光輝が一方的に読み取っているだけなのかもしれない。どちらにせよ無視すればいいし、それは容易だった。  だが、今、この山にいる死者は。 『見ツケタ。狐──主人──君ッ──ヲ──俺・ハ──』  途切れ途切れの引き攣れた声に、光輝は母が倉庫から発掘したカセットレコーダーを思い出した。「懐かしいわ」とウキウキして流そうとした曲は、雑音だらけで聴けたものではなかった。  耳障りで、だから無視できない声が手を伸ばしてくる。しがみつかれて、おぞましい冷気に神経が総毛立っても、反応しなければいずれ去っていく。今のところ光輝にできる対処はそれだけだ。  身を強張らせて、光輝はそのときを待った。モノクロの『影』の指が迫るのを、産毛に感じる。 「ムンっ!」  駆け寄ってきた誰かが、影を蹴飛ばした。  冷気が遠ざかる。木漏れ日を遮る誰かの体温が、すぐそばにある。  反応が遅れて、光輝は目を瞬かせた。 「君、大丈夫か?」 「あ、は、はい」  低い声。男だ。間違いなく生きている肉声。背が高い。光輝が今まで会った誰よりも。足を下ろす気配だけで、鍛えた身体の重みが伝わってくる。  人間だ。だけど、この『光』の強さは。 「あーっ、見つけた!」  もう一つ、朗らかな女性の声が響いた。今度は人間じゃない。たぶん、犬。犬の憑神。  晴れ空のように澄んだ爽やかな光が、蹴飛ばされた影を通り過ぎて坂を駆け上がり、その先の茂みを漁る。 「よしよし、みんなお家に帰ろうね〜」 『帰ル?』  影が、光輝ではなく茂みのほうへ向かった。  男性と比較してわかったが、影は小さい。体が半分しかないかのように、地面を這って、犬の女がいる茂みに手を伸ばす。 『帰ッ・ル──帰ル? デモ・俺──任務……』 「うーん、お仕事は大切だけど、疲れてるときは無理せず山を降りなくちゃ。  家に帰って、ゆっくり休もう?」  犬の女は、死霊が視えていないわけではないようだった。茂みから取り出した何かを持ち上げて、丁寧に語りかけている。  何か。荷物。誰かのスマートフォン。 『家……帰ル……帰リタイ……会イタイ……』  スマートフォンに触れて、後ろ髪を引かれたように影が光輝を振り返る。 「だいじょうぶ。あたしたちに任せて」  犬が宥めると、影は安心したように薄れて消えていった。  数秒黙祷した犬が、誰かの荷物を背負って戻ってくる。 「おまたせしましたっ。ごめんなさい、穂村ほむらさん」 「いや、大丈夫だ。コーダさんのほうは、回収は」  響いてくる重い足音と甲高い悲鳴に、穂村と呼ばれた男の声が止まった。  木々を揺らした巨体が、光輝たちを見つけて足を止める。 「おおおおおい。何かあったかの?」 「ヒィィィっっ。ちょ、おり、降りる、降ろしてくれってぇ!」  現れた穂村以上の巨漢と、その肩に乗せられた光輝より小柄な誰かに、光輝の笑みが引き攣る。  この光の強さと独特さ。間違いなく、ふたりとも憑神だ。それに、穂村という男の気配は、おそらく神憑き。  合計四人の憑神と神憑きに囲まれて、光輝は肩を縮こまらせた。
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「ワシはシャグマ! このちっこいのが小炎太こえんたじゃ!!  身分は、あるばいと、っちゅうやつじゃの!」 「揺れる! シャグマっ、揺れっちょっ助けっぎゃあああああ!!」 「あー、シャグマさん、その辺で降ろしてやってください。  穂村だ。消防士をしている。この間の山火事の調査を頼まれてきた」 「あたしはコーダ! 山岳救助隊だよ。  今日は火事で亡くなった人の、えっと、遺品とかを拾いに来ましたっ」 「……皇 光輝です。友達との待ち合わせに行く途中です」  笑顔が不自然にならないよう気をつけながら、光輝は納得したフリをした。下手に藪をつついても、光輝に打てる手はない。 「小炎太、大丈夫か?」 「だっ、大丈夫だって! 昔はシャグマよりデカかったんだぜっ。どぉってことねぇよ!」 「ガッハッハ! スマンスマン。あんまり軽ぅてな、つい持ち上げすぎてしもうたわ」  シャグマと名乗った巨漢の肩から降ろされた小炎太という小柄な憑神が、足をガクガク痙攣させながら穂村に強がる。  小炎太の主人が、穂村だ。ふたりの『光』が引き合う様子からそれがわかる。他のふたりの主人は、少なくとも近くにはいないようだった。 「あの、コーダ、さん。さっきの、『あたしたちに任せて』っていうのは……」 「あっ。ごめんね、怖かったよね。  さっきの人、光輝くんを心配してたみたいなの。驚かせちゃってごめんね」 「そうだったのか。蹴飛ばして悪いことをしたな」  コーダの声にも穂村の声にも、嘘は感じない。彼らの誰にも、誤魔化しは聞き取れない。  光輝に気づけないくらい嘘が巧みなのか、それとも、本当に嘘がないのか。さっきの霊は、あの夜に死んだ神連だ。きっと光輝を怨んでたはず。わからない。  コーダの底抜けに明るい声から、光輝は目を逸らした。穂村が話しかけてくる。 「光輝くん。待ち合わせ場所は、上の神社か?」 「いえ、別の登山道です。こっちから降りたほうが早いので」 「そうか。あの神社付近は、今は崩れているところがあって危ないんだ。  下の方なら大丈夫だと思うけど、念のため途中までいっしょに行っても良いかい?」 「……はい。ありがとうございます」 「うむっ。疲れたらいつでも背負ってやるけぇの!」 「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」  シャグマの提案を笑顔で躱しながら、光輝は居心地の悪さを噛み殺した。落ち着かない。気を抜くと笑顔が強張りそうになる。  縦に並んで歩く。四人は無駄に光輝に話しかけたりはしなかった。  先頭の穂村とコーダが、時折道を逸れて別のところへ行く。  光輝はシャグマと小炎太に挟まれて先に進むが、背中でふたりが何をしているのか視ていた。 「コーダさん、火消し壺を」 「はーいっ」  林の奥で、周囲の地面を灰にしてなおも熱を発する炭に穂村が近づき、コーダが背中から下ろした容器に手早くしまう。そういった権能なのか、穂村は熱そうな素振りはするものの、火傷を負う様子はなかった。  炭ではなくただの荷物のときもあり、そういったときはコーダが手を合わせてから回収している。何度か視て、気づいた。燃えている炭は、焼け焦げた神連の遺体。荷物は遺品だ。  恐らく、何らかの探知がコーダの権能なのだろう。主人ではなく、主人に命じられた憑神が権能を振るうケースもあるとあかつきが言っていた。 「光輝くん、どうかした?」 「いえ……お元気だな、と思って」 「うんっ。山だとそれが大事だからねっ」  戻ってきてまた先頭を行くコーダに、光輝は畏れを抱いた。  曇りなく溌剌とした声。背負った神連の遺体に、何も思っていないわけではない。黙祷を捧げる姿からそれは読み取れる。なのに、光輝に向ける笑顔は力強く、揺るぎない。 「ヒィ、ヒィ、ヒィっ」 「小炎太、怖いならやっぱりシャグマさんに乗せてもらうか?」 「いっいいいいイらねェよっ。こっち見んなっ。大丈夫だから!」 「カッカッカッ。気が変わったらいつでも申し出るが良い。  わらしは大丈夫かの?」 「はい。お気遣いありがとうございます」  あちこちの木陰に『影』を感じるが、シャグマの足音に気圧されているうちに、駆け寄ったコーダに宥められ、穂村に手際よく遺体を壺に納められて消えていく。背後の小炎太は酷く怯えているが、恐らく光輝の素性を察しているのだろう、チラチラと警戒した視線を感じた。  小炎太の視線が一番安心できた。他の視線は、なんだか落ち着かない。あまり覚えのない色の視線。裏がなく、含みがなく、眩しさに隠れたくなるような。 「オイ、わらし」 「はい?」  前を行くシャグマが光輝を振り返る。  光輝は作り笑いで応えた。完璧に笑えた。そのはずだ。 「疲れとるんなら、無理に笑わんでエエぞ」  シャグマの言葉に、完璧だったはずの笑顔がひび割れた。  居心地が悪い理由を悟る。彼らの視線には、侮りがない。  光輝の両親のような──光輝ちゃん、ママの可愛い光輝ちゃん、良い子の光輝ちゃん、ママを傷つけない光輝ちゃん──  近所の大人たちのような──光輝くん、とっても良い子よね。いつも笑顔で、優しくて。ウチの馬鹿息子も見習ってほしいわ。元気で五体満足なのだけが取り柄で──  同級生たちのような──目ぇ見えない癖に生意気だよな、スメラギツネ。ぜってぇ先生の贔屓だって。だってあいつんち病院なんだろ? マジ? ダッサ。医者の息子が障ガイ者かよ──  教師たちのような──イジメ? 勘弁してくれよ。教師が特定の生徒を特別扱いしちゃダメなんだって。な? 皇はイイやつだから先生を困らせたりしないだろ? な?──  コーダたちは、光輝を軽んじなかった。手助けを申し出ても、光輝が自分の足で歩くのを阻もうとはしなかった。盲目の光輝が周囲の様子を察しているのを訝らず、一人でも歩けるのを疑わず、作り笑いに騙されもしなかった。  自分が今どんな表情をしているのか、光輝はわからなくなった。  足を止める。分かれ道に着いていた。 「……では、僕はここで。皆さん、ありがとうございました」 「うむっ。何かあれば駆けつけるゆえ、叫べ!」 「気をつけて降りてね。もし滑ったりしたら無理に動かないで助けを待ってね」 「できれば、友達にも神社にはしばらく近づかないよう伝えてくれ。  ? 小炎太、どうした? トイレか?」 「ちがっ……イヤもうソレでいいから! 行こうぜっ」  早く離れたそうだった小炎太が、穂村を押して廃神社への道を登るのを背に、光輝は山道を降り始めた。  しばらくは、素直に歩く。そのまま、そのまま……四人が十分に離れたのを見計らって、道を逸れる。  落ち葉を白杖で掻き分け、木の根につまづかないよう足を急かす。ぶつかる恐れを持たずに走れるようになったのが、霊視を得て一番の収穫だったかもしれない。  あらかじめ兎に教わっていた『目印』──地面からうっすらと伸びる光の線を跨ぐと、途端、前後上下左右にあふれていた光が遠ざかった。  光輝が求める『光』は、視て嬉しいと思い、喜ばしく感じる『色』は、この世でただ一つだけ。  どこにいても見失うことのない、世界を圧倒する『紅』が、一直線に光輝に抱きついてきた。 「光輝ィ〜〜〜!!」 「燐子……!」  遠慮なく押し当てられる柔らかい感触と、火の粉のような体臭に、光輝は全力で縋りついた。  赤。赤だ。他の人間の言う『赤』と同じ色なのかはわからないが、光輝はその色を『紅』と認識していた。  すべてを飲み込む赤。灼き尽くす赤。生命の赤。流れる血の赤。 『色』や『光』の強さは意識や状態で変化するらしく、今の燐子はあの夜よりぐっと色も光も落ち着いている。体温は熱いくらいだが、これはいつも通りだ。  クンクン光輝の首筋を嗅いでいた燐子が顔を上げる。 「ンンン、光輝、他のヤツのニオイするぅ」  燐子の不機嫌そうな声に、光輝はドキリとした。肉体的な接触はなかったはずだが、さすがの鼻というべきか。  次いで、自分が燐子の乳房に顔を埋めていたのに気づいて、慌てて顔を離した。頬に血が昇るのを自覚する。  我ながらみっともなかったが、燐子はそんなことを気にしないともわかっていた。 「さっき、他の憑神に会ったんだ。ちょっと話しただけだけど」 「フゥ~ん」  案の定、燐子が気にしているのは光輝についた残り香のほうだった。力強い指が光輝を撫でくり回し、制服の下にも舌が伸びてくる。  これは長くなるぞと覚悟して、光輝は制服を破られる前に自らボタンを外しベルトを緩めた。
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「……えっと。ごめんね、中々来れなくて。  もうすぐ夏休みだから、前よりいっしょにいられると思う」 「ほんとっ?」  持参した濡れタオルで肌を拭きながらそう告げると、燐子は目に見えて機嫌を直した。と言うより、マーキングを終えて満足したのか。  燐子の主人になってから、光輝は虫に刺されたことがない。犬も猫も鳥も、光輝を避けるようになった。  だから、光輝に触れる生き物は燐子だけ。その原則が破れると、燐子は光輝にマーキング──要は交尾を──する。  屋外で裸になる心許なさにも、すっかり慣れてしまった。燐子の精液でべっとりとしたタオルを密封袋にしまい、光輝はズボンを穿いて燐子の隣に座り直した。 「燐子は、僕がいない間大丈夫だった?」 「うんっ。光輝に言われた通りここにいたし、ダレも食べてないよ。お腹すいてないし」  パタパタと二又の尾を揺らした燐子が、光輝の腕に体を絡ませて乳房を押し付けてくる。温かく柔らかい質量が自分の肩で潰れるのは、男としてかなり好きな感触だったが、光輝は「ごめんね」と前置きしてシャツを羽織った。光輝を散々喘がせた燐子の男性器が、鎌首をもたげている。もう少し裸で燐子と寛ぎたい気持ちはあったが、帰りが遅くなると母がうるさい。  とはいえ、まだ時間はある。燐子がじゃれついてくるのを撫でながら、尻から腰に走る鈍い痛みを意識しないようにして、光輝はスッキリした頭で考えを巡らせた。  あれから事情聴取や両親の目がうるさく、中々燐子に会いに行けなかったが、あの兎は約束を守ってくれたらしい。この草むら一帯を囲む光の線──結界というやつだ──は人目を遠ざけ、燐子を隠してくれている。  でも、ずっとこのままというわけにもいかない。あの廃神社はもう寝床には使えないし、光輝の家で燐子がこっそり暮らすのは無理だ。  どこか、燐子といっしょにいても見咎められない場所は……  そこまで考えて、光輝は燐子の報告に違和感を覚えた。 「燐子、お腹空いてないの?」  燐子は大喰らいだ。前に鹿を一匹ぺろりと平らげていたのを覚えている。  兎によると憑神に食事は必須ではないらしく、実際 燐子が食事をする頻度もまちまちだが、これだけ日数が空いて燐子が空腹を訴えないのは…… 「うん。あのトリ、まだいるから」  あっけらかんと燐子が腹を撫でるのに、光輝はまじまじと意識を凝らした。  言われてみれば、燐子の赤い光の中に、鈍い青い輝きが瞬いている。 「鳥って、神連の憑神?  え? まだいるって、お腹の中で生きてるってこと? 大丈夫?」 「ダイジョウブぅ。ほら」  燐子に手を導かれ、光輝は燐子の腹を撫でた。燐子が心地よさそうに喉を鳴らす。  確かに、燐子の脈拍とは別に、弱々しい鼓動を感じた。赤い光の中で、青い光がじわじわと溶かされているのが視える。  燐子の消化器官がどうなっているのかはわからないが(明らかに体積以上の人数を平らげてもケロリとしていた)、これだけ弱っているなら腹を内側から突き破られるということはなさそうだ。  だが、今度は光輝が嫉妬する番だった。  生きたまま燐子に喰われ、その熱と肉に包まれ、弱火の鍋で煮られるように蕩かされる。それは、どんなに甘美で、心地よい…… 「光輝。まだ。ね?」  甘い声に嗜められて、光輝は我に返った。辛抱弱さを指摘されたようで赤面する。  燐子はゴロゴロと喉を鳴らした。 「光輝ィ。あたし、アレ食べたい。アメ!」 「飴? 前食べたときはあんまりじゃなかった?」  前に、塾で配られた飴に燐子が興味を示したことがあった。あげたはいいものの、すぐに噛み砕いてしまい、歯がくっついてベトベトすると不機嫌になった。「噛むんじゃなくて舐めるんだよ」と教えると、「めんどくさい」と臍を曲げて…… 「ツルツルがノド通るの、おもしろかったから」  どうやら、今度は噛むのではなく飲み込むつもりらしい。燐子なら喉に詰まらせることはないだろうが、念のため小さめのにしておこう。  それにしても、どこで飴玉なんて食べたんだろう? 首を傾げながら、光輝は燐子の腹を撫でた。いつの間にか狐の体になった燐子が、もっと撫でてと長い舌と湿った息で訴えてくる。  燐子の望み通り、光輝は毛に覆われた柔らかい腹に指を埋めた。縮れていてもつれているところも多い燐子の毛を、丁寧に梳る。指通りが良くなっていく温かい毛並みに、時間を忘れそうになる。  だから光輝が異変に気づいたのは、弾かれたように燐子が起き上がってからだった。 「燐子? どうし……」 「失礼。少しお時間をいただいても?」  聞き覚えのない声に、光輝は立ち上がった。  光る線のすぐ内側に、朧な『光』が立っている。何の変哲もない人間に視えるが、いくら意識を凝らしても、背丈も性別も掴めない。 (神連の人だ)  油断を自覚して、光輝は歯軋りした。光る線けっかいは外からの耳目を遮るが、中からも外の様子が視えづらくなるのは、知っていたのに。  警戒する光輝と牙を剥いて唸る燐子に、神連が恭しく告げる。 「本日は勧誘に参りました。  戦う気ならあなた方の勝ちですが、そうしますか?」  光輝は一瞬、神連の言葉の意味を掴み損ねた。 「……かんゆう?」 「はい」  大真面目に神連は頷いた。 「皇 光輝さん。  その狐を従えて神連に入り、共に人の世を守るため戦う気はありませんか?」
*  *  *
 何を言われているのか理解できず、返事には数秒を要した。  ようやく回り始めた頭が、「この人は光輝が燐子の所業を知らないと勘違いしてるんじゃ」と思い当たる。 「あの、僕は、燐子の主人です。  だから、あなたの仲間の、仇ですよね?」  神連は動揺を見せなかった。 「それは、人の世を守るより大切なことですか?」  その平板な声に、光輝は絶句した。何の動揺も葛藤もうかがわせない、仮に押し隠した怒りや無念があろうと、大義のためならそれらを押し殺せる声だった。 「あなたの仰るように、そちらの狐による被害は甚大で、神連の戦闘員は大きく数を減らしました。  あなた方を裁くために力を費やすより、償いに力を貸してもらった方が助かるのですよ」 「裁くって、できるんですか?」  あれだけ燐子に蹂躙されて、戦闘員が激減したと自分で認めたのに。  光輝の挑発に、神連の声は小揺るぎもしなかった。 「勘違いされているかもしれませんが、先日の戦いで神連が敗れたのは、犠牲のない完璧な勝利を目指そうと驕ったゆえ。  この街すべてを巻き添えにする覚悟なら、あなた方を滅ぼせます」  神連の宣告に、光輝は顔を強張らせた。 「やはり、それは困るのですね」  鎌をかけられた。屈辱に拳を握りしめながら、光輝は図星を刺されたと認めざるを得なかった。  ダメだ。それはダメだ。人が死ぬのも家族が死ぬのも街が滅びるのも構わない。だけど、それをされたら、この街を滅ぼしたのが光輝ではなく神連になってしまう。 「あなたの目的は、成人を迎えたらその狐に街を滅ぼさせ、最後は自分が喰われること。  なら、それまでの時間を神連で過ごす気はありませんか?」  どこでそれを知ったのか、なんて今更だった。  傲然と背筋を伸ばして問い返す。 「僕が街が滅ぼすのは構わないんですか?  それとも、僕にはどうせできないと思ってます?」 「ええ。どうせできないと思っています」  大真面目に頷かれた。  光輝の思考に怒りが届く前に、神連が言い添える。 「だってあなた、他人ひととまともに話したこと、ないでしょう?」  光輝の舌が凍った。言い返せない。  人と誠実まともに話したこと──作り笑いを使わず、本音で語り合ったことなんて、光輝にはない。  だってみんな、馬鹿だから。みんな、光輝を馬鹿にするから。  だから。光輝は。こんな街なんて。 「あなたの破壊衝動なんて、大人になって、友達ができて、広い世界に触れたら霧散する程度の幼稚な破滅願望だと、タカを括っていますよ。  お怒りですか?」 「──燐子」  光輝は腕を横に上げた。光輝の苛立ちに反応して神連に飛びかかろうとした燐子が、動きを止める。  ここでこの神連を殺すのは簡単だ。一言、燐子をけしかければいい。いや、その必要すらなかった。燐子は光輝の怒りを汲み取って動こうとした。それを止めなければ、神連は今頃肉塊になっていたはずだ。  簡単だ。言い返す必要なんてない。燐子にこいつを殺させる。それだけでいい。ただ、それだけで。 『おーい、皇。成績表見せろよ。ケチケチすんなって』 『ハァ!? 1位!!? 嘘だろ?』 『おい、何笑ってんだ。生意気だぞッ、メクラのくせに!!』  それだけで光輝は、ただ目が見えないからというだけで光輝を見下した、あの低脳どもの同類に成り下がる。 「わかりました。神連に入ります」  作り笑いを消して、光輝は挑戦を受けた。  神連が静かに頷く。 「歓迎します。  表向きには、あなたは狐の本性を知らず、償いのため入隊したとしておきましょう。  それと、あなたが最期を迎えるときまで、その狐に人を食べさせないでください」 「それは、」 「んー? いーよぉ」  口籠った光輝の代わりに、燐子が頷いた。いつの間にか人の形に戻って、光輝に抱きついてくる。 「燐子、いいの?」 「うんっ。だって、ヒトじゃないのは食べてイイんでしょ?」  先ほどまで光輝に撫でられていた腹に指を這わせて、燐子はうっとりと笑った。  肉欲に蕩けた、華やかに邪悪な笑顔だった。   *  *  *  連絡先を交換して去っていった神連を見送って、光輝は燐子と手を繋いだ。 「燐子、ごめん。勝手に決めちゃって」 「いいよぉ。だって、光輝はあたしのご主人様だもん」  燐子が手足と尻尾を絡ませてくるのを甘受して、光輝は決意した。  これは、闘いだ。暴力でも言葉でもなく、行動で、光輝はあの侮蔑を覆さなくてはならない。  燐子と共に、この街を滅ぼしてみせる。光輝を蔑み、疎み、苛んだ街を。家族を。人間たちを。  だけど。 『そうだ。契約の仕方を教えておこう』  暁月の声を思い出す。  連絡先を交換して、憑神や神憑きの基本的な知識を教えてきた兎。光る線──この草むらを人目から隠す結界を用意して、恐らくは神連を招き入れた、油断ならない兎。 『あの狐を縛る方法だよ。必要ないって?  こう考えたらいいんじゃないかな。これは自分への誓約だって。神憑きと憑神は一蓮托生だからね』  だが、少なくともその知識は真っ当で有用だった。  燐子の尻尾を撫で、顔があるだろう位置を見上げる。 「燐子。約束して」 「んー? なぁに?」 『約束をするんだ。一つだけ、シンプルなものがいい。  何にも代え難い、たった一つの望みに絞って、その実現を約束する。簡単だろう?』  大人になったら、街を滅ぼす。だけどそれは、一番の望みじゃない。  光輝の、一番の願いは。 「僕が大人食べ頃になったら、僕を食べて」 「うん? うん、食べる。言ったよ?」 「もういっかい」  ねだると、燐子は頷いてくれた。何度も繰り返す。 「僕が大人になったら、僕を食べて」 「うん、ヤクソク。  楽しみ。オトナになった光輝、きっと、いちばん美味しい」 「約束だよ。絶対だからね?」 「うん、ぜったいね。  ゼッタイ、光輝を食べさせてね?」  初めて会ったあのときから。変わらない。焦がれるように思った。彼女に殺されたい。彼女に喰われたい。彼女の血肉になりたい。  これが一時の気の迷いだなんて、未来の自分にだって言わせない。 「約束。楽しみ」  楽しげに頬擦りしてくる燐子を、光輝は強く抱きしめた。  大人になった先の未来なんて、知ろうともしないまま、ふたりの結末はここに確約された。
タイトル/画:塔島ジューゴ