海にほど近い住宅街の一角に、その店はあった。
『よろづ奇蒐園』と達筆な文字で記された看板からは、張り巡らされた呪いの気配がした。不心得者を弾く厄除け、呪いが外に漏れないようにする封印、覗かれず盗聴されないようにする入念な覆い……古臭い記述や異なる流派が入り交じる結界は、洗練されてはいないが拘りを感じる。恐らくは独学の術師によるものだろう。
足を踏み入れると、古びた木目の床に所狭しと棚が並び、陶芸品や彫像、古書や絵画などが陳列されていた。ガラス戸から覗く品は一つ一つが灯りを浴びるように飾られ、骨董店というより博物館のように感じる。よく掃除されているが、陽射しが排された室内の空気は冷えて、薄暗さも相まって少し余所余所しい。
その奥の、棚と棚の間を一望できる位置に受付台があり、
「うっわ。マジでやったの?」
椅子に腰かけた女店主が、思いっきり顔を顰めて深夜と神連の黒衣を迎えた。
「お言葉ですが、深夜を傘下に収めたいなら天見 零時のことを忘れさせればいい、と仰ったのは貴女では? 四方木さん」
「そうでもしないと無理、って言ったのよ。
神連、大丈夫? 人間社会を守ってくれるのはいいけど、人道とか人の心とか忘れちゃいけないものを忘れてない?」
扇子で口元を隠しながら好き放題言い放つ店主は、なんというか、柔らかな女だった。
重たげに伸ばした黒髪は柔らかな色合いで、半円の眼鏡をかけた垂れ目は柔和に見える。着物風のシャツに包まれた胸は如何にも柔らかそうで、椅子の上で組んだ足が袴っぽいズボン越しに輪郭を覗かせると、しどけない色気が立ち昇った。
毒のある言葉を吐く声すら物柔らかで、本人が意図しているほど険を感じさせない。扇子を手にした呆れ顔にも品がある。成人しているのは明らかで、高貴な服装というわけでもないのに、どこかお嬢様然としたあどけなさを帯びた女だった。
「ご忠言はありがたく。ところで、作戦には参加していただけますか?」
「無茶言わないでよ。こっちは善意で情報提供しただけの素人。後はそっちの仕事でしょ」
「ええ。ですから、こちらの判断でお誘いしています。
是非、かの憑神の討伐に貴女の御力もお借りしたく。四方木 美夜さん」
渋面になった女に助け舟を出すように、店のさらに奥からほっそりとした影が進み出た。
「美夜。緊急事態なんだし、安全を保証してくれるならいいんじゃない?」
「おや、よろしいのですか? 暁月さん」
現れた男は、美夜と似た色合いの着物姿だった。真円の眼鏡といい、長く伸ばした髪といい、美夜と雰囲気がよく似ていて、並び立てば兄妹のようだった。男の黒髪から、まっすぐな兎の耳が伸びていなければ、だが。
この男が四方木 暁月。美夜に憑く兎の憑神であり、神連の協力者だった。
嘆息した美夜が頷く。
「良くないけど、仕方ないわ。早く封じないと被害が大きすぎる」
「そんなに酷いのですか」
「酷い」
美夜の返答は端的だった。髪をかき上げて、耳を覗かせる。
「そいつに喰われた人の声が聴こえるのよ。耳障りで心底吐き気がするわ」
「貴女の《遠耳》は存じてますが、憑神に喰われた、縁のない死者の声まで聞こえるのですか?」
「遺留品を売りに来たクズがいたのよ。お陰で安眠妨害で大迷惑。
それでも、憑神に殺人を隠す気があったら聴こえなかったでしょうけど」
理解が、しばし遅れた。
「この憑神は、獲物をすぐには殺さず丸呑みにして、腹の中で泣きながら弱っていくのを楽しんでる。ある程度選り好みはしてるけど、手当たり次第と言っていい頻度でね。
おまけにわざと痕跡を残して、食いでのある獲物が寄って来るのを期待してるのよ。性格最悪だわ」
絶句する。神連の長い歴史でも、久しく遭遇していない凶悪な憑神だ。
生きたまま喰われる人間の断末魔を楽しむ、悪辣な獣。そんな存在は……
「ゆるしがたいな」
ポツリと言った深夜に、場の視線が集中した。
何故かわからず首を傾げた深夜に、暁月が苦笑する。
「愛で道を踏み外すのは、人も獣も神も同じだね」
「憐れだこと」
扇子を広げて、美夜が嘆息する。
神連が仕切り直すように手を打ち鳴らした。
「ええ。皆で力を合わせ、邪悪な憑神を倒しましょう。深夜」
同意する黒衣に、深夜は頷きを返した。
胸に火が灯ったような感覚があったが、それが何故かはわからなかった。
指示された通りに高く飛び、深夜は早朝の街を見下ろした。遠くに山。行き交う車の音。あちこちに朝陽を浴びたガラスの反射光が見えて、意識を惹かれる。
『深夜。ターゲットは確認できたか?』
持たされた無線からの神連の声に、深夜は使命を思い出した。人に仇なす憑神を狩る。人を喰らう、悪しき獣を。
燃えるような熱意に急かされ、深夜は目を凝らした。神連によって人払いがされた一角に、機嫌良く歩く影がある。
「たぁげっと、禹の六に接近中。どうぞ」
『ゲッ。了解。
うっそでしょ、なんでこっち来るかなぁ」
ぼやきながら、四方木 美夜は作戦通りの方角に足を動かした。
神連は歴史が長く、根強い支持者のいる組織ではあるが、殉職率も高く人材が潤沢とは言い難い。囮に穴を開けないためと言われて断れなかったが、数合わせのつもりだったのに。
「そりゃ他の奴らは殺気がビンビンだからなァ。ビビってるやつから啼かせるほうが面白いだろ」
後ろから響いた下卑た声に足を止める。さすがに包囲網はバレていたらしい。
観念して、美夜は背後に向き直った。
「初めまして。呪祖蛇・黒髪、でいいのよね?」
「そういやそう呼ばれてたな。どうでもいいが」
人に殺された獣が憑神になる要因の一つに、土地に染み付いた呪いがある。
呪われた地で最初に憑神となり、その地の呪いを象徴する存在となった獣、呪祖。その一柱。九州の、今は佐賀県と呼ばれる地で遥か昔、山にとぐろを巻いて贄の乙女を要求し、断られると暴れ回った凶悪な大蛇。
憑神としてのその姿は、くるぶしまで届きそうなほど艶やかな黒髪の男だった。真夜中の小川に星を灯したら、こんな煌めきになるだろう。地面を踏み締める足も、広げた腕も、身に纏う服すら、輝く黒で占められている。
つまり。
「髪を服にしてるの? 露出狂?」
「あぁン? わざわざ着てやったんだから感謝しろよ。丸出しだって俺は構わなかったんだぜ?」
優男、と形容するには凶悪な笑みに、美夜は扇子を広げて怯えを隠そうとした。神連の許可を得て漁った資料を思い出す。
黒髪は元の大蛇の姿になることはできない。憑神にされたのは、水を腐らせ山を枯らした祟りを鎮めるのに加えて、その巨体を封じるため。もっとも、起呪によって傍迷惑な食欲は底無しになっているようだが。
憑神になってからも気ままに人を食い殺して回り、終には浮雲に愛された女に斬り殺されて封印された蛇。それがなぜ、人の世に解き放たれているのか。
「あなたを解放したのは……」
「あー、なんか黒服着た女だったな。永遠に生きたいとかどうとか言ってたぜ。
すぐに殺したから覚えてねェけど」
「そう。やっぱり神連の身内の不祥事じゃない。巻き込まれていい迷惑」
吐き捨てて恐怖を紛らわす。ニヤニヤと答える蛇神は、明らかにこちらの反応を見透かして面白がっている。
時間稼ぎに付き合ってくれるのは結構だが、なぜわざわざ会話してくれるのか。
「俺ァよ、できるだけ美味ェ肉が喰いてェんだ」
「……あれだけ毎日ドカ食いしてるやつが、美食家だなんて思わなかったわ」
「そりゃ前菜だからな」
蛇のセリフに、美夜の耳に犠牲者たちの悲鳴が蘇った。
家族を呼ぶ声。目の前で溶けていく恋人の名を叫ぶ声。必死に命乞いして、力尽きて静かになっていく声。狂った笑い声。大声で歌い始めた声。怒鳴り声。嬌声。断末魔。
蛇神が舌舐めずりして嗤う。
「最初っからピーピー萎れてる肉より、こっちを殺す気満々の肉のほうが美味ェ。
そろそろ食いでのない肉にウンザリしてたからな。助かったぜ」
美夜の震えが止まった。言ってはいけない言葉を思いつく。
向こうは美味い肉……自分を殺そうとする人間が集まるのを待っている。時間稼ぎに徹するべきだ。
わかっているのに、我慢できず、美夜は扇子を閉じて、口を開いた。
「……驚いたわ」
「あン? おまえらの罠がバレバレだったことか?」
「いいえ。あなたが」
自分でも驚くほど容易く、美夜は嗤えた。
「思ってた以上に、ブサイクで」
「──イイ度胸だ」
蛇から笑みが消えた。動きが静かに、狩りのそれになる。
「おまえみてェに大口叩く女が、腹ン中で命乞いすんのが美味ェんだ。せいぜいイイ声で泣けよ」
美夜が後ずさるより早く、蛇が靴の甲を踏んだ。動けない。黒く冷たい手に肩を掴まれる。
大きく開いた口から漏れる臭気が、ぬるりと美夜の頬を包んで。
「ぶェっ!?」
横から飛んできた影に、蛇は頬を蹴飛ばされた。
美夜を背に着地したのは、神連の黒衣を纏った少年だった。帽子を被った真っ白な髪から兎の耳が垂れ、真紅の瞳が怒りに燃える。
神連に与する白兎の憑神、千渦が、許しがたい悪を前に声を張り上げた。
「今のは、大学に推薦が決まって、友達と卒業旅行に来てた女の子のぶん」
「てっめ、ぷぉッッッッ!!?」
「これは、新婚旅行中にオマエに喰われた旦那さんと、旦那さんの前でオマエに犯されながら喰われた奥さんのぶん」
顔を蹴られた屈辱に声を濁らせた蛇が、睾丸に爪先がめり込む衝撃に悶絶する。
「弟を逃してオマエに喰われた女の子のぶん」
「ぐぉっ」
「病院に行く途中でオマエに喰われた妊婦さんのぶん」
「かはっ」
「恋人がほしくて海に来たら、オマエに喰われた子たちのぶん」
「ぎょぶっ」
美夜が無事に逃げたのを確認して、千渦の動きが加速する。兎の脚力に人間の武術を乗せて、蛇神を翻弄し打撃を重ねていく。
「好きな人とデートした帰りにオマエに喰われた子。仕事帰りに来た温泉でオマエに喰われた人。家族と喧嘩して帰るのが気まずくて散歩してる最中にオマエに喰われた子。春からの大学生活楽しみにしてた子。プレゼントを抱えて帰る最中だった人。好きな人に告白しに行く途中だった子。インターハイに向けて練習がんばってた子。やりたい仕事があった人。夢に向けてがんばってた人。
彼らの痛みをッ! 万分の一でも味わいながらッ!! 肉団子になりやがれぇぇぇぇえええええッッッ!!!」
ただ速いのではない。千渦が習い覚え鍛え上げた武術は、相手を惑わし防御をすり抜け急所を貫く。
古くから在るが、力任せに獲物を蹂躙したことしかない蛇神は、人間の武術など知らない。一方的に翻弄され、人体の急所を打たれる衝撃に目を回し、ついに我慢の限界を迎えた。
「舐めンな」
「ッ!?」
蛇神の手足が、ぱらりと解けて千渦を絡め取った。
髪だ。手足を真似るのをやめた、鋼よりも強靭な毛髪が、千渦の体を縛り身動きを封じ込める。
以前の封印の折に呪祖蛇は四肢を断たれている。知ってはいたが、とっくに封を解いた主人に治させたものと誰もが判断していた。
動けない。皮膚に食い込んだ髪がプツプツと肉に切れ込みを入れる。動けば骨ごと断たれる予感がある。
スローモーションになっていく意識の中、千渦は眼前に牙を剥いた蛇神が迫るのを見据え、せめて一矢報いようと拳を固めた。
天から舞い降りた影が矛を振り下ろして髪を断ち、千渦を抱えて飛び上がった。
「深夜っ!?」
「逃がすか」
千渦を抱えて飛んだ深夜の高度は低い。
跳躍して一呑みにしようと髪をバネの形にした呪祖蛇は、後ろ髪が何かに引っかかって動きを止めた。
「おぬし、山のヌシだったそうだな?」
こめかみに角を生やした巨漢──カモシカの憑神キングが、呪祖蛇の髪を一纏めに抱えて、獰猛に笑っていた。
丸太のように太い腕が力瘤を膨らませ、無数の古傷が浮かび上がる。
「奇遇だな、儂もそうだったらしい。
いっちょ、山のヌシ対決と行こうか!!」
「ぐぉおおおおおおおっ!!?」
ハンマー投げのように振り回され、蛇神は屈辱に吠えた。何かの呪具をいっしょに巻かれたらしく、髪が動かせない。
きらびやかな黒い髪は蛇神の鱗が変じたもの。武器である以上に誇りだった。それが、こんな雑魚どもに斬られ、掴まれ、振り回されるなど。
「ブっ殺……!?」
あと一秒で呪具を断てる。その寸前に、キングは手を離した。
放物線を描き、呪祖蛇が空へ放られる。白兎を逃がして再び飛び立ったカササギが、矛を構えて中空で待ち構えている。
その愚かさを蛇神は嗤った。もはや容赦をする気はない。己の中にある血を強く意識し、口の中に溜める。
幾星霜の時を経ても忘れ難い、生前喰らった最後の人間。己の心身を毒に浸し、自ら蛇に喰われることで蛇を討ち取った──蕩けるように芳しく、冴え冴えと美しかった、あの人間。
彼の姿と共に、あの毒も蛇の体に記憶されている。その気になれば、血肉を媒介に再現することも。再現できるのは効能だけで、味は蛇の血肉のままだったので、今まで狩りに使ったことはなかったが。
(皆殺しにしてやる)
あの血を壊し肉を沸かし骨を熔かし魂を焦がす毒を街中に降らせようと、蛇神は頬を膨らませた。
「我が主人からの伝言でつ」
声が。暗闇から聞こえた。
暗闇。目の前が暗い。何故だ。声がする。後ろから。
遅れて。奇妙な感覚。思考が断裂している。顔が。自分の顔に。何かが突き刺さっている。
白い翼を思い出した。遠くに一瞬見えたそれが、飛んできた。蛇のもとへ。一直線に。声より早く。稲妻のように。
雷鳴の如く透る声が、終わりを告げた。
「『悪党。おまえの悪事もここまでだ』」
溜めた毒が、吐き出せないまま喉に落ちる。喉が焼ける。熱い。痛い。体が墜ちていく。下へ。髪が。動かせない。
衝撃。落下した。力が抜けていく。顔に刺さった何かが。力を削いでいる。抜けない。何もできない。喰えない。話せない。
匂いがする。女の匂い。食べたい。口を開いて、何もできないまま、蛇は己を見下す声を聞いた。
「イイザマね。ブサイク」
その言葉に怒りを覚えるより先に、かつて彼を斬った女の冷たい刃を思い出して。
うっかりと、気持ち良くなってしまい。それを最期に蛇の意識は途絶えた。
「うっわグッッッロ」
落ちてきた呪祖蛇の、刀が突き刺さった顔面をモロに見てしまい、四方木 美夜は顔を背けた。
ホラーは嫌いではないが、グロテスクは得意ではない。そもそも作り物じゃない実物なんて嫌悪一択である。
「お疲れちゃまでつ。大丈夫でちゅか? 美夜」
「お疲れ様です、ヘルメスさん。まぁ、なんとか」
降りてきた白い翼──黒いタキシードを纏った真っ白な髪の幼児に、美夜は頭を下げた。白鴉の憑神ヘルメス。見目は幼いが古くから在る憑神で、暁月と同じく神連に所属はしていないものの協力関係にある。
主人の指定した場所へ光の速さで飛べる権能を活かしてトドメ役になってもらったが、上手く攻撃が命中して良かったと思う。結果だけ見れば負傷者はいれど犠牲者はいない完勝だが、どこか一つ欠けただけで大惨事になってもおかしくなかった。
「千渦くん、手当てするから座りなよ。主人に快癒を命じられても瞬く間に治るわけじゃないんだし」
「や、この目で確かめてから……っっし倒せてるな!」
「うむ、皆ご苦労さまであるな!」
暁月、千渦、キングが合流し、神連の黒衣たちも集まる。
深夜が降りてきて、千渦が顔を顰めた。
「みんな、ぶじでよかった」
「……さっきはどうも」
何のことかわからず深夜が首を傾げると、千渦はますます渋面になった。
黒衣の一人が恭しく頭を下げる。
「皆様、ご協力ありがとうございました。呪祖蛇は神連のほうで、責任を持って再封印します」
その言葉に、美夜はもう一度、死骸になっている呪祖蛇を見た。
顔面にヘルメスの刺した短刀が貫通し、絶命している。力を失った髪は艶を失ってバラけ、手足のない体が露わになり、裂けた腹を髪の毛で閉じていたのが開いて内臓がこぼれていた。
(……夢に見そう)
確認するんじゃなかったと後悔して、美夜は黒衣たちが蛇神を棺に納めて運ぶのを見送った。千渦の手当てを終えた暁月が傍にやってくる。
「また封印が解けるんじゃないかって不安?」
「封印の監視役になった人が、神連に紛れ込んでた呪祖蛇の主人だったんでしょ?
ミスか不正か知らないけど、そんな体たらくじゃそのうちまた解けるわよ」
「あ〜、四方木さんたちには教えておくけど、封印を解いたやつも、監視役になるまで自分が呪祖蛇の主人なのは知らなかったらしいぞ」
「じゃあ、本当にたまたまってこと? 一番どうしようもないやつじゃない」
神連とて再発を防ぐ努力はするだろうが、憑神が憑くのは、結局は人の縁だ。消滅しない限り、どんなに厳重に封印しても運命に導かれ、いつかは解放される。
問題はそれがいつになるかである。考えなしに散々煽ってしまったので、もし自分が生きてる間にまた封印が解けたら、今度は真っ先に喰われそうという懸念が強い。
今後の人生を、あのクソ蛇に怯えて過ごすなんてごめんなのだが。
「あの刀は大ちた出来でちた。あれを媒介に封じりゅなら、少なくちょも百年は保ちゅでちょう」
「いっそ蒲焼にしてみんなで食っちまうか? そんなマンガ前に読んだぞ」
「儂は……元が山のモノだったなら、山に還してやるのがいいと思うが」
こちらの不安を和らげてくれようとしてくれているらしい憑神たちに、美夜は苦笑した。
「食べるのは色んな意味で不味いけど、火山の噴火口に捨てるのはいいかもね。元は山のヌシだったわけだし、上手くいけば大地に還れそう」
「それでもダメならヘルメスさんに宇宙の果てに捨ててきてもらえばいいよ。惑星探査機を宛先にすればいけるでしょ」
「帰って来れない可能性が高いでつ! さすがにお断りでつ!!」
暁月の無茶振りに、ヘルメスが顔を赤くして抗議する。
笑いながら謝り、暁月は振り返った。
「深夜くんは、何か案ある?」
「……」
深夜は首を傾げた。何を聞かれたのか。
どうすれば、憑神を殺せるのか。そんな話だった気がする。
「ぜんぶ、わすれさせてしまえば」
何もかも、忘れてしまえば。
「生まれ変われるんじゃないか?」
全員の視線が深夜に集まり、沈黙が通り過ぎた。
どうして、そんな目でおれを見るんだろう。深夜は目を瞬かせた。
「やっぱオマエ、ムカつく」
吐き捨てた千渦が去っていく。無言で目を伏せて会釈したキングが、その後を追う。
よくわからないでいる深夜に、美夜が扇子を広げて嘆息する。
「全部忘れてしまえば、何もかも忘れた自分になるだけよ」
わからない。首を横に振る深夜を、暁月が笑う。
「深夜くん。君は本当は、零時のことを忘れてないんだろう?」
暁月の三日月のような笑みに、深夜は怯えた。なにか、よくないことを言われている。
俯く。みんなの前で叱責されて涙ぐむ、子どものように。
「零時は君に『僕を忘れないで』と願った。憑神は絶対に起呪に逆らえない。
だから代わりに、神連は君が零時を認識できないようにした。忘れてない、意識できないだけ、という逃げ道だね。
だけどそんなの、君が心から抵抗すれば解ける浅いこじつけだ。つまり」
深夜は首を振った。暁月の含み笑いが聞こえる。
「君は本当は、零時のことを忘れたかったんだろう?」
深夜は泣きそうになった。
どうして、そんなひどいことを言うんだろう。そんなわけがないのに。
ヘルメスが暁月の尻をつねった。
「いとけない子をいぢめるんじゃありまちぇん」
「いだぁっ!?
親切のつもりだったんですけど。僕のほうが歳下のはずだし」
「ずっとひとりぼっちだった憑神なんて童同然でつ。
僕はもう帰りまつ。美夜、殺されかけたショックは尾を引くものでつ。不調はすぐ医者に相談しなちゃい」
「はい。ご忠告感謝します。
暁月、わたしたちも帰るわよ」
「はぁい。じゃあね、深夜くん。良い余生を」
あっという間に飛び去る白い翼を、並んで去っていく着物の背中を見送って、深夜は立ちすくんだ。
何も命じられていない。だから、何もできない。黒衣たちは戦いの後始末で忙しなく動き回り、もうしばらくかかりそうだ。
「……ヴッ」
腹の中に熱い塊がこみ上げて、深夜はえずいた。咄嗟に口を抑える。呼吸が喉の異物に詰まって食道を圧迫する。
咳き込む。喉が痛い。胸が痛い。
誰も助けてくれない。チラリと見て、またか、と言うように去っていく。涙がこみ上げる。惨めにうずくまる。
背中に、手のひらを感じた。錯覚だ。わかってる。優しく撫でてくれる。思い出だ。わかってる。声が聞こえる。幻だ。わかってるのに。
(深夜、だいじょうぶ? よしよし、怖くないよ)
何度目かの咳で、迫り上がる痰がようやく喉を通り抜けた。呼吸が楽になる。
涙を拭い、立ち上がる。喉は痛いが、頭はスッキリしていた。
握りしめてしまった痰を捨てようして、深夜は凍りついた。
手のひらにあるのは汚らしい痰ではなく、鈍く輝くビー玉だった。中の気泡が陽光を浴びて煌めいている。
その懐かしく慕わしい光に見惚れて、深夜はビー玉を指で摘んで、朝陽に透かせて。
口に入れて、飲み込んだ。
ガラスの球面が喉を転がる。硬い異物感に食道が膨らむ。
頭がぼうっとする。胃酸で灼けた粘膜にぬるいガラスが心地よい。
頭がぼうっとする。零時もこんな心地だったんだ。そう思って飲み下す。
頭がぼうっとする。
「……あはっ」
これでまた、零時といっしょだ。
深夜は嬉しくなる。
「ご苦労さまでした。深夜、帰りましょう」
黒衣が呼びに来て、深夜はうなずいた。
涎と胃液にまみれた笑顔は不気味だったが、黒衣は何も言わず、またか、と思うだけだった。