天網恢恢
逃げる。逃げる。逃げる。息を切らし、喉が潰れそうになりながら、痛む肺を押さえて、走る。
捕まるわけにはいかない。まだ、負けを認めるわけにはいかない。成さねばならないことがある。私にしかできないことがある。だから。
「どちらに行かれるおつもりですか?」
懐かしい声に前方を塞がれ、男は立ち止まらざるを得なかった。
途端に吹き出る汗を拭う余裕などなく、呼吸を続ける。やっと漏れた声が、呆然と尋ねる。
「まさか、■■? 神連に、なって、いたのか?」
「その名は捨てました。ご明察の通り、今の私は神連。人の世を守る黒子の一人に過ぎません」
淡々とした変わらない声に後ずさる。眼の前の影がどういう人物なのか、嫌というほど知っていた。捕まれば、絶対に逃げられないということも。
「ま、待て! 頼む、見逃してくれっ。
私は捕まるわけにはいかないんだ。まだ、私にしか成せないことが……君ならわかるだろう!?」
「わかりますよ」
影は深く頷いた。
「味方を死地に追いやって、自分は安全圏でその結果を見届けなくてはならない。
誰を捨て駒にしても、自分をそうすることは許されない。
仲間を見捨ててでも、自分は生き延びねばならない。
なぜなら、まだ私にしかできないことがあるから。
私のほうが駒としての価値が高いから。
私が生き残ったほうが有用だから。
とてもよくわかります。
残念ながら、あなたにはおわかり頂けないようですが」
耳障りの良い言葉で飾った保身を見抜かれて、また一歩後ずさる。
ああ、馬鹿をした。この男にこんな交渉通じない。物柔らかな態度で合理性の塊。話の分かる面をしていながら頑固一徹。この男の前で、悪事は絶対に見逃されない……!
「おや」
虎の子の煙幕を投げつける。五感どころか電波も霊感も封じる取っておきの煙が、名無しとなった男を飲み込む。
その隙に走る。今のうちだ。今のうちに、遠くへ。
「逃げられるとお思いですか?」
声が、前方から投げかけられた。煙幕に飲まれ後ろに置き去りにされたはずの男が、前に立ちふさがる。
「ど、どうして……?」
「私なぞでも使える、初歩の幻術ですよ」
声の大きさ、聞こえてくる方向を調整して、最初に見た位置にずっといると錯覚させる。ただそれだけの術。
立っていられずに尻もちをつく。酸素の巡っていなかった脳みそが、ようやく疑問を抱く。
「どうして、私を捕まえないんだ?」
こんな問答をしている暇があったら、初手で制圧してくる男だ。なのに悠長に言葉を交わした。
昔馴染みだから? ちがう、そんな不要な真似はこいつはしない。
なら、何故。
「なに、私なぞでも使える呪いですよ。
後出しで申し訳ないのですが、私はあなたの問いかけに三度答えました。
ですから、あなたは三つ、私の質問に答えなければいけません」
首に縄がかかった感覚がした。知らずと首にかけられていた輪が絞まったような。酸素を求めていた喉が狭まり、息苦しくなる。
頭の中に無数の情報が駆け巡る。知られては命取りになる情報。取引に使える情報。調べたらすぐにわかる情報。
大丈夫だ。私が握る機密は三つどころじゃない。涼しい顔をしていても、こいつは尋問を省こうとするほど焦っている。
言い逃れ、情報を出し惜しめば、きっと。
「では、ひとつめ。
今、あなたが思い浮かべた中で、私に知られてはマズいと判断した情報を、知られたくない順にすべてお答えください」
逃げられない。
薄く開いた扉の隙間が、目の前で閉まっていくような絶望を味わいながら、男は呪いに急かされるまま、従順に思考を吐き散らした。