餓鬼に菩薩

(おなかがすいた、おなかがすいた、おなかがすいた)  暗闇の中で、子どもは一心に飢えを訴えていた。その言葉で頭を埋め尽くしていれば、腹を蝕む飢えが遠ざかるかのように。 (おなかがすいた、おなかがすいた、おなかがすいた、おなかがすいた、おなかがすいた、おなかがすいた、おなかがすいた、おなかがすいた、おなか、おなかが、おなかおなかおなかおなかおなか)  おっかぁ。口が滑った。  目尻から涙があふれたと思ったが、カチコチに渇いた体に、にじむだけの水はなかった。  体を起こす。生き物の匂いがした。手足で這い、物音を立てないように近寄り、一気に飛びかかる。  生き物は暴れたが、死に物狂いの自分のほうが強かった。皮膚は柔く、自分でも噛みちぎれた。あふれた血に夢中で喉を潤す。  生き物が凄まじい勢いで泣きわめいたが、子どもは構わなかった。いいじゃないか。泣くだけの元気があるんだから。さっきまで、おっかぁの乳を吸ってたんだから。おれに分けてくれてもいいじゃないか。 「なにをしてる!!」  尖った声に殴られ、子どもは地べたに転がった。  甲高い悲鳴が暗闇を引っ掻く。なんてことを。たくさんの声が子どもを糾弾する。 「なんておぞましい」 「鬼子だ」 「どうして殺さなかったんだ」 「殺せ」 「殺せ」 「今すぐ殺せ」  うるせぇ。おなかがすいたんだ。子どもはつぶやいた。  おっかぁがおれをすてたから。  山は枯れて、生き物はいなくて、おれみたいに捨てられたやつしか、食えるものがなかったから。なにがわるいんだ。  ものが焼ける匂いに、子どもは腹を鳴らした。にくだ。にくの焼けるにおいだ。肌を熱気が嬲り、脂の爆ぜる味が舌を舐める。ごちそうだ。  おおい、おれにも食わせてくれ。いじわるしないでくれ。手足が温もる恍惚に、自分が燃えていることにも気づかず夢中で訴える。  おなかがすいた。おなかがすいた。おなかがすいた。おなかがすいた。おなかがすいたんだ。  おっかぁ。   *  *  *  暗闇の中で、子どもは目を覚ました。おなかがすいた。すぐに飢えが頭を満たした。  おなかがすいた。おなかがすいた。おなかがすいた。生き物の匂いがする。手足で這い、物音を消して、一気に飛びかかる。  甲高い悲鳴を聞き流しながら歯を立てる。あったかい。あったかい。あったかい。血を吸って、肉をかんで、くちゃくちゃ飲み込む。背中を叩かれる。 「そんなことをしてはいかん! 地獄に落ちるぞ!」  うるせぇ。地獄がこわくて生きてられっか。突き飛ばして肉を噛む。もう骨しか残ってない。  おなかがすいた。おなかがすいた。おなかがすいた。こんなんじゃぜんぜんたりない。 「ああ、これは鬼だ。わたしの手には負えない」 「もう駄目だ。この子は誰にも救えない」 「人を集めよう。皆で封じて、時の流れで滅ぼすしかない」  嫌な匂いのするまぶしい壁に囲まれて、子どもは顔を覆って泣きわめいた。  いやだ。いやだ。いやだ。またおれをとじこめるつもりか。またおれをすてるつもりか。  まぶしくないほうに逃げようとする。体が重くなる。逃げられない。どこにもいけない。暗闇に、見えない檻がある。  いやだ。だして。ここからだして。おなかがすいた。にくがたべたい。ちちがすいたい。おっかぁ。  おっかぁの声が聞こえる。 (ゆるして、ゆるして、ゆるして)  ゆるさない。よくもおれをすてたな。ゆるさない。ゆるさない。ゆるさない。ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。  かえせよ。かえしてくれよ。ここはさむいんだ。おねがい。うちに帰らせて。 「赦さんぞ、鬼子よ」  誰かの声に叩かれる。いたい。やめて。うちに帰して。 「赦さぬ。そなたはここで朽ち果てよ」  いやだ。ゆるして。ゆるして。ゆるして。ゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるしてゆるして。  おなかがすいたんだ。ほかにたべるものがなかったから。だから。 「そなたは永遠に、誰にも赦されぬ。  人の道を外れた餓鬼よ。ここで消え果てることこそ、そなたの救いと心得よ」  やめて。ゆるして。ごめんなさい──   *  *  * (ゆるさない。ゆるさない。ゆるさない。ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない)  暗闇の中で、子どもはいつの間にか、一心に唱えていた。その言葉で頭を埋め尽くしていれば、腹を蝕む飢えが遠ざかるかのように。  ゆるさない。おっかぁ。よくもおれをすてたな。あのおとこ。よくもおれを叩いたな。村のやつら。よくもおれを燃やしたな。  ゆるさない。みんな家に帰れるのに。おれだけ帰れない。人を、食ったから。もう家に帰れない。 (ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい)  おっかぁ。だまって死ななくてごめんなさい。約束したのに。良い子でいるって。おれが悪い子だから。家に帰れない。  帰りたい。帰してください。家に帰りたい。おなかがすいた。なにか食べさせて。なんでもいい。ごめんなさい。おなかがすいたんだ。だから。 (ゆるさない。ゆるさない。ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない)  誰も永遠に、おれをゆるさない。  涙があふれたと思ったが、飢えた体に、にじむだけの水はなかった。  誰かの声が聞こえる。 「赦しましょう」  鐘のような声だった。高らかに響いて、空の果てに消えていく。  遠ざかる音を追いかけるように、子どもは声を漏らした。 (ゆるす? だれを?) 「あなたを。わたしが」 (うそつき。おれはだれにもゆるされない。おれをゆるしてくれる人なんて、どこにもいない) 「お気になさらず。わたしは人ではありませんから」  声は清らかな川のように澱みなかった。戸惑う子どもに、声が調べを続ける。 「人を食ったことなど、わたしにもありますから。本当に、気になさらなくてよろしいのですよ」 (あんたは、鬼か?)  人を食ったなんて。悪鬼だ。そう思うのに、声に穢れは感じなかった。  どうしてだろう。おれはこんなによごれてるのに。どうして、この声はきれいなんだろう。 「さて。わたしはただの獣。わたしを何と思うかは、人次第。  鬼と呼ぼうと神と呼ぼうと、わたしはそれを赦しましょう」  なんと思えば良いのかわからず、子どもは口ごもった。  沈黙した子どもに、声が問いかける。 「人は、美味しかったですか?」  しんしんと降り積もる雪のような声に、子どもはホロリと涙をこぼした。 (まずかった)  おいしくなかった。こんなの食べたくなかった。でも、ほかに、たべるものがなかったから。  おなかがすいた。うちに帰りたい。おっかぁのつくる、ごはんがたべたい。 「どうぞ」  湯気の匂いに、子どもは身を乗り出した。  かゆだ。ああ、すごい。こんな真っ白な米! つばが口の中に湧き出止まらない。 「どうぞ、こちらへ。  大丈夫ですよ。檻はもうありませんから」  少しためらって、でも抗えなくて、猛然と駆け出す。声の告げた通り、身を阻む見えない壁はなくなっていた。  匙を受け取り、猛然と粥をかき込む。うまい。うまい。うまい。あったかい。あったかい。あったかい。  ボロボロと、涙があふれる。 (ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい)  うずくまって泣きじゃくる。  おれは地獄に落ちる。人を食べたのに、あったかい飯を食って、うまいと言ったから。仏様に地獄に落とされる。 「大丈夫ですよ。わたしがあなたを赦します」  声が背を撫でるのに、子どもは顔を上げた。  光を背に、禿頭とくとうの美僧が、曇りなく穏やかに微笑んでいる。 「地蔵菩薩もきっと、あなたを赦しましょう。  泣く子を地獄に落とすほど、閻魔大王も非情な方ではありませんから」  その声に、一切の嘘も誤魔化しも感じなかったから。  手を引かれるまま、子どもは光の指すほうへ導かれていった。   *  *  * 「ありがとうございました。先代より封印を預かったのですが、あのまま餓鬼として葬るにはあまりに不憫で、浄めるには私では力及ばず……」 「お気になさらず。困ったときはお互い様ですから。  浄土へ導けて何よりでした」  頭を下げる同輩に別れを告げて、竜仁りゅうじんは帰路に着いた。  本性は大蚯蚓みみずである竜仁は、人の姿を取っても視覚は得られない。とはいえ光の方角くらいはわかるし、聴覚や皮膚感覚は常人より敏感なようで、ひとりで出歩くのに支障はなかった。  襟巻きを撫でながら、しずしずと歩く。寒風が僧衣を浸すが、竜仁の頭を占めるのは、先ほど見送った幼子おさなごのことだった。  可哀想な子だった。浄土では暖かく、美味しいもので腹を満たせていると良いのだが。  飢饉に苦しむ祈りによって憑神となった竜仁は、飢えがどれだけ人を苛むのか知ってる。愛がどれだけ幼子を飢えさせるのかも。  だが、何より竜仁の憐憫を誘ったのは、あの幼子のこぼした泣き言だった。 (まずかった。おいしくなかった。人なんて、食べたくなかった) 「ああ、可哀想に」  心から、竜仁は同情した。  かつて竜仁に捧げられた人柱の幼子たちは、あんなにも甘やかに蕩けて、竜仁の腹を満たしたというのに。 (あんなにも美味しい肉を、人の舌は味わえないのですね)  寺で自分を待つ主人に、精一杯美味しいものを振る舞おうと、竜仁は八百屋へ寄り道することに決めた。