満月に昔日潰えぬ

「大丈夫、大丈夫だから。アダシノ、大丈夫だから」  暗闇の中を、送太郎はひた走った。  足音を消す余裕はない。アダシノをおぶりながら山道を掻き分けて、アダシノの足を落とさないようしっかり抱える。 「大丈夫、きっと逃げれる。ボクたちは無敵だ。そうだろう?」  返事がない。アダシノの意識がまだ戻らない。もう戻らないかもしれない。冷えた血が肺を突き刺す。蒸し暑い夏の夜なのに。寒気が止まらない。  なんでもない一日のはずだった。いつものように仕事を終えて、『食事』をして、日常を終えて、そろそろ寝ようかというときだった。白い覆面のやつらが、家に押し入ってきて……  見つかったんだ。壁を壊して逃げた送太郎を、あいつらは迷わず追ってきた。この怪力を見て驚きもしない。正義の味方が悪を狩りに来た。こわい。こわい。  山に逃げる途中で、アダシノがトラバサミを踏んで、時間がなくて、仕方なかったから……アダシノの脚を、千切った。 「ごめん、アダシノ、ごめん」  脚を千切るのは簡単だった。ご遺体でよく遊んだから。アダシノの脚を千切るのも。簡単だった。血の弾ける音がまだ耳に残ってる。アダシノの肉を割いて、骨を砕いた感触が、指に残ってる。まだ。まだ。まだ。  激痛でアダシノは気絶した。まだ目覚めない。送太郎はできるだけ千切った脚を抱えて持ってきたが、破片をいくつか落としてしまった。  ごめん。アダシノ。きっと大丈夫だから。きっと治るから。ここから逃げられたら。明日を迎えられたら。ここから。 「どこに、逃げれば」  あてもなく走り続けていると、林から山道に出た。このまま登るか。降るか。茂みに紛れたほうがいいのか。  判断できず坂を見上げた送太郎は、月を背にした男を見つけた。 「……おじさん?」 「やっ、久しぶり」  杖を手にした黒帽子の男は、送太郎が高校を卒業するまで面倒を見てくれていた、母の愛人だった。 「おっ、おじさん、助けて! アダシノが……」 「うわー、足やっちゃったの? 神連かみつれも惨いことするねー。最近はわりと穏当なんだけど」  他人事のような、ドラマの感想を述べるような声に、送太郎は月光を浴びる男の顔が、肌が、肉の若さが、あの頃とまるで変わってないのに気づいた。  ちがう。あの頃は気づかなかったものが見える。揺れる尻尾。帽子から覗く耳。アダシノと同じ。狸。 「とうご、おじさん……?」 「んで、どうするの? 正直、神連を敵に回してまで君たちを助ける気はないんだけど」  人ではない。この男は人では……いや、そんなことはどうでもいい。  知っている。この男にとって、送太郎とアダシノはどうでもいいものなのだ。  いっしょにアダシノの焼いたステーキを食べたことがあったのを思い出した。「あんまり美味しくないね」と笑っていた。アダシノの手料理の味を知る、送太郎以外の、唯一の。 「た、たすけて」  かつて育てた子どもの哀願に、ふむ、と十五とうごは思案した。 「ま、成人するまで面倒見てたよしみだ。送太郎くんだけならいいよ。  足のないアダシノちゃんを助けるのは骨が折れそうだし、今追いかけてきてる子は大のタヌキ嫌いだから、目をつけられると面倒なんだよねぇ」  送太郎は風が自分を撫でるのを感じた。背中の、羽根のように軽いアダシノを意識する。冷えていく体。まだ温かい。生きている。  送太郎はアダシノを腕に抱え直した。目を閉じた顔を見つめる。ついさっきまで、元気に笑っていた顔。弾けるような声。 『ご主人、今日もいい一日だったっスね!』 「……たすけて」  覚悟を決めて、送太郎は十五を見上げ、声を振り絞った。 「ボクはいいから、アダシノを、助けてください」  十五は、醒めた顔をした。 「っそ。がんばって」  くるりと背を向ける。去っていく。送太郎は叫んだ。 「待って、十五おじさん!」 「はー、そういやいたなと見届けに来たけど、ガッカリだな。コレならキツネ狩りを見物したほうが面白いものが見れたか」  餞別のように振り向いた横顔が、別れの代わりに告げる。 「つまんないね、君たち」  それを最後に、十五は闇に紛れ見えなくなった。