自分は愚かで邪で醜く浅ましく、生きる価値のない虫けらだと、ずっと昔からわかっていました。
なのに生き恥を晒してごめんなさい。
* * *
「いらっしゃい。タキモト キョウコさんですね?」
ドアを開けて出迎えた美しい少年に、キョウコは息を呑んだ。
ふわりとしているのにどこか硬質な光沢の黒髪。まろやかな頬の浮かべる微かな笑み。室内であるにも関わらず上を着込み、なのに下は無防備なショートパンツで、膝から先は長いルームソックスで隠している。細い脚が艶めかしく見えて、キョウコは目を逸らした。
キョウコの苛立ちを察しているだろうに、少年はどこ吹く風で中へ招き入れた。ソファに座るよう促され、息を呑む。以前の荒れた部屋を知っているキョウコからすれば、信じられないほど綺麗に掃除されていた。
隅々まで掃き清められて、ホコリもゴミも髪の毛も食べかすも見当たらない。家具はどれもピカピカで、毛羽立っていたはずのカーペットがふわふわ爪先を包み込んでくる。窓から漏れる日射しの清潔な匂い。男一人暮らしで薄汚れていた部屋が、まるで新築に生まれ変わったようだった。
唇を噛んで、出されたお茶を飲む。美味しい。それがたまらなく悔しかった。
「ここ、あなたが片付けてるの? 随分お若く見えるけど、学校は?」
「ええ。こう見えて、成人していますよ。お疑いですか?」
はっきり頷いてやりたかったが、少年の振る舞いには悠然とした思慮深さがあった。
見た目はせいぜいが中学生にしか見えない。だけど、自分より年上だと言われても納得してしまいそうになる。
だが、そんなことはどうでもいい。
「僕はグレーテと申します。海外の生まれでして。どうぞ気軽に呼んでください」
「馴れ合う気はないわ。タケシはどこ? 会わせて」
単刀直入に切り出すと、グレーテは申し訳無さそうに眉を寄せた。
「申し訳ありません。タケシは今、新しい自分に生まれ変わろうとしているんです。その最中の姿を人に見せたくないと言っていて」
「わたしは婚約者なのよっ!? 会わせてっ」
叩きつけるように携帯を見せる。画面には、タケシから送られたメッセージが表示されていた。
生きる価値のない虫けら。生き恥をさらしてごめんなさい。
涙がにじむ。こんなことを言わせてしまった自分に。
「タケシは、タケシは無事なの? 誰も知らない、心配しないの。いなくなったら清々するって。だけど、わたしは。わたしにとって、タケシは」
震えるキョウコの手を、細い指が包み込んだ。さらりとした冷たい感触。
黒い手袋に包まれたグレーテの指はすべらかで、体温を感じさせなかった。
「ありがとう、キョウコさん。タケシを心配してくださっているんですね」
グレーテの笑みは蜜のように甘かった。それが恐ろしくて、キョウコは喉を震わせた。
「グレーテ、さん。あなた、あなた、は……」
本当は、聞くつもりはなかった。自分が打ちのめされるだけだから。
でも、その笑みが、あまりに優しかったから。すべてを許されるような心地がして、キョウコは聞いてしまった。
「あなたは、タケシの、恋人なの?」
グレーテは微笑んだ。
その笑顔がすべての答えで、キョウコはその頬を引っ叩いた。乾いた音がして、グレーテが椅子ごと床に倒れる。赤く腫れた頬。はだけた上着。この期に及んで静かな、艶のある黒髪から覗く瞳。
そのすべてが許せなくて声を荒げる。マンション中に、世界中に聞こえればいい。そんな気持ちで叫ぶ。
「気色悪い。気色悪い気色悪い気色悪いどうして!? どうしてよ! わたし、わたしとだって、セックスできたじゃない!
ちゃんとできたわ、クリスマスに一回、バレンタイン、誕生日、ちゃんと休みを取って、結婚するはずだったのよ! 6月! 6月に!! 式の予約だって済ませてた! 両親との挨拶だって! なのに!! なんでっ」
「キョウコさん。タケシはあなたを愛していますよ」
グレーテが立ち上がる。静かに。軽やかに。
キョウコなどいないかのように。ここにいるのはキョウコ独りであるかのように。
「あなたの望む、あなたの理想の夫になろうと懸命に努力していた。ご存知でしょう?
でも、それだけじゃ満たされない性を、彼は抱えていたんです」
「言ってくれたら、言ってくれたら良かったのに! わたしは通報なんてしない、今からだって遅くないわ!
タケシはどこ? 会わせて。いっしょに病院に行きましょう? ちゃんと治療すれば、きっと治るわ。ねぇ、そうでしょう?」
「それはできません」
きっぱりとした声が羽音のように耳を打った。
「アレはタケシの性なんです。治療はタケシの脳を切除するも同然の行いですよ」
「そんなのっ、許されないわ!」
「タケシも自覚していましたよ。それは許されないことだと、必死に欲望を制御しようとしていた。実在する子どもに性欲をぶつけるくらいなら死ぬと決意していた。実際その誓いは守れていた。
ああ、けれど。アレは良くなかったですね」
タケシが警察に連れて行かれた理由を思い出して、キョウコは項垂れた。
海外の発禁処分になった写真集。タケシの同類はお宝と呼んでいるらしい、おぞましい、子どもたちの写真。
「写真に写っているのは実在の子どもたちなんですから。その行いは加害に繋がります。
タケシは直接子どもに触れようとはしませんでしたが、その線引の甘さは、叱られてしかるべきだったのでしょうね。愛に罪はなくても、行いに罪は生じるのですから。
タケシもとても後悔して、反省しています。もちろん、それで許されるわけじゃないでしょうけど」
「わたしは、許すわ」
みんなが言った。あんな男忘れろと。婚約があった事実すらおぞましいと。あんなに喜んでくれたのに。あんなに祝福してくれたのに。
タケシも。連絡が取れなくなった。何か一言。わたしを。どう思っていたのか。それだけでも。
それだけじゃ足りない。キョウコはグレーテを睨めつけた。
「あんたとの恋路なんて、世間が許すわけがない。
タケシに会わせて。わたしがタケシを真っ当な道に連れ戻す」
「真っ当な道、ね」
グレーテが囁く。初めて、その微笑が毒を含んだ。
「本当に君は、どんなタケシも愛してくれるのかな?」
グレーテの涼やかな笑みを、キョウコはもはや見なかった。見るのは、その背中にある扉。
タケシが趣味の部屋だからと一度も見せてくれなかった、鍵のかかった部屋に、キョウコは大股で向かった。一歩、二歩、三歩。
グレーテは止めなかった。
「タケシ、タケシ、そこにいるの? いるんでしょう?
わたしよ、キョウコよ。迎えに来たの。いっしょに帰りましょう?」
ノックをする。返事はない。ノブを回す。鍵はかかっていない。
喜び勇んで、キョウコはドアを開けた。
「タケシ……!」
眼に飛び込んだ、ポスターを剥がした痕。空っぽの本棚。満杯のシュレッダー。電源の落ちたモニター。空っぽの椅子。空っぽな部屋。場違いに飾られた虫の標本箱。蓋の空いた透明なケースに、敷き詰められた枯れ葉。饐えた臭い。
視線を感じて、キョウコは足元を見た。
でっぷりと肥えた、掌ほどもある緑色のイモムシが、じっとキョウコを見上げていた。
* * *
比喩ではなくマンション中に響きそうな悲鳴を上げて去っていったキョウコを見送って、グレーテはイモムシに手を差し伸べた。
掌をうぞうぞと這う多脚が落ち込んでいるようで、柔らかな背をよしよしと手袋に包まれた指先で撫でる。
「ごめんね、お別れはちゃんとしたほうがいいと思ったんだけど。
あの人も君も、傷つけてしまったかな? タケシ」
タケシがふるふると胴をくねらす。グレーテを慰めるように。
愛しさを覚えて、グレーテは唇をイモムシに寄せた。ふわりとした感触。食べた葉の青臭さ。わずかな湿り気。体温のない虫の温もり。
愛してる。自然と囁く。嘘でもお為ごかしでもない。恋人だなんて言葉では言い表せないほど、グレーテはタケシを愛していた。彼なりに、確かに。
キョウコに叩かれた頬を慈しむように触れられて、グレーテは喜びを深めた。
「大丈夫。もう腫れは引いたよ。食事にしようか。
うん? ウンチかい? 我慢していたの? ごめんね。
さ、籠に戻ろうね。葉は足りてる? 足りなくなったらすぐ言うんだよ。水は? よしよし。
うん、そろそろ蛹になれるよ。羽化したら、ここを出ようか。大丈夫。ずっといっしょだよ」
部屋で唯一、グレーテの私物である箱を撫でる。丁寧に梱包された標本箱には、いくつもの虫が綺麗に翅を広げて飾られている。
透き通った翅の蜻蛉。鮮やかな翅の蝶。煌びやかな光沢の甲虫。グレーテの愛に触れて虫になり、死後も彼に愛され続ける人間たちの成れの果て。
それを見たところで、タケシは羨ましがるだけだった。どんな自分も、グレーテは愛してくれる。
その確信に安堵して糞を放り出す。羞恥が神経を焦がしたが、それに倍する幸福がちっぽけな脳を焼いた。
グレーテが囁く。睦言のように。
「でも君は、どんな僕も愛してくれるのかな?」
人の言葉で答えるまでもない問いに、タケシは柔らかに脚を伸ばした。
こちらを見下ろすグレーテの黒髪は、玉虫色の光沢に濡れて、まるでゴキブリのようだった。
旅立ちは快晴の日に決めた。羽化したタケシの翅が、素晴らしく深い青色だったからだ。
頭上の空のような翅を広げて指にまとわりつくタケシを愛しく思いながら、グレーテは駅に向かった。羽化したらもう長くはない。最期は爽やかな草木の中で看取ってやりたかった。
「ヒッ」
出発は早朝を選んだのだが、それでもまばらに人の影はあった。大きな蝶のキスを頬に受けるグレーテに、出勤途中らしきスーツ姿の女性が悲鳴を上げる。
よくあることなので、特に不快には思わなかったが。
「ァっ、ご、ごめんなさい! 私ったら他所様のご家族に、とんだご無礼を……!」
律儀に頭を下げた女は、目元に隈があり、肌が青ざめて浮腫んでいた。髪は洗えていないのか油染みているのにパサパサで、義務的に差した口紅が肌から浮いて見える。くたびれたスーツに、踵のすり減ったパンプス。
見るからに真面目で優しくて、世の中から爪弾きにされていて、それでも懸命に働いて、それに倦み疲れて。まるで蟻のようだ。
愛しさを覚えて、グレーテは少し寄り道をすることにした。
「そうだね。じゃあ、お詫びにお茶を奢ってもらおうかな?」
「ふぇっ、ぇっ、でも、私これから出勤、ぁっお金! お金あげますから」
「じゃなくて」
見上げるように微笑む。タケシが翅を広げて、青い髪飾りのようにグレーテを彩る。
「お姉さんと、お茶したいんだ。ダメかな?」
女性が惚けた顔で頷くのに、グレーテは笑みを深めた。飛ばせてあげたいな。自然とそう思う。
グレーテは彼女の手を引いて、タケシといっしょに近くの喫茶店へと入っていった。