ペアントリ誕生秘話
「スミレの花咲く人食い泉」

 昔々、魔法が当たり前にある世界の話。獣が人と話し、草木が月夜に踊り、その影に怯えた人が世界の片隅に縮こまっていた時代。  とある森の奥に、スミレの花に囲まれた、それはそれは澄んだ鏡のような、美しい泉がありました。  春にはスミレと語り合い、夏には輝く陽を浴びて、秋には満ちた月とくちづけ合い、冬には銀世界に溜め息を吐く。  美しい世界を映す喜びに、泉はこのまま変わらぬ日々が続けばいいのにと願っていました。  けれど過ぎない時代はなく、終わらぬ幸福もないものです。  増えてきた人が木々を切り倒し、山を拓いて森が浅くなり、泉が人の目に触れるようになりました。  幸い、泉は人の目にも美しく、ここはこのままにしておこうと意見が一致しました。  けれど、変わらぬ景色はないものです。  泉のそばに道が通り、泉は街で評判の観光名所になりました。  旅人が踏み荒らし、おしゃべりしていたスミレたちはいなくなってしまいました。煙が空を隠して、雪には炭が混ざるようになり、おまじないと称して投げ込まれるコインが、泉を濁らせていきました。  ええ、美しいものはありました。泉を見て、無邪気に「きれい」と笑う子どもたち。それを見守りながら道を整備する老人。これからの互いの幸福を願って訪れた恋人たち。美しいものを目にして、その感動を残そうと筆を取る画家や詩人。  けれど、醜いものはそれ以上に多いもの。泉にゴミを投げ込む悪童。泉なんて目もくれず、暗がりに女を引っ張り込もうとする暴漢。手前勝手な祈りで泉にコインを投げ込む愚か者。  嫌だわ。泉は溜め息をこぼしました。美しいものだけ見ていたいのに、それはもう叶わないのでしょうか?  かつては花で彩られていた泉に、澱んだ闇が溜まっていきます。思ったより綺麗じゃないね、なんて、そんな言葉が聞こえてきます。   *  *  *  ある日のこと。月も星も隠れた暗い夜に、泉を訪れた女がいました。暴漢に暗がりに連れ込まれて、この世に絶望した女です。  女は泉を見て、綺麗ね、と囁いて、どぼん、と身を投げました。  ああ、その傷ついた心の、なんと美しかったこと! 泉は驚きました。女は本当に、心から、泉を美しいと思い、最後に美しい景色を見せてくれたことに感謝していたのです。  泉は闇で女の目を覆い、詩人のこぼした言葉をさざなみで織り上げて、子守唄で女を包んでやりました。  それからしばらく後のこと。泉は自分の縁に、女を暗がりに連れ込んだ暴漢を見つけました。  いつからそんなことができるようになっていたのか。泉は波を起こして暴漢の足を引き摺り込み、悲鳴も許さず泉の底へと沈めました。  ああ、その断末魔の、なんと快かったこと! もがく暴漢の起こしたさざなみは、泉をキラキラと彩って、澱んでいた闇が画家の描いたスミレのように咲き誇ります。  すっかり味を占めた泉は、傷ついている美しい心が映れば水底へ誘い、腐った醜い心が映れば水底へ引きずり込み、彼らの死で自分を彩るようになりました。   *  *  *  それからまたしばらく後のこと。三日月を星々が矢のように彩った夜のこと。  泉は自分を覗き込む、美しいとも醜いとも言い難い、達観した眼差しの人を見つけました。 「ああ、こんなにも人の命に酔って。  これはもう、元の澄んだ泉に戻ることは叶わないでしょう」  まぁどなた? どうしてそんなことを仰るの?  わたし、今はとても幸せよ。美しいものも醜いものも、どちらも好きになれたもの。 「そうですか。ですが、あなたは人喰いの泉と恐れられ、もうすぐ土砂で埋められてしまうのですよ」  それは嫌だわ。もっと美しいもので埋めてちょうだい。 「そうですね。あなたを生んだのは人。  それを危ういからと滅ぼしてしまうのは、身勝手というものでしょう」  その人は纏っていた袈裟を広げて、泉に揺蕩っていた闇を包んで、ひとつの命に変えてやりました。 「これも何かの縁。私があなたを導きましょう。  お名前は……そうですね。ペアントリ、でいかがでしょう」 「構わないわ。ああ、いや、構わないよ。  あなたが私を導くということは、あなたは私の親になるんだもの。言葉は気安いほうがいいだろう?」  その人は「あなたの心のままに」と頷いて、ペアントリを連れて、ひっそりと森を出ていきました。  今は昔、いつかのどこか。まだ魔法使いが地上を歩いて、光や闇に命を与えていた時代。  善悪を貪る人喰いが巣立った、清らかなゆりかごの物語。