ペアントリのグルメ日記「美酒を待つ樽」

 昔々、まだ世界の形がおぼろだった頃。黄昏に溶ける影が人か魔物か、まだ区別がつかなかった頃。  町外れで養い親に見守られ、のんびり暮らす人喰いがおりました。 「ペアントリ。無闇に人を食べてはいけませんよ。人は群れるもの。繋がりを愛しむもの。  欲のままに貪れば、あなたはいずれ、食べたくもないものを喰らい、味わいたかった魂を粗雑に飲み込むことになるでしょう」 「食事は敬意を持って頂いて、暴食は慎めってことだね! わかった!」  ペアントリと名付けられた人喰いは、養い親の教えに行儀よく頷いて、町に流れ着いた詐欺師だとか、最期に美しい景色を見たがっていた旅人だとかを、月に一度か二度 丹念に味わうと、それ以外の時間は人の書物を読んで過ごしました。 「本っていいね。絵画を眺めるのや歌を聴くのも素敵だけど、私は読むのが一番好きかな」 「では、あなたも何か書いてみますか? そうすれば、もっと書に親しめるでしょう」 「いいね、面白そう!」  養い親の勧めに快く頷いて、ペアントリは文字の綴りを練習して、心に浮かんだ詩や日記を書くようになって……  一見平和な日々でしたが、そんなことはありませんでした。養い親にはもうひとり、困った養い子がいたからです。 「姉ちゃん、ちょっと食ってほしい人がいるんだけど!」 「断る。私は君の残飯係じゃない。  というか、姉ちゃんってなんだ」 「だって兄ちゃんより姉ちゃんのが嬉しいじゃん。  なぁなぁ頼むってぇ。ちゃんと姉ちゃん好みの人間だからさぁ」  しつこく頼む男の子の名前はデュオロブ。正真正銘の人間です。  よくいる捨て子でしたが、人喰いを連れている養い親を面白がって「おれも拾って!」と付いてきた、中々一筋縄ではいかない少年でした。 「ねぇデュオロブ。君今年でいくつだっけ」 「十五!」 「そっか。国によっては一人前だね。自立したら?」 「それ言うなら姉ちゃんだっておれよりずっと歳上じゃん。何万歳?」 「泉だった頃はノーカンだよ。前世みたいなもんだし。  はぁ、わかったわかった。ひとまず見るだけだよ」 「そう来なくっちゃ!」  意気揚々と弟は人喰いの姉を引っ張っていくのでした。   *  *  *  さて、ペアントリとデュオロブの暮らす町には、都でも評判の美少女が暮らしていました。ふんわりした亜麻色の髪もさることながら、ぱっちりしたお目々ときたら極上の翡翠のよう。ふっくらした頬に咲く唇は形良く整って、まったく男心をくすぐるお嬢さんでした。  お嬢さんは素朴な小物屋の娘でしたが、その愛らしさから都の若様に見初められて……いえいえ、良縁でしたよ。若様はお嬢さんのお兄さんくらいの年頃の凛々しい御方で、お嬢さんも一目で好きになりました。  文を交わせば、若様は誠実で穏やかな性格ながら学識豊かな方で、日々の暮らしにこの世の不思議を見つけて胸を弾ませるお嬢さんにはぴったりの御方。まったく似合いのふたりでした。  ですが、ええ、美しいものには心根の穢れた者も惹かれるもの。  町でも評判の悪童たちが、お嬢さんを指さして囁きました。 「見たか、あの唇! アレで俺のを咥えてもらったら夢見心地だろうなぁ」 「あの肉付きのいい足! そこらの商売女なんか目じゃないぜ。しゃぶりつきてぇなぁ」 「いいないいな。おれ、あんな美人に童貞をもらってほしいなぁ」  美しいものが大好きな後輩に、先輩たちはニシシと笑いました。 「よし決まりだ! 攫っちまおう!」 「ええ? あの子、都の若様に嫁入りが決まってるんでしょう?」 「ばぁか。たかが小物屋の娘だぜ? 嫁入り前に傷物になったら破談でおしまい。娼婦になるのが関の山さ」 「そこで俺たちが『妾にしてやるよ』って手を差し伸べてやったら……タダでヤり放題ってわけさ!」  先輩たちに唆され、後輩はキラキラ目を輝かせました。  そうして彼らは、月の隠れた暗い晩に、お嬢さんの家に忍び込むことにしたのです。   *  *  *  お嬢さんと若様の結婚式は、生憎の曇り空でした。  ポタポタ雨まで降ってきて、教会の祭壇から中庭を眺めていた花婿は眉を曇らせます。 「花嫁はまだかい?」 「もうじきですよ、若様は泰然とお待ちください」  家のものに宥められても、若様は焦れる気持ちを抑えられません。  自分の花嫁が、月の隠れた暗い晩にどんな目に遭ったか知らず、若様は控室の扉を見つめて、現れた花嫁の父親が、顔を真っ赤にして泣き腫らしているのにびっくりしました。 「お義父上。どうかされましたか?」 「もっ、申し訳ありません、若様。娘が」  声を詰まらせて、父親は膝をつきました。かすかな衣擦れの音がします。 「娘があまりに美しくて、涙が、止まらずっ」 「もうお父さんったら。大げさよ」  そう笑ったお嬢さんの、目映い笑顔と花嫁衣装に、若様だけでなく会場中が見惚れました。   *  *  * 「ねぇデュオロブ。君ね、やっぱり私を残飯係だと思ってないかい?」  雨の上がった屋根の上から中庭を見下ろして、幸せそうな披露宴を眺めながら毒づくペアントリに、デュオロブは唇を尖らせました。 「そんなわけないって! 姉ちゃん好みの悪党だったろ?」 「そんな悪党どもを先輩と慕ってたの?」 「おれが仲間に入ったときは愉快な人たちだったんだって。どんどんイキってつまんなくなったけど」 「だから飽きて私に喰わせたと。やっぱり残飯じゃないか」 「だからちがうってば。姉ちゃん好みのご馳走に育ったから知らせたんだぜ?」 「はいはい」と弟の言い訳を聞き流して、腹の中で泣き喚く悪童たちを啜りながら、ペアントリは中庭で微笑み合う花嫁と花婿をうっとり観賞しました。 「素敵。ああいうお互いを照らし合うカップルって、香りを嗅ぐだけで嬉しくなるよ」 「あのふたりも姉ちゃん好みだよな。食わねぇの?」 「は?」  コイツ馬鹿か? とペアントリは弟を睨みました。 「これからますます芳しくなるふたりを青いうちに摘むなんて、もったいないだろ。食べるにしても老いて熟成してからだよ」 「ワインみてぇなもんか~。途中で不味くなったり横取りされる心配はしねぇの?」 「極上の美酒に育つのを待つ樽を、酸っぱくなるのを恐れて飲み干すなんてつまらないじゃないか」 「というか君、ワイン飲んだことあるの? 君の歳じゃ体に毒だろ」と姉に睨まれて、デュオロブは「先輩たちに付き合って舐めただけだって」と嘯きます。 「なぁ姉ちゃん。先輩たち美味かったろ?  またお話書いてくれよ」 「お話? ……ああ、食った人の覚え書きのこと?  君あれ読んだの?」 「姉ちゃんの文章、きれいで好きなんだもん。  なぁ良いだろ? いつかおれを食べてもいいからさ」 「何言ってんだい」とペアントリは呆れます。 「君みたいな善も悪も感じないやつなんか食べたくないよ。不味そうだもの」  昔々、まだ人と魔物が共に暮らしていた頃。町に紛れたよそ者が、人か魔物かわからなかった時代。  美しいものを好んだ、人喰い姉弟の物語。