100%昔?話「白き微笑の旅立ち」
昔々、かどうかはわかりませんが、まだ魔王が倒されていなかった頃。聖剣は荒野の岩に刺さったままで、魔王の生み出す魔物が大地に蔓延り、田畑も民も冬を待たずに喰われていた頃。
え? これまでと世界観が違いすぎる? まぁまぁ、そういうこともありますよ。
そんな世界の、国と教会に守られた都の一角に館を構える、魔物を倒すため人ならざる者の力を借りる技を磨いた一族に、それはそれは将来有望な少女がおりました。
人ならざる者を呼び出し力を借りるには、異なる次元の扉を開く魔法陣を自分の手で描き、人の舌では発音しづらい呪文を覚え、返事の返らない呼びかけを何日も何年も丹念に繰り返す根気と集中力、人ならざる者を前にしても動揺しない精神力が必要です。
そのすべてを、まだ十五歳を迎えたばかりの少女は備えていました。厳しい修行を弛まずこなし、いよいよ、初めての使い魔を得る儀式に挑みます。
満月の夜に相応しい真円の陣を描き、少女が願ったのは、魔物を倒す強い戦士です。
「我が呼びかけに応え賜う、闇を祓う白きもの。
欠けたるところなき満月のように、世を満たす日輪のように、止め処なく白きもの」
魔物は闇から生まれる黒きもの。魔を祓うなら白きものを呼ぶのは当然ですね。
「我が呼びかけに応え賜う、微笑みを携えた揺るぎなきもの。
悲嘆に、戦火に、畏れることなく聳え立ち、我らを照らす輝かしきもの」
魔物と戦う険しい旅に出るのです、円熟した精神の者を求めるのは当然ですね。
「来たれ、我が手に。満たせ、我が心。この呼びかけを手綱に、声を灯火に、
来たれ! 魔王を倒す清き光よ!!」
その声に応えて、青白く輝く魔法陣からにゅるりとはみ出たのは、発酵を待つパン生地のような体に微笑みを浮かべた、もちもちした白い何かでした。
はじめまして。手のような突起を生やして挨拶する何かに、少女は頷きました。
「初めまして。呼びかけに応えてくださり、感謝いたします。
お名前をお伺いしても?」
名前ですか? 何かは無い首をかしげました。
「ええと、あなたが何者か、どちらからいらっしゃったのか、どんな方か教えていただければ、と」
自分が誰か。どこから来て、どこへ行くのか。
何かはふむ、と頷きました。
哲学、ですね?
「違います。
え? あの、もしかして、それがあなたの、本当の姿、ですか? 偽っているわけではなく?」
真の姿? 微笑んだまま不思議そうにしている何かに、少女はじわじわと嫌な予感がしてきました。
「あの、私の呼びかけに応えてくださったんですよね?」
はい。かわいいお声が聞こえたので、つい。
「ちっ、力を見せてくださいますか? 魔を祓う力を」
ちから……? 両手っぽい突起を眺める何かに、少女は悟りました。
「手違いでした。申し訳ありません。お帰りください」
潔く少女は頭を下げました。おそらく、勢いで「魔王を倒す」とか唱えてしまったせいで呪文が魔法陣と不釣り合いになり、呼びかけが想定より大幅にスケールダウンしてしまったのでしょう。
せっかくの満月だったのですが、自業自得です。反省しつつ前を向こうとする少女に、何かは、帰る? とおうむ返しに尋ねてきます。
「魔法陣をくぐれば帰れるはずです。せっかく応えてくださったのに、本当にごめんなさ」
腕っぽいのを組んで魔法陣を眺める何かに、少女の嫌な予感が再燃しました。
何かはペチペチと魔法陣を叩きます。うんともすんとも言いません。
最初の契約で結べる縁は一つだけと、一族の掟で決まっています。多頭飼いは大変ですからね。主人と使い魔が十分な信頼関係を築くまで、新たな使い魔はお預けです。
つまり、見習いを卒業するまで、少女の相棒はこの白くてもちもちした何かということで。
「嘘でしょおおおおおおお!!?」
頭を抱える少女に、何かは、かわいいですね、と微笑みました。
* * *
「安心したわよぉ。十五歳で巡礼の旅に出るなんて早すぎだもの。大人しく家で修行しなさい」
「こんなはずじゃなかったのに!!」
師でもある母に諭され、使い魔を得たら巡礼の旅に出ると公言していた少女は泣きました。予定も立てていて、十八歳の春には桜実る木洩れ陽の都に眠る大樹の王と契約し、二十歳の冬には金晶山脈で羽ばたく星と冬の龍の召喚に挑戦を始めるつもりだった、のに。
応援してますよ、と背を撫でてくる何かに、少女は慌てて涙を拭いました。
「すみません、取り乱して」
お気になさらず、と微笑む何かは、呼びかけた通り何事にも動じない円熟した魂の持ち主で、触れると温かく、微笑みを絶やさず、少女を随分と慰めてくれます。少女が求めた魔を祓う力がないだけで。
「泣いたって仕方ないし、見習いを卒業して、今度こそ、身の丈にあった呪文を唱えないと。
ああ、でも憂鬱だなぁ、お披露目会……」
一族で初めての使い魔を得た見習いたちが出席するお披露目会は、名目上の目的は交流会ですが、実態はマウント合戦です。期待が大きかったぶん、少女の失敗はさぞ笑い者にされるでしょう。
わたしがついていますよ、と慰める何かに頷いて、少女は覚悟を固めました。
* * *
「ぶわっはっはっは! おま、それ、なに、スライム?」
「ちょ、笑ったらわるいって、ね。てっきり一角獣とかかと思ってたから、驚いた、ふっ、けど」
「あはは、うん、失敗しちゃって」
覚悟していても嫌なものは嫌なものです。
何かを真似た微笑みを引き攣らせながら、少女は甘んじて嘲笑を受け止めました。呪文をトチったのは事実ですし。
他の見習いたちの使い魔は、美しい声で歌い主人の言葉をそらんじる鳥や、コップ一杯の水をどこでも出せる小さな妖精、液体になれる猫など、それぞれささやかながら頼もしい相棒を得ています。
中でも目を惹くのは、最初に大笑いした青年の肩に留まった、鷹くらいの大きさの、銀色の龍でした。
「どうだ、俺の相棒は。カッコいいだろ?」
「うん、そうだね」
頷きに力がこもりすぎないよう、少女は苦心しました。自分が呼び出した使い魔の前で他の人の使い魔を褒めるのは信頼を損ねる行為です。
ですが、光を反射する煌びやかな鱗の龍はかなり格好が良く、こんな使い魔が欲しかったと思わずにはいられません。見習いの使い魔とは思えない、長老たちの連れる精霊や霊獣と比べても遜色ない力に満ちています。
「同期じゃおまえが一番だっていっつも言われてたけど、これで逆転だな。
ま、最年少なんだ。これを機にじっくり基礎を勉強し直せよ」
「あはは、うん、がんばる……」
だいぶ笑みが引き攣り、声に力がなくなってきましたが、後少し。一人ずつ使い魔の力を見せて──何かにできることは歩いてしゃべるくらいなので、そこでまた笑われそうですが──おしまいです。
気合いを入れようと萎えた背中を伸ばした少女に、青年は己の龍を見上げました。
「じゃ、一番手行かせてもらうぜ。
やれ、星空輝く翼の王子! おまえの力を見せてやれ!」
「良いだろう」
龍はニンマリ笑って、少女に向かって紫の炎を吹きました。
* * *
「おっ、おまえ、何してんだよ!?」
慌てる青年の声を聞き流し、龍は本性を現しました。
光を飲み込む六枚の翼。吸い込んだ光を稲光にして放つ角。揺らめく紫炎の目。天井を覆う真っ黒な巨体。
これは清浄な自然界に生じる龍ではありません。混沌の闇から生まれた魔物、中でも強力な大魔の一柱。
「我は此岸熔かす焔の影。
身の程知らずに我を呼び出し、使役しようとした愚かな一族よ。望み通り我が力を見せてやろう」
使い魔への呼びかけを間違えれば、このようなことが起こります。自分の力量を遥かに超える、制御できない怪物を呼び出した者の末路は、周囲を巻き込んでの破滅です。
黒魔の吐き出した炎が館を熔かしていきます。異変に気づいた長老たちは、炎が燃え広がらないようにするのに手一杯で、見習いたちを助けに行く余裕も黒魔を相手取る力もありません。
ですが。悲鳴を上げる見習いたちの声が、いつまでも途切れないのに、黒魔は訝しんで炎を止めました。
白い何かが、先頭に立って炎をその身で押さえ込んでいました。
「ほぅ? あるじ亡き後もその身を挺するとは、健気なことだな」
そう嘲笑した黒魔は、白い何かの後ろで、少女が「生きてます……」と無傷で手を振っているのを見つけて、尻尾を振り下ろしてなかったことにしました。
少女をかばい、一撃でぺしゃんこのクッキーのようになった何かは、鼻を鳴らした黒魔の眼下でふっくらと立ち上がり、元通りのもちもちボディーを披露しました。
「なんなんだおまえはっ!!?」
何かは頷きました。哲学、ですね?
言葉を交わすのは無駄と見て、黒魔は角から雷を落としました。
光の速さの攻撃に、何かは落ち着いて雷を摘み、じゅるじゅると吸い込んで、ビリビリと痺れて、刺激的なお味ですね、と微笑んで感想を述べました。
コイツと関わったら拙い。本能で察して背を向けた黒魔に、何かは、逃げるのですか? と尋ねました。
致命的な呼びかけに、黒魔は硬直しました。
「逃げるのではない。この国を蹂躙し、貴様に己の無力を味合わせてやる」
まぁまぁ、そう慌てず。何かは椅子にちょこんと座って、黒魔を手招きしました。おしゃべりしましょう。
「しないっ。なんなのだお前はっ!?
神ではない、精霊ではない、もちろん魔でもない。何のために人に味方するっ!?」
わかりませんが、人はとてもかわいいです。
微笑む何かは得体が知れませんが、黒魔が傷一つ与えられていないのは事実です。とても拙いです。
人ならざる者への呼びかけは、人の言葉で彼らのかたちを定義して、力を縛る意味合いを持ちます。
黒魔を縛るには、見習いの青年の言葉は力不足でした。ですが、今なら? 形はどうあれ、黒魔が呼びかけに応えた事実は残っています。
この、ちっぽけで、ふわふわもちもちした、よくわからない何かより、弱い者だと言われたら。
「殺す」
すべてを灰燼に帰すため、黒魔は息を吸い込みました。紫の炎が色を深め、すべてを熔かす黒い炎へと変じていきます。
炎は空気を燃やし、声を奪います。何かがいくら防ごうとしても、国一つを滅ぼす爆発の前では無意味です。
見習いたちはとっくに気を失い、青年も震えるばかりで、長老たちが駆けつけるには間に合わない時間の中で、ひとつの声が黒魔を貫きました。
「怖いんですね?」
何かの背中に立った少女が、黒魔に言葉を突きつけました。
「だから慌てて、すべてを燃やそうとしている。まるでネズミに尻尾を逆立てる子猫のよう。
あなたは」
「言ってみろ」
翼を広げ、紫炎の目を燃え立たせた黒魔に、少女は息を呑みました。
「言ってみろ。我が、なんだ?
言ってみせろ。そのちっぽけな体で。
怯え、震え、渇いた声で、我が何か呼んでみせるがいい」
たった一言。
たった一言、あなたは弱いと言うだけで勝てると、わかっていたはずなのに、少女はツバを飲んでしまいました。
一瞬の機会が過ぎ去ります。勝利を確信した黒魔が、燃え上がる咆哮を轟かせようと牙を剥いて。
だいじょうぶですよ、と何かが少女の手を叩きました。
弾かれたように、少女は何かを見ました。
何かは、黒魔を見上げて、朗らかに言い放ちました。
ご心配なさらずとも、あなたも、とてもかわいいです。
炎が消え去りました。焼け落ちた壁の隙間から、煤けていない新鮮な空気が吹き込んできて、少女は瞬きました。
子猫くらいの大きさになった、黒魔だった小さな蜥蜴が、ワナワナと自分の体を見下ろして、「なんなのだコレは!!」と泣き叫んでいました。
* * *
あわや都が壊滅するところだった事件を未然に防いだことで、少女は英雄として旅立つことになりました。
「いいのかな。私、何もできなかったのに」
落ち込む少女に、何かは、わたしがついていますよ、と手を握ります。
少女は(この何か、本当になんなんだろう)と思いながらも、「ありがとうございます」と感謝を述べました。
小さな黒蜥蜴が吠えます。
「そんな意気込みでどうする! 貴様には、大陸一の強者になってもらわねば困るのだ!
業腹だが、今の我が出せる力はこの何か以下! だが貴様はこの何かの主人、つまり何かより上!
貴様が強くなればなるほど、連動して我も元の力を取り戻せるのだ!!」
「ええと、使い魔になってもらっておいてなんですけど、あなたはそれでいいんですか?」
「魔王だのなんだのは人が勝手に呼んでいるだけで、我は別に魔に味方しているわけでも人と敵対しているわけでもない。澱みから生まれただけの龍だ」
これはしばらく内緒にしておこう、と、謹慎処分を受けて今は修行のし直しに励んでいる青年を思い遣って少女は決めました。彼はどうやら、かなり突かなくていい藪を突いてしまったようです。
「わかりました。英雄なんて呼ばれるには未熟な私だけど、そう呼ばれるのに相応しいくらい、強くなってみせますね」
意気込む少女に、白い何かは、力を貸しますよ、と微笑みました。
「頼りにしてますよ」と頷いて、少女は伝説に謳われる強き魂たちと契約してみせようと、馬車の中で書物を開くのでした。
今は昔? かなたのどこか。いつかのうたかた。
何かが良かれと贈った何か製のパンでムチムチの巨体に育ち、聖剣を手に魔王を討つことになる乙女と、微笑む白い何かと、かわいい使い魔たちの冒険の、始まりの物語。