百MMっ★「八百姉さんの昔の話」
昔々、かどうかは知りませんが、山の向こうが違う国だった頃。海の境は理の境。愛と祈りが孵した魔物が、人には見えない影に潜んでいた時代。
海に隔てられて人の行き来の乏しい村に、それはそれは人気のあるお嫁さんがおりました。
目の和むまろやかな面差しで、むっちりした白い肌は指に吸い付くよう。乳房も尻もどっしり豊かで、抱き寄せた手が弾む心地がします。のんびりとした声は優しく穏やかで、艷やかな黒髪は潮と花の香り。
とっても丈夫な働き者で、年中整った家で美味しい膳を用意してくれる、嫁に迎えた果報者は幸せになれること間違いなしの、まったく男心をくすぐるお嫁さんなのでした。
そんなお嫁さんでしたから、彼女を迎える男も大したものです。
此度の夫は素潜り上手と評判で、日に焼けた肌が精悍で男らしい、さっと裸になって海に潜る姿の逞しい姿に村中の女が見惚れる、それはそれは罪な若者でした。
いつものようにお嫁さんは夫を可愛がり、漁に出かける夫を毎朝見送って、昼餉を用意して帰りを待ち、夜はその雄々しい体を白い肌に泳がせて……
ええ、ええ、そんな様子でしたから、若者に恋していた女衆は面白くありません。
中でも幼い頃から彼を好きだった娘は、愛らしい顔を般若のように歪めて、物陰からお嫁さんを睨みます。
「何よ、あんな年増。
あの人と結ばれる女は……あたしよ!!」
乙女の怒り鬼神に通ず。
風を切って猪のように飛び出した娘は、海を眺めていたお嫁さんを狙い過たず突き落としました。
くるくると宙に黒髪が乱れ、あっと驚いた顔が崖下の岩にぶつかって、花のように真っ赤に爆ぜて……
岩に散った血飛沫が波に攫われるのを見送って、娘は荒い息をこぼしながら村へ逃げ帰りました。お嫁さんを亡くして嘆く若者を、どう慰めようか考えながら……
ところがその日、若者は帰ってきませんでした。
海原の只中まで迎えに来たお嫁さんに感激して、船でしっぽり、仲睦まじく一晩を過ごしたからです。
夫婦揃って帰ってきたお嫁さんを見て、娘は顎を落としました。確実に仕留めたはずです。なのに、にこにこ陽射しを浴びるお嫁さんの顔は、相変わらず傷一つない真珠のようで。
「馬鹿だねあんた。崖から突き飛ばしたくらいで殺せるはずないだろう。
アイツは人魚の肉を食って不死身になった化け物なんだから」
最近村外れに住み着いた人相の悪い男に囁かれ、娘は仰天しました。
「あっあんた見ていたの……じゃないっ。なんのこと?
あいつは旦那を亡くした後家じゃないの?」
自分が小さかった頃に見かけたお嫁さんの様子を、娘は覚えています。体を壊して寝たきりだった旦那さんの面倒を、それはそれは甲斐甲斐しく看ていました。
「おれが知ってるだけで、アイツは三回旦那を亡くしてる。
殺したとかじゃないぞ? 寿命で死別しただけだ。何百年も昔から生きてる女だからな」
「そんな……そんな昔から男を取っ替え引っ替えしてるわけ!? なんってアバズレなのっ!!」
「いや、だから取っ替え引っ替えしてるわけじゃ……まぁいいや。
おれはあの女を追ってきたんだ。村中あいつのせいでおかしくなったからな。あんな化け物、放っちゃおけない」
「わかったわ。手を組みましょう」
こうして娘と余所者は、お嫁さんを村から追い出すため知恵を出し合うことにしたのでした。
* * *
「不死身なら永遠に閉じ込めておけばいいわ。
人の来ない洞窟に監禁して飢え死にさせるのはどう?」
「自分で自分の肉を食って無限再生してたし、最終的に首をもいで洞窟の外に転がして脱出したぞ」
「実行済み!?」
人気のない岬の影で、娘は余所者と密談していました。
驚く娘に、余所者は嘆息します。
「何百年も生きてるって言ったろう。大抵の死に方は体験してる。燃やしても灰から蘇ったそうだ」
「待ってよ。首をもいだって……残った胴体はどうなったの?」
「村の連中が食った」
とんでもない答えに、娘もさすがに頬を引き攣らせましたが、すぐに意気込みました。
「そっちは再生しなかったのよね? なら欠片も遺さず食べちゃえば……!」
「やめとけ。腹を食い破られても知らんぞ」
「なんで自分で食うのよ。お隣さんの飼い犬とかでいいじゃない」
「犬がかわいそうだろ」
「もうっ。さっきから文句ばっか言って! 本当に殺る気あんの!?」
「ねぇよ。追い出すのに殺す必要ないだろ。なんでそんな殺意高いんだあんた」
「だってあの女嫌いなんだもん!!」
吠える娘に、余所者は呆れて頭を掻きました。ボサボサの髪から覗いた耳に、娘は首を傾げます。
「あら、あんた耳なしなの?」
「ああ」
余所者の右耳はほとんど千切れていました。耳の穴の周りに、花びらみたいな肉が盛り上がってるくらいです。
「故郷の連中に食われたんだよ。けっこうな福耳だったんだけどな」
「はぁっ!? えっ。なんで、そんな」
「あの女が美味かったから、他の人間も美味いか味見したんだとさ。
結局不味かったらしいから、食い殺されずに済んだけどな」
絶句している娘に、余所者は苦笑いをこぼしました。
「だから、あの女を食わせるのはやめておいたほうがいい。下手すりゃ人喰い鬼の群れができるぞ」
「わっ、わかったわよ。でも、じゃあ、どうするつもり?」
「正攻法で行こう。あの女は居心地が悪いところには長居しない。
あんたの村の連中に、あの女を追い出してもらうんだ」
* * *
結論を言うと、作戦の成果は芳しくありませんでした。
まず男衆。
「何百年も生きてるバケモン? そりゃそうだろ。あの人、オレが子どもの頃からあのまんまだぜ?」
「前の旦那との間には子どもが三人いてのう。旦那が倒れてから奉公に出したが、今でも文が届くぞ」
「できた嫁さんだよなぁ。孫が次の婿になれないかなぁ」
「追い出す? なんでまた。嫌だよ。あんなイイ女、目の保養だろ」
「旦那が亡くなって独身の頃は相手してくれてたんだけどなぁ。夫ができると身持ちが固くなって、ったく、できた嫁さんだぜ」
「村一番の女を独り占めした小憎たらしい幸せ者に、乾杯!」
ま、わかりきっていた反応ですね。
はい次。女衆。
「あいつが化け物? そりゃそうでしょ。朝から晩まで働いて日焼けの一つもしない。白粉してるほうが可愛げがあるわ」
「風邪は引かない、贅沢はしない、いつでも愛想が良くていつまでも老けない。比較されるこっちは溜まったもんじゃない」
「男衆はみ~んなデレデレしちゃって。ほ~んと、やっっと結婚してくれてよかった」
「は? あの女を追い出す? なんで。あ~、あんたは知らないか」
「アタシが子どもの頃ね。大熱出して死にかけてたアタシを、あの女が夜通し走って町の医者を連れてきて、助けてくれたのよ」
「不漁で村が飢えてたときに、あの女が飲まず食わずで海底をさらって真珠を見つけてな。お陰で冬を越せたよ」
「あの働き者にはね、大なり小なりみんな世話になってる。食うに困ってないのに恩を仇で返すとろくなことにならないよ。馬鹿なことを考えるのは止めな」
「なっんっでっよ!!」
「徳の高い村だな。アイツが長居するわけだ」
地団駄を踏む娘に、余所者はしみじみと呟きました。娘はキッと頼りにならない共犯者を睨みます。
「感心してる場合!? あたしあの人に『俺の嫁さんをいじめるのはやめてくれないか』って睨まれたんだけど!!?」
「そいつは悪かったな。不老不死の化け物相手なら、欲を掻くか気味悪がるやつがもっといると思ったんだが。
逆に、なんであんたはそんなにアイツが嫌いなんだ? 好いた男を取られただけだろう?」
「だ、け?」
娘は金切り声を上げました。
「あたしがいつからあの人を好きだったと思ってるの! 小さい頃からずっとよ? 他のぽっと出の連中といっしょにしないで!!」
「あ~、わかったわかった。悪かった」
「わかってない! あの人、昔は体が弱くて、みんなに馬鹿にされてて、でもあたしは好きだったの! 『将来はあたしが養ってあげる』って言ったら、『それもいいかもな』って笑ってくれて……
でも元気になって、漁に出るようになったら、みんなキャーキャー言うようになって、でもあたしは、あんな掌返しの 連中とは違う、あの人と結ばれるのはあたしだって……
なのに、成人した途端、あの女と……」
俯いて、肩を震わせた娘に、余所者は降参しました。
「悪かった。早くあの女を追い出そう。このまま村中惑わされているのは、よくない」
「っ、惑わす? あの女、なにかしてるの?」
「なんにも。でも、いつもいつでもどんなときだって優しくて綺麗な人がそばにいると、人はおかしくなるよ。そんなの、不老不死じゃないとできないことだから」
暗い目で、余所者は考えていた本命の作戦を娘に伝えました。
* * *
絶対に殺せない女を殺すにはどうするか? ええ、他の人を殺せばいいですよね。
というわけで、娘と余所者は真夜中の寝入っている隙に若者を縛って、お嫁さんを脅しました。
「今すぐ出ていかないとこいつを殺すぞ」
「わかりました」
抵抗せず、あっさりお嫁さんは家から出て、強いられるまま浜辺を歩き、余所者の用意した小舟に乗りました。
今までの苦労はなんだったのかと娘が胸を撫で下ろしていると、足元で転がされていた若者が、縄を無理やり抜けて娘の足を掴み、目隠しを外して怒鳴りました。
「俺の妻を返せっ!!」
「はっ、離して! 目を覚ましてよっ。あいつは人間じゃない、化け物なのよ!?」
「それがどうした!!」
言い切って娘を転ばせると、若者は浜辺へ走りました。まだ小舟は発っていません。
立ちはだかった余所者が短刀を向けてきます。
「それ以上近づいたら、この女を刺す」
それで若者が止まったのに、余所者は笑いたくなりました。刺しても蘇ると知っていてこの反応、大した熱愛です。
「ほら、行けよ。アンタがいなくなれば万事解決だ」
「待て。行かないでくれ」
夫の言葉に、お嫁さんは小舟の縄を外そうとした手を止めました。
苛立った余所者が声を荒げます。
「行けって言ってるだろ! さもなきゃコイツを刺すぞ!
男なんて、アンタはいくらでも替えが効くだろう。この村のことだって、離れたらさっさと忘れる。とっとと消えちまえ!」
「あなたのことを、忘れたことはないですよ」
お嫁さんは静かに微笑みました。
「……忘れてない?」
余所者は、激昂しました。
「覚えててそれか? じゃあどうして帰って来なかった! アンタがいなくなった村で、おれがどんな目に遭ってたか知ってるか? アンタを閉じ込めた連中に睨まれて、ひとりぼっちで、アンタのことが忘れられなくて、
おれのことなんかどうでもよかったんだろう! 余所で幸せになってて、ずっと放ったらかしで、覚えてた?
ふざけるなよ!!」
余所者は短刀を振り下ろし、小舟の縄を断ちました。舟が波に揺られて離れていきます。
間髪入れず若者が駆け出そうとして、後ろからしがみつかれました。
「行かないで」
追いついた娘が、若者に告白します。
「あなたのこと、子どもの頃から、ずっと好きだったの!!」
「そんなの、俺だってそうだ!!」
怒鳴り返されて、娘は手を離してしまいました。
「ずっとあの人が好きだった。人じゃなくても。
だから、ごめん」
走り出す背中を、娘は呆然と見送るしかありませんでした。
余所者の脇をすり抜けた若者が、裸になって夜の海に飛び込んで、沖に離れていく小舟に向かって、月明かりを頼りにがむしゃらに泳いでいきます。
砂浜に膝をついた娘の隣で、余所者が短刀を振り回して叫びます。
「戻ってきたら、殺す!」
余所者は泣いていました。ボサボサの髪を振り乱して、千切られた右耳を露わにして。
「どこかで幸せになってたら、見つけ出して、殺してやる! 不幸にしてやる! おれがいないところで、勝手に幸せになって、おれを忘れて、幸せになるなんて、赦さないからな!!
…………母さん」
泣き崩れて砂浜に蹲る我が子を沖から見つめて、お嫁さんは独り言ちました。
「わたしと縁を切ったほうが、あなたは幸せになれると思ってました」
「それはひっっどい勘違いだな! 謝ったほうが良いぞ!!」
水飛沫を散らして小舟に上がり込んだ夫に、お嫁さんは微笑みました。
「この間と逆ですね」
「ああ、いきなり海から上がってきたから驚いたぞ」
「仕返しだ」と笑う夫が、土気色の顔をしているのに、もちろんお嫁さんは気づいていました。
息子の振り回した短刀が、夫の脇腹を裂いていました。海に飛び込んだせいで血が流れて、体が冷えて、息が浅く、目が霞んでいます。
「おれが死んだら、おれのことを忘れるか?」
「忘れたことは、ないですよ」
「じゃあいいや」
目をつむった夫の手を、お嫁さんは最後まで握っていました。
* * *
流れ着いた島で、夫の埋葬を終えて、さてこれからどうしようと考えながら、お嫁さんは日の昇った山道を登っていました。
向かいから降りてきたお坊さんに頭を下げて道を譲ると、「おや」とお坊さんが足を止めます。
「ご同輩ですか」
そう笠を持ち上げたお坊さんのお顔が白く和やかで、体つきが逞しく肉々しいのに、お嫁さんは納得して頷きました。
お坊さんがにこやかに尋ねてきます。
「あなたは何年くらいになりますか?」
「そうですね、五百か、六百か……千年は経っていないと思うのですが」
「それはすごい。私は老けないくらいですね。
これからどちらに行かれるのですか?」
「まだ決めていません。流れるままここに着いたので……また、どなたかに娶ってもらえたらと考えていますが」
お嫁さんの答えに、お坊さんは首を傾げました。
「あなたは五百年も生きているのに、まだ人と生きたいのですか?」
「飽きたことはないですよ。夫はみんなかわいくて、子どもたちもかわいくて……
でも、傷つけてしまったのでしょうか」
考え込んだお嫁さんに、お坊さんは頷きました。
「なるほど、あれと気が合うわけだ。
それなら、試しにひとりで生きてみるのはどうですか? 尼の格好をしていれば、女一人旅でも見咎められることはないでしょう」
衣装をお貸ししますよ、と微笑むお坊さんに、お嫁さんは恐縮します。
「そんな。修行のひとつもしたことがないのに、良いのでしょうか」
「これから始めれば良いのですよ。かく言う私もエセ坊主ですし」
「まぁ」と微笑んで、お嫁さんはありがたく衣装を受け取って、尼になりました。
「ではお元気で。歩いていれば、いつか、ちょうどよい道が見つかることもあるでしょう」
「ええ、そうですね。千年経つ前に……八百年歳になる頃には、見つけておきたいものです」
遠い将来を楽しみに、尼になったお嫁さんはお坊さんと会釈しあって、日の昇る山道を登っていきました。
今は昔? かなたのこなた。愛も魔物もうたかたに、波打つ岸辺に揺蕩った時代。
後の世で、妖怪変化入り乱れる水泳大会の100mメドレーリレーで背泳ぎを担う女の、誰も知らない遠い過去。