入り組んだ路地を駆け抜け、長い階段を降りた先で、ポルカは立ち止まった。地下水路への入り口。ここになら、誰も来ないだろう。
そう考えてから、花封薬を入れた籠を、置き忘れてきたことに気づく。
(……いっか、もう)
どうせ売れない薬だ。つぶやいて、日陰の湿った石畳に座り込む。スカートに染みる冷気の惨めさに、こらえていた涙が目尻を濡らした。
花封薬は、ポルカの母ソルフェージュが発明した薬だ。十年前、幼いポルカを連れてテヌート村にやって来たソルフェージュは、花封茶を作る花から薬を作る方法を発明し、移住権を得た。村人は皆穏やかで優しかったが、そうでなければ父親のいない余所者の親子など、受け入れてもらえなかったろう。
でも、それももう難しいかもしれない。幼い頃はポルカも町に売る花を育てたり、花封薬や花封茶にする花を摘んだりした。みんなといっしょに、笑いながら。
魔法が使えるようになってから、それらは失われた。村人の態度から、慈しみや親しみがなくなったわけではない。だがそこに、病気が感染するかもしれないという恐れと、隔意が混じるようになった。
まず、花を育てる手伝いをやんわりと拒まれるようになった。(ポルカちゃんは気にしなくていいから) 花摘みも同じ。(家で安静にしてなさい。病気なんだから) 顔を見ればあいさつはしてくれる。ぎこちない笑顔で。(最近どう?) そして視線は合わせない。(じゃあ、またね)
気安げにポルカに触れてくる人もいなくなった。会うたびに頭を叩いてくれたおじちゃんも、ポルカの金髪を羨ましそうに撫でてきたお姉さんも、みんなポルカと距離を置くようになった。
村の入り口でいつも声をかけてくれたお婆ちゃんは、親しげにあいさつをしながらも杖を固く握りしめて近づこうとはせず、唯一親しげな態度を変えなかった小さな双子とも、やがて遊べなくなった。
どんなに母が傍にいて、こんなに近くにいる自分に感染らないのだから大丈夫だと訴えても、無駄だった。染みついた恐怖には勝てない。もしもという疑念は消えない。
そうしてポルカは、やんわりと爪弾きされるようになった。何の仕事もさせてもらえないポルカにできるのは、母が作った花封薬を売ることだけだった。
それも、今日終わった。花封薬はもう売れない。花封薬を売っていた娘が魔法使いだと町に広まれば、テヌート村のみんなにも迷惑がかかるかもしれない。
こんなことをしたかったんじゃない。私は、ただ、誰かの、何かの役に立ちたかった。もうすぐ死ぬのなら、せめてそれまでは、みんなの役に立ちたかった。それだけだったのに。
抱えた膝に涙を埋めていると、日射しにかかる影と、軽やかな足音が耳に入った。
「お前知らないのか? 魔法が使えるってことは、不治の病に冒されている証拠なんだよ」
物知らずな弟分にさすがに呆れて、アレグレットは肩を落とした。自分も勉強好きとは言い難いので、ついつい甘く見てしまっていたが、もっと勉強を見てやるべきなのかもしれない。
「不治の病? でも、さっきの人元気そうだったよ?」
「そりゃそうさ。魔法使いになると魔法で体を治せるからな。不治の病ってのは物の例えで……つまり、もうすぐ死ぬ人しか魔法が使えないってことさ」
端折って告げる。言ってる内に辛くなったというのもあった。さっきの少女、大通りで何度か見かけて秘かに気になっていたあの子は、恐らく自分よりも年下だった。
「そっか。それで逃げてったんだね。病人だって言いふらされたら困るもん。病気なら感染るかもしれないし」
「……そうだな。魔法使いは見つかったら隔離されるから、人前で魔法を使いたがらないんだ」
それを押してアレグレットを助けてくれた少女がいじらしかった。恐らくは鉱封薬を持ていなかったのだろうが、魔法を見られたらどんな目で見られるか、わかっていたはずなのに。
逃げていった少女の背中を、切なく思い出す。何か、言ってやれたら良かった。せめて、お礼の言葉を。それだけでよかったのに。
「でもさ、兄ちゃん。病気なら鉱封薬で治せないの?」
「ああ。不治の病は鉱封薬でも魔法でも治せないし、触っても感染らない。そもそも魔法の源が病気だなんてのは、誰かが流したデマだ」
「デマ?」
栗色の目をぱちくりとさせるビートに、強く肯く。
「そうさ。さっきも言ったろ? 魔法ってのは、もうすぐ死ぬ代わりに使えるものなんだ。原因は病気とは限らないし、そもそも病気なら魔法ですぐ治しちゃえるしな」
魔法とは、寿命が来た人間に起こる奇跡とも言われていた。すべての人間に起きるわけではないが、死に瀕したのを切っ掛けに使えるようになるのと、魔法使いになるとそう時を置かず亡くなるのは共通している。
大けがをして魔法に目覚めた人、水に溺れて使えるようになった人、自分から飢えて魔法使いになった人もいたそうだが、死にそうになった原因を魔法で遠ざけたにも関わらず、彼らは皆長生きできなかった。
疫病で目覚め他の患者を救った魔法使いなど、他の患者は生き延び魔法使い自身の病も治ったはずなのに、彼女一人が亡くなったという。魔法が使えるようになることそれ自体が、死を招くとしか考えられない。
「このことは神父のじっちゃんから聞いた話だけど、町のやつらは知らないか、知ってても信じてない。ビート、さっきの魔法使いのことは言いふらすんじゃないぞ。デマを信じるやつなんて大勢いるんだからな」
「う、うん。わかったよ、兄ちゃん」
視線を凄ませると、弟分はこくこくと肯いた。少し不安だが、まあいいだろう。
後でもう一度念押ししておくか考えていると、ビートがぽつりとつぶやいた。
「でも、それならやっぱり、話しかけておけばよかったなあ」
足を止めて、その目を見下ろす。
「ちょっとしかいっしょにいられないなら、少しでも早く仲良くしないと、損だもんね」
「……そうだな」
肯いて、少し笑う。もしも、また会えたら。あの少女はきっとこちらを避けようとするだろうが、見かけたら、今度こそ追いかけて、声をかけよう。あのときはありがとう、と。
重苦しかった気分が少し晴れて、アレグレットは階段を駆け下りた。深い水の匂いに、流れる河の音。地下水道の入り口にたどり着いて、ぴたりと足が止まった。
「あっ!」
後ろでビートが歓声をあげるのを、アレグレットは声もなく聞いていた。抱えたパンの香ばしい匂いに、籠を持った腕が、何故だかぎゅっと熱い。
泣き腫らしたとわかる顔で、薄青の目を見張らせて、あの女の子が、地下水道の入り口に突っ立っていた。
(今、何を言われたんだろう?)
長い階段から降りてくる、さっき魔法を見られた銀髪の少年──私と同い年か、少し年上か──と、茶色の髪の幼い男の子を、ポルカは呆然と聞いていた。
漏れ聞こえた言葉は、最初、氷で傷を抉られるような心地だった。うずくまり耳を塞いでも、聞こえてくる言葉からは逃げられない。逃げ場はない。テヌート村は遠く、母の待つ家は遠く、この町に、私の居場所なんて。
そう思った耳に、不思議な言葉が飛び込んできた。
「不治の病は鉱封薬でも魔法でも治せないし、触っても感染らない。そもそも魔法の源が病気だなんてのは、誰かが流したデマだ」
(………?)
奇妙な言葉が聞こえた気がして、ポルカは耳を塞ぐ手を離した。何か、おかしなこと。夢でしか聞いたことのない、願望が聞かせたような言葉が、確かに。
夢でも見る心地で、ポルカはそれを聴いていた。不治の病は、魔法は触っても感染らない。今まで母が何度も訴えて、でも誰にも信じてもらえなかったことを、当たり前のように教えて、信じる人が、すぐそこに。
「でも、それならやっぱり、話しかけておけばよかったなあ」
茶色い髪の男の子が、つぶやくのが聞こえる。
「ちょっとしかいっしょにいられないなら、少しでも早く仲良くしないと、損だもんね」
「そうだなあ」
ポルカの願望がそう聞かせたのでなければ、その相槌は気のないものではなかった。微笑ましく、乗り気なもの。もしまた会えたら、そうしてみようか。そんな声。
「あっ!」
茶色い髪の男の子がこちらを指差す。気がつけば、ポルカは物陰から身を乗り出してふたりを見上げていた。怯えに身を翻すよりも早く、銀髪の少年が顔をほころばせる。
「よかった、見つかって。これ、あんたのだろ?」
少年が近づいて、片手に抱えていた籠を差し出す。花封薬の入った籠。ポルカの忘れ物を持って、ポルカに手渡す。奇跡を見る心地で、ポルカはそれを受け取った。
「あ……ありがとう」
かすれた声が、我知らず感歎の色を帯びる。
「これを届けに、追いかけて来てくれたの?」
自惚れでないのなら、それ以外にこんな場所に来る理由は見つからなかったのだが。
「あー、いや、そういうわけじゃないんだ。ちょっとこっちに用事があって」
「用事?」
首を傾げると、茶色の髪の男の子がきらきらとした表情で声を弾ませた。
「なあ兄ちゃん、この人、アジトに案内しようよ。裏路地に一人でいるのは危ないし、今から表通りに送ってったらパンが冷めちゃうだろ?」
「ビート、あんまりうかつなこと言うなって言ったろ。それにこの人にだって用事ってもんが……」
「アジト?」
再度尋ねると、銀髪の少年が気まずげに黙り込んだ。目線を合わせず、明後日の方向を見ながら、もごもごと口を動かす。
「あー、ああ。この近くにあるんだ。あんたさえ良かったら、寄っていかないか? こっから女の子一人で表通りに帰るのは危ないし、俺たちもこのパンを届けなきゃいけないんでね」
「兄ちゃん、それ、僕が言ったのと同じ……」
「うるさい」
言い合うふたりを前に、胸が詰まる。
日はまだ高いが、これからどこかに行って戻るとなれば、テヌート村に帰るのは夜になってしまうかもしれない。朝あれだけ心配させた母を、帰りが遅くなって更に心配させるのは忍びない。目の前のふたりは同年代と年下だが、裏路地に慣れている様子だし、信頼できる人間とは限らない。
それでも、このふたりともっと話がしてみたかった。明日も知れぬ身となれば、なおさら。
「あの……ほんとに、いいんですか?」
「おう、いいぜ」
火に入るような気持ちで口にした言葉は、日向のような笑顔で迎えられた。
「俺はアレグレット。こいつはビート。リタルダントでちょっとした商売をやってるんだ」
アレグレットがそう言った途端、ビートが慌てたように口を閉じたが、それはもう、気にしないことにした。
「私は……」
「ポルカ、って言うんだろ? 市場で花封薬売ってるの、何度か見かけたことあるよ」
先を言われて、目を丸くしながら肯く。ビートがはしゃいだ声を挙げる。
「よろしく、ポルカ姉ちゃん!」
「よろしく、ビートくん」
滲み出る喜びに逆らうことなく、ポルカは微笑を浮かべた。夢じゃない。これは夢ではない。そしてこの夢は、まだ始まったばかりなのだ。
「あの……アレグレット、さん?」
「アレグレットでいいよ。なんだい?」
「アレグレット。そのアジトって、どこにあるの?」
ここにあるのは地下水路への入り口だけで、実質行き止まりだった。首を傾げるポルカの前で、アレグレットが誇らしげにその入り口を指差す。
「ここだよ」
秘密基地を自慢する、男の子の笑顔。
「俺たちのアジトは、この地下水路にあるんだ」