「待て、パン泥棒ー!!」
潮風の香るリタルダントの街に、高らかな怒声が響き渡る。
髪を逆立てた追っ手の気配を耳に感じながら、アレグレットは素早く路地裏に身を滑り込ませた。
「逃げろ、ビート!」
「兄ちゃん、待ってくれよお」
もたもたしている弟分をひっつかまえて、自分の隣に押し込める。息を殺して壁に体を張りつかせると、反対側に追っ手が到着したのがわかった。
顔を火照らせ、箒を振り上げ、息を荒げながらやって来た、パン屋のおばちゃん。
「またあいつらだわ! 今度はパンに毒でも入れておこうかしら」
毒々しい台詞に思わず背筋が震えたが、それであきらめたのか、のしのしとおばちゃんは去っていった。足音が聞こえなくなるのを待って、隣の弟分が大きく溜め息を吐く。
「兄ちゃん、あぶなかったなぁ」
「あんなの朝飯前さ」
軽く笑い、壁から身を離す。安堵と共に香ばしい匂いが漂い、空腹を刺激した。時刻は既に昼前。朝食には遅いが、最近警戒されているので昼の追加分を狙ったのだ。
「そんなの当たり前だよ。朝ごはんなんだから、朝飯前に盗らなくちゃね」
「ばーか」
同じように剥き出しのパンを抱えた弟分が、訳知り顔で口を尖らせるのに苦笑する。
アレグレットは十六歳、ビートはその半分。たまに勉強は見てやっているが、アレグレットも博学とはお世辞にも言えないため、知識の程は推して知るべしだった。
「さ、早く配ってやろうぜ。あいつら腹減らしてるだろうからな」
明るく笑い、アレグレットはパンの温もりが冷めぬよう先を急いだ。恵まれた食生活ではないので一食抜くくらいは日常茶飯事だったが、腕にご馳走を抱えての我慢はきつい。
後ろでビートが小走りになるのがわかる。足取りは軽く、パンを抱える腕は温かく、しかしアレグレットの胸中は苦かった。弟分にばれないよう、パンでさりげなく顔を隠す。
肩を怒らせて去っていく、パン屋のおばちゃんの背中。
(……ごめん)
焼きたてのパンを盗まれた悔しさに憤っているだろうおばちゃんを思い、心の中で謝った。
アレグレットとビートは、リタルダントを縄張りにする義賊だ。と言っても獲物はパンを初めとする食糧に、衣服などの日用品。あとはゴミ漁りや縄張りを無視した釣りや狩りがせいぜいで、町での評価は悪ガキの域を脱しない。たまに馴染みの店で売り買いをすることもあるが、そこでは悪さをしないようにしている。
「でもさ、兄ちゃん。なんでパンがこんなに高いんだろう? もう少し安かったらちゃんと買えるのに」
「そうだなあ」
相槌を打ちながら、路地裏の狭い空を見上げる。くしゃくしゃの銀髪がふわりと跳ね、黒に近い紺色の目が空を映して青く輝く。大人になりかけの面差しはまだ青臭さを残し、けれども軽く日に焙られた肌は十分に精悍だった。
「でもな、ビート。パン屋のおばちゃんは、別にぼったくりしてるわけじゃないんだぜ。パンが高いのは、パンにかけられてる税金が高いからさ」
「え、そうなの?」
栗色の目を丸くして、弟分がアレグレットとパンを見比べる。まだ八歳のビートは背も低く顔もあどけない。着ている服はいつだったか富豪の捨てた古着を運良く拾ったもので、ほとんど年中着ているためあちこちに繕った跡がある。かさついた肌も細い手足も、栄養が足りているとは言い難い。
「パンだけじゃないぞ。リタルダントでは、生活に必要なあらゆる物に高い税金がかかっている。そのせいで、その日の食べ物もない子どもがたくさんいるんだ」
そんな浮浪児を見つけては面倒を見るのが、アレグレットの仕事だった。誰に頼まれたわけでも誇るつもりもないので、当の子どもら以外に知る人はいなかったが。
アレグレットとビートも、親を亡くした孤児だった。幼い頃に教会の神父に引き取られ、教育を施してもらい、しかしそこを飛び出して泥棒をしている。別に折り合いが悪かったわけではなく、今でもたまに顔を見せてはいるが、税金の重みは喜捨を減らし、教会にも余裕はない。教会に救えなくなった子どもを救うのが自分の役目だと、アレグレットは自負していた。
とはいえ、幼いビートが自分を慕って付いてきたのは、さすがに計算外だったが。
「だから僕たちが必要なんだね!」
「……まあ、無税なのは鉱封薬ぐらいなもんだしな」
満面に輝いた表情を宥めるように、アレグレットはビートの茶色の髪をかき混ぜた。当人の意志は尊重するが、まだ幼いビートにこうして泥棒の片棒を担がせるのに、思うことがないわけではない。
「そっか、だから鉱封薬だけは誰でも安く手に入るんだね。フォルテ領の伯爵もいいとこあるじゃん。薬の税金だけでも安くしてくれてるんだから」
そう、鉱封薬だけだ。万能薬の鉱封薬が安く手に入るからこそ、みんな何とか暮らせている。それが本当に国民のためになっているのか、アレグレットは密かに疑っていたが。
「っ、ビート」
近づいてくる声と足音に、アレグレットはビートをつかみ物陰に身を潜めた。数は三つ。日に焼けて黒くなった厳めしい顔を赤くへべれけに酔わせた、船乗りの男たち。
「なぁんか、匂うなあ」
「ああ、匂う、臭う」
「パンとネズミの臭いだぁ」
わざとらしい、にちゃりとした笑顔。最近こんな連中が増えてきた。バロック王国に続くフュージョン河に海賊が出るせいで交易船が運休になり、仕事にあぶれた船乗りたちが憂さ晴らしに飲んだくれ、路地裏で見つけた、ちょっと殴っても心が痛まない、アレグレットのようなこそ泥をリンチするのだ。
「ビート、パン持って先行ってろ」
「え、でも」
「でもじゃない。お前がいると足手まといなんだよ。さっさと行け」
パンを一本だけ残してビートに渡し、音が出ないよう背を叩く。危なっかしい足取りでのろのろとだったが、ビートが視界から外れるのを見送って、路地裏から出る。いくらか鍛えてはいても所詮は十六歳のアレグレットが、屈強な船乗りに勝てる道理はないが、ビートとパンを逃がすには、アレグレットが逃げるわけにはいかなかった。
「よお、こそ泥さん。今日もパン泥棒か? お仕置きが必要だなぁ」
「どうも、船乗りさん。いつから警備兵に転職したんだい? あやかりたいね」
軽い嫌みに船乗りたちの顔がドス黒く染まるのを、あーあ、と思う。損な性分だが、やめられない。
さっきの物陰に隠した狩猟用の剣を強く意識したが、あれは人を斬るためのものではない。こんな馬鹿らしい喧嘩で剣を使うなんて馬鹿げてる。そうは思うのだが。
(馬鹿なのは俺のほうかな)
ぱきぽきと物騒に腕を鳴らす男たちを前に、できるだけ善戦しようと、アレグレットは足を踏み出した。
「こえに懲いたら、もう悪さすんじゃねえぞお」
「お前酔いすぎだって」
「次は腕を折るからなあ」
唾を吐き、嘲笑と捨てぜりふと共に去っていく足音を、アレグレットは朦朧とした意識で聞いていた。中途半端に反撃したせいで、顔と腹をしこたま殴られ、自分が吐いた吐瀉物が頬を汚している。
鉱封薬があるから、いくら酒を飲んでも平気。鉱封薬があるから、いくら人を殴っても平気。鉱封薬があるから、飢えてても、殴られても、平気。くそったれが。
「鉱封薬を安くするくらいなら、もっとパンを安くしろっての」
ズキズキと腫れ上がった顔に触る勇気は、まだ持てなかった。地べたの湿った生ゴミや吐瀉物でツンと来る臭いに、焼きたてのパンが落ちて台無しになっている。
正義漢を気取るなら食い物を粗末にするなっての。毒づいたところで、これが自分の朝食だという未来は覆らなかった。パンを無駄にするわけにはいかない。鉱封薬があるから、ゲロとゴミ塗れになったパンを食べても大丈夫。まったく。
指一本動かす気力もなくなり、アレグレットは目を閉じた。
ほんの少しだけ。そのつもりだった。
* * *
ちりちりと暖かくて快い感触が頬をくすぐるのに、アレグレットはうとうとと目を開いた。
日向ぼっこをしているような、優しく手当てをしてもらっているような、そんな感覚。何か甘い匂いがする。甘い、花の香り。女の子の匂い。
自分とは縁のない匂いに、そろそろと目を開いた。最初に目に入ったのは、蜜柑色の小さな光。それから、目の覚める赤いスカート。
(? この子……)
声をかけたことはないが、大通りで何度か見かけたことがある、長い金髪の少女が、すぐそばにしゃがみ込んでいた。テヌートの薬売り。質素だが身なりもよく、間違ってもこんな裏通りにいて良い人間ではない。
(何してんだ?)
介抱してくれているにしては、少女はこちらに触れようとしない。祈るように目をつぶり、白い指先を掲げている。何をしているのかわからないのに、不思議と厳粛な、壊せない静寂がそこにあった。
と、頭上に降り注ぐ光が空からのものではないのにアレグレットは気づいた。この裏路地にあって無視できない輝きが、少女の指先からこぼれている。白く淡い光が傷口に降り注ぎ、橙の光が花弁を散らす。暖かな、それでいて瑞々しい、快い光。金色と言えるほど目映くはなく、火を連想するには慈しみに満ちたそれが、じくじくした痛みを優しく包み込み、溶かしていく。
鉱封薬のように劇的に痛みを消し去るわけではないが、じわじわと痛みが和らいでいく心地好さがあった。甘く暖かな感触に包まれながら、しかしアレグレットからこぼれたのは悲嘆の溜め息だった。傷ましく切ないものを見つけたときの、胸を射る痛切な吐息。
「ふわぁ、きらきらしてる!」
何の前触れもなくあどけない感嘆が響き、奇跡のような時間は終わった。光が絶えて、じめじめと冷たい裏路地の空気が戻ってくる。
胃液の酸っぱい臭いを思い出す前に、パンの芳香が鼻をくすぐり、目と口を丸くして顔を輝かせているビートが耳に飛び込んできた。あの分だとパンを放り出して写真機を取り出しかねない。
のろのろと身を起こそうとして、少女の様子に気づいた。泣き出す寸前で凍りついた表情。涙も凍てた、ぽっかりと深淵を見つめる……
その目が、アレグレットが起きているのに気づいた。息を詰めてこちらの反応を見守る少女に、喉から言葉を引っ張り出す。
「きみは……」
信じたくない気持ちが、失言を吐かせた。
「今の、魔法?」
しまった、と思ったのは一瞬だった。薄く凍りついた淡い青色の瞳が、さっと身を翻す。呼び止める隙もなく、少女は走り去ってしまった。見えなくなっていく背中に伸ばした手に、後味の悪い無力感がのしかかる。
(魔法使いだったのか……)
罪悪感を噛みしめながら、アレグレットはすぐ近くに丁寧に装飾された薬瓶が転がっているのに気づいた。少女の商売道具だろう手提げの籠が、ぽつんと取り残されている。
しばらく迷った末にそれを拾い上げると、とことことビートが走り寄ってきた。
「兄ちゃん、すごかったなあ、今の」
つかえていた息を吐き出して、はしゃいだ歓声をあげる。いつだったか、水平線から昇る朝日を見たときと同じ顔だ。
「こら、ビート。先に行っとけって言ったろ?」
「ご、ごめんよ、兄ちゃん。だって、上手く走れなくて物陰に隠れてたら、怖い音聞こえて、心配で……」
「そうかい。見ての通りピンピンしてるさ。ちょっと殴られたけど、あの魔法使いに治してもらったしな」
体の痛みは消え失せて、私刑の痕跡を残すのは口と喉に貼りついた胃液の酸っぱさだけだった。あのパンは……もうネズミの餌にするしかない。頭の中でもう一度おばちゃんに頭を下げる。
元から鉱封薬で癒して適当にごまかすつもりだったビートについては、これ以上の説教は藪蛇だった。ビートに渡していたパンを受け取り、歩き出す。背中についてくるビートが、不思議そうに声をあげた。
「でも、何で逃げちゃったんだろ? 写真撮りたかったのに……」
「何でって、お前知らないのか?」
無邪気な質問にアレグレットは眉をしかめ、重い口を開いた。
「魔法が使えるってことは、不治の病に冒されている証拠なんだよ」