第一章 薬売りの少女

 空は今日も健やかに晴れていた。薄青い空に白雲が散りばめられ、丘は肥えた緑が風に歌っている。海は空よりも深く青く、華やかな花の匂いが潮の香りと調和して、麓の港町が真珠のように輝いていた。  海に臨む小高い丘。そのてっぺん。港町を一望する断崖を彩るように、その村はあった。  湧き出る泉が小川を作り、丘から海へと流れるせせらぎが、鳥や動物たちの声とせめぎ合う。豊かな水を糧にして、村には至る所に花が咲いていた。背の高い白、高貴な紫、清廉な青、気高い真紅。  だが、村人が最も誇りにするのは、断崖に臨む花畑に咲き乱れる、背の低い素朴な花。淡い黄色から深みのある橙に、橙から明るい赤へ移ろうその花こそが、村で最も価値のある花だった。  花の村、テヌート。美しくも長閑なその村の、奥まった場所にある小さな家で、今、軽やかに扉が開いた。 「行ってきます!」  弾んだ声を投げかけて、少女が家の中から飛び出してくる。年の頃は十と半分、にはまだ一つ足りない。面差しは幼さを残して甘く、背丈もまだ伸び盛り。華やかな青い目が朝日に照る小川を映してきらめき、日射しを浴びた白い頬が健やかに微笑む。  細い足が跳ねるように地面を叩くたびに、二房にくくった髪が金糸のリボンのように翻る。村娘にしては不釣り合いに長く伸ばしたそれは、左袖に縫いつけた造花と同じ、少女のささやかなお洒落だった。 「ポルカ」  家の中から名を呼ばれて、少女はくるりとふり返った。花畑と同じ黄みがかった赤いスカートが、少女の動きに合わせてふわりと踊る。  戸口に立つ母は、顔を重く沈ませていた。丁寧にまとめた淡い黒髪に、すらりとした端正な面差し。常ならば穏やかな慈愛に満ちた切れ長の黒い目は、今は憂いを湛え細められている。 「無理はしなくていいのよ? 薬が売れなくても、生きていくだけなら何とかなるわ。何だったら、町には私が行ってもいいし、誰か他の人に頼んでも……」 「もう、母さんったら。これは私の仕事だって言ったでしょ。それに、久しぶりに町で買い物するの、結構楽しみにしてたんだから」  腕に提げた籠を見せびらかすようにして、ポルカは笑った。籠いっぱいに入れられた小さな瓶が、かすかに揺れてくぐもった音を立てる。  それを見ても、母は憂いを解かなかった。笑顔は不自然ではなかったはずだ。そのくらいのことはできるようになっていた。曇りのない笑顔は不自然だと悟るには、ポルカはまだ幼すぎた。 「何度も言ったけど……」  俯いた仕草にあきらめを混ぜて、母は言った。それを了承と取り、ポルカは肯いた。 「暗くなる前に帰ります。危ない場所には近づきません。スリには気をつけます……町では、絶対に使いません」  言いつけを指折り数えて、最後の、一番大切な約束に震えた手を、母が握りしめた。冷えた手に、温もりが伝わる。 「例え何があっても」  かすれた強い声。 「あなたは悪くないのよ。それだけは、忘れないでね」  何も言わず肯いて、ポルカは踵を返した。  家で待つ母のほうこそ、震えて青ざめていた。
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「「ポルカお姉ちゃん!」」  唱和する声に後ろから呼び止められ、ポルカはふり返った。絶えて久しいことだっただけに驚きは隠せなかったが、大きく手を振る小さな影に、口元はすぐほころんだ。 「ソプちゃん、ラノちゃん。どうしたの?」  近所に住んでいる仲の良い姉妹が二人、並んで小道を駆けてくる。向きから察するに断崖の花畑に行っていたのか。ポルカの半分の年齢にも達していない二人だが、家の手伝いを熱心にしていたし、以前はポルカともよく遊んでいた。  そのあどけない手が掲げた籠に、ポルカは目を丸くした。 「ポルカお姉ちゃん、今日町に行くんでしょ?」 「だから、このお茶もいっしょに売ってもらおうと思って!」  籠の中にはたくさんの小瓶が敷き詰められていた。一つ一つが丁寧に布で包まれ、花を模したリボンで綺麗に飾られている。ポルカの籠にある小瓶と同じ包装だったが、ポルカのが華やかな赤いリボンでくるまれているのに対し、こちらは愛らしい黄色のリボンで飾られていた。 「たっくさんあるでしょ! あたしたちが作ったんだよ!」 「いっぱい売れたらあたしたちのお小遣いにしてもいいって! お母さんは来週行商人のおじさんに頼みなさいって言ってたけど、ポルカお姉ちゃんに頼んだほうが早いもんね?」  無邪気に笑って差し出された手に、ポルカは躊躇った。受け取るのは簡単だ。だが、後で問題にならないだろうか。  ソプとラノは、無垢に微笑んでいる。幼い笑顔を曇らせるのに忍びなくて、ポルカは籠を受け取ろうとした。 「何してるのっ、やめなさい!!」  烈火の如き声に指先は凍りつき、籠は落ちてしまった。  地べたに落ちた籠を拾うこともできず、ポルカは視線をさまよわせた。ポルカの背後で、家から飛び出たソプとラノの母親が、口元を覆って凍りついている。  悪気はなかったと、その仕草でわかってしまった。無邪気に火に触れようとした我が子を見て、咄嗟に叫んでしまった。そんな表情。  ソプとラノは籠を差し出した姿勢のまま、火傷したように身を竦ませている。立ちすくむ我が子を見て、ようやくソプとラノの母親は引きつった笑顔を浮かべてみせた。 「ほ、ほら。ポルカお姉ちゃんは自分の家のお薬を売らないといけないんだから。あなたたちの分まで売っている余裕はないの。我慢しなさい」  もつれた、取り繕った声。気を遣った言葉。何の悪意もなかったと、それだけでわかってしまう。ただ、我が子を守りたかっただけ。ただそれだけ。  気を取り直したソプとラノが、不満げに口をすぼめる。その口から不平が飛び出す前に、ポルカは地面に屈み、落ちた小瓶に手を伸ばした。籠からこぼれた、少し包装が汚れてしまった分を拾い、自分の籠に入れる。 「これくらいなら平気だから、ついでに売ってきてあげる。お金は帰ったときに、お母さんに渡しておくから」  笑顔は引きつらない。声は震えない。そのくらいには、慣れてしまった。 「じゃあ。また、しりとりでもして遊んでね」  ソプとラノが不審を口にする前に、足早に通り過ぎる。籠を拾ってあげるのはあきらめた。嫌がらせにしかならないだろう。空と道だけを見つめて、変わらない態度で、ポルカは立ち去ろうとした。  通り過ぎるとき、ソプとラノの母親に、か細い声で言われるまでは。 「ごめんなさい」  そんな言葉はほしくない。  取り繕うのも忘れて、ポルカは走り出した。  行く手の青空は、ただただ眩しかった。
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「テヌート名産、花封薬はいかがですか? よく効きますから、どうか買っていってください!」  手提げから取り出した小瓶を片手に、潮風に大きく声を張り上げて、ポルカはぐるりと人混みを見渡した。こんなに人がいるのに、朝から一つも売れていない。  リタルダントはフォルテ伯爵領を代表する港町だ。大陸を横断するフュージョン河はロック山の恵みを海と大地に与えるばかりでなく、水路としての価値も計り知れない。隣国バロックからの定期船で賑わうこの町が、ポルカの仕事場だった。  白と青を基調にした街並みは、碧い海と空に映えて観光客の目を楽しませている。だが、その客足が、今日は随分と少ないように見えた。 「テヌート名産、花封薬はいかがですか? よく効きますから、」 「無駄だよ、お嬢ちゃん」  明るく取り繕った、しかし焦りの透けてしまった声に、隣の商人が独り言のように言った。見かねたというよりは聞き咎めたような、ぶっきらぼうな声。 「最近は鉱封薬があるからな。花封薬はもう売れないよ」  花封薬は、テヌートの丘に咲く花を精製して作られる万能薬だ。傷に塗れば血を止めて痛みを和らげ、病のときに飲めば滋養となる。だが、最近になってフォルテ政府公認の鉱封薬が出回るようになってからは、めっきり売れなくなってしまった。  鉱封薬は傷に塗れば瞬く間に完治させ、病のときに飲めばその日の内に全快させてしまう。おまけに無税で、高い税金がかけられている花封薬よりずっと安いとなれば、最初から勝負にならなかった。 「でも、いつもならバロックのお客さんが」 「あいつらは今日は来ないよ。最近フュージョン河に海賊が出るようになって、定期船は止まってんだよ」 「そんな……」  領内では無税で安く手に入る鉱封薬だが、国外に持ち出そうとすれば花封薬よりも遥かに高い莫大な関税がかかる。あくまで領民のための無税だからということだが、おかげでバロックからの客には昔と変わらず花封薬が売れていた。  それなのに。 「鉱封薬の方がずっと安くて効きも早い。花封薬の時代は終わったんだよ」  不機嫌そうな商人の言葉に言い返せず、ポルカは俯いた。  握りしめた小瓶に力が籠もり、丁寧に結んだリボンがわずかに乱れる。 「ん、あんた、そりゃ花封茶かい?」 「え、ええ……」  籠にあるソプとラノからもらった瓶を指差され、ポルカはたじろいだ。花封茶は花封薬と同じ花から作られる特産品で、こちらは花をそのまま刻んで乾燥させたものだ。花封薬ほどではないが薬効もあり、値段も手頃で、味も香りも良いため好まれている。 「そりゃあいい。一つ売ってくれよ。あんた、そっちを商売にしちゃどうだい」  曖昧に笑んで茶葉を手渡し、代金を受け取る。今や嗜好品である花封茶の方がよく売れるのはわかっていた。花封薬の方が高価でも、誰も買ってくれないのなら意味はない。  花封薬がなくても村には花封茶があるし、観賞用に育てている花だって人気が高い。雪国で花の稀少なバロックでは特に人気があるそうだ。花封薬が売れなくても問題はない。わかっている、けど。 「テヌート名産、花封薬はいかがですか? よく効きますから、どうか買っていってください!」  ポルカは声を張り上げた。丘の上で浴びるよりずっと濃い潮風が、呼びかけに潮気を孕ませた。
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(結局、花封茶しか売れなかったな……)  朝とほとんど重さの変わらない籠を片手に、ポルカはとぼとぼと歩いていた。日は高く昇り、そろそろ昼時。賑わう露店も美味しそうなパンの匂いも、寒い懐では惨めなだけだ。  リタルダントからテヌートには半日もあれば帰れるため、まだ呼び込みを続けることはできたが、ポルカの心は萎えかけていた。 (どうすればいいのかな)  バロックからの定期船が来れば、少しは売れる。高い税金のせいで安くはないが、それでも富裕層には十分に売れていた。  だが、例え海賊がいなくなっても、フォルテ領の人間に全く売れない事実には変わりない。昔と比べて売上が激減した花封薬に拘るのは、ポルカのわがままでしかなかった。 (でも……) 「おい! これに懲りたら二度と面見せんじゃねえぞ! 次はないからなッ!!」  俯いた耳に、鈍い殴打の音が響いた。  一度、二度、三度。重たいものが、階段を転がり落ちる音。  反射的に身を竦ませて、ポルカはすぐ傍の暗がり、大通りにぽっかりと口を開けた路地裏を見つめた。見るからに激怒している男が数人、肩を怒らせて出てくる。 「ったく。手間かけさせやがって」 「次は両腕折っちまおうぜ」 「先に足だろ」  悪意に満ちた言葉を吐きながら、足早に通り過ぎていく。大きな、旅人の行き交うリタルダントでは、比較的よくある風景だった。けれど。 (昔は、ここまで酷くなかったのに)  日は高く、路地裏から一歩抜ければ人混みで賑わっている。そんな人目に付く場所で物騒な言葉を口にする男たちがいるのに、誰も見咎めようとしない。鉱封薬があるから。  鉱封薬を塗れば、どんな傷でもたちどころに治る。だから手足を折るなんて言葉くらいじゃ、誰も立ち止まらない。言いようのない不安を抱えながら、自分も立ち去ろうと足を動かし、しかしポルカは見てしまった。  路地裏に横たわる影が、ぴくりともしていないのを。  母の言いつけが耳をかすめる。道行く人は誰も立ち止まらない。  よくあること、そう言い聞かせる。よくあること。なんでもないこと。どんな傷も、鉱封薬を塗ればすぐに治る。でも、意識がなかったら。鉱封薬を持っていなかったら。すぐそこに、路地裏が口を開けている。  母の言いつけが耳をかすめる。けれど。  息を吸い、ポルカは路地裏に足を踏み入れた。階段の足元に倒れている少年が、すぐに目に入る。 「大丈夫ですか!?」  駆け寄り、口元に手をかざす。自分と同じくらいの年頃の、銀髪の少年。どこかで見たような気もするが、思い出せない。役立たずの記憶は放って怪我を見る。  息はしている。脈もある。けど、顔は酷く腫れ上がり、呼びかけにも答えない。頭を打っているかもしれない。鉱封薬を持っているかは、ぱっと見にはわからなかった。 (……気を、失ってる)  他に人目はない。後ろから人が来る様子はない。自分は鉱封薬を持っていないし、急を要するなら花封薬では間に合わない。迷っている時間はない。 (大丈夫、よね?)  倒れた少年に手をかざす。目を閉じて、意識を凝らす。  胸の内に、見えない光がある。血の通う体、心臓の鼓動、胸に吸い込む大気とは別の、ただそこにある光が、指先を通じて世界にこぼれ出す。  温もりが手のひらからあふれる確信に、ポルカは目蓋を開いた。指先から滴る淡い光が、少年の傷に触れて蜜柑色に輝く。  暖かな輝きが、少年の傷を見る見るうちに癒やしていく。腫れ上がった頬が、凹んだ青あざが、苦しげな呼吸が、光に包まれて和らいでいく。 「ふわぁ、きらきらしてる!」  あどけない感嘆が背後に響いて集中が壊れ、ポルカは息を呑み手を離した。  ふり向いた先にいたのは、自分よりもずっと年下の、まだ幼い男の子。丸みを帯びた頬に、くしゃくしゃのきつね色の髪と、栗色のつぶらな目。生地は上等だがくたびれた服。腕いっぱいにパンを抱えて、くりくりした目を更に丸くしてこっちを見ている。  光は幻のように消え失せ、後悔がポルカの心臓を冷やした。集中していて、足音に気づかなかった。傷が癒えたらすぐに光を止めて、鉱封薬を使ったと誤魔化すつもりだったのに。  子どもはぱちくりと目をまたたかせている。何か言われる前に誤魔化そうと、ポルカは口を開いた。 「ん……」  その前に、倒れていた少年がゆっくりと身を起こした。くしゃくしゃの銀髪を左右に振り、傷ついていた顔に触れて目蓋を開く。 「きみは……」  澄んだ深い藍色の目に、青ざめている自分の顔が映る。誤魔化しの作り笑いを浮かべようとした、その前に、少年が口を開いた。何よりも恐れていた言葉を、くちびるに乗せて。 「今の、魔法?」  その言葉を聞くや否や、ポルカは耳を塞いで路地から逃げ出した。