遺体は大切に保存していた。生成も上手くいった。完璧だ。これならきっと、上手くいく。
「姉さま。すぐに助けてあげるからね」
姉の亡骸から培養した複製体に、ミトスは優しく声をかけた。
* * *
目を開けて、一番最初に目にしたのは弟の満面の笑みだった。子どものような笑顔。例えるなら、ずっとほしかったおもちゃを手にしたような。嬉しそうな、それでいてどこか勝ち誇った感じのする、幼稚な笑み。
「姉さま!」
懐に飛び込んだ温もりに息が詰まる。自分をきつく抱く、力強い、だが幼い腕。泣きそうになる。息が詰まる。
だが言わなくてはならない。だが止めなくてはならない。私は、この子の姉なのだから。
「ミトス……お願い、人間を迫害するのはやめて」
腕に力を込め、引きはがした幼い顔は、きょとんとした、何を言われたのかわからない、哀れな表情をしていた。すぐに不満げな顔をする。
「何を言ってるの、姉さま。姉さまの望んだ世界を創るためだよ。誰もが差別されることのない平等な世界を創るためには、どうしてもエクスフィアが必要なんだ。エクスフィアを覚醒させるには人間の犠牲が必要不可欠。これはしょうがないことなんだよ」
「違うわミトス! 私はそんなこと望んでない!」
たまらずに叫んだ。喉から、胸から、腹から湧きあがった叫び。叫んだ途端、力が緩んだ。泣きそうになる。立ち上がれなくなる。
膝をつくのはこらえた。しかし、耐えきれず、俯く。どうして。
どうして、こんなことに。何が、あなたを。私は、間違っていたの?
(ああ、死ぬんだ)と思ったとき、遺していく者への申し訳なさと、やり遂げたという思いが体を満たした。
大いなる実りを守ることが出来た。新たなマナの大樹は発芽し、マナの不足のため分かたれた世界は再び一つになる。私は確かに、やり遂げたのだ。
誰かに抱きかかえられた。重い目蓋を開くと、泣きじゃくる弟が朧気に見えた。
この子は、私なしでだいじょうぶだろうか。視界の陰にクラトスの足が映る。きっと、だいじょうぶ。
ミトスは強くなった。もう私に涙を見せまいと片意地を張っていた小さな男の子じゃない。あなたが涙をこらえていたら、傍にいてくれる人がいる。あなたはもう一人じゃない。仲間がいる。きっとだいじょうぶ。クラトスがいる。ユアンも……ユアン。
恋人を探して、視線が彷徨う。もう一度。せめて、最期に一目だけでも。そう思ったが、それは叶わなかった。
力尽きて目蓋が落ち、目の前に広がった暗闇が、生きている間に目にした最期の光景となった。
死ぬことが、悲しくなかったわけじゃない。まだ生きていたかった。傍にいたかった。けれど、私は私の為すべきことを成し遂げた。そう思えて死んだ。それは私の誇りだった。
大いなる実りは発芽し、世界は再び一つになり、そしていつか、ハーフエルフと人とエルフが、笑い合って暮らせる世界がやって来る。仲間がそんな世界の礎を作ってくれる。そう信じて死んだ。
けれど、私は死んでいなかった。いいえ。死んだのに、無理やり存在させられていた。大いなる実りに宿らされて。大いなる実りが芽吹くためのマナを奪い。何が起きたのかわからなかった。
混乱した私の目に映ったのは、狂いかけた、弟の姿。
「姉さま。人間は姉さまを殺したんだよ? それなのにまだ奴らを許すの?
奴らは自分の欲望のために大いなる実りを奪おうとした。姉さまが大いなる実りを守ってなかったら世界は滅んでた。人間は世界を滅ぼそうとしたんだよ?
それに奴らは今まで何人ものハーフエルフを殺した。今度は奴らが死ぬ番だ。
ねえ姉さま、ボクは間違ってないでしょう?」
私は、間違っていたの? 何があなたを狂わせたの? 私の死はそんなにあなたを歪ませたの? クラトスは、ユアンは、あなたを止められなかったの?
私たちは、人と、エルフと、私たち狭間の者すべてが共に暮らせる世界を築こうと、なのにあなたは、そのすべてを無くそうとしている。
「お願いミトス。無機生命体の千年王国なんて作っても差別はなくならない。
ましてやそのために何人もの人を苦しませて殺すなんて、絶対に間違ってるわ。そうやって人を差別するのなら……それは、今まで私たちを差別した人間と同じことよ。
お願いミトス。こんなことは、もう」
「なんで、人間を憎んじゃダメなのさ」
いつの間にか俯いていた顔に、もう笑顔はなかった。悲しみと憤り。それはかつて、彼が否定し、隠し続けていたものだった。
それが間違いだったのだろうか。悲しみと怒りを否定し、そんなことは考えてはいけないと励ますのでなく、その悲しみを、憤りを、一つずつ聞いてやり、癒してやるべきだったのだろうか。
「人間なんて汚い。いくら言ってもわからない。何を言っても理解しない。ただ違うから排除する。ボクらが人間より優れているから、臆病な人間は勝手に脅えてボクらを殺そうとするんだ。
ならこっちから支配してやる。生きる時間が短くてすぐに死ぬ、マナを感じれず無尽蔵にマナを浪費する、繁殖力ばっかり旺盛でゴキブリみたいにすぐ増えてそのくせすぐ過ちを忘れて何も学習しない奴らは劣等種だ! 虐げられて当然の生き物なんだよ!!」
もう、遅いの?
「ミトス……私たちは、人の血を引いてるのよ? 人は、私たちの」
「違う! ボクたちは過ちをすぐに忘れる人間でも何もしないエルフでもない! 選ばれた優良種なんだ! ボクらが差別されるのは間違ってる!
這い蹲って地面に頭をなすりつけるのは奴らの方だ!!」
弟が顔を上げた。笑顔。縋り、甘えるような、親に許しを乞う子どものような、頼りない笑顔。少し頬が震えている。声も。少しだけ、震えていた。
「ねえ姉さま……姉さまは、ボクを見捨てたりしないよね? これは姉さまの仇討ちなんだもの。怒ったりしないよね?
あ、違うんだよ。さっきは人間なんてって言ったけど、クラトスはもう違う。クラトスは天使になったんだもの。もう人間じゃないんだ。
大丈夫だよ。エクスフィアの数が足りたら、みんなが天使になれる。そしたら人もハーフエルフもなくなるんだ。誰も差別されなくなるんだよ。
ねえ姉さま……姉さま」
震えながら伸ばされた手のひら。怯えた、頼りない、小さな手。
その手を取り、かつてのように温もりを分け与えながら、悲しく告げた。
「ミトス……こんなことはすぐにやめて。私たちはハーフエルフなのよ。他の存在にはなれない。
もし、みんなが無機生命体になっても……差別はなくならないわ」
ミトスの顔から、遂に、表情が消えた。温もりが遠ざかる。
「嘘だ……姉さまがボクを否定するはずがない。そんなはず、そんなはずないんだ」
言葉より雄弁に、眼差しが告げた。
「お前……誰だ」
一瞬を挟み、浮かんだのは激情。そして光。
ミトスの手から放たれた光は、マーテルを宿した複製体の心臓を瞬時に貫いた。
ただの抜け殻になった複製体を冷たく見下ろして、ミトスはひとりごちた。
「また失敗だ……何が悪かったんだろ。やっぱり、人工の物じゃダメなのかな。自然なものでないと……
でも自然交配じゃ、完璧に姉さまと同じ個体を作るのは不可能だ。いくら近づけても、姉さまと同じ体になる確率は限りなく低い」
首を横に振る。
「いや、試してみる価値はあるか。複製体の移植はもう何度も失敗してる。体は同じはずなのに失敗したのは、やっぱり人工の物と自然の物はどこか違うからかもしれない」
背後の扉が開き、部下がやって来る。姉と二人きりになるための配慮だったが、もう何度も無駄に終わった配慮だった。また出来損ないだった。全く、ため息が出てくる。
「また失敗だった。姉さまの精神を元通り大いなる実りに転送しろ。
抜け殻の方は……出来損ないとはいえ、仮にも姉さまの体から培養したものだ。いつもの通り丁重に棺に納めて、救いの塔の亜空間に浮かべておけ」
一息に告げて、それから、と続ける。
「各地から姉さまに似たマナの持ち主を集めておけ。例の計画を実行に移す。
ああ、その前に……」
出来損ないとの会話ですっかり忘れていた物を召喚する。
姉を模してドワーフに作らせた機械人形。命じたドワーフの腕は確かで、現れた人形は思い出の中の姉と寸分違わぬ姿をしていた。
「こいつを試すのが先か」
複製体の移植が上手くいかなかった仮説の一つとして、複製体のマナは自然のものに比べほんの少しだけ少なく、そのせいでマーテルの精神を支えきれないのではないかという説がある。なら、膨大なマナを支えられる魔科学で作った機械ならば。
姉に瓜二つの人形の頬を優しく撫で、これならいけるかも、とミトスは無邪気に笑った。
頭上を見上げる。大いなる実り。それに宿った姉の姿。目蓋は固く閉ざされ、面差しは死に顔のまま、その優しい表情を見ることは叶わない。
けれどいつかまた、きっと、貴女の笑顔を取り戻してみせる。
「待ってて、姉さま。必ずボクが助けてあげるからね」
姉は応えてくれない。
無邪気に笑んだミトスの頬には、まだ、マーテルの複製体を殺したときの返り血がこびりついていた。
大いなる実りに囚われている間も、弟の様子はよく見える。体のあるときよりもよく見えてるかもしれない。見ることしかできない。弟がやったこと、していること、すべてが目に飛び込んでくる。そして、何も出来ない。狂っていく弟を止められない。
私が死んで、ミトスは人間への憎悪を止められなくなった。
まず大いなる実りを奪うために進軍した兵士たちと、彼らにそれを命じた指導者たちを虐殺した。逆らう人間を皆殺しにして、自分の支配を徹底させた。
それからエクスフィアの量産を始めた。まずは罪人。次は下級層の人々。次第に無差別に。誰も止められなかった。止める力を持った人はいなかった。精霊王と八柱の精霊、古き精霊マクスウェルの力すら行使するミトスを力ずくで止められる人など、誰もいなかったのだ。
手にした権力を使い、ミトスは私の亡骸から生前の私と同じ肉体を作り出し、それに私の精神を移植した。
甦った私は、ミトスにエクスフィアの製造を止めるように言い……そしてミトスは、姉に自分の理想を否定されるのに、耐えきれなかった。
もう何度も繰り返した。ミトスは自分を否定する私を認めない。あの子がほしいのは、自分を拒絶しない、自分の行いすべてを肯定する、姉という偶像なのだ。
なのに大いなる実りに宿した私の精神に固執するから、ありのままの私を作り出してしまう。そして私が、今のあの子の行いを肯定することなど、絶対にあり得ない。
私に似たマナの持ち主を掛け合わせ、私に似た遺伝情報の持ち主を作っても、無駄なことだ。体が違うから、それに合わせて多少変質することはあるだろう。けれど、私に似た体を使う以上、劇的に変化することはない。無益な犠牲を生むだけだ。
ミトス。私は決してあなたを肯定しない。今のあなたを肯定することは、私たちを放逐したエルフや、私たちを虐げた人間を肯定するのと、同じことだから。
ミトス。目を、覚まして。
無力なまま、何度も繰り返す。甦り、弟に目を醒ますよう嘆願し、弟に殺され、繰り返し。
一度は自らの手で弟を殺そうとした。しかし、精霊王の力を手にした弟に攻撃に不慣れな自分の力が通じるはずもなく、弟の狂気を悪化させるにとどまった。そしてまた、繰り返し。
もう、疲れた。私はもう、疲れたのだ。
大いなる実りの安置されたウィルガイア。その遥か天上に、母なる彗星、デリス・カーラーンが覆い被さっている。
マーテルは、その温かく慕わしい光を見つめ、呪詛を唱えた。憎しみと呼ぶにはあまりに淡く切ない、それは、あきらめの言葉だった。
お怨み申し上げます。私たちの祖先、母なるエルフよ。
貴女は、あなた方は、デリス・カーラーンから離れるべきではなかった。
人と交わるべきではなかった。
ハーフエルフを、私たちを生み落とすべきではなかった。
こんな哀れな存在を、生み落とされるべきでは、なかったのです。