Beautiful World
良い思い出ばかりの場所だった。優しい両親に育てられ、惜しみのない愛情を与えられ、やわらかな毛布にくるまれて過ごした。
北にある町のこと、肌に触れる大気は冷たかったが、暖かな家に囲まれて、彼は優しい時間を過ごした。温かい時間。美しい思い出。我が故郷。
「……ご親切に、ありがとうございます」
家に招き入れてくれた老婆に、彼は仮面を外し、感謝を込めて穏やかに微笑んだ。
* * *
「おや。かなり遠い所から来たのかい?」
「ええ……よくおわかりですね」
目を細めた老人の問いかけに、彼はゆっくりと答えた。足腰が良くないのだろう、老人は椅子に腰かけたままだったが、こちらの仮面を訝しむ様子もなく、客人を歓迎する雰囲気が伝わってきて、胸がいたたまれなくなる。
老人が朗らかに笑う。
「見なれない服装だからのう。そんな薄着で……外は寒かったろう」
老人の妻も笑みを浮かべた。
「暖炉の近くへどうぞ」
耐えきれず、体から力が抜ける。床に膝をつく。体が震える。胸が苦しい。
手から仮面が滑り落ちた。冷えた肩に温もりが、響く耳鳴りに老人の声が混じる。
「ど、どうしました、突然!? 何か病気でも……!?」
「お水、お水……!」
老婆が慌てふためく気配が伝わる。老人が背を撫でさする。慌てながらも、優しく。目が眩む。声が詰まる。息ができない。
白く霞んだ視界に、何かが目を引いた。鈍い金色の目。外套を掴む黒い手袋。金髪の、整った、だが人混みに紛れればわからなくなってしまいそうな、特徴のない面差し。唯一右頬の泣きぼくろだけが男を特徴づけている。
違う。右頬じゃない。左頬だ。これは鏡。鏡に映った、自分の姿。
現在の自分だ。
呼吸が楽になった。老人の気遣わしげな声が耳に触れる。
「大丈夫かい?」
力の萎えた膝を立ち上がらせる。ひどく重たかったが、体を支えることはできた。震える喉から、声を絞り出す。
「も、もう、だ、大丈夫……です」
まだふらつく体を、力強く老人が支える。
「どこかお悪いのかね?」
息を吐く。疲労か、安堵か。掠れた声は、しかし、十分に老人の耳に届いた。
「……たまにあるんです。気分が悪くなることが……すみません、ご心配かけまして」
鏡を見つめたまま、焦点の合わないまなざしは、どこか遠くを見てるようにも見えた。
* * *
「あたたかいスープでも飲んで、一息つきなされ」
カップに入れられたスープを息で冷ましながら、彼は少しずつ口に含んだ。素朴で温かな味わいが舌に広がる。
冷めた体には熱かったが、それが逆に心地好かった。喉から腹に沁みていく熱が、どこか懐かしい。
老婆が毛布を彼の肩にかけた。
「そのスープは息子が好きでね。
長い間家に帰ってこないんですが、つい息子の好きな物を作ってしまうんですよ。おかしいでしょ」
苦笑する老人。朗らかに微笑む老婆。暖かな光景。懐かしい情景。
胸が震える。喉が熱い。体が震えている。美しい、とても美しいものを見たとき、体の奥底がおののくように。
彼は何も言えなかった。微笑むこともできない。
ただ、スープに小さな雫がいくつか落ち、わずかに波紋を揺らめかせた。
* * *
「……懐かしい温かさをいただきました」
再び仮面をつけて身支度を調え、彼は二人に別れの挨拶を告げた。流れる言葉は吐息のように。滑らかな調べを伴って、老夫婦の耳に触れる。
「昔、母に作ってもらったスープの味を思い出しました」
彼は息を吐いた。目蓋に触れるのは懐かしい思い出。優しかった両親。暖かな暖炉。母のスープ。
良い思い出ばかりの場所だった。優しい両親に育てられ、惜しみない愛情を注がれながら、しかし彼は満たされることがなかった。
知っていたからかもしれない。自分は異物だと。この穏やかな場所で真綿に包まれるようにして生きるには、自分はあまりにも優れすぎていると。
……それでも。
懐かしい、暖かな時間。満たされることはなかったが、孤独に凍えることもなかった。守りたいと、そう思わせてくれた。美しい世界。優しい思い出。母の作ってくれた、スープの味。
「わずかばかりですが、私からお礼をさせてください」
彼は微笑んだ。
──人は、滅さねばならない
毒のように、
──この世界を守るため
蛇のように、
──この温もりを失わぬために
忍び寄り、
──この優しい世界を守るため
死をもたらす、
──人は、存在してはならない
毒蛇の微笑。
──だから、滅ぼさなくては
「イールズオーブァから」
老夫婦は気づいただろうか。
「芸術的な死をあなた方に」
彼らの息子の名を、客人が口にしたことに。
花が咲き乱れ、壁には赤い不可思議な文様。美しい、あまりにも美しすぎて、心が寒々しく潰える、不穏な景色。
彼らがそれを目にすることはなかった。老人は目を見開いたまま、老婆は微笑みを浮かべたまま、何が起きたかもわからずに、永遠に時を止める。
扉が閉じた。声が響く。
「安らかにおやすみなさい」
満足げに微笑んで身を翻し、最早ふり返ることはなく。
イールズオーブァは己の故郷に別れを告げた。