罪の在処
気の抜けた声が宙に響いた。何の意味も持たない──少なくとも他者には伝わらない──声。
もっと言うのなら、まだ何も知らない赤子が手を伸ばして、耳にした声を真似ようと音を紡いだ、ただ、それだけの。
「……ルー、ク?」
帰ってきた幼馴染みは、すべての記憶をなくしたガラス玉のような無惨な瞳で、こちらを見つめ返した。
* * *
「ああー! こらこら、ンなもん食べたらいけませんっ、ルーク様!!」
慌てるあまり少し乱暴になってしまった言葉遣いを反省しつつ、ガイ・セシルは主の腕を掴んだ。誘拐されてからあっという間に萎えた手足は、剣の修行に明け暮れていた過去を忘れ、細く頼りない。
だが、そんな腕でも与えられた玩具を口にするには充分だった。ガイはため息をつきながら、ルークが口に含んでいたお気に入りの玩具を取り上げた。赤子同然となった我が子に公爵夫人が与えたものだったが、もう少し考えてほしいものだ。与えられるだけ与えられた大量の玩具は床にあふれ返り、明らかに過剰な夫人の愛情をそのまま具現していた。
……与えられるだけ与えられた受け取りきれないほどの愛情。夫人の一人息子は親の顔を覚えていない。
ガイは目線を胸元に下ろした。玩具を取り上げられて機嫌を損ねたルークが、不満げに声を漏らしている。こちらを睨みつける目は幼く、誘拐される前の、傲慢なほど聡明で誇り高かったかわいげのない子どもの姿は、見る影もない。ガイは静かにルークを眺めた。
腕の中で──反応がないのが不満なのだろう。あるいは不安なのか──ガイの胸元を握りしめたまま、ルークは涙目になっていた。その髪を撫でてやると、うるんだ緑の目が満面の笑顔に変わる。
ガイは微笑み、小さな手のひらにお気に入りの玩具を返してやった。
玩具を口に含んだことを叱ることもせずに。
やっていいことといけないことの区別もさせず。
甘やかして甘やかして。
一つの傷も負わないように。
温かな毛布で包み込むように。
真綿で首を絞めるように。
どんな我が侭も笑顔で許容して。
この世の奈落など一つも見せないように。
優しくして。優しくして。優しくして。
認めよう。
ガイラルディア・ガラン・ガルディオスは、苦々しい心地で、己の罪業を噛みしめた。
記憶をなくしたルークが可哀想だったから、ルークのことが大切だったから、甘やかしてたんじゃない。
俺は。どうでもよかったんだ。“ルーク”のことなんて。
* * *
誰もいない寝室で、ガイは追憶に耽っていた。
ユリア=シティであてがわれた客人の寝室に、足を踏み入れる者は誰もいない。みんな自分のことで精一杯なのだろう。
それはガイも同じで、今は、アクゼリュス崩壊の衝撃と、明るみになった真実に、心の折り合いをつけているところだった。
……俺だけかな。ルークがレプリカだったと知って、こんなにも安堵しているのは。
吐き出した息は自分でも大げさなくらいほっとしていて、少し、泣きたくなった。
「うぜぇ」
ルークの口癖。それが元はガイの口癖だったと、知る人はいないだろう。どこからそんな言葉を覚えたのですかと嘆く使用人たちは、品の良いルークの教育係を疑わなかった。
「うぜぇ」
何もかも忘れて赤子のようになった仇の息子。チャンスなのはわかりきっていた。ルークを手懐けることは復讐の足がかりになる。
わかっていても、大きな赤子の世話は自分もまだ子どものガイには骨が折れた。
「うぜぇ」
どうして俺がこんなことをしなくちゃいけないのか。
もちろん復讐のためだ。自分で選んだことだったが、小さなルークは鬱陶しかった。
我が侭放題の常識知らず。まるっきり幼児だ。記憶を失う前の大人びた糞ガキだった頃の方がまだマシだった。口にしてはいけないものの区別もつかず、懐いてはいけない相手の区別もつかず。
「うぜぇよなぁ、ほんと」
ひとりぼっちの部屋で、ガイは自嘲した。目蓋を覆った手のひらに、罪の重さを自覚する。
何も教えなかった。色んな理由から。仇の息子だから。どうせその内記憶が戻るから。面倒くさいから。嫌われたくないから。無理にルークを正そうとはしなかった。無知のままでよかった。
聡明で賢い“ルーク”ではなく、無知で愚かなルークを愛していたから。
「ごめんな」
ガイは今、安堵している。心から安堵している。
だって、ルークは“ルーク”じゃなかった。ガイが憎しみを捨てきれなかった、記憶を取り戻すことを恐れた、あの誇り高い公爵家の息子じゃなかった。
ルークは、ヴァンが作った、俺たちの復讐のために利用された……アクゼリュスを崩壊させて、小さくなって、震えていた肩。丸めた背。あの、小さな、
* * *
「が、い」
気の抜けた声が宙に響いた。何の意味も持たない──少なくとも他者には伝わらない──声。
「……ルー、ク?」
すべての記憶をなくし、赤子のようになった幼馴染みは、ガラス玉のように無垢な瞳で、ガイに手を伸ばした。
小さな手のひら。もう一度、ルークが口を開いた。まだ何も知らない赤子が手を伸ばして、耳にした声を真似ようと音を紡いだ。ただ、それだけの。
ガイは膝をついた。胸元にすり寄るルークが、ガイの耳元でささやく。小さな肩。短い音。
ルークが、初めて口にした、人の名前。
「ガイ」
罪は。
あの小さな肩には、一つもなかったのに。