悪魔の子

 業火が家を焼いていた。空気が焦げて異臭が鼻を苛む。整えられた部屋が、空間が、それを作りだした彼女が、為す術もなく焼けていく。 「先生……」  目の前で、彼女は微笑んだ。呆然と自分を見つめる教え子を、安心させるように。いつもと何ら変わらぬ、穏やかな眼差し。理知的で、それでいてどこか悪戯いたずらめいた、美しい人。顔が焼け爛れ、体中に火傷を負って、なお。  ゲルダ・ネビリムは教え子に手を差し延べようとした。ジェイド・バルフォアはそれを見ていた。彼女の白い手が力尽きて床に落ちるのを、美しかった彼女の赤い瞳が澱み、光を失っていくのを、ずっと見ていた。   *  *  * (ダメだ、火が止まらない。近くに他の家はないからこれ以上燃え広がることはないだろうが……) (ネビリム先生は……) (重傷で、病院に……)  たくさんの声がざわめいていた。深刻な顔をした、不安そうな大人たち。  その中に少年がいる。まだ甘さの残る幼い顔立ちの、しかしこの場にいる誰よりも冷静な眼差し。大人になればより研ぎ澄まされるだろう、怜悧な風貌。 「お兄さん……」 「──ネフリー」  ジェイドは顔を上げ、自分以上に幼い妹を目にした。不安に怯える表情。自分に縋りつこうとした小さな手。  そのすべてを“観察”して、冷徹な表情を崩さぬまま、問う。 「……先生は、どちらに?」   *  *  *  全身に巻かれた包帯は彼女の美貌を覆い隠していた。ジェイドはそう感じた。赤い目は閉じられ、爛れた目蓋だけが顔を覗かせている。  こうして面会が許されたのは、自分が不相応に冷静だから。やめておいた方がいいと引き留める声を、冷静に、論理的に振り払えるくらいに強引だったから。  そして、彼女がもう助からないからだ。  死に瀕した彼女の姿を、ジェイドはもう一度観察した。全身に包帯を巻かれ、いつもの姿を見ることはできない。いや、そんなものはもうどこにもないのだ。  浅く、非常に浅く呼吸をしている彼女の胸元。それもじきに途切れるだろう。彼女が目を覚ますことは二度とない。  自分の失態のせいで。  ジェイドは枕元にまで近づいた。薬品の匂いと、爛れた皮膚の臭いが鼻をかすめる。見下ろした両目は、背後から漏れた光にふり向くことで逸らされた。 「ネフリー」  怯えた様子の妹を安堵させるために笑みを浮かべる。冷酷無慈悲を自認する彼も、これぐらいの芸当をできる程度には妹と日々を重ねていた。  妹が更に顔を引きつらせたのは不審に思ったが。この場に笑みなどそぐわないと気づかないくらいには、彼も動揺していたのだ。 「サフィールを連れてきてくれたんですね、ありがとう」  微笑みを浮かべたまま、妹が連れてきた名ばかりの友人に目をやる。いつものように鼻を垂らした間抜け面は、廊下の灯りに照らされた恩師の姿に怯えていた。  ジェイドは内心鼻で笑ったが、今は彼の手が必要だった。 「力を貸してください、サフィール」  自信で笑みを彩らせ、堂々とジェイドは宣言した。 「先生を、新しく作ります」
*  *  *
 当時、自分がもう少し、天才と謳われた兄に見合うくらい賢ければ、彼らを止めることができただろうか。  無意味な、愚かな夢想だと自分でもわかっていたが、ネフリーは今でもそんな考えを捨てることができない。もしもあのとき、自分が彼らを止められていたら。  先生は、死なずに、済んだだろうか。 「私たちは第七音素を操れませんから、先生の傷を癒すことはできません。  ですが、先生を“新しく作る”ことはできます」  兄が何を言っているのかわからない。兄のことがわからない。サフィールが首を傾げる。二人のことがわからない。 「先生を、作るって……どういうことなの? ジェイド」 「前に見せたことがあるでしょう? サフィール。フォミクリーですよ」  二人は私を無視して話を続けた。興奮したサフィールの声。冷静な兄の言葉。何を言っているのかわからない。 「譜術によって先生から情報を抜き、第七音素を除くすべての音素を集め先生と同じ肉体を構成します。  新たに出来たレプリカは、記憶はなくともオリジナルと同じ存在。『先生』は助かります。  さすがに人間のレプリカを作ったことはないので譜陣の補助が要りますが……そこはお願いしますよ、サフィール」  同じ? どこが同じなの? 姿は同じ。力も同じ。けれどそれは先生じゃない。壊れたものは元には戻らない。  ねえ、何を言ってるのか、自分たちは何をしようとしているのか、貴方たちは、わかってるの? 「まずは先生の体内から情報を抜き取りましょう。  サフィール。譜陣を」  兄が先生に手をかざした。サフィールが先生の周囲に陣を描く。  光があふれる。先生の体から、兄の手のひらへ。吸い取られる。  私はそれを見ていた。何も言えず、何を言うこともできず、ただ、黙って、それを見ていた。  もし、もしも、私がこのとき、二人を止められていたら。  馬鹿げた、愚かな妄想だ、わかっている。だがネフリーは、確かに見たのだ。  兄が情報を抜き取る、その一瞬。  包帯に包まれた目蓋を開き、先生は確かに、兄を見つめた。  光があふれる。淡い、儚い輝きが、兄の手のひらに吸い取られ、彼女から失われていく。 「先生……」  ネフリーはそれを見ていた。包帯に隠されたまま、ゲルダ・ネビリムがわずかに微笑むのを。仕方ない子ね、とでも言うように。彼女に残されていた、最後の力が力尽きるのを、大好きだった彼女の赤い瞳が澱み、光を失っていくのを、ずっと見ていた。  兄の手のひらの中で、光が踊る。先生は動かない。サフィールが目を輝かせ兄を見ている。先生は動かない。手のひらで固まる光。先生は動かない。兄がひとりごちる。 「ここで作るのは、さすがにまずいですね」  そして初めて、こちらを見た。思い出したように。安心させるように微笑む。  場違いな笑み。昔、新しく私の人形を作ったときのように。 「ネフリー。帰ったらすぐ、先生を作ってあげますからね」  悪魔。  もしもあのとき、自分がその言葉を口にできていたら。  それでも、もう、すべてが遅かった。
*  *  *
「私は失敗作なんかじゃない」  その慟哭を聞く者はいなかった。彼女を生み出した創り主は姿を消し、彼女は打ち捨てられた。  喉から振り絞るのは悲嘆でも絶望でもない。傷つけられたプライドをかき集めて吠え猛る、負け犬の憤激。  私は失敗作なんかじゃない。  私は失敗作なんかじゃない。  失敗作になんか、なってたまるものか。  吐き捨てた言葉を支えに、彼女は立ち上がる。前提からして間違っていることに、彼女は気づかない。失敗も何もない。自分以外の存在になど、なれるはずがない。  彼女は雪山に一人。凍えた体は瞬く間に冷えていく。彼女は一人。傍には誰もいない。  誰もいなかった。彼女に真実を教えてくれる人は、誰も。彼女の傍には歪んだ子どもしかおらず、そして彼女自身もまた、生まれたばかりの赤子でしかなかった。   *  *  *  生まれたときの記憶を覚えているのは、成人として生み落とされたからか、それとも優れた知性が成した悪戯か。 「初めまして。ネビリム先生」  それが彼女の始まりの記憶だった。聡明な顔立ちの少年が、微笑みを浮かべて手を差し延べている。 「ネビ、リム……?」 「貴方の名前ですよ」  優しい笑顔だと、見る目のない者ならそう思っただろう。彼女は生まれたばかりなのでわからなかった。  薄っぺらな笑顔。薄っぺらな優しさ。そんなものしか与えられなかった悲劇に、彼女が気づくことは生涯なかった。 「ネビリム」  言葉を繰り返す。少年が肯く。彼女は自分のものではない名前を繰り返した。  ゲルダ・ネビリムの完璧なレプリカ。それが彼女の存在意義であり、決して叶わぬ夢想。最初から壊れていた、彼女の生まれた意味。 「わたしは、ネビリム。ゲルダ・ネビリム」  辿々しく繰り返すと、少年が満足げに微笑んだ。彼女も笑った。もう誰も思い出さない、彼女の最初の記憶。  結局のところ、何よりも彼女を縛り付けたのはその記憶。歪んだプライドでも狂った存在意義でもなく、ただ生みの親の少年に認めてほしい、それだけの願い。   *  *  * 「失敗ですね」  冷徹な言葉に縋りつきそうになり、必死でそれに耐えた。ゲルダ・ネビリムはそんなことをしない。  ゲルダ・ネビリムは優れた第七音素譜術士であり、目の前の少年の師であり、そんなゲルダ・ネビリムが惨めに床に這い蹲り、少年に媚びて縋りつくなど、あってはならない。  だが。 「第一から第六音素の操作は問題ありません。  ですが、肝心の第七音素がこれでは……」  血の流れる腕を見つめる。少年に請われ、自らナイフで肌を裂き、第七音素を操り治そうとした。  傷は小さくなった。少しだけ。ゲルダ・ネビリムは優れた第七音素譜術士。これぐらい、まばたきする間に治せなくてはいけないのに。 「検査の結果、どうやら第一音素と第六音素が極端に不足しているようです。  完璧なネビリム先生とは言い難い。廃棄しましょう」 「待ってよ、ジェイド!」  幼い声が響いた。サフィール。彼女のもう一人の創り主。 「もう少し様子を見てみようよ。第七音素以外の譜術はすぐに使えたじゃないか」 「第七音素が最も重要なんですよ。他の音素は私でも操れます。第七音素を操れないなら先生ではありません」 「違う」  しわがれた声が響いた。泣きじゃくる寸前の、子どもの声。 「私は、ゲルダ・ネビリム。失敗作なんかじゃない。  完璧なゲルダ・ネビリムよ」  意味を解さない、鸚鵡返しに否定を拒絶した、子どもの懇願。  それが聞き届けられることはなかった。 「なら、これくらい治せますね?」  少年が手を掲げる。神が被造物に裁きを下す如く、雷が落とされる。  それが、彼女が壊れた記憶。   *  *  *  私は失敗作なんかじゃない。私は失敗作なんかじゃない。私は失敗作なんかじゃない。私は失敗作なんかじゃない。  打ち捨てられた雪山。壊れた音機関のように何度も何度も、彼女はその言葉を繰り返した。  私は失敗作なんかじゃない。私は失敗作なんかじゃない。失敗作になんか、なってたまるものか。  腹に腕を伸ばし、詠唱を紡ぐ。吐き捨てた言葉を支えに立ち上がる。  ほら、治せた。こんなこと何でもない。私はネビリム。完璧な、ゲルダ・ネビリム。こんなこと、造作もない。  歩き出す。目蓋に映るのは自分を打ち捨てた少年の冷たい目。お前などどうでもいいと思い知らせる目。傷ついた、少年の顔。 「ジェイド」  少年の名を呼ぶ。耳に木霊するのは彼の言葉。第一音素と第六音素が極端に不足。完璧なゲルダ・ネビリムとは…… 「私はネビリムよ。完璧なゲルダ・ネビリム。  貴方が望んだ、完璧なゲルダ」  低く笑う。体温を奪う雪を第四音素で分解し、冷気を第三音素で弾き、第五音素で熱を確保する。この程度、ゲルダ・ネビリムなら造作もないこと。第七音素を操り、未だに鈍く残る苦痛を取り除く。  この程度。ネビリムなら、ゲルダ・ネビリムなら、簡単なはず。 「私は、失敗作なんかじゃ、ない」  レプリカとして生まれた彼女がオリジナルに比べ劣化していた能力は、皮肉なことにジェイドが何よりも重視した第七音素を操る力。正確にはそれを以て傷を癒す才能が極端に劣化していた。  そして、乏しい才能で治癒術を行使した結果、過剰に集めてしまった第七音素が彼女の体内に取り込まれたことを、知る者はいない。それによって変異した彼女の肉体が、最早人間のものとは言えなくなったことも。  顔を上げた彼女の笑みは、聖母にも魔女にも似ていた。不足している第一音素と第六音素。足りないのなら、集めればいいのだ。ないのなら、奪えばいい。そうすれば私は、完璧なゲルダ・ネビリムになれる。 「……そうでしょう? ジェイド」  だから、そんな顔、しないで。  慕わしそうに呟いた彼女の笑みは、狂った赤子にも、母にも似て、最早、狂人のそれだった。