帰らざる天使

 そのときレティシャが思ったのは、二度と酒なんて飲まない、ということだった。  手にした酒瓶が床に落ちて、けたたましい破砕音が響く。奮発して買った、そこそこ高かった酒が地面にこぼれ、足下を濡らし、床に染み込んでいく。  それに反応もせず、ただ呆然とする彼女を見て、妹は、苦笑したようだった。 「久しぶりね、ティッシ」  空気が凍りつく。喉が冷えて、吐き出される息が熱い。痺れた脳髄の導くまま、レティシャは声を振り絞った。 「アザリー?」  幽霊でも見たかのような声だと、自分で思う。  そこにいたのは、死んだはずの妹だった。   *  *  * 「どういうことなの」  立ち続ける気力も湧かないまま椅子に座り込み、振り絞った言葉は、自分でも呆れたくなるほど凡庸だった。  冷静な、ともすれば無関心にすら見える表情のまま、アザリーが──五年前、いなくなったときのままの姿の妹が、肩をすくめる。 「大まかな経緯は今話した通りよ。精神体になった私は大陸の外に出て」 「そういうことを言ってるんじゃない!」  絶叫が魔力を伴い、壁を叩く。死の絶叫。ここに生きているのは私しかいない。妹はもう生きていない。  存在しているだけだ。重々しい絶望が、胸に満ちて舌を凍らせる。 「キリランシェロは、知っていたの?」  無論、知っていたはずだ。知らなかったはずはない。アザリーの人生の分岐点に、弟はことごとく居合わせてきたのだから。  だが、聞きたいのはそんなことではない。 「ええ。あなたには黙っていたけどね」  それがどうしてか、なんて、わかりきったことだ。こうも取り乱した自分を確認すれば、キリランシェロの判断が正しかったと認めざるを得ない。  自分のヒステリーで破壊された自室を見渡し、レティシャは泣き笑いを浮かべた。他人事のように抑揚のない、感情の見えない声で、アザリーが告げてくる。 「でも、そうも言ってられなくなったわ。今の私にはあなたのサポートが必要。  私が姿を見せて会話しても苦痛じゃないのは、あなたと、キリランシェロしかいないもの」  姿を見せるのが苦痛とは、字義通りの言葉だった。肉体を失ったアザリーは、他人に自分を認識させるのにすら力を消費しなくてはならない。そして精神体になったアザリーにとって、力の消耗は存在の摩耗と同義だ。  それが理解できなかったわけではない。だが。 「私は、まだ、あなたの家族なの?」  泣き笑いのまま言い放った言葉に、アザリーは顔をしかめたようだった。 「どうして私があなたに力を貸さなきゃならないの? 功を焦って暴走して失敗して、私たちの前から姿を消して、先生を殺した? 何それ?  おまけに生きてたくせに知らせもせずキリランシェロといっしょに私を除け者にして今更!」 「協力しなければ、みんな死ぬだけよ」  衝動に任せて並べ立てた言葉は、冷徹な現実に断ち切られた。  大陸の危機。女神の来訪。それを防ぐ手段。魔王の召喚。何もかもお伽噺のようで、現実味がない。  妹が帰ってきた。死んだはずの妹が、帰ってきてくれた。現実になったお伽噺は、悪夢のようだった。 「おかしいじゃない」  声に涙が混じった。駄々を捏ねる子どものようなみっともない態度を、改めようとは思わなかった。 「ねえ、おかしいじゃない。私、五年間ずっと思ってたのよ? あなたに帰ってきてほしいって。  あなたと、キリランシェロに、帰ってきてほしいって、ずっと待ってたのに」  おかしい。こんなのはおかしい。こんなのは間違っている。ずっと待っていた、ずっと会いたかった、死んだはずの妹が、帰ってきてくれたのに、何故自分は喜びもせず、怒り狂っているのだ?  アザリーが、妹が近づいてくる。足音はない。そんなものはない。近づいてくる気配も、空気の動きも、衣の擦れる音も存在しない。妹はもうどこにもいない。  目の前が、存在しない妹の体に覆い隠されて、何も見えなくなる。  アザリーは身を屈め、懐かしい言葉を囁いた。 「ごめんね、お姉ちゃん」  その言葉が嬉しかった、なんて、絶対に認めたくない。  伸ばした手は何にも触れず、妹がどこにもいないのだと思い知らせただけだった。