レティシャ=マクレディが学生時代に比べて綺麗になったなどと言うのは侮辱だと、コミクロンは本気で思っていた。
長い艶やかな黒髪、切れ長の目、白い顔、一見華奢な──その実とんでもなく強靭な──細い肢体。男性並みの長身は、敬遠する男も多かったが(それよりは彼女の実力と性格に恐れをなしている男の方が多かったろうが)、憧れる女も多かった。
要するに彼女は塔有数の美女であり(彼女のミスコン姿を見れなかったのは彼の一生の不覚だ)、塔有数の実力者であり、その美貌と強さは誰もが認めるところであり……だが、五年前に比べ、その美しさは変化していた。
物憂げな表情、気怠げな動作。風に消え入りそうな儚さはそれはそれで美しく、そういうのが好きで彼女が美しくなったとほざく連中もいることにはいる。
だが、心中でのみ、彼はそれに対し本気で抗弁していた。彼女の美しさは、あんなものではない。あんなものじゃない。昔はもっと綺麗だった……。
はつらつとした表情、機敏な動作。獣のように俊敏で、しなやかで、強い……彼女はそんな人だった。
物憂げなレティシャ=マクレディを見て、コミクロンは苦々しく思う。
そこにいたのは、彼がかつて評したみなの守護天使などではない。
亡霊だった。
* * *
「討伐隊?」
「ああ」
得意げな演技をしながら、コミクロンは肯いた。
深刻な表情など自分には似合わないと彼は本気で信じていたし、彼の深刻な表情など誰も知らないだろう。別に彼とて真剣に思い悩むことがないわけではなかったのだが、天才の苦悩など、当人だけが知っていればそれで済むことだ。
コミクロンの演技を見破ったわけではないだろうが、レティシャは眉をしかめ囁いてきた。
「危ないわ」
忠告を鼻で笑い、コミクロンは椅子に座り込んだ彼女を見下した。
「貴様は腑抜けているから無理だろうな」
「……そうね」
肯かれ、本気で腑抜けているな、と落胆した。昔の彼女だったら瞬時に眉をつり上げ、一瞬後には恐ろしく優雅な微笑みを浮かべ、そのままコミクロンを一撃で昏倒させただろう。
それでも構わなかった。彼女が気力を取り戻してくれるなら、一発や二発、いつかのように顔面をボコボコにされたって構わなかった。その程度で彼女がかつての鋭気を取り戻すと、まさか本気で思っていたわけではなかったが。
落胆した気分のまま、彼はきびすを返した。
実際のところ、コミクロンはレティシャの忠告を忠実に理解していた。彼の本分は治癒魔術、後方支援だ。最前線で戦うには実力不足だし、そもそも向いていない。まともな指揮官であれば彼を前線に置く愚は犯さなかっただろうが、コミクロンは自ら前線に赴くのを志願し、誰の制止も耳を貸さなかった。
アザリー討伐。本来演技するまでもなく楽天的なコミクロンをして心胆寒からしめる響きだったが、彼は自ら討伐隊に志願した。
五年。長すぎる年月だ。もう十分だろう。どうせ失われたものは返ってこないなら、彼女はもう解放されてしかるべきだ。それが悲劇的な結末であれ、何らかの終わりはもたらされるべきなのだ。
「コミクロン」
扉を開けた姿勢のまま、彼はふり向いた。椅子に座ったまま、あらぬ方向を見遣るぼんやりとした風情のまま、レティシャは言った。
「ブローチ、ありがとう」
驚愕したコミクロンの表情に、彼女は気づかなかったようだった。
五年以上前の話だ。誕生日プレゼントに匿名で贈った、天使のブローチ。
特に彼女からのアプローチはなかったため(ブローチは一度身につけているのを見かけ、嬉しかった)、どうやらばれなかったらしいと安堵と共に落胆したのだが、彼女が気づいていたとは思わなかった。
レティシャの方は、さほど意味のある言葉を発したつもりはなかったらしい。凍りついたコミクロンを見遣り、苦笑する。
「ごめんなさい、何だかふっと思い出したの。
わたし、最初メッセージカードに気づかなくって、キリランシェロがそれを見つけて、これコミクロンの筆跡だって言って……」
どうやら呆れたか訝しんだと誤解したらしい。安堵しながら表情を不遜なものに戻し、キリランシェロめ、と内心で毒づきながら、コミクロンは精一杯虚勢を張った。
「今のお前は、守護天使などではないな」
かつて自分が贈った、精一杯気取った言葉を口にするのは、中々気恥ずかしかったが。
「ただの亡霊だ」
ははっ、と、彼女の前でのみ口にする哄笑を上げる。レティシャは反論せず、また窓の方を見遣った。
怒ればいいのに。そう思いながら、コミクロンは毒づいた。キリランシェロめ。
自分だけがアザリーの味方などと、どうして自惚れることができた。自分を含めた他の連中 ──ハーティア、コルゴン、フォルテ、それにチャイルドマンのことを信じられなかったのは構わない。
だがどうして、ティッシを信じてやることができなかった。度を過ぎたシスコンの分際で。アザリーの死を認められなかったのは、お前だけじゃない。葬式に参加しなかったティッシが、ひとり泣いていたのに、どうして気づかなかった。
抜け殻のようになった彼女を、あの馬鹿に突きつけ言ってやりたかった。どうしてお前は、ティッシを信じてやることができなかったんだ、と。
再びきびすを返し、コミクロンは覚悟した。
彼女が礼を言ったのは、これが最後の機会だからだろう。生きて帰れたとして、アザリーを殺した一員になったコミクロンに、ティッシが礼を言えるとは思えない。
それでも。もう終わらせるべきだ。彼女との間に溝が出来てしまうとしても、ティッシのために ──彼女が喜ばないと知っていても ──コミクロンはアザリーを殺そうと決意した。
最後にレティシャの姿を目に焼きつけようと、一度だけ、コミクロンはふり返った。
窓辺に佇む、幽霊のように儚い、彼女の姿。
自分が死んでも、彼女は悲しんでくれるだろうか。
馬鹿げた、拗ねた思考に毒づいて、彼は扉を抜けた。
天使のブローチを前に、レティシャはもう一度、報告書を眺めた。
アザリー討伐の報告書。無機質に並べ立てられた戦死者たちの名前。見知ったいくつもの名前の中に、一際くっきりと浮かび上がって見える、二つの名前。
コミクロン。アザリー。
涙は出なかった。五年間泣き続けたせいかもしれない、と彼女は認めた。
五年。あまりにも長い離別の末の、永遠の死別。たった一人の妹は死に、たった一人の弟は帰ってこない。一人残された自分は抜け殻。
亡霊というのは言い得てるわね。彼女は死んだ男に語りかけた。
自制。自分を制御すること。魔術士の理想。それが一番できていないのは自分だと、彼女は認めた。
神経質で潔癖性なヒステリー。激昂すると彼女の意志とは無関係に魔術が暴発する悪癖は、魔力の強さではなく自制心の欠如を示している。
誰よりも自分を制御できてないから、誰よりも口やかましくなった。功を急いで失敗したアザリーよりも、彼女を追って塔を出奔したキリランシェロよりも、私が一番自分を制御できていない。アザリーを追う勇気もなく、弟を捜す覚悟もなく、ただ悲しみに押し潰されて塔に残った。
意気地がないのね。そう自嘲する。
そろそろ行かなければならない。自分の姿を見下ろし、おかしなところはないか、レティシャはもう一度点検した。
もう随分と身につけていなかった、黒いローブ。塔の正装。華美ではないシンプルなドレスにしようかとも迷ったが、これが一番相応しい気がして、結局やめた。
机に置いた天使のブローチを見遣る。このブローチを身につけたのは、結局一度きりだった。
勝手に怒って、キリランシェロと和解して、贈り主がコミクロンだと知ってからは、なんだか気恥ずかしくなって身につけるのに抵抗があり、そのまま棚に仕舞われ続けた。
気に入ってはいたので、何度か取り出して眺めることはあったが……
躊躇った末、それを胸元に留める。
そろそろ葬儀の時間だ。五年前は、行かなかった。今は、行く。これから出かけるのは、妹の葬儀ではなかったが……行かなければならないだろう。別れの儀式を放棄する辛さは、五年間存分に味わったのだから。
ブローチがずれていないのを確認して、レティシャは扉を開けた。
* * *
このブローチを身につけることは、二度とない。
帰ってから、そんな予感を胸に、レティシャは天使を棚に仕舞った。