名一つ胸に刻んで
恋や愛など、侮蔑や嫌悪の対象でしかなかった。
敵国の男と恋に落ちて父王の怒りを買い、我が子に見捨てられて死んだ母。
余の愛を裏切った報いだとわめきながら、母を、妹を虐げ続けた祖父王。
母を弄んで捨てた父。
価値のない父親のために国を滅ぼした自分も同罪だ。恋や愛などくだらない。いずれ裏切り裏切られ、もっと尊いものを巻き添えに失われる、愚かな幻想に過ぎない。
だからベルベットが恋をしたときは反対した。相手がタイタニアの王子だと知って敵愾心を募らせた。妹を弄んで捨てるつもりだ。父のように。
仮に今は本気だとしても、いつまで続くか知れたものだ。大国の王子と亡国の姫の恋が上手く行くはずがない。
呪ってやろう。愛されぬように。愛など失うように。ベルベットの目もそのうち覚める。愛とは失われるものなのだから。
そう信じていた。イングヴェイにとって、恋とは汚らわしいものだった。誰かに向ける愛情すら、自己満足な思い上がりに過ぎなかった。
ベルベットに向ける、心配などと聞き触りの良い言葉で包んだ依存心。
プーカたちへの、自己陶酔にしかならない罪悪感。
彼女への想いは……興味だった。何となく気になる、だから助ける。ただそれだけのものだと思っていた。
だから気づかなかったのだ。今の今まで。彼女に向ける、本当の気持ちに。
* * *
「メルセデス」
名は焦げた大気に呑まれた。膝をつき、見下ろした眼下には焼け焦げた地面しかない。それしか見当たらない。どこにもいない。彼女が、さっきまでそこにいて、笑っていたはずの、彼女が。
「メルセデス」
もう一度、名を呼んだ。応える声などあるはずもない。彼女は天と地に還った。死んだのだ、彼女は。今、目の前で。
(イングヴェイ)
俺が、殺した。
猛烈な吐き気と嫌悪が身を震わせる。悲嘆は声にならなかった。腕をもいだ。足を噛み砕いた。腹を引き裂いた。この手で、この手で!
正気じゃなかったなどと言い訳にもならない。呪術を用いて獣になることを選んだのは自分自身だ。それを利用され操られたのは己の不明。その巻き添えを受けて、彼女は。
(メルセデス)
名を呼ぶことはもうできなかった。その名は尊く、汚れた己が口にするのはあまりに罪深い。痛む身体の傷は、彼女に比べあまりに少なく、浅かった。
嬲られ、傷つけられても、彼女は俺を傷つけることを躊躇った。放たれた魔弾はその力をほとんど発揮せず、ただこの身を打ち据え正気に戻すために振るわれた。魔王のバロールすら打ち砕いたあの弓なら、俺を殺すのは容易かったろうに。
(メルセデス)
痛かったろうに。傷ついて、血塗れで、美しかった羽はぼろぼろになり、白い肌にいくつも傷を負いながら、それでも彼女は微笑んだのだ。
嬉しそうに。本当に、嬉しそうに。妖精の女王ではない、ただの少女のように、俺を見て、幸せそうに、笑って。
(イングヴェイ、聞いて。私、あなたにたくさん話す事があるの)
たくさんあるという話は、実際のところ、そう多くなかった。聞いてもらいたいことが、もっとあったろうに。彼女にそんな時間は残されていなかった。
何も言わなかった。俺は、彼女に。自分こそが、彼女に言わなければいけないことがたくさんあると、今になってようやく気づいたのだ。今更になって、やっと。
震えた腕には、何も遺っていない。彼女を抱き止めていたはずの腕から、その温もりが、重みが、丸ごと空に消え失せていった、あの輝きが今も目蓋を焦がす。荒れ狂う炎の中で、くっきりと輝いて見えた、あの光。
彼女は名を天に還さなかった。天に還ることなく、その名は今も、この胸に。
天よ。彼女が消えた空は煤に汚れ、炎に照らされて赤黒く染まっていた。
今すぐ俺に雷を浴びせろ。俺を、撃ってくれ。
何も考えられなかった。彼女のこと以外、何も。知らなかったのだ。醜くない愛情など。
隠されていた母の真実の愛を知らされ、ベルベットとコルネリウスの絆の深さを認め、しかしそれらは己の罪深さをより深く知らしめただけだった。
自分が生き残るために母を見捨て、自分を守るために母を罵り続けた。勝手な策謀と敵意でコルネリウスを貶めて、ベルベットとの絆を引き裂こうとした。悔やんでも悔やみきれない罪業の果てに、愛の代わりに己を憎んだ。
知らなかったのだ。美しい恋情など。それが己の内にあるなんて信じられなかった。知らなかった。彼女への想いにつける名前など。彼女が、俺に教えてくれるまでは。
(笑わないでね。イングヴェイ。私、あなたのこと)
メルセデス。
涸れ果てた喉に、一つの名がほとばしる。
雷にこの身を撃たれても、今はもう、君のことしか考えられない。